30章:誰も知らない、僕の誕生日

(黒井との夏を心待ちにしつつ、その日が来た)

第224話:お盆休みの予定

 七月七日、月曜日。

 何だか妙に、久しぶりの会社だった。

 朝礼の後、つい癖で奥の島に出向こうとしたが、ああ、マニュアル作りの手伝いの任はもう解かれたんだったか。そして今日はジュラルミンの日か。黒井との濃密な週末を過ごすと、会社で先週何をやっていたかなんてもうよく思い出せない。


 久しぶりの、キャビネ前の四人組。

 しばらく留守にしていたのが嘘のように、何事もなく受け入れられる。

 一瞬、いてもいなくても存在感がないのかな、なんて思うけど、それでも感じたのは安心感だった。いてもいなくてもいいのは気が楽だ。

「そういえば、七夕ですねー」

「ああ、そうか」

「ま、曇ってるでしょうけど」

「皆さん、お願い事は?」

 佐山さんが振ると、島津さんが「時給が上がりますように」と早口で即答して、みんなで笑った。佐山さん自身は「私は・・・ね」とお腹を撫で、みんなそれでうなずいた。

「黒井さんは?」

「え、俺?そうだなあ・・・」

 黒井は腕組みし、少し言葉を選んで、「・・・まともになりますように?」と首をかしげた。「えー何ですかそれ?」「まあ、訂正印が減るといいですね」とフォロー(?)が入ったが、僕はあの<おねえさん>が、黒井がまともになれば僕の不調がなくなるという話をちょっと思い出し、少し黙った。しかし「山根さんは?」と訊かれたら質問に答えるモードになり、ええっと、僕の願い事は、そんなの・・・。

 <黒井彰彦と結ばれますように>。

 負けずに頭の中で即答するけど、しかし表向きは、何て言うべきだ?

「・・・給茶機のコーヒーが美味しくなりますように?」

 「あ、それいい」とか「カフェラテが入ればいい」とか「自販機が欲しい」とか話が膨らみ、あわよくばこの流れで黒井とコーヒーに・・・ってところで内線が鳴り、ジュラルミンの時間。

 僕が向かうと黒井もついてきて、うん、コーヒーだろうが何だろうが、一緒に歩けたら幸せだよ。


 珍しくジュラルミンが二つ来ていて、どうして分けたのかよく分からないが、データが別々に届いていた。一人一つずつ持って、中身を開けて、発送部屋にしまいに・・・と思ったら内線が鳴り、島津さんが持とうとするのを黒井が止め、一人で二つ持って出て行った。あーあ、残念。僕は一人でデータに納品リストをくっつけて該当の宛先のところに持って行き、先週溜めていた案件に向き合った。



・・・・・・・・・・・・・・・



 火曜日は何事もなく過ぎて、水曜日。

 キャビネ前では中山課長が来週有給で休む話題。私用とは聞いていたが、どうやら旅行のようだ。海外らしいという未確認情報もあり、まさかワールドカップの決勝戦か?あるいは家族旅行、にしても、お子さんはまだ夏休みじゃないはず、など様々な憶測が飛び交った。

「勤続十年の特別休暇が出るってことなんですよね?何か、会社的にそれは取らないといけないらしくて、むしろ休む調整の方が大変だったって」

 島津さんが苦々しいその表情をちょっと真似て、みんなで苦笑。しかし黒井だけは何となくそわそわしていて、ああ、もしかして中山とまた何かひと悶着あったのかもしれない。


 いつものように四、五分で解散すると、コーヒーに誘われた。

 僕は腹の中でガッツポーズをして、しかし平静を装い「ああ、そうだね」なんて歩き出す。

 幸せを噛みしめながら歩調を合わせて歩き、夢のことを切り出したいけどここで聞くのもなあなんて考えていると、「・・・今日、一緒に、帰ろっか」と一言。

 その一言は、僕の頭の中では「俺・・・お前のこと、好きだから」くらいに響いた。どうしてそんなうつむいて、片腕さすりながら、遠慮がちに言うんだよ・・・。

「・・・う、うん」

「ちょっと、話すこと、あって」

「・・・わ、分かった」

 コーヒーを汲んだら、後はただ自分の席まで紙コップをぶちまけずに歩くことだけを考えた。何とか持ちこたえて、さ、さて仕事仕事!と意味もなく腕まくりしてパソコンに向かった。


 努めて考えないようにして、夕方。

 勤怠を入力しながら、ようやく、「話って、何だろう」と、一日中言葉にはしないできた疑問を心に浮かべた。

 たぶん、夢の話だろう。いい夢を見たか、あるいはちょっと象徴的な、マイナスの方向の夢でも見て落ち込んでいるのかも。でも、死ぬ夢なんかは逆夢だったりするし、ああ、本屋に寄って夢占いの本を見てみるのもいいかもしれない。

 ちょっとプリンターに立ったとき、黒井がふいに近寄ってきて、「コンビニで待ってるから」と去っていった。な、何だか、秘密の逢引みたいじゃないか。急に心臓がどきどきして、その後の仕事は手につかなかったが、待ってると言われた以上タイミングをずらして出なきゃいけないし、意味もなく資料をぱらぱらめくって過ごした。


 「お先でーす」と黒井が出て行って、五分。

 そろそろいいかな、とあと二分粘って、オフィスを出た。

 エレベーターに乗りながら、僕が先導しすぎない、「手伝う」とかは禁句で、二人でやる・・・と注意事項を確認した。どうか、もうやめるとか、解散しようみたいな話じゃありませんように!



・・・・・・・・・・・・



 コンビニに入ると、黒井は雑誌コーナーにいた。

 僕に気づくと慌てて持っていた雑誌を閉じ、乱暴に棚に突っ込んでコンビニを出た。何だ?別にエロ本とかでもなくて、<るるぶ>か何かみたいだったけど、隠すような本か?

 少しの間無言で歩いて、どきどきしながら、「あの、なんか・・・あった?」となるべく軽めに切り出した。

「え、えっと、その」

「うん?」

「ちょっと、聞きたいことがあって」

「・・・うん?」

「あのさ、お前・・・有給とか残ってる?」

「え?・・・そりゃ、残ってる、けど」

「そっか。あの、そんでさ」

「・・・うん」

「来月、なんだけど」

「・・・うん」

「お前、お盆に・・・帰省したりとか、する?」

「・・・いや、別に」

 緊張していたのが急に、帰省という言葉で、みぞおちのあたりが重くなった。

 また、そのうち電話が来るのだろうか。もう、盆も正月も、帰省という言葉も概念さえも、なくなってしまえばいいのに。

「・・・そっか、しないんだ」

「うん、・・・それが?」

「え、えっと、いや、俺はするんだけど」

「あ、そう。行ってらっしゃい」

 急に不機嫌になったりして、まったくみっともないな。そんな風にわだかまりなく実家に帰れて、いや、別に羨ましくなんかないよ。うちはうち、よそはよそだ。

「あの、さ」

「何?」

「他に、何かお盆の予定とか・・・」

「ないけど、え、何?」

 別に、お前が帰省するんなら、あってもなくても関係ないじゃないか。一緒にアトミクをやる夏じゃないなら、もういいよ。夏休みの自由研究よろしく二人であっちこっち、とか、うん、七夕にお願いしておくべきだったね。どうせ届かなかっただろうけど。

「あの、もしあれだったら、その、・・・うちに来ない?」

 ・・・。

 ああ、なるほど、そういうことね。

「いいよ。また、片付けとか掃除とか、するよ」

 それもいいね。お前の部屋で、クーラーかけてのんびりさせてもらおう。一人で本を読んだり、アイスを食べたり、テレビ・・・はないから、ポータブルDVDプレイヤーでも買うかな。

「別に、片付けとかは、しなくても・・・」

「ああ、最近ちょっと片付いてるもんね。うん、今度こそちゃんと、いつからいつまで行くのかちゃんと教えといてよね。ほら、また鍵がどうので入れなくなったりしても困るし」

「え、えっと、それは十四から十八で、だから一日、有給とってほしいんだけど」

「・・・え、有給?」

「あ、だから、土日入れて五日だから、二日は盆休みだけど、一日、有給を・・・」

「・・・ふうん、いいよ」

 別に何の支障もないし、お前のためなら構わないけど、ちょっとだけ、図々しくないか?と思ってしまった。いや、ただ勤怠入力するだけの申請ならどうでもいいんだけど、お盆だと他の人とかぶったら調整したりだとか、課長にあらかじめ言っておいたりとか、ちょっと面倒だからさ。

 ・・・別に、いいんだけど。

 留守番で、構わないんだけど。

 友達や女の子との旅行とかじゃなく、実家に行くなら嫉妬するでもないし、ああ、それにもしかして、親父さんの一回忌とかもあるのか。それなら本当にしょうがないし、っていうか留守を任されるだけだって本当は喜ぶべきことなのに、僕のほうこそ図々しくなってきたのかな。

「あの、ちょっと遠いけど、お前飛行機ダメとか、ないよね?」

「・・・え?」

「チケットはもう取ってあるんだ。だから旅費とか、別に気にしなくて・・・」

「は?」

「来て、くれない・・・?」

「・・・何の話?」

 だから、実家に帰る話、と黒井は言った。

「いや、実をいえば別に実家でもなくてさ。親父が死んでから、お母さんが買って移り住んだ家?・・・だから俺の部屋とかもないしただの居候なんだけど、まあ、来いって言うし、いや、姉貴夫婦にはあんまし会いたくないんだけどさ・・・」

「・・・飛行機で?」

「うん」

「どこなの?」

「島根」

「・・・島根県」

 ええと、四国、じゃないな、その上か。

 確か横長の形で、鳥取に似てるけどそれより大きくて、でも高知よりは一回り小さい。

 子どもの頃よくやっていた日本列島・都道府県パズルの四国・中国地方を何となく思い浮かべながら、でも、島根といえば何があるところなのかは、ちょっと分からなかった。

「島根って、何があるんだっけ?」

「さあ・・・、ああ、出雲大社があるって」

「ああ、なるほど」

 っていうか何で実家なのに知らないんだ・・・って、ああ、違うのか。

 実家じゃないのか。親父さんが亡くなって移り住んだってことは、お母さんの地元かな。

「・・・え、ごめん、それで何だっけ」

「だから、・・・一緒に来てくんない?って」

「・・・誰が?」

「お前が」

「どこへ?」

「島根」

「・・・」

 ・・・飛行機、に、一緒に乗ってほしいのか?

