第22話:噂話ってすごい

 朝。

 もう、休んでしまおうと思った。

 今日休めば、次に行くのは九日後。さすがにほとぼりも冷め、もうみんな忘れているかもしれない。

 ・・・いや、むしろ行きにくいか。

 九連休なんて、入社してから初めてだ。そんなに休んで、それから普通に出勤できる気もしない。

 そして、ふと気づいた。

 ああ、逃げてやり過ごすのも僕の常道だけど、今回は、それじゃだめだ。

 それじゃ、僕の怪我や精神的ダメージがひどいと思われてしまう。僕のいないデスクを見て、みんなは、ああ、山根くん休んじゃったよ・・・と、事態の深刻さを重く見るだろう。それじゃ、いくら年明け何でもない顔で行ってみたって、意味がない。

 だから今日は這ってでも行くしかないんだ。

 このくらいの頭がすぐに回らない自分が嫌になる。土壇場での博打は出来ても、普段の正答率は低いし、結局時間ギリギリまでかかる。ああ、また遅刻してしまう。


 重い足取りでビルのロビーに入り、エレベーターを待つ。もう、誰にも会いたくない。やり過ごすだけの一日が始まる。どんな顔でフロアに入ればいいんだ。やっぱり逃げ出したくなる体を意志の力で動かし、エレベーターに乗った。

 笑わなきゃ。

 いや、何か、おおごとになっちゃって、こっちが驚いてるんですよ。まいっちゃうな。あはは。

 よし。唇のかさぶたが剥がれて余計生々しいけど、ちょっとドブに落ちちゃって、俺ってドジですよね的な顔で、行く・・・

 ・・・。

 廊下の隅で、二課の望月と榊原が、ひそひそ話。僕に気づくと、固まって、あからさまな、視線。こちらに、近寄ってくるわけでもなく、逃げるわけでもなく。

 反射的に目を伏せて会釈に見せかけ、いつもより手前のドアにカードキーをかざした。

 馬鹿。

 今、笑顔でおはようって言って、いやあ、何か大変なことになっちゃって、って、言えば良かったじゃないか!

 誰か、誰でもいいから、フレンドリーに「おっ、だいじょぶか~?やられたんだってなー?」とか、話しかけてきてくれ。そしたら笑顔で「いやー参ったっす」って言うから。準備、出来てるから、ほら、早く!

 しかし、当然、誰も何も言わない。

 黒井が来ているのかすら、見ることも出来なくて。

 避けたら余計、だめなのに。

 昨日、執務室に連行された黒井がその後どうなったのか、今みんなの最新情報はどうなってるのか、しかし、課長にも鹿島にも聞ける雰囲気ではないし、向こうも「そっとしといてやろう」モードで何も言ってこないし、もう、どうすりゃいいんだ。

 とりあえず社内メールを立ち上げるが、昨日の爆弾メール以来何も入っていない。一度パソコンを見てしまったら、今更顔を画面から離せなくなって、そのまま朝礼の時間までそうしていた。

 後ろを振り向いて、黒井のとこに歩いていって、「よう」って笑うだけで、事は済むかもしれないのに。この重すぎる心の荷も、降りるかもしれないのに。

 朝礼が始まって、席を立ち、フロアの中央を向く。黒井は来ていた。別に、お茶目に僕に手を振ってきたりなど、しない。背中が、冷たい。

 一緒に、クリスマスイブも、クリスマスも、過ごした仲なのにな。

 なんて馬鹿馬鹿しいんだろう。喧嘩なんか、してないのに。自業自得、だけど。

 朝礼が終わって、黒井が席に着くためにこちらを向く。僕もぐずぐずとして接触のチャンスを一瞬伺うけれど。

 すぐ、目を伏せて。

 ・・・避けられた。

 黒井だって、昨日の今日で、話をややこしくしないためにそうしているんだと信じたい。そんなか細い糸も、切れそうだけど。

 キスまで、したのに、信じられないなんて。

 こんな、薄情で自分勝手な僕なんか、嫌われたって、当然かもしれない。


 生きた心地もしないまま、昨日の事情を知らない佐山さんとだけ何でもない話を少しして、お昼になった。誰か誘ってくれればいいけど、そんなこともやっぱりなくて。僕は一人でマックへ向かった。



