第20話:唇の傷

 夜が明けて。

 八時に起きて八時半に出発し、徒歩で会社へ向かうという豪儀な朝であった。 

 まるで朝帰り。いや、帰れないんだけど。

「そういやねこさ、その口、痛そう」

 東口から西口へと向かう朝の日差しの中で、唇の傷も、腹の内出血も、何だか遠い異世界の出来事の痕跡のようだった。あれは何だったのだろう、と、記憶と世界観がうまくつかめなくなる。

 これはお前が暗闇でキスしようとして、その歯で切れたんだよ、と、喉まで出掛かるのだが、口にすると魔法が解けるようで、やめた。うん、ちょっとね、などとごまかしているうちに、会社に着いた。今日は余裕のある出勤だ。

 ロビーに入るとツリーは撤去されていた。あっさりしたものだ。そのせいもあって、何だか景色が違って見える。

「ねえ、課長に謝りに行く?」

「ああ、そうだなあ。それがいいか」

 すっかり忘れていた。

 少し早めに着いた僕たちは総務課長の元へおそるおそる顔を出してみたが、不在だった。

 仕方ないので、お互い自分の席へと向かう。もう、ふたりの時間は終わり。クリスマスも終わり。言いたいことがどれだけあっても、「んじゃ」という以上の言葉はかけようもない。

 三課の連中が出社してきて、黒井に声を掛ける。ふつうの、一日が始まる。僕の机には、昨日佐山さんがくれたチョコ。もう遠い昔のようだ。

 何だかいたたまれなくなり、トイレに向かった。

 昨夜のことを思い出しつつも、フロアにトイレはそこしかないんだし、まあ、気恥ずかしくても行くしかないのだ。

「あ」

 洗面台に、僕の歯ブラシ。

 すっかり忘れていた。真っ暗だったせいで、黒井に貸した後は見えていなかったのだ。

 鏡には、唇を腫らして、目の下にはクマ、シャツはよれよれ、黒井のネクタイを着こなせないまま、の、僕。

 口が痛いのを我慢して歯を磨き、昨日の個室を一瞥してトイレを出る。

 あ、そういえば、キスの直前にふたりともちゃんと歯を磨いていたんだな、なんて。

 一人で少し笑ったが、でも、あそこであんなことがあったとは、もう、半ば自分でも信じられなかった。唇の傷があってもなお、何かの間違いのように思えた。



・・・・・・・・・・・・



 粗利計算書を開いてテンキーをたたきながら、電話をとって内線を回したり、プリンターでコピーをとったり、台車での備品搬送を手伝ったりしていると、午後になった。

 仕事が、楽しかった。

 電話も馬鹿みたいに愛想良くとったりして、佐山さんがびっくりしていた。社内外のいろんな人が、適度な距離感で僕と接し、さわやかな挨拶で別れていく。社内は昨日のノー残戦争のせいで少し浮き足立った雰囲気があったが、僕はそれ以上に浮かれていて、鼻歌でも歌いたいような午後だった。

 目に入るものがみな新鮮に見える。

 会社のみんなが味方に思えてくる。心が広くて余裕があると、こんなにも世界が愛おしい。人と話すのが、こんなに楽しいことだったなんて。上辺のお喋りも今なら大歓迎だ。え、西尾さん、あのあと彼氏が怒って喧嘩になっちゃったの?うそ、ひどくない?かわいそー。うちの会社ってそーゆーとこ、あるよね、ブラックとまでは言わないけどさ、まー今大変な時期ではあるけどねー。あ、あとお前、その口どうしたの・・・?あーこれ、まあ、ちょっとねー・・・。

 黒井とはほとんど顔を合わせなかった。特に用事もないし、彼とは友達なのだから、わざわざ目で追って監視するようなマネはもうしなくたっていいのだ。声が聞こえる度に聞き耳を立てたり、誰と喋ってるのかフロアの席表を見て確認したり、そんなことしなくたって、今日は大丈夫だった。こうして距離をとっていれば心は落ち着いて、きりきりとした恋心も顔を出さない。そうだ、僕はもう黒井とキスをしたような仲なのだから、会社では同僚としてさわやかに接して、またプライベートでデートとか、泊まりとか、すればいいじゃないか。あ、正月に、一緒に初詣とか、良くない?あは、誘う勇気はないけど。

 同じ課の鹿島さんにフローの相談をしたり、佐山さんに契約書の出力を頼んだりしていると、やがて日も落ちて、短い昼が終わった。まだ冬至を過ぎたばかりだ。

 定時になると派遣さんが帰り、社内はまた残業ムードに戻った。こう毎日だと、まるで合宿所みたいだと思った。まあ、今の僕には、いつもは毛嫌いするそんなイベントすら楽しいのだけど。

 そして、しばらくして。

 何となく、社内がざわついた。

 それから、フロアの一角が、逆に、しんとした。

 好奇心に負けて振り返ると、例の西尾嬢のところに、小野寺が訪れていたのだった。それは、周りは、聞き耳を立てて仕事の振りをするしかないというものだ。

 もちろんここまでは聞こえないが、どうやら、昨日の今日で、小野寺が西尾をフォローしにきたらしい。竹を割ったような男らしい小野寺だが、こんなときは女性らしい気遣いが出来る・・・というよりは、まあ、やるべきことだからやっている、という感じ?たぶん小野寺の頭には、離職率を下げるとか社内環境の向上とかメンタル面のフォローとか、そういう単語があるんじゃないだろうか。

 などとつらつらいらぬことを考えていると。

「おい、まさか、これ?」

 鹿島が少しにやついた顔で、自分のPCを指す。

「は?」

「いや、今きたやつ」

「へ?」

 どうやら、社内メールのことらしい。アウトルックを立ち上げると、支社総務課から、支社の全社員向けのメールが入っていた。

 タイトルは、<ビルのセキュリティについて>。

 ・・・ん?

<・・・昨夜、ノー残業デーであるにも関わらず、残業の上限を超えて社内に残っていた部署がありました。ビル管理の問題だけでなく、モラルと社内コンプライアンスの問題にも繋がります。年内も残り僅かとなってきましたが、今一度社員全員が気を引き締め、社内規範と労基法の遵守に努めましょう・・・>

 あとは、年末年始のビル閉館スケジュール、夜間のカードキーの扱いが云々、ビル管理の何とかが云々・・・。まあ、頭に入るはずもない。 

 え、何だろ・・・。

 凍りつく頭で思ったのは、西尾嬢のことじゃないの?ってことだったが、僕の目の焦点は、<モラル>という単語の上で固まってしまい、鹿島に返事などしている余裕もなかった。

 ・・・僕、なんか、まずっちゃった?



・・・・・・・・・・・



 背後で「黒井くん、ちょっと」という声がして、僕は背筋が凍った。この声は、まさか、支社長・・・。

 誰も口には出さなかったが、鹿島が暗に示したように、みんな、僕と黒井が昨日、フロア施錠後まで残っていたことは、感づいていたらしい。というか、もしかしたら、ふたりがいませんとかいって、探されていたりしたかもしれない。総務課長に会ったら小言いわれるかな、謝っておかなきゃな、くらいