第229話:キャビネ前、四匹の幸せ

 四人で話す幸せタイムを危うくしたのは、誰あろう僕自身だ。そう思うとやりきれない。

 でも、隠していた省略がバレたことは、すわデータ紛失か、という焦りや緊張に比べたら何てことないわけで、特に後ろめたいとも思わなかった。逆に、データ入れ子事件がなく、工程表省略だけが取り沙汰されていたら、監査なのにまずい、と焦っていたかもしれない。そういう意味では、この順番で事が起こってよかったのかも。

 そして、少し考えて、大橋への怒りも沈静化した。

 たとえば、今回の責任を林さんが全部負っていたとして、彼女が本社の誰かに怒られたりするなら、それは申し訳ないと思う。もっと自分が何とかしていれば、と後悔し、合わせる顔がなくて、歯がゆく思ったことだろう。

 でも、大橋が怒られようが飛ばされようが、別に何とも思わない。

 どこへ行ったってまずいまずい言ってたらいい。

 こないだ詫びに行ったとき殊勝なこと言ってたのも、一対一だと強く言えないってだけじゃないか?まあそれは穿った憶測ではあるけど、本当がどっちだってどうでもいいよ。まあとにかく、そのおかげで僕の気が軽いわけで、それについては礼を言わなきゃいけない。僕が後ろめたさを感じなくていいくらい嫌な感じの人物でいてくれて、どうもありがとう。


 黒井がジュラルミンを取りに行ってる間、佐山さんと島津さんにはこっそり、省略が露見して、監査に響くらしい件を打ち明けた。二人は知らないことにしてあるから念のため口裏を合わせてほしいと頼み、それから、余計な心配をかけたことを謝った。

「そんな、こんな時こそチームワークじゃないですか」

 島津さんが顔色も変えずそう言い切り、僕は、大橋よりよほど頼りになって、男らしいと思ってしまった。佐山さんは「山根さんは大丈夫ですか?」と気遣ってくれ、本当に、この二人をかばってよかったと思った。まあ、本当は黒井のことから話を逸らすために、反射的に食ってかかった面もあるけど。

 「あー重い」と言って黒井が戻り、三人ともそれを機に仕事に戻った。僕が「持たせてごめん」とそれを受け取ると、黒井は僕がどこへ行って何を言われていたかなんて気にもしていない様子で、「でも、これ、近いかも」と言った。

「開く感じ。何か、上に開く、蝶番みたいな」

 ね?という顔で僕を見る。ああ、カタチの話か。

「今日は、箱だった?」

「ううん、箱っていうか、底はないのに中身は浮いてて・・・」

 うん、そうやって、僕の心配なんか眼中になくて、自分ばっかのとこが大好きだよ。余計な気を回さなくて済むし、僕にとっては本当にありがたい。

 ・・・でも、もしかして、むしろ気を使っていつもどおり話してくれてるのかな、とまた一拍遅れて思い至った。それでも、もしそうだとしたって、大好きなことには変わりない。そう、どんな工程を省こうが追加しようが、結果は変わらないんだよ・・・なんて、反省してない?



・・・・・・・・・・・・・・



 また何かあっても嫌なので、今日は佐山さんと島津さんにややお任せする感じで外に出て、ちょっと逃げ込むように、世間話好きの経理のおばちゃんがいるお客さんのところへ寄った。電話なんかせずいつでも寄ってちょうだいと言われているので、歌舞伎揚げを手土産に渡すと喜ばれた。夫に付き合ってサッカーを観て眠いというので、分からない者同士、少し盛り上がった。

 16時ごろ新宿に戻り、工学院横のカフェで仕事の整理をして、18時過ぎに帰社した。

 居心地が悪かろうと遅めにしたのだが、やっぱり悪くて、辟易。

 支社長がようやく戻ったところらしく、課長が納品間違いのことを一言報告するか、大橋が工程表と監査の件を相談するか、二人とも何となく牽制しあいながら、しかし真正面からぶつかるでもなく、話題は斜め向こうの本社の人事の話へ。しかし、本社の人は横文字が好きだなあ。僕のミスのことも<エラー>と呼ぶし、三月に来た人も<リカバリ>だの<フィードバック>だの、ちょっと鼻で笑いたくなる。え、もしかして黒井もそういう文化の中でやってきたのか。演劇部のあいつもどんな感じか分からないけど、本社のあいつだってありありとは思い浮かばない。

 あ、そういえばあいつは帰ってきてるかな?