・・・・・・・・・・・・・



「何かね、ほら、あの残業の、西尾さんって子のことでさ、黒井さんが、何か」

「うん?」

「何か、その、さっさと帰ってヤればいいだろ、みたいなこと言ったらしいの」

「えっ、マジ?何それ」

「ね。引くでしょ。で、そしたら、その、山根くんがさあ」

「うん、うん?」

「そんなんじゃない、彼女の気持ち考えろみたいなこと言い返したらしいの」

「へえ!そうなの?」

「そうそう、お前は分かってないとか言い放ったんだって」

「えー、意外!山根くんが?」

「うん。聞いたって」

「じゃあ、何、それが原因で喧嘩になったの?」

「いや、その場は山根くんが引いて、終わったんだって。でもその後、したらしい」

「その、トイレでってやつ?」

「どうも、黒井さんが殴るか何かして、山根くん口切って、何か、泣いてたって話もある」

「え・・・」

「驚きだよね・・・」

「あれ、でも、金沢くんが見たとか言ってなかった?」

「あ、そうそう。トイレでさ、何か音がしたんだって。ほら、あそこ真っ暗になっちゃうじゃん。だから見えなかったらしいんだけど、何か音がして、その後黒井さんが出てきて、お腹痛いとか言って、またトイレ戻ったんだって。だから、その時、本当は山根くんが奥で倒れてたんじゃないかって」

「えー、怖い。何、そこまでする?やだ、何か、リンチみたいじゃん」

「ね。そんでそのあとその、セコムからのあれがあって、誰か二人出てない人がいるけど、施錠しちゃうけど大丈夫かっていって、そこへ二人がトイレから出てきて、それで総務の課長が見つけて」

「で?理由ってその、西尾さんのこと悪く言ったとかってことだったの?」

「まあ、はっきり分かんないみたいだけど、きっかけはそれみたい。でも、何であの二人がいがみ合うのかって、あんま接点ないと思わない?」

「うーん。特になさそうだよね」

「でもさ、これは別の情報なんだけど、黒井さん今彼女いないみたいで、何かその、西尾さんに対する発言も、嫌味っていうか、八つ当たり?みたいな」

「えー?ウソ、てっきりいるんだと思ってた」

「でしょー?いそうでしょ?いないんだって。何かね、クリスマスイブに、男子がそういう、男子会を開いてたんだって、ウケるでしょ」

「え、それってもしかして望月くんが何かしてたやつ?」

「あ、知ってた?何か、誰だっけ、米山さんとか呼んで、寂しい男の会を催してたんだって。でさ、そこに、来てたんだって、黒井さん」

「へーえ。何か、イメージ違うけど」

「でさ、そこでもひと悶着あったらしいの」

「え、何で何で?」

「いや、そこに山根くんもいたらしいんだけどね、黒井さんが来た途端何か様子がおかしくて、しばらくしていなくなっちゃったんだって。で、黒井さんが突然、俺気分悪いんでとか言って全然飲んでないのに五千円とか置いて、これまた帰っちゃったんだって」