 黒井は飛行機恐怖症?いや、ドイツまで行ったほどなのに?

「・・・あの、ごめん、俺は、泊まるの?どこに?」

「・・・客間?」

「・・・え、ごめん、どうして呼ばれてるんだっけ。お経でも読む?」

 お坊さんの人手不足か?いや、でもまだ読経なんて出来ないし、っていうか坊主の代わりなんて無理だし、何だ、もしかしてお父さんは不審な亡くなり方をしたのか?夏といえばミステリ、ミステリといえば探偵、まさか遺産相続の件で親族が集まって、その山奥の館で、とうとう惨劇が・・・。

 改札を通って、ちょっとだけ自分が探偵をやっているところを想像した。一人ずつ別室に呼んで、アリバイを確認して、まあ黒井は犯人ではないはずだから、助手になってもらってもいいよね。用意するものは、胸ポケットに入る小さい手帳と、白手袋、金田一よろしく帽子でもかぶろうか?いや、似合わないか。

「・・・ねえ、ほんとにいい?」

「え、何が?」

 ホームで電車を待ちながら、黒井がまた訊いてきた。いや、まだ正直何の話をしてるのか、よくわかんないんだけど・・・。

「別に、なんもないとこだけどさ。山くらいで」

「・・・俺は、何をすればいいの?」

「何って、やることなんて、あんましないよ。暇だったら本でも持ってきて」

「ちょっと待って。まず、お前の実家、というか、お母さんの家が、島根にあって?」

「・・・うん」

「そこに、お盆に、有給を一日足して、五日間?」

「・・・うん」

「お前が行って、・・・俺も、行くの?」

「う、うん」

「俺は何をしに・・・って、いうのは、別に、なくて?」

「まあ、そう、だね」

「飛行機で、一緒に行って、一緒に帰ってくる?」

「うん」

「客間に、泊まる?」

「うん。っていうか、まあどうせ俺と一緒だけど」

「・・・一緒?」

「いや、そんないっぱい部屋があるわけじゃないしさ。どうせあんたら一緒でいいわねとか言って、まとめて布団敷かれると思うよ」

「・・・うーん、ちょっと待って」

 電車が来て、乗り込んで、ドア側に並んで立った。

 黒井が、「一緒に寝るのがネックなの?」と訊いてくるけど、「待って、待って」と手のひらで制した。状況確認は出来てるはずなのに、意味がどうしても分からない。日程も行く先も、飛行機のチケットまでも取ってあるのに、どうして何のことだかいまだに分からないんだ?

 ・・・。

 チケット?

 取ってある?

 ・・・僕の分?

 ・・・どう、して?

「あのさ、クロ、その、飛行機のチケットのことだけど」

「あ、ああ、だから、お金とか気にしないで?空港までの電車とかはちょっと、出してもらうけど」

「・・・いや、その、だから、どうしてチケットがあるの?」

「え、それは、早めに買うと安いだとか、何か去年は一日一便だったんだけど、今年は何かに当たって一日二便になったらしくて、少しは取りやすかったとかなんとか・・・」

「何かに当たって?」

「うーん、何だったか、ふるさと助成金みたいなやつ?」

「あ、ああ、何かで当たったの?チケット二枚?だから俺と行こうって?」

「え?チケットは当たったんじゃなくて買ったんだよ。ま、俺が買ったんじゃなくて、親が勝手に買ってたんだけど」

「・・・よくわかんないけど、とにかく余ったから、来ないかってこと?」

「別に、余ったわけじゃないよ。まあ、何となく、そういう話になって」

「何となく?」

「いや、まあ、いいじゃん。気楽に遊びに来てよ。俺んちじゃないけど」

「・・・あそびに?」

「もう、いい加減にしてってば!別に遊ぶとこなんかないけど、暇かもしんないけど、いいでしょ!?いいって言ったじゃん。つべこべ言わず、一緒に来てよ!」

 黒井は何だか逆ギレして、僕の襟首をつかんでぐらぐらと揺らした。

 僕はとにかく「分かった、分かったから!」と降参したけど、黒井が桜上水で降りて、最後にホームから僕に爆弾を投げて寄越したから、それで僕はショートして、帰宅し、スクワットをしながら、「うわあ!」と後ろに尻もちをついた。

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