第223話:テクニックと芸術
僕は新しいページにもう一度プロットのグラフを描き、転換ポイントのキーワードを書き込んだ。意外な形で僕の<地図>が役に立っている。
何とも言えない、充実感だった。
グラフを色分けしていると、黒井がジュースを飲みながら「でも、いったい、どうすんの」と訊いてきた。
「え、何が?」
「何ていうか、その表の意味は何となく分かるけどさ、そっからどうすんの?どうやって話が出てくんの?」
「別に、ここから話をひねり出すんじゃないよ。あくまでこれは目安で、ストーリー自体は自由に作っていいんだ。まったくの自由で、何のルールも筋も気にせずやって、それでちょっと物足りなかったり、流れが冗長だったりしたらこれに当てはめてみたらいい」
「・・・ふうん。あれだけ言ったくせに、いやにあっさりしてるじゃん」
「別に、押し付けたかったわけでもなくて、ただこういうものがあるって説明したかっただけだ」
「・・・それで、推理小説とか、書いてたわけ?」
「・・・っ、か、書かないよ。知ってるだけ」
「ふうん。・・・でもさ、とにかく俺、やりたいとは言ったけど、どうすればいいかはわかんないよ。俺は何をやりたいの?」
「そ、それを訊くなよ。でもまあ、やりたいものが明確じゃない時の方法もちゃんとある」
「え、何?」
「カードを使うんだ。まあ、ないからノートをちぎる」
僕はまたあの本の内容を思い出し、キーワードをカードに書いてシャッフルし、イメージを膨らませる方法をやってみることにした。全てただの受け売りで、僕の実力なんか何もないけど、ちょっと気持ちよくなってしまうから困るな。実績なんか何もないのに。
「何でもいいから思いつくまま、キーワードを書くんだよ。それは本当のキーとなる単語でもいいし、もっと抽象的な単語でもいい」
「・・・うーん」
「まあ、まずは当然<コペンハーゲン>からだ。とりあえずここから膨らませてみよう。いくらでも、これにまつわるものを書いていくんだ。人、モノ、場所、雰囲気、概念、何でも。連想ゲームだと思って」
「・・・うん」
黒井は大人しく従い、小さくちぎった紙にそれらしいことをいくつか書いた。ハイゼンベルク、ボーア、量子力学、三者三様、トライアングル、相対性・・・そんな感じで。
僕も僕で、同じテーマを書くことにした。二人の共通イメージと、そうでないものを出してその対比を見るのは面白いだろう。今まで黒井の演劇部という先入観もあって考えてなかったけど、今思えば、ミステリとしても面白い題材じゃないか、<コペンハーゲン>。
先入観どおりに出してみるなら、ハイゼンベルク、ボーアは当然として、第二次大戦、藪の中、原子爆弾、ドイツ、アメリカ、スパイ、ナチス、機密情報、物理学者、亡命、ユダヤ狩り、密室の会話、・・・そういう感じだろうか。やはり戦時中のスパイものに近い緊迫感を感じる。しかし、軍人や政府でなく物理学者同士というのがまた、イメージとしては、物好きで部屋にこもりきりの学者という政府の陰謀とは関わりが薄そうな存在だから、そのギャップが面白い。実際は当時の物理学者、特にハイゼンベルクやボーアという超一流の存在は大統領に匹敵するほどの脅威だったわけで、知るにつれて事の重要性がひしひし伝わってくるのもスリリングだ。
そして、先入観ではなく、今のイメージとしてはどうか。
それはもっと、哲学的になる。
量子力学、粒子であり波、観測と実在、不確定性、相対的、シュレディンガーの猫、突き詰めていえば、アトミクの真髄である、<実在とは何か>。
僕がせっせと紙を消費していると、黒井は「ちょっと、トイレ」と席を立った。僕は今度はミステリ方面から考察を進め、密室、遮断された情報、視点ごとの独白、何が真実か?時系列?アリバイ?など、そろそろネタは尽きかけていた。