「え、何それ?どーいう状況なわけ?」

「そうなの。その時、黒井さんが、山根くんの荷物持って帰ったんだって」

「何でそうなるの?」

「だから、その前から何かあったんじゃない?その会に黒井さんが来たのって、その場で誘われて突然だったんだって。だから、山根くんはたぶん彼が来るって思ってなくて」

「逃げちゃったの?」

「さあ。でもその時も山根くんがトイレに立ったタイミングだったらしくて、もしかして、ねえ」

「え、喧嘩?で、荷物は黒井さんが持って?えー、何があったわけ?そこまでする?」

「そうなの。まあだからさ、黒井さんちょっと危ないよって」

「えー、何だっけ、忘年会の幹事とか、普通にしてたのにね。ねえ」

「あれ、でも、そういえばさ、あんとき、山根くんが補佐とかなんとかいって、締めもやってなかった?」

「あ、そうだった。突然何で山根くん?って思ったんだった。あ、でもさ、それも、あの、大月さんって途中から来たじゃん」

「はいはい」

「あの人連れてくるように、確か黒井さんが指示してたんだよね」

「パシってたってわけ?」

「分かんないけど。でも何か、俺があいつに何頼もうが勝手だろ、みたいなこと言ってなかった?ああ、やっぱそれだよ。何かあったんじゃない?」

「でも昨日、ほら、支社長席に呼ばれて、もう、仲直りしました的な感じだったんじゃないの?」

「いや、そりゃ、言うでしょ。あたし席近かったからさ。黒井さんはもう謝ったみたいなこと強調してたけど、山根くんなんか超怯えちゃって、ずっと謝ってて、見てらんなかったもん」

「そうだったの?じゃあやっぱり、黒井さんが山根くんのことパシってて、山根くんが反抗したけど、返り討ちにあった、っていうのが真相?」

「か、なあ?」

「でもさ、残業中に真っ暗なトイレで殴りあうって、相当だよ?」

「ねー。中学生だよね。社会人じゃないよね」

「ほんとほんと。普通さ、嫌いな人とかいてもさ、そこまで憎くならないよね。あたしもさ、殴ってやりたいやつとかいるけどさ」

「えー、だれだれ?」

「いやあそれは・・・」

 

 

・・・・・・・・・・・・・



 ・・・。

 いやあ、それは・・・。

 驚いたな。

 まさか、こんな風に伝わってるなんて。

 いや、伝わるというか、観察されているというか。いや、甘いか。監視網と言った方がいいかもしれない。

 おそろしい。全く気が抜けない。

 新宿地下通路のマックで、お昼の間にここまでの内容が暴露されている。

 僕が後ろにいることも知らずに、二人は席を立った。気がつかないまま、トレイを持って出ていく。

 ・・・はあ。

 参った。

 思った通り、完全に、黒井が誤解されて、悪役になっている。

 とりあえず、僕的に大変まずいところは暴かれていないようだったから良かったが、これじゃあ、タイムズスクエアの奥の広場でのこととかだって、誰に見られていてもおかしくはない。ま、あのときは僕たちが浅田さんと鷹野のことを見たわけだけど。

 はあ。黒井はどう思うだろう。

 もしかしたら、自分が悪役だってことなんか、少しも構わないかもしれない。

 事実と噂がどう違うか、何を勘違いしているかなんてどうでもよくて、「お前らうざい。馬鹿じゃない?」とか言うんだろう。あいつには、現状や事実じゃなくて、「うざったいと思ったから」っていう、気持ちがあるだけなんだろうから。

 まあ、僕はと言えば。

 当然、訂正したくて。

 その事実にそのレッテルを貼り、そことそこを繋ぐのかよ。そしてその論理でいっしょくたにして、乱暴だなあ、と。

 そして、こんな虚言を小一時間もかけて話し合って、それが何になるんだ、という、疑問。彼女らが黒井を好きで、告白しようとしていたとかなら、思いとどまるきっかけにもなったろうが、そうじゃなきゃ、お前らと僕たちの人生でどんな接点があるというんだよ。

 ないだろ。

 通りすがりの人の人生を根掘り葉掘り知ってみたって、それをどうするんだ。家族や結婚相手じゃないんだ。知ったって、役立てるあてもないだろう。

 黒井はともかく、僕のことなんか知ったって。

 だから僕は人のことも極力知りたくない。誰が誰と何しただの、誰が何をどうしただの、会社の半分はそんな話題で出来ている。相づちは打つけれども、拒否反応すら出る。僕の中身はもう僕でいっぱいで、よく知りもしない他人が入る余地なんかないんだ。みんな、何TBあるっていうんだ?

 黒井のことだって、本当は、情報なんて知りたくはない。面と向かってそこにいれば、それで。会話なんか、なくたって。

 ・・・今はもう、かなわないけど。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る