第57話:発注ミス回避のお礼は疲れる
翌朝、八時半にコンビニに着いた。
一応、契約一式と差し替えの構成表を持って、待っていた。・・・しかし、待っていたと思いきや、もしかして藤井の方が先に来ていたのか。目の前のちょっとした階段に座って、ジャンバーのフードをすっぽりかぶり、およそ会社勤めとは思えないようなスニーカーとウエストバッグで。
近づいても、気づかない。フードの中で音楽を聴いているらしく、バンドエイドの右手がひたすらに動いていた。軽く肩を叩くと、無音で飛び上がった。
「あ、あ、ども」
「お、おはようございます」
「よ、良かったです。また、お会いできましたね」
「こちらこそ、朝から、すみません」
藤井はようやくフードとイヤホンを取った。こうして見ると何だか痩せていて、まるで野良犬みたいだった。
とりあえず発注の話を済ませ、書類を手渡した。どうやら藤井が手元で止めていてくれて、朝イチで差し替えてくれるらしい。ギリギリセーフだったようだ。
「本当に助かりました。何て言ったらいいか」
「いいんです。お役に立てたなら」
「あの、もし良かったらですけど、何か・・・」
僕はそれとなくコンビニを示した。お菓子くらいなら、いくら買っても足りないくらいだ。
「え、そんな。まさか、何か買ってくださるんですか?」
「それほどのことは、出来ませんけど・・・」
「あ、あの・・・実はですね、ちょっと欲しかったものがあって」
「何ですか?」
「でも、ここじゃないんです。あ、でも、もうそんな時間ないし・・・」
「言ってくれれば、買いますけど」
「いや、分かんないですきっと。でも、何かくださるなら、それがいいし・・・」
「じゃ、じゃあまた日を改めましょう」
「今日は、だめですか?水曜も、遅いですか?」
「え?ああ、ノー残業デー?」
「こっちはそれなりに早く上がれると思うんですけど」
「こっちはたぶん・・・19時過ぎ、かなあ」
「いいです。待ちます。あ、ちょっと待ってくださいね」
藤井はジャンバーのポケットから小さなメモ帳を取り出し、乱暴に何か書き付けて、一枚破った。それ以外のページには、何やらびっしりと、ごく普通のメモではないような文字が並んでいる。
「アドレス・・・契約のこととかも、こっちにメールください。本当はロッカーに入れとかなきゃなんですけど、私ポケットに入れて、おしっこ行く度に見てますから」
「・・・そ、そんなことまで言わなくていいよ」
「え?」
「だから、そんな・・・」
「私コーヒーがばがば飲むから、おしっこ近くて。あ、そうだ、こないだ残業で、してる途中に電気消えちゃって、すごい焦ったですよ。あれ、男の人はどうするんですか?」
「え?そ、そんなの、そのままするしか・・・って」
「まあ私、どういう風にしてるのか、よくは、知らないんですが・・・」
「な、何の話してるんだ」
「山根さんは、彼女とか、いるんでしょうね」
「へっ?い、いませんよ」
「あれ、そうですか。私みたいに経験がないと、分からないんですよそういうことが」
「ふ、藤井さん?」
「はい」
「ちょっと、おかしいですよ?」
「私がですか?山根さんがですか?」
・・・。いや、まあ。
暗くなったトイレで何をしていたかと言われれば、僕もおかしいか。
「・・・両方、です、ね」
「そうですか」
藤井はジャンバーのポケットに突っ込んでいた右手を出して、握手を求めた。仕方なく手を握る。よく見ると、バンドエイドが黒ずんでいた。
「あの、これちゃんと取り替えた?」
「いいえ。山根さんに貼ってもらったので、そのままです」
「は?何で?」
「メールが、嬉しかったので。男の人からあんなこと、初めてです」
「え?」
「それじゃ私、ソッコーで着替えなきゃいけないんで、先に行きますね。携帯の方のメール、待ってますから」
藤井は再びもどかしそうにイヤホンを耳に突っ込み、フードをかぶって走り出した。
・・・・・・・・・・・・・・・
少し遠方の客先から、帰ってくるときに。
空いた電車に座って、小一時間。
膝の上にカバンをのせて、その上に、携帯と、例のメモ。アドレス登録まではしないまま、新規作成メールの宛先に直接入力してみるけれど。
・・・何て、出すんだ?
全く緊張感のない、変な女の子。野良犬みたいなフードと、片時も離せないらしいイヤホン。やっぱり黒井みたいに唐突に振り回してくる。・・・おしっこが近い?いったい何を言ってるんだ。
もう、ごく普通の同じ会社の人間として、ビジネスライクにさらりと送ればいいか。お疲れさまです、山根です・・・本当に助かりました、いろいろありがとうございました・・・。
でも、それじゃ上辺だって、分かってて送るのは、拒否しているようなものだ。
何となく、ここで僕が終わらせたら、終わるんだろうな、と思った。
そうやって同期たちとの関係も、飲み会や、フットサルや、フェイスブックなんかの誘いを細心の注意を払って断り続け、薄く、薄く、ひたすら希釈させていった。今まで黒井みたいに強引に僕を連れ出そうとするやつなんかいなかったから、そうやって自分の居場所を確保して、安定していた。
でも今は、少し、動いてみたい気がしていた。僕の<安定>は固定ではなくて、今はランダムな<不安定>の中にあるようだった。そうして変化の方へ歩いていかないと、黒井に置いていかれそうなのだ。
藤井は別の部署で、毎日顔を合わせるわけでもないし、何かあってもいいやなんて打算的に考えてもしまうけど。でも、結局最後には、僕は僕として接する以外ないんだし。
僕はビジネスメールを消して、素で書き始めた。
<こんにちは、山根です。今日、どこへ行きたいんですか。そちらが上がったら、場所、メールください。でも、それほど高いものは、買えないからね?>
そして、自分で言っていたとおり、二十分くらいで返信が来た。
<・・・お時間いただいてしまいまして、極まります、いろいろなものが。そんな、大層なものは、ねだりませんから。っていうか、メールが、十回くらい読み返しました>
意味はよく分からない。これがいわゆる不思議ちゃんというやつなんだろうか。今日は黒井と一緒に帰れないなと思いつつ、あれ、まさか、本当にデートになってしまったのか?ああ、どうしよう、これくらいで浮気に、ならないよね?なんて。・・・藤井の雰囲気が少し、移ってしまった。
・・・・・・・・・・・
残業申請を、19時で出す。
藤井を待たせないように、何とか時間通りに終わらせなくては。
きっとまた、イヤホンで右手をぱたぱたしながら待っているんだろうけど。放っておけばどこにでも座り出しかねない、細いジーンズで。
何だか、なつかれてしまって。
悪い気は、しないんだけど、別にこれからどうこうしようってことはないし・・・。
しようと思えば、出来るの、かな。
強引に言えば、はい、私でよければと、ホテルまでついてきそうな・・・。
・・・。
いったい何を考えているんだ。
そんなことほいほい出来るわけがないし、それに、僕には黒井という・・・。
・・・恋人は、いないけど。
もし、黒井に会っていなくて、こうして藤井に会っていたら、僕は今頃藤井と付き合っている可能性も、あったのかもしれない。自分に彼女が出来るなんて、しかも社内恋愛だなんて考えてもみなかったけど・・・あの藤井なら、何だか、僕に似合いじゃないか?
・・・なんて、藤井に失礼かな、などと考えつつ。頭は勝手に、体は細いけど、制服のとき胸はあったような、などと不埒な想像。え、何だよ、こんな手の届くところに女の子をぽいと置かれたら、そのまま寄っていってしまうのか僕は?男は黒井じゃなきゃだめだけど、女の子なら、わりと、誰でも?いやいや、美人とか、いかにも可愛い女の子なんて緊張しちゃうし、何を喋っていいか分からない。あのくらい変わり者の方が、気が楽だ。だってそんな、キラキラした女の子を僕が満足させられる自信なんてないし。あ、経済的にとか、デートコースとかそういうことであって・・・いや、まあ、肉体的にも、自信ないけど。
「あのー、山根くん?」
「・・・えっ、な、何?」
「俺上がりますんで。大丈夫?」
「あ、ああ、お疲れ」
「すんげーぼうっとしてましたよ」
「そ、そう?ちょっと疲れたみたい。今日はちょっと俺も、早めに上がるわ」
「何ですか、例の彼女のこと?」
「へっ?な、何が?」
「うわ、図星くさい。あーあー、しょうがないっすね・・・」
横田がいることにすら気づいていなかった。もしかしてこれ、ちょっと重症?たかがコンビニかどっかへ行くってだけで、考えすぎ、か・・・。
そのままぼんやりしてミスを連発しないうちに、すべてを明日にうっちゃって終わることにした。いいんだ、コンビニに行って、お菓子だか何だかを買わされて、あ、何だやっぱりこれだけだよね、そりゃそうだよね、って帰ってくればいい。むしろ「勘違いしないで下さいね」くらい言われて、頭を冷やした方がいい。
課長に上がりますと言いにいって、横田のことを少し聞かれ、大丈夫そうですと言っておいた。佐山さんとも仲良くやってるみたいです、と。
「うん、まあ、ちょっと安心だな」
「そうですね」
「・・・で?」
「はい?」
「山根先生はこれからデート?」
「・・・ち、違います!ちょっと疲れただけですよ、お、お先に失礼します!」
それから席に戻るときに癖でちらりと黒井を見てしまった。向こうも気づいて、にやにやしながら小さく手を振ってくる。あ、聞こえてた、よね・・・。
黒井が立とうとするので僕は急いで首を振り、<違う違う!課長が言ってるだけ!>という顔を貼り付けた。コートと鞄をひったくって、そそくさと、逃げるように外に出る。ええい、もう、コンビニ行くだけだってば!
廊下に出て早足でエレベーターに向かう。黒井が追ってきて問いつめられたら、どうするんだ。いや別に後ろめたいことなど何もないんだけど、むしろ応援されそうだけど、いやだから、どっちにしたってだめなんだ。
エレベーターのボタンを意味なく連打し、来たのに飛び乗った。急いで携帯を取り出し、メールを確認する。
<LO
VEの前でお待ちしてます>
・・・。
な、何じゃこりゃ。なぞなぞか?エルオー、ブイイーって・・・ラブ?・・・んなわけないか。LVレベル、OEゼロイー?いや・・・。
ラブの前。
はっとひらめいた。何か、赤い、そういうオブジェがあったよな、地上の、アイランドタワーの方、交差点の上が輪っかになってるあの辺に・・・。そう、横並びじゃなくて、二文字ずつのLOVE。
僕は地上に出て、もう半ば走るようにそっちへ向かった。別に急いで会いたいとかじゃなくて、もう、こんなもやもやしたおかしなことを終わらせたかった。女の子なんて、もう眼中にないんだ。思わせぶりなことを、してもされても、どうしようもない。僕には、好きな人が、いるんだ!
青の点滅が終わりかかっている輪っかの交差点を全力で駆け抜けて、LOVEの前についた。藤井はLOVEの前で、尻をつかない体育座りみたいなあの座り方で、やっぱりフードでイヤホンを聴いているらしく、こちらに気づく気配もない。
下を向いたその視線の先に靴を出して、タンタンと鳴らしてやる。いつ気づくかとそっぽを向いて周りを見渡していると、靴に何かの感触。見下ろすと、藤井が僕の足の上にしゃがみこむようにして、靴ひもを結び直していた。足を少し上げたら、ジーンズのその股の間を蹴ってしまいそうで・・・。
「ちょ、ちょっと。いいから・・・」
・・・ああ、聞こえていないんだ。僕は肩を叩いて、藤井が顔を上げた隙に慌てて足を引っ込めた。
藤井は膝に手をついて立ち上がったが、途中で止まり、僕の腕を取った。そんなに長く、座っていたのか。
「す、すいません、膝にきました」
「待たせて、ごめん」
「大丈夫です、聴いてれば、何とも」
そこでようやくイヤホンを取る。カシャカシャと何かが聞こえていた。
「それで?どこだって?」
「あ、そこです、すぐそこ」
藤井は更に向こうの、警察署の方へと歩きだした。通りの向かいにはナチュラルローソンやセブンイレブンが見える。
・・・発注の差し替えなんて面倒を頼んだのに、菓子の一個や二個では、安かったか。もう少しマシな礼を用意すべきだったのかもしれない。しかしそう思いつつも、デパ地下の話題のスイーツだとか、あまりこの藤井に似合いそうもなかった。まあ、本人が欲しいものがあると言うのだから、それでいいんだろう。
セブンイレブンに入ると、藤井は何やら駄菓子みたいなものを物色して、僕に選ばせた。
「これ、ランダムでいろいろ入ってて、私自分で買うとコンプリートするまでやめなさそうだから・・・山根さんが選んでくれたら、その一個で満足できますので」
「そ、そうなの?これ、一個でいいの?」
「はい」
それは何だかおまけ付きの、というかおまけしか入っていないようなアニメキャラ?のキーホルダーらしきグッズだった。たった、三百円。
「まあ、いいけど。じゃ、これでいい?」
「はい」
適当に選ぶと、お願いしますと頭を下げる。はあ、こんなもの一個、一緒に買いに来るのに、僕は何を妄想していたんだか。
・・・しかし、アニメとはいえ、何だか、やたら露出度の高い美少女系の絵柄。ちょっと抵抗が、あるんですけど。
「あ、もしや買いにくいですか?」
「うん・・・よかったらこれで買ってくれない?」
僕は千円札を渡して釣りもいらないと言おうとしたが、藤井は譲らず、「買ってもらわないとだめで・・・」と言い張った。まあ、そこまで言うなら買うよ。
「じゃ、せめて一緒に並びます」
「は、はい・・・」
藤井はおずおずと斜め後ろから僕にひっついて、まるで何かを心配するかのように僕の腕や背中にそっと手を置いた。何のキャラが出るのか、そこまで気になるかな。
レジでは「袋はいらないです!」と後ろから口を出して、箱はそのままウエストバッグの奥にしまわれた。後でじっくり開ける、とのこと。はあ。疲れた。
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