第82話:翻弄される人質
どれくらい、寝たんだろう。
寝たというか、意識を失ったというか。
動かないと思い込んでた両手が、動いて。
前に回すのが、えらく、い、たい。ゆっくり、ゆっくりでないと・・・。
それから足も。っていうか、ああ、口も。目隠しだけ、してあるみたい。でもまだ、手が、動かせない・・・。
五分くらいかけて、肩と腕を動かした。首を思いっきり下げて、両手は少しだけ上げて、目隠しの結び目を取る。しゅる、とすぐに取れた。カサついた指に引っかかるような肌触りの、なめらかな布。ゆっくり目を開けると、それはただのハンカチだった。真っ黒な、手品師が使うようなやつを想像してたから、あれ?と思った。何もかもが夢だったような気がした。僕、転んで寝てたのかな。何だっけ?
眠かったけど、会社に行かなきゃ。ルールだから、遅刻もだめだ。まったく、スーツが汚れちゃったよ、着替えてる暇、あるのかな・・・。
・・・。
あれ、スーツなんか、着てない。
おかしいな、スーツの人が、倒れてるイメージ。
・・・夢か。
スーツじゃないなら、汚れてもいいや。とにかく、ここから出なきゃ。
僕はほとんど四つん這いで進み、短い階段をのぼった。搬入口の窓から少し青い薄明かり。ああ、夜が明けちゃう。早く、帰らないと。
思い出して、正面玄関から出た。ああ、ここ、内側から開錠したら出れるんだ。隣のビルに誰か出社してこないうちに、帰ろう。
左の膝が痛くて、すこしびっこ引きながら歩いた。っていうか、何か、何だっけ?もういいや。とにかく、今何時?
ポケットに手を突っ込んで、携帯を出した。4:44って、おい、不気味だよ。でもまだ時間はある。遅刻しないで済んだ・・・。
早朝の街を歩き、マンションまで着いて、部屋に入る。靴を脱ぐだけで体が痛い。ああ、階段から落ちたんだった。変な角度で。歩けたんだから、骨は折れてないと思うけど。
そして、鏡を見て驚いた。
何じゃこりゃ。
髪の毛が、ぐっしゃぐしゃだ。どうしてこうなった?
こんな頭で歩いてきたの?ろくに人がいなくて助かった。
すぐ、頭洗わなきゃ。
苦労して服を脱いで、シャワーを浴びた。ああ、あったかい。お湯なら、気持ちいいよね。頭から、かぶっても。
・・・ん?
何だか、液体の、質量とか、質感とか。
何だっけ?
だから、よく分かんないよ。
僕が尻もちついたり、階段から落ちたってことは覚えてる。
誰か親切な人が、よくしてくれたことも。
あと、目隠しのハンカチとかは、ちょっとわかんないよ。自分でやったのかも、しれないし。
だってあとはさ、黒井が死んだ、だけだから・・・。
・・・。
あ、そうなんだっけ。
あいつ、・・・死んじゃったの?