 眼鏡をかけ、支社長を気にするふりで振り返ってみる。

 ・・・ふつうに、いた。

 目が合う一瞬前にさらっと前を向いて、ちょっとだけ後頭部や首の辺りがむずむずする。あいつがいるってだけで嬉しくなって、大橋のねちねちした<まずいまずい>もどこ吹く風。はは、もうそれ飽きたよ。こっちとしては入れ子のお客さんに迷惑かけたのは悪いと思ってるけど、それさえ解決すればあとはどうでもいい。監査なんて勝手にやって勝手に本社の人とまずいまずい言い合ってくれ。

 三課の中山がいないことも、黒井に波風が及ばない一端になっているようで、助かった。まさか噂どおりブラジルの、あの観戦席にいたのかな?中山が大声で応援したり、手を叩いて喜んだりするところは想像できなかったので、一人でちょっと笑った。


 最初は、大橋がもっといい人で、こっちのことも理解して話をよく聞いてくれて、フォローしてくれていれば土日もあんなに落ち込まなかったのに、なんて思ったけど、そうじゃなかったことは自分の中で新しい発見だった。相手がいい人であればあるほど、好意を持てば持つほど、自分のミスとか無能さを見られたくなくて、露見させまいと、たぶん余計事態をこじらせてしまうだろう。うん、だから、いい人だなと思っても、必要以上に踏み込むのは避けてきた。世間話以上は厳禁で、しかも、積極的にこちらから話しかけることはしない。

 大橋くらい嫌な人なら、むしろ、ミスだろうが無能ぶりだろうが、勝手に見れば?って感じだった。

 嫌いな人に対してこんな風に安心するなんて、めずらしいな。むしろ、好きになってきた。はは。



・・・・・・・・・・・・・・・・



 帰ってスクワットをして、カレンダーに丸をする。

 ちょうど、一ヶ月頑張ったようだ。

 十回から始まり、十五回、二十回、ここで法則どおりいけば次の週は二十五回のはずだけど、横ばいのまま二十回で続けていた。いや、ほら、このままいって無限にたくさんやってたら、二十四時間やっても終わらない回数になって、破綻しちゃうからさ、なんて。

 ・・・あれ、でも。

 風呂に入る前、パンツ一丁でそれをして、ふと、ふくらはぎを見る。

 脱衣所のオレンジの光に照らされて、何だか、見たことのないような陰が。

 も、もしかして。

 これって筋肉?

 一ヶ月で、筋肉が、ついてきたってこと?

 ふくらはぎにちょっと力を入れ、いろんな角度から眺める。こんなところにこんなでっぱり、あったっけ?そういえば太ももだって、ちょっと硬くなったような気がする。

 今までだって、筋トレめいたものをやり始めようと思ったり思わなかったりしてきたけど、具体的に効果が目に見えたのは、初めてだった。

 ・・・ああ、俺が、ムキムキだ。

 いや、鏡を見たって姿見じゃないからあばらの浮いた胸しか見えないけど、でも脚は、確かに今までより硬く、引き締まっているようだった。

 ・・・これで、黒井の実家で堂々と短パンを履ける。

 そう思ったら今日から二十五回にしようかと思ったけど、二十回だから続けられているんだと思い直しやめた。

 カレンダーを見直し、スクワットを始めて一ヶ月、そして、お盆、羽田空港から飛び立つまでもちょうど一ヶ月だった。

 チケットって、もう紙が手元に届いてるのかな。

 いち早くもらって、神棚にでも飾っておきたいよ。ないけど。

 僕は八月十四日に二重丸をつけ、十八日まで線を引っ張った。引くだけでひゅうと腹が透け、息が切れた。



・・・・・・・・・・・・・・・・・



 七月十五日、火曜日。

 渋々行程表を元のとおり戻す。

 ・・・意味、ないのにな。

 ため息をつきながら、嫌がる右手を強引に動かして手書きで件数を書き込む。これ、エクセルの件数表にも書き込んでるんだけどな。せめてそこから引っ張ってきて印刷できないか?

 ペンを手に持つ、届いた紙と見比べる、その数字を書き込む、という三つの行程を、どうにか、何とか出来ないか?

 別に、繰り返すようだけど、めんどくさいわけじゃない。行程が一つ増えるだけで注意力と集中力が相対的に減って、必然的にミスが起こりやすくなるんだよ。こんなところの、別の表にも入力済みの件数を書く労力より、別のもっと大事なところへそれを振り分けた方がいいじゃないか。

 ・・・まあ、それを振り分けたところで、ミスは起こったんだけどね。

 うん、やはりこれでは、行程表を書かない方がむしろミスが起こりにくいんです、って理屈は通じないな。それによって振り分けられる労力は微々たるものだったようだ。これではメリットとは呼べない。だったらおとなしく元に戻すか、あるいは本当にミスをしない行程を自分で提案し、それを採用させ、マニュアルを変更してもらうしかない。

 キャビネ前でため息をついていると、「どうしました?」と佐山さんがやって来た。自分から「こんなの省いちゃおう」と先陣を切っておいて、ミスをして客を怒らせ、監査を危うくした僕は、当然いたたまれなくて、「いや、何でもない」とキャビネを離れようと思った。佐山さんたちがやってた時はこんなミスは起こらなかったんだ。だったら僕が介入してぐちゃぐちゃにしたわけで、もうすっぱり元に戻して今までどおりでいいのかも。

 単なるケアレスミスとはいえ、それでも自分が<出来ない人>という貼り紙をつけて歩いてるみたいで、やっぱり何をやってもだめだなあと思った。頭では分かってるし、自分は出来ると思ってるからなおさら自己嫌悪も強い。

 しかし僕は情けなさをしまいこみ、効率化の鬼も追い払い、真摯になって、本当にミスの起こらないやり方を模索することにした。僕のためでも会社のためでもない、「やり方」のための「やり方」、もっとも正しく、考えられる限り有効な、その「正解」のために。

「・・・いや、結局、件数確認だけじゃ入れ子のミスは防げなかったから、どうすればよかったかなって」

「ああ、山根さん、真面目ですね」

「・・・いや、うん」

「でも、しょうがないですよ。実は私たちもそれ考えてたんですけど、前は、島津さんと私で最後、お互い見てもらって、ダブルチェックしてたんです。いなかったり、件数が少ないときは自分でやっちゃうこともあったんですけど、山根さんになってからは、一人でやってもらっちゃってたんですよね」

「・・・あ、そうだったんだ」

 何となく、こんな些細なリストやデータを、でも事務の女の子が二人で「これ一応見てくれる?」「うん」ってやりとりするのは自然な気がした。しかし自分がそれをするのには抵抗があって、まあもちろん、それでミスしてたら世話ないんだけど。

「何の話?」

 ふらりと現れた黒犬が、キャビネにひじをついて頬杖をつく。いつもなら僕も尻尾を振るくらい嬉しい瞬間なんだけど、今日は、思わずうつむいた。「俺が勝手に省略してミスって怒られた件の相談でさあー、今度から佐山さんに『俺のチェックじゃ信用ならないからもっぺん見てもらえる?』ってその都度お願いしなきゃなんないねって、ってかもう、そもそも佐山さんにやってもらった方がはやくね?俺、いらなくね?って、そういう話だよぉー!」・・・というのが本当だが、そうは言えない。

「この工程表ちゃん、もうちょっと有能になりませんかねって」

 佐山さんがごく自然に何となく僕の失態から話を逸らしてくれて、それでいて話題の焦点は合っていて、助かった。女性にはとっさの時のこういう能力が備わっているのだろうか?

「ふうん?」

「件数だけ手書きで書いてあってもそれほど意味はないし、大したチェック機能もないのにかさばるんですよね」

「・・・ふうん。それ新しい表?」

「え?・・・いえ」

「俺それ見たことない」

 あ、そうか、これを省略する前は黒井は新人の世話で忙しかったし、省略のいきさつも何も、本当にそもそもこれの存在を知らなかったのか。

 佐山さんが僕をちらりと見て紙に目を落とし、会話の主導権を譲る。こないだ口裏を合わせてくれと頼んだけれども、大橋や課長はともかく、黒井にはどうしろとまで言ってなかったからか。

「え、えっと、実は」

 別に隠していたわけでも何でもないけど、勝手に省略して、そのせいじゃないけどミスをして、でもミスから芋づる式に省略がバレて、監査がどうので結局復活させろと言われて今に至るという、何だか僕の失態のオンパレードみたいな話を今更イチから話すのも気が重かった。

 しかし黒井は、何でもいいしどうでもいいというあのいつもの顔で紙をひったくり、胸ポケットからシヤチハタを出して、<担当者>の四角い枠にそれを押した。

「お、おい、何」

「俺もさー、この、いかにもってとこに押したいのにさ、あんま押す紙ってないんだよね。っていうかこれ、思ったんだけど、他のスタンプとかどう?・・・犬とか」

「はあ?」

「え、かわいい!!」

 僕と佐山さんが同時に言い、そこへ島津さんがやって来る。

「ねえ、あのね、黒井さんが、ここのハンコ、犬のスタンプでもいいんじゃないかって」

「えっ?・・・それ、かわいくない?」

 島津さんは眉根を寄せ、苦い顔なのに賛同している。

「でしょー!?黒井さんが犬だったら、私、パンダがいい」

「えっ、そういうこと?・・・そうね、それなら私は、ペンギンくらいにしとこうかな」

「ペンギン?」

「コウテイペンギン・・・、でもそんなスタンプ、あるかな」

「あ、俺もコウテイペンギン好きだよ。大きいし」

「ええ、あの、大きくなった灰色のひなも不細工で可愛いんですよね」

「じゃあ島津さんひなのハンコ」

「え・・・」

 今度は苦い顔でもなく、島津さんはただ表情をなくして絶句した。僕と佐山さんは怒らせたかと冷や冷やしたけど、また眉根を寄せてつぶやいたのは「・・・そんなハンコあるかな」という一言で、思わず止めていた息を吐いた。

「じゃあ、あとは山根さんですね。何がいいですか?」

「え?別に、俺は・・・」

「あ、こいつは猫」

「え、そうなんですか?山根さん、もしかして猫好き?」

「猫飼ってるとか?」

「い、いや・・・」

「じゃ、週末は猫カフェ?」

「い、行ったことない」

 猫好きを公言してないなら、「何で俺が猫だよ?」とつっこむところだったんだろうけど、そこまで気が回るわけもなく、いつの間にか僕は猫好きでスイーツ好きということで四人の、いや、四匹の集会は終わった。

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