黒井が戻り、ああ、お帰りと顔を上げずに言ったが、ああともうんとも返事はなかった。
ミステリ仕立てなら、やりようによってはいろいろ出来る題材だろうが、逆にどう絞り込んでいくか、どこに収束させていくかが・・・あ、そうだ、確率波の収束というのもキーワードか。
「・・・」
薄いため息が耳に入り、ふと顔を上げると、黒井が泣きそうな顔でこちらを見ていた。
「ど、どうしたんだ」
「・・・」
「ご、ごめん、やっぱり俺のやり方が嫌だった・・・?」
「・・・」
「あ、コペンハーゲンって単語からじゃない方が、よかったかな。その、俺、考えてなくて」
「・・・ちがうって、わかってるでしょ?」
魂の抜けたような掠れた声が言う。黒井の手元の紙は、あれ以上増えていなかった。
「あの・・・、ごめん」
「別にお前は悪くない。楽しそうで羨ましい。俺は、やっぱりなんも、出てこない」
「・・・そんな、でも」
「うん、やりたいは、やりたいんだ。それは嘘じゃない。確かにそう思った。でも、白い紙を前にしたとたん、これなんだ。別に、映画とかを見たらふつうに楽しいって思えるんだけど・・・」
そこで黒井は大きくため息をついて、更にうなだれた。見ているのがかわいそうなくらいに。
「はあ、・・・いや、何となくそれらしいことが、ないわけじゃない。ここをこういう風に持っていって、ここでダン!と照明が落ちて、不穏な囁き声で次のシーンが始まって・・・、みたいな、何となく思い浮かばないわけじゃない。でも、それはどこへもいかないんだ。漂ってるだけで、何の意志も持たない・・・」
「い、いいじゃないかそれで。そういう、断片的なイメージの積み重ねだよ。きっとそれは大事なイメージだ。うん、たぶん、言葉にして書きにくいんだよ、それは。もっと、映画の場面とか視覚的なイメージの、こう、切り抜きの、コラージュみたいな・・・」
「うん、それも、あるかもしれない、けど」
「そうだよ、ごめん、俺が、お前に合わない方法で進めちゃったんだ。別に単語のカードじゃなくたって、写真でも絵でも、動画でも、何だって・・・」
「でもきっとそうじゃない。もっと根本的な問題。どうしよう、なんもない。全部、浮かんだそばから落っこってく・・・」
そう言って黒井は、拳をその心臓にとん、とん、と何度か当て、目眩でもしているように瞬きをした。僕は思わず立ち上がって黒井の隣に座り、その肩に手を回した。
「大丈夫だ、ごめん、俺が性急すぎたんだ。別に、焦ることない。な、何か食べよう。いったん終わりにして、またにしよう」
「・・・」
「ほら、ひとくち何か、飲んで」
ジュースのストローを差し出して、口に含ませた。黒井は一生懸命それを飲み込むと、目を閉じて深呼吸した。
「落ち着いて。別にまだ何も始まってないし、結果が出たわけでもない。ほら、また夢分析をやろう。お前のあの、スピン二分の一。ちゃんと出てたし、だから勝ったじゃないか。なんもないことなんかない、深層心理にはちゃんとあるって」
「・・・そう、かな」
「スナフキンなんだろ?きっともっと、こういう紙の上じゃなくて、違うやり方なんだよ。それこそ、ハーモニカでも吹いたらいい。お前は、俺とは違う、芸術家なんだって・・・」
黒井はしばらく深呼吸を繰り返し、コップの水を飲んだ。それから僕を押し退けて席を立ち、「ちょっと、外の空気を・・・」と。
「う、うん。それがいいかもしれない。何なら、場所を変えても」
「ううん。ちょっと、待ってて」
「・・・分かった」
ほうじ茶を飲んで待っていると、黒井は十五分ほどで戻った。
僕はずっと、自分の何が悪かったのか、どう配慮すべきだったのか、これからどうすべきかを考えていたけれども、結論は出ていなかった。
・・・結局、黒井の言うとおり、答えも客観的評価も何もない、出したって意味もない、個人個人の人生があるだけだ。たとえどうすべきだったか完璧な答えが出たとしたって、時を戻すことは出来ない。脚本は書き直せないし、同じシーンはもう二度と訪れない・・・。
ただせめて出来るのは、試験に落ちたようなどうしようもない顔で出迎えないってことだけ。
「・・・大丈夫?」
「うん、まあ、少し」
「そっか」
「今日は、帰るよ。帰って寝る。お前が言うとおり、ちょっと、リハビリっていうか」
「・・・うん」
「何だろう、夢日記ってやつ?つけてみようかって」
「ああ、いいんじゃない?実は俺も、お前のあのメモを元にプロットが出来ないかって思ってて」
黒井が少し笑ったので、僕も救われた。
昼飯まで食べていくと言って、サンドイッチやポテトを頼み、黒井は帰途に着いた。送ると言ったけど、一人で帰る、と。
「大丈夫、へこたれてないよ。今までみたいに、ヒントも何もないよりはマシだ」
「・・・うん」
「・・・でも、ほんとに、出来ると思う?俺・・・」
「出来るよ」
改札の横で、黒井は僕の背中に手を回し、一瞬きゅっと力を込めて「さんきゅ」とささやき、「じゃあ」とすぐに別れた。
・・・・・・・・・・
洗濯機を回して買い物リストを作り、うとうとしながら、また考えた。
黒井は、僕が頼ると、強くなると言っていた。
僕が導く、なんて息巻かない方が、よかったんじゃないか。
人間関係のバランスとして、どちらかが倒れたら、どちらかが助けに走る。僕が突っ走り続けたら、あいつは自分の不足分にばかり目が行ってしまうかもしれない・・・。
だからといって、僕が何も出来ない振りをして黒井を頼るのは、違う気がした。たぶんそもそも見抜かれるだろうし、黒井はそういう欺瞞を嫌うだろう。
・・・僕が、演技や、役者をやればいいの?
出来ない楽器片手に、歌えばいいわけ?
黒井に笑われて「ちょっとはよくなったよ!」なんて手を叩かれながら、道化になればいい?
それがたとえ答えだとしたって、それがお前のために生きるって意味だとしたって、そんなものは見られたくないし、やりたくないって僕は、やっぱり覚悟の足りない腑抜けなのか?
少し、眠った。
夢の中で黒井が、「そうじゃないよ」と笑った気がする。
たぶん、状況、なんだろう。
突然、ファミレスなんていう場所で、「ハイどうぞ」と言われてちぎった紙に単語を書くんじゃなく、もっと、臨場感というか、<そういう>感じが必要だったんだ。
今度はもっと、違うところでやろう。ヨーロッパ風の本格的な喫茶店とか、あるいは海とか山とか、お前の好きな動物を見に行くのもいいかもしれない。
プラネタリウムをつけて、まるで催眠セラピーみたいにしたって。
・・・別に、決して悪い案ではないと思うけど、少しだけ、それは淫靡な感じがした。
夢の内容を話されて、それをメモするだけなら、いいけど。
密室の星空の中に黒井を寝かせて、半分意識のないお前に、まるでゆっくりと服の中に手を入れてまさぐるみたいに、無防備なお前を直接触って中身を覗こうなんて・・・。
だめだ、だめだ。「やって」って言われたらやるけど、こんなのはフェアじゃない。そう、まるで僕が勝手にキスしたみたいに・・・。
ああ、そうだ。
しちゃったんだ。
その感触を思い出して、それから、黒井に<受け止めて>もらったことも思い出して、一人で気持ちよくなった。
電話してみようかとも思ったけど、いい夢を見てるところを邪魔したら悪いし、でもメールにしても、安易な励まし文句でないとすると、それは「一生俺が隣にいるから」みたいな感じになってしまって、首を振って消した。忘れずにスクワットをして、寝た。
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