黒犬を、埋めてやらないと。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
シャワーから出て、暖房を全開にして、頭を拭きながら電話をかけた。早朝だけど、しょうがないよね。
「・・・」
呼び出し音が続く。寝てるのかな。
十コールくらいして、ようやく出た。
「・・・はい?」
「あ、クロ?俺だけど」
「・・・うん?」
「今、だいじょうぶ?・・・ああ、大丈夫なわけないか」
「・・・え?」
「あ、間違えた。大丈夫じゃないわけないか」
「・・・うん?」
「あのね、俺、黒犬を・・・」
「え?」
「埋めなきゃ、いけなくて?あれ、何だっけ。ごめん後でかけ直す」
「あ、待って、待って!」
「・・・え、何?」
「切らないで!」
「え、何で?ちょっと、忙しいんだけど」
「ねこ、大丈夫だった?俺、ちょっと・・・」
「何が?」
「あ、あの、やりすぎたって、反省して」
「あの世で?」
「・・・う、うん」
「やっぱり、死んじゃったの?」
「え、いや、死んでないよ」
「・・・しんで、ない、の?え、・・・なんで?」
「ご、ごめん」
「・・・あやまってるばあいじゃ、ないよね?」
「はい。ごめんなさい。生きてます」
「これからころしにいっていい?」
「・・・っ、だ、だめ、だめ。おねがい」
「お前、勝ったの?」
「え?」
「勝負。勝ったなら、いいよ。願いごと、かなえても」
「・・・まだ、勝ってないよ」
「じゃあ、だめじゃん」
「お、お前が勝ったら、俺が、かなえるよ。だめ?」
「え、おれが勝ったら?なにを、願うの?」
「俺が生きてますようにって・・・」
「だめだよ。死んでなきゃ」
「頼むよ。お願い。俺、お前と、生きて、いたいんだ」
「・・・いたい?痛いの?」
「いたい、です」
「お前が痛いのはだめなんだよ。痛いのは、俺で、十分」
「ねえ、今お前どこにいる?家に着いた?」
「ついたよ」
「今から行っていい?お願い。会いたい」
「だめだよ、地獄に行く途中だから」
「ごめん。謝るから。許して」
「許せないよ」
「どうしても?」
「どうしてもだよ。何で、お前、死んで・・・なかった」
「・・・泣いてる?」
「うん」
「俺が生きてるから?」
「・・・ううん」
「会いに行ったら、だめ?」
「・・・ううん」
「じゃあ行くから!鍵開けて待ってて!!」
ツー、ツー、ツー。
・・・・・・・・・・・・
黒犬は、本当にすぐ来た。五分か、十分もしないで、ドアが開く前から廊下を走ってくる音が聞こえて。
ドアが開いて、飛び込んでくる。
僕なんか、エアコンの暖房で髪を乾かしてて、服なんか着てなくて、っていうか全裸なんだけど。
「・・・やまねこっ!」
黒井はスーツのまま僕に抱きついてきた。何だよ、何が嬉しいんだ。そんなに強くしたら、い、痛いって。
痛い。肩が、腕が。
ああ、痛いってことは、これは現実か。なら、クロが普通に生きてるってのも、現実なのかな。
「クロ、痛い!」
「ごめん!」
言うだけ言うけど、まったくやめない。いつもそうだ。
「クロ、何しに来たの?俺の裸、眺めに来たの?」
「そう!」
「そんなに抱きついてちゃ、眺められないよ?」
「うん!」
クロが、生きてる・・・。
これって、良かったの?本当に?
「夢?俺、お前が死んだかと・・・」
「あのね、死んで、なかったんだ。ごめん」
「そうなの?ほんと?」
「ほんとだよ。ほら、ちゃんと足もある」
「ほんと?見えないよ」
「わ、分かったよ。脱ぐよ」
黒井はベルトを外して、スーツのズボンを脱いだ。靴下も脱いで、パンツも下ろした。
「・・・ずいぶんかっこわるいね」
「え、俺?かっこわるい?」
「上半身スーツなんて」
「・・・分かったよ。全部脱ぐから」
上着を脱いで、もどかしくYシャツのボタンも外す。アンダーシャツを脱いだら、あ、俺と同じになった。
「・・・生きてるんだね」
「ごめん・・・!」
今度は、抱かれて、心臓の音が分かった。
あったかいし、動いてる。こねこがにゃあって鳴けば、<きゅーん>とする。
「ねえ、クロ」
「なに?」
「にゃあって鳴いて」
「・・・犬なのに?」
「じゃあ吠えて」
「・・・あおーん!」
「うん、やっぱり、きゅーんだ」
生きて、動いてる。ぬいぐるみじゃないし、死体でもない。
