第21話:ケンカ騒動の余波

 その後いくつかお叱りか何かのお言葉をもらったが、もう何を言われたのかはよく分からなかった。ようやく支社長のところから解放され、自席に戻る。

 う・・・。

 みんなの視線が痛い。痛すぎる。

 もう、ビルが吹っ飛べばいいのに。

 そして。

「な、やっちゃったな?」

 黒井が横へ来て小声でささやき、肘で僕をつついた。いや、そういうのは廊下でふたりっきりになってからだろ!

「・・・やめろ、よ」

 思わず、乱暴に振り払った。

 みんな、見てるってば!

 あ・・・。

 今、もしかして、僕のほうがまずったか。喧嘩沙汰を、強調しちゃった?

 黒井はまた憮然として、短いため息を一つ。いわく、<ねこ、馬っ鹿じゃねーの?本当に悪いことなんかなんにもしてないのにさ、みんなの目なんか、気にすることないじゃん!!>

 うん、分かってる。心の声、聞こえてる。でも、出来ないんだ。僕は、みんなの前じゃ、うまく出来ないんだよ。

 後ろから、支社長の声。

「えー、はい。みなさん、仕事中申し訳ありません。少し聞いてもらえますか」

 みんなが視線を上げ、フロアの中央を注目する。僕も席に座って、うなだれてそちらに椅子を向ける。

「昨日の夜からね、残業のことで、いろいろとみなさんには、ご迷惑を掛けてます。その余波というかね、騒ぎの影響が、残念ながら、悪い形で出てしまった、ということがありました。これはね、別に、騒ぎの当事者となった個人個人がどう、という問題ではないと思います」

 そう言ってくれるのは有り難いけど、余計に、視線が突き刺さる。針のむしろとはこのことか。

「会社というのは組織です。人間の集まりです。どこかで問題が出れば、飛び火して、やがて炎上してしまう、これは誰が悪いとかいうんじゃなく、いわば自然現象なんですよね。残念ながらそもそもその下地があって、それで問題が起きた。こういうことです」

 下地というのはつまり、暗黙の了解で出された残業申請のことであり、今度は課長連中がうつむいていた。まあ、確かに僕だって、ノー残業デーが守られていれば、定時で黒井と仲良く帰るつもり、だったんだよそういえば!

「今、私たちは大変な時期です。こういう時期には、本当はあってはいけないんですが、こういう、これに限らず、問題が噴出するってことは、組織の原理としてあるんですね。うん。どういう形でそれが表面化するか、それは分からないですが、思わぬところから出てくる。それは私も経験してきました。それでね、こういうのは、本当に、きちんと迅速に動いて対処する。それしかないんです。どこから来るか分からないからね。だから、ええ、この残業という問題と、その根っこも踏まえてね、我々上の人間が、しっかり対策を立てて、話し合いたいと思っています。年明けを待たずにね」

 みんなの目が少し泳ぐ。なに、早速何か変わるわけ?と。

「総務と、情報管理の課長とも、社内コンプライアンスについて話し合いの場を持ってます。本社とも連携しながらね。というわけで、みなさんお仕事中申し訳ないが、今日、明日はなるべく早く帰るようにしてください。もうお得意様を回る日にちでもありませんから、焦らず社内で効率よく仕事して、ね。それで、年末ですが、30日、我が社は営業する予定でしたが、これはやめました。ですからつまり、明日、27日で年内の営業は終了します」

 今度は急に空気が変わり、みんな顔を上げて「うそ・・・やった」という表情。え、休み?あ、そう。別に、もう、どうでもいいけど。

「年明けからね、どういう運用で行くか、みなさんの意見も聞いて、よりよい方向で改善していけたらなと思ってます。でも別にね、残業が全くなくなるってわけじゃないですよ、仕事量は変わりませんからね?」

 一同、少し余裕を取り戻し、笑い。

「効率化できるところは徹底する、無駄を省く、無理をしない。こういう方向でね、検討していきたいと思ってます。ですからもう少し、みなさんにも協力していただければなと思ってます。と、いうわけでね、30日予定していた納会ですが、急遽、明日行うことになりました。みなさん宜しくお願いします」

 徐々に場が和む。そこここで会話や笑顔が出て、ようやく空気が戻った。ざわざわと私語が広がっていく。

「はい!そういうわけでね、今日は、今手持ちのものが片付いたら、早めに切り上げてくださいね。あと、年明けですけど。一日前倒し・・・ってことはなくて、ここは予定通りですから、安心してください、以上です!」

 一同笑い。あーよかった、そこ気になっちゃった、と、半時間ぶりに声を出して平穏を取り戻していく。と、とりあえず、終わった。



・・・・・・・・・・・・・・



 しかしまあ、その後も僕に対する好奇の視線が止むことはなく。

 唇の傷がそれを助長しているわけで。

 ああ、マスクをすればいい、と思ったけど、今更するのもいかにもすぎて、選択肢から外れた。

 もう、帰ってしまおうか。

 帰っても、帰らなくても、ひそひそと何か言われているのは同じなのだから。

 僕がここにいた方が、少なくともあからさまに詮索されないかな、という消極的な抑止力を使おうと思ったその時、道重課長から「お前も、今日は早く帰ってな」と、言われてしまった。

 フォローしてくれた、と、いうより。

 残業が原因で喧嘩した社員を、翌日も遅くまで残しているわけにいかないんだろう。さっきの今だし。

 いや、うん、・・・少し違う。

 さっきから感じていたが、僕はどうやら「いらぬ問題を起こして騒ぎを大きくした張本人」とは、思われていないようだ。それどころか、とばっちりを受けたかわいそうな被害者、だと思われている。

 「黒井さん」が、二面性のある、怖い人になって。

 僕はたまたま絡まれただけの、人畜無害な目立たない存在。

 そういう図式、だ。客観的に見れば、それ以外に理解しようがない。僕がわざわざ「黒井さん」と対立して、喧嘩までする理由などないのだから。

 ・・・黒井の方を、振り向けない。

 もし今、僕が小学生だったら。

 勇気を出して歩いていって、手を出して、「くろいくん、仲直りしたんだから、一緒に帰ろう」と言って、みんなも「良かったね、やまねくん、仲直りできたんだね」という雰囲気で、先生だって微笑みながらうなずいて、見守ってくれたかもしれない。多少ぎくしゃくしたって、あいつが笑って「うん!」と言ってくれれば、それで、良かったんだ。

 でも。

 言えない。

 言えなかった。

 追い込まれたあの時の「舞台」はもうなくて。劇の幕は開いていなくて。みんなの輪の中で、つまり僕にとってのアウェーで、そんな演技、出来そうもない。

 誤解を解くような、黒井が悪者にならなくて済むような、しかも言い訳じゃなく自然にそういう意味を持つようなどんな行為を、今僕が出来るだろう?

 何をしたって、怯えている僕と、二面性のある黒井、という像しか引き出せないんじゃないか。さっき僕が手を振り払ったのだって、そうなったわけで。仲直りを強調したくとも、僕がこの唇の傷とともに近づいたとして、何の説得力があるんだ。

 しかも、今黒井に近づいて、あいつが笑うのか、睨んでくるのか、それは僕にも分からないのだ。

 二人で吹き出すほど笑うなら、或いは勝ちかもしれない。

 和んだ雰囲気の中、ああ、喧嘩っていっても、別に大丈夫だったのね、と。本心の笑顔は百の言い訳にも勝る。お前のせいでおおごとになっちゃったじゃないか、よけろよな!すまん、俺が甘かったわ、いいのもらっちゃったからなー。いや、みんな笑ってるけどね、ホントに痛かったんだって!あはは!

 ・・・でも、黒井が睨んでいたらそれで終わりだし。

 黒井がまた真実の一端を口走って僕の笑いがひきつって、目をそらしてしまっても、脅されてるみたいじゃないか。何せ僕は、不良に睨まれた目立たない男子学生Aなのだから。

 ああ、馬鹿馬鹿しい。

 本当は、喧嘩なんかしてないし、殴られてもいないのに!

 心の中ではそう叫んでいたが、「じゃあ、何があったの?」と問われれば、やはり何も言えないのだ。そして、喧嘩して殴られましたと言ったのは、僕のこの口なのだ。この、嘘つき。でも。だって。

 キスしてたなんて、言えるわけない。

 ・・・。

 いや。

 本当は、違う。

 たぶん、黒井は、キスしたことを悪いことだと思ってない。だからあの時だって、隠さず言おうとしていた。別に、人生、そんな時もあるよね、くらいの。

 でも黒井と違って僕は、うん、お前が好きで、キスされてたんだよ。

 だから、その気持ちがあるから、言えない。

 行為だけなら、事実だけなら、それはそれ、かもしれない。

 でも、本心は。

 たとえば、僕が同性愛者なら、それでもいいんだ。もう、いい加減、そう思える。実はゲイなんです。だから男とキスしたいんです、って、そういう枠に入るなら、入っちゃえばいいと思う。

 でも、そうじゃない。

 男なんか好きじゃない。全然。

 僕はただ、黒井が好きなんだよ。それだけなんだ。

 ・・・それを、知られるわけに、いかない。

 うん。自己保身だ。

 理屈を並べても、変わらない。好きだから、キスしました。それが真実なんだから、誤解される余地もない。

 ああ、本心を知られて、黒井に拒絶されるのが怖いだけだ。

 それだけだ。それだけだったんだ。

 自分勝手。そのために、自分が傷つくのが嫌だからってだけで、黒井の立場がまずくなっていく。ビル管理の問題じゃないなら、総務課長に秘密の告白をするだけで済んだのかもしれない。さすがにみんなの前でそれを問いただしはしなかっただろう。暴力沙汰なんて匂わすから、こうなった。僕のせいだ。黒井が正しかったのかもしれない。

 こんなことになるなら、告白して玉砕した方がマシだったのか?

 いっそのこと、この後すぐ、玉砕してから、火消しに走ろうか?

 そんな勇気も、根性も、ないんだけど。


 そして。

 鞄を膝に乗せたまま固まっている僕の横を。

 支社長と総務課長と中山課長、そして、黒井が、順に通り過ぎていった。

 黒井は前を向いたまま、僕の方など、一瞥もくれない。

 みんなが、このニアミスを見るともなく見ていて。僕はたぶん強張った表情で、泣きそうにすら、映っているだろう。しょうがない。本当に泣きそうなんだから。

 僕はもう衝動的に立ち上がり、課長に一礼して歩き出した。

 お先に、の「お」の字も出てこない。

 黒井たちがフロアの一番奥の扉から、隣の執務室に入っていく。僕はそれと直角に、フロアの出口へ向かう。タイミングはこれ以上ないほど悪かったが、今更どうしようも出来ない。

 ああ、もしかして。

 勇気なんか、絞り出さなくたって。

 ・・・関係は、終わるのかもしれない。もう既に、終わっているのかも、しれない。

 無人の廊下で、僕は歯を食いしばって拳を握り締め、壁を強く叩いた。廊下に衝撃が響く。みんなに聞こえた?構うもんか。みんなのせいだ。全部全部、みんなのせいだ。


 ・・・本当は僕のせいだから、つらいだけ、なんだけど。

 ジェットコースターの、毎日。エレベーターで泣くのをこらえて、もうカシミアを巻くこともかなわない僕は、二日ぶりの帰途に着いた。

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