第335話:僕たちの居場所
新人たちと別れて一人で帰宅し、淡々と家事をして、風呂。
ドライヤーをして自分で前髪を少し切りながら、鏡でその顔を眺めた。
・・・美人だとか、芸能人に例えるとか、まあ、縁のない話だ。
佐山さんと島津さんだったらもしかして、言ってしまったって、また普通に四人で遊びに出かけたり出来るんじゃないかとも思えるけど、・・・新人相手には無理だ。飯塚君ひとりなら、「ジェンダーは個人の権利ですから」とか何とか言ってくれそうだけど、でもそれも何だか違う気がするし、それに、別に僕たちの関係を理解したり認めてほしいわけでもない。
・・・社会とは、関係ない。
僕たちは黒犬と山猫で、二人でアトミクをやって物理や宇宙のミステリを追い求めたりして、そんなことがしたいだけ。・・・だけど、クロはもう現実でいい、日常でいいと言って万能感あふれる<それ>を手放して、だったら地に足をつけて、黒犬と山猫は三十歳の男と二十八歳の男になって、この社会で生きていくんだろうか。
・・・同性カップルとして?
いや、別に、そんなんじゃない。全然、そういうのじゃない。
・・・でも、社会では、そうとしか言いようがない。だって、俺たちは男なんだから。
どうすれば、いいんだろう。
たったの三日前、僕たちはこの部屋で抱き合ってキスをしながら寝たわけだけど・・・。
その事実と現実との乖離を考えると、怖くなった。
居場所がない。
自分たちが属する適切な項目がない。
僕たちはいったい何なんだろう。その<何か>という枠内にきちんと当てはまって、それを申請したり義務を果たしたりしていないと、不安になる。この社会で生きていく上では、戸籍や住民票や納税や、そんな手続きを全部クリアして初めて僕はこうして暮らしていて、それで安心していられるんだ。もしそうじゃなかったら、野良のヤマネコ一匹、こんな街中でウロウロしたって何も出来ない。
男同士で付き合っているというのが、気持ち悪いとか、タブーだとか、そんなことより。
自分たちはそういうくくりじゃないという違和感と、でも、だったら何なんだというのが分からないのが怖かった。
クロと一緒にいると、会社での立ち位置だとか、会社以外に何もないつまらない男であるとか、社会の<枠>に当てはまっていなければ保健所行きだとか、そんなことを忘れていられた。友達がいなくて、社会が求める基準を満たせないからって自殺したくなるような、そんな世界観からクロが僕を引っ張り出してくれた。
それなのに、想いが通じたら、片想いの時より怖くなるなんて、何だかおかしい。
しかし理屈の積み木はまだ両想いの僕たちをどこかの枠に入れてくれなくて、ため息とともに、苦い焦燥感を飲み込むしかなかった。
・・・・・・・・・・・・・・・
部屋に戻って携帯を見ると、メール。
開けてみると、黒井彰彦からひとこと、<会いたい>。
目に飛び込んだ文字に、やっぱり腹がひゅうと透けた。
でも、メールは三件来ていて、次も<会いたい>、その次も<会いたい>。
エラーか何かで、送れていないと思って何度も送信したのだろうか。でも受信時刻は飛び飛びで、ボタンを連打したのでもなさそうだ。そして画面を見ているとまたバイブが震えて、四通目の<会いたい>。
・・・どう、したんだ。
メールのバグ?それとも何か危機的状況に陥ってSOSを発してる?いやいや、ただ単に、思ったままを送っているだけ?
すぐ電話をしようとしたが、そういうことなら、黒井からかけているだろう。メールしかできない車内にいるとか、もしかしたらまだ仕事中なのか。時刻は22:19。夜までサーバの設置とは聞いたけど、さすがに22時を超えるとは考えにくい。
結局、居ても立ってもいられなくなって、さっきの焦燥感のまま、寝間着からスーツに着替えた。
駅まで走りながら、<どこにいる?すぐ行く>とメールを打った。
・・・・・・・・・・・・・・・
電車に乗って、しばらくしてもメールの返事は来ない。
不安のあまり、頭が勝手に悪い想像をめぐらせ始める。
まさか、横転したタクシーの中で、川に沈みながら送ってるんじゃないよなとか。
あるいは、新人に話したあの同期の肉食系女子よろしく、・・・誰かを孕ませて「あなたの子どもが・・・」とか言われてるんじゃないかとか。
馬鹿馬鹿しいとは思いつつ、でも黒井がどうして四回も<会いたい>を送ってくるのか思い当たらないし、まともな推測も出来ない。黒井のことを世界で一番よく知っていると自負しているのに、何も分からないのが情けなかった。
・・・恋人なのにな。
・・・。
いや、違うか。
黒井の<彼女>ではない僕は今のところ、男女を問わない<恋人>というラベルに頼るしかなく、ひとまずその枠で自分たちを捉えて安心しようとしている。そして、僕たちがお互いにどういう存在で在りたいかよりも、<恋人とは斯くあるべし>の方へ安易に飛びつこうとしている・・・。
・・・やっぱり、会わないと。
いや、会いたい。
桜上水に着いて、<お前の駅に着いた、会いたい>とメールした。
改札を出ると、すぐそこの柱に寄りかかって、ぼんやりとスマホを見ている男。視界には入ったけどそのまま進もうとして、しかし何だか引っ掛かって振り返ると、それが黒井だった。
スーツの上着を着て、水色のシャツに真っ青なネクタイで、目が戸惑う。そうか、この姿はおよそ半年ぶりで、一瞬分からなかった。大手のお客さんと言ってたし、でも朝も見なかったから、まさか上着を着ているとは思わなかった・・・。
そして黒井は少し遅れて僕のメールを受信したのか、改札の方を見て、少ししてこちらの気配に気づき、ゆっくりと、目が合った。よく知っているはずの顔なのに、やっぱり誰なのかよく分からなくなってしまう。
「・・・クロ」
黒井は「あ・・・」と目を見開いて、スマホを持ったままこちらに近寄り、僕の肩の上から両腕をまわして、きつく抱きしめた。その一瞬一瞬で腹が透け、下半身が痺れる。肩口で「う・・・うう、ねこ」と絞り出したような声がし、僕はただ「何があった、クロ、もう大丈夫だから」と目の前の柱を見つめてつぶやく。
不思議なことに、恋人だとか、男同士とか、人から見られているとか、何も気にならなかった。ああ、社会の枠なんか要らない。もう、俺とお前でいればいいよ・・・。
・・・・・・・・・・・・・・・
マンションに着くまで、黒井はずっと僕の肩に手を置いたまま。
ゆっくりと歩きながら、先ほどまで出ていたらしい、飲み会の話。
いわゆる接待・・・というのじゃないが、その大手のお客さんが新しくオープンさせた新橋のしゃぶしゃぶ屋で会食となり、一緒に作業をしたSS(システムサポート部)のほか、三課の中山課長も駆けつけたらしい。
「途中から・・・最上さんがちょっと酔ってきて」
最上さんというのは男所帯で紅一点のSSで、わりとサバサバしたアラフォーくらいの女性だ。僕はあまり一緒に作業したことはないけど、特に悪い印象はない。
「それで、最上さんがそのお客さんとこの担当の女の人と、何か意気投合して」
相手先の女性の三輪さんは何とかエグゼクティブマネージャーで、どうやら、今後うちの会社と一緒に何かをしようとしているらしく、それで課長まで出張っていたようだ。興味のない黒井はひたすらしゃぶしゃぶをつついていたが、ふいに、ほろ酔いの女性二人に目を付けられた。
三輪さんが、黒井のことがタイプだというようなことを言い、酔った最上さんがそれを焚きつけて、やれ、彼女はいるのか、好みの女性は、結婚願望はあるか・・・。
課長も、もう一人いた営業も、そして相手先の他の面々も、それを止められなかったのか、止めようとも思わなかったのか。これが男女逆だったら誰かが「ほらほら、セクハラですよ!」と言うかもしれないが、独身男にそんな気遣いがされるはずもない。
「そんなの、別に何でもなくて、どんな風に盛り上げてやろっかなって、でも・・・」
ふと、その時。
・・・僕の顔が、浮かんだらしい。
下手なことを言うと、僕が、困るだろうと。
それは、あの去年の年末の喧嘩騒動で、僕があれだけ憔悴したからだろう。本当は殴られてもいないのに大問題に発展し、みんなの前で何も言えなくなってしまって、黒井とも話せなくなった。
「そしたら何か、うまいこと出来なくなって・・・課長からどやされるし、最上さんはあおってくるし、でも、大事な席っぽくて、キレらんないし」