告白、しちゃったからね。感情の発露を、本人に、教えてあげた・・・。
「な、何だよ。ねこ、どしたの?」
「どうもしないよ。生きてる、だけだよ・・・」
そして、目覚ましが鳴って。二つの心臓は、離れた。
・・・・・・・・・・・・・・・・・
黒井は身体検査みたいに僕の体を隅々まで見て、「痛かった?」とか「何ともない?」とか言った。
それから、二人でスーツを着て、新宿に着いて、朝マックをしてから会社に行った。六日目、金曜日。
その間、二人とも口が利けなくなったみたいに、一言も、何も言わなかった。黒井が僕のことを気遣って、電車で揺れたとき支えてくれたり、階段で足が痛むと、肩を貸してくれたりした。
時折、何かの記憶がふいに頭の中で弾けて、ストロボみたいに、ぱっと見えた。でもそれは大体暗くて、一瞬あとには思い出せなくなった。っていうか、昨日が何だったか、一昨日はどうだったかとかも、よく思い出せなかった。
マックで、マフィンが半分しか食べられなかった。びっくりして、トレイに置いたそれを眺めていると、黒井が勝手に取って、食べた。それを見ながら、ああ、そっち側に入ったんならいいや、と思った。パンだの肉だの、小麦粉だのタンパク質だの、どっちに入ったって何とか保存の法則ってやつで、同じなんだ。今こっちはいっぱいだから、そっちに入れといて。そう考えたら、黒井はうんってうなずいた。ああ、僕の、一度死んだ半身。箱寿司を分けあって、心の話をする相手。
・・・・・・・・・・・・
会社では課長からわけのわからない雑用を押しつけられ、横田と佐山さんを巻き込んでてんやわんやだった。どうやら三月の展示会の準備らしいが、どうして三百枚も封筒にシールを貼らなくちゃいけないんだ。貼っている途中で船を漕ぐ僕を、二人がクスクスと笑っていた。
その後出かけて、しばらく地下鉄に乗った。座って、夢に片足つっこみながら、いろんなことを思い出したり、考えたり、感じたりした。
正直、何だか、よく分からなくなってしまっていた。
眠い。
たとえば、今日、どうするのかとか。
裸の感触に、今更熱くなったりとか。
それから、もしも僕が勝ったら、何をしてもらうか、とか・・・。
僕の本番は昨日一度、山場というか峠を越えて、たぶん今は幕間なのだった。
ずっと黒井の痕跡を追って、まるで交換日記でもするみたいな、いや、むしろ影絵みたいな言語情報ではないやりとりをして、しかも昼間は普通に会社にいたりして、もう、よく分からなくなっていた。喋って、触れて、抱き合うより、・・・それよりずっと、焦がれている。だからきっと、今日、追い続けてきた本人が来て、一度死んだと思ったあいつと会って、裸で抱き合ってしまって、もう、何かが結実したのだった。
・・・。
感情が思考にならず、思考が言葉にならず、感情以前の何かが、ざわざわと波打っていた。焦りのような、恋しさのような、抑えられないような、あるいは冷めた何か。何も見えない地下鉄の窓を眺めて、過ぎ去るライトと、窓に映る自分を見ていた。まるでくたびれた刑事だ。犯人を追い続け、考え続け、調べ続け、とうとうその亡骸を発見したかと思えば襲われて、立場は逆転して縛り上げられ、そうかと思えば抱きしめられる。
・・・翻弄されてる、な。
そう、僕は刑事なんかじゃなくて、元々人質なんだし。
逃げ出したのが捕まって、何だろう、そういうのなかった?誘拐犯を好きになっちゃう、何とかかんとかシンドローム・・・。
ああ。
執念で追い続け、自分にしか捕まえられないって自負で暴走し、やがては強く惹かれてしまう、クラリスだ。別のやつに殺させるもんかと単身助けに駆けつけ、捕まえたと思ったら捕まっていて、監禁されて手当てされる。
あはは、やっぱり、そうなんじゃない?僕の推理、やっぱり、論理もないけど、当たってるんじゃない?人質を逃がした犯人は、いろいろな犯人を演じて人質を翻弄し、追い詰めたように見せかけて、最後は北風じゃなく太陽になって、僕は懐柔されちゃうんだ。もしかしてこれ、お前の正体が<レクター博士>というより、僕が<クラリス>に仕立て上げられてたんじゃないか・・・。そんなのただの妄想だけど、何となくそう思った。そして、それもいいと、思った。
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