どうしてだろう、今日という日に偶然、同じ、だったんだ。
<恋人>が男だと明言できなくて、それを隠すあまり別のストレスを抱え、行き場がない。
・・・クロ、俺が女じゃなくて、ごめん。
「それで・・・どう、したの?」
「嘘つくの、どうしても、やだったから・・・とにかく俺のことじゃなくて、逆に、三輪さんにあることないこと訊きまくった」
「・・・話題を、逸らした?」
「うん。そんで三輪さんの元カレの話、喋らしてたら中山さんに『女性に失礼だろ』って頭はたかれて、いってーの。・・・でも、俺が悪いの分かってたし、チラって見たら、中山さん、三輪さんの部下の男らに頭下げてんだよね。あーそっか、女上司の、元カレとのアレコレとか、暴露させたらマズかったのかなとか」
「で、でもそんなの、元はと言えば最上さんだって」
「まー、俺がうまいことやっときゃよかったんだよ。・・・出来なかったけど」
「・・・」
「俺、ここぞって時にうまいことやんの、得意だったんだけどな。・・・俺なら、こんくらい、できたのに」
「・・・」
「お前の、せいで、さ」
・・・。
マンションに着いて、無言で、エレベーターに乗った。扉が閉まると少し酒と煙草のにおいがして、黒井は、乱暴にネクタイを緩めた。
・・・・・・・・・・・・・・・
玄関に入ったらどさりと鞄が落ちて、黒井が僕をドアに押しつけ、噛みつくように口を塞がれた。「お前のせい」と言われ、謝りたいけど理不尽な思いもわいて、でもどうしてそれで<会いたい>だったのかって、考える暇もない。
「うう、んっ・・」
「はあ、・・・ねこ、んっ、お前」
「・・・な、に」
「会いたかった、あいたかった、俺、はやく、お前に」
「・・・なん、で」
手探りでシャツのボタンを開けられて、喉に食いつかれる。「ひうっ」と声を上げたけど、廊下まで響いていそうで、後頭部をドアに押しつけて歯を食いしばった。ひとしきり首筋を噛まれて吸われて、熱い舌で舐められて、もう勃起しているのが分かる。どうしてこうなるんだ、何でなんだよ!
「クロ、だから・・・なんで」
「わかんない、わかんない。俺には無理だよ、・・・俺が、お前のせいで、うまく出来なかったってこと・・・どう思っていいのか俺にはわかんない。もう、こうするしか」
もう一つ、二つボタンが外され、黒井の頭が下がっていき、Yシャツの前を強引に開かれて、薄いアンダーシャツの上から唇が胸をまさぐった。顔が左の突起の上で止まり、湿って熱い感触がして、その刺激に「ああっ」と声が漏れる。黒井の言っている意味を理解しようとして、ドアの冷たさを感じる後頭部だけが理屈を紡ごうとしていたけど、黒井の手が上がってきて口に親指を突っ込まれたら、あっという間に流された。
胸の、布越しの舌の感触を、もっと得ようと、その感覚に集中して。
でも同時に、突っ込まれた親指に自分の舌を這わせて、何がなんだかよく分からなくなって、頭が痺れてくる。無意識に、第一関節の曲がったところをアレのくびれに見立ててしつこく舐めている自分がいて、息だけが荒くて、顔が火照った。
腰が勝手に動きそうになるのを、もう止められないなと諦めかけた時、唾液を舐め取るのも間に合わないまま指が引き抜かれ、その手はそのまま首の後ろ、シャツの内側の素肌の背中へ滑り降りていった。
屈んでいた黒井が立ち上がり、僕の背を追い越す。そしてさっき改札の外でそうされたように、また両腕でしっかりと抱かれた。
互いの下半身のそれが、微かに、触れ合う。
「ねこ、おまえも・・・おれと、・・・したい?」
はあ、はあという熱い吐息とともに、耳元に、掠れた声。
「・・・したい、よ」
「俺もしたい。・・・でも」
「・・・でも?」
そうしてひと息おいて、クロは、さらにぎゅうと僕を強く抱きしめた。それは好きだからというより、何かを不安に思っているのだと、それは分かった。
「でも、おまえが」
「・・・俺が、なに?」
「お前が、男だから、入れたくてもすぐ入んないって・・・それは、分かってる」
「・・・」
「でも、そこまで。俺が思ってたのって、そこまで。・・・それ以上のこと、ろくに、考えてなかった」
「・・・」
「・・・ねこ、俺、どうしたらいいの?」
クロがどうしたらいいのか、働かない頭を何とか起動させ、レポートを提出するべく理屈が正解を組み立て始める。でも、まだ少し荒い息遣いのクロがここにいて、こっちの肉体の方に意識を戻したら、そうじゃないと分かった。
「クロ、実は、俺も、わかんないんだ。だから・・・<俺たち>がどうしたらいいか、一緒に、考えよう」
黒井はしばらくして「・・・うん」とうなずき、僕もその上着の背中に手をまわして、二人で抱き合った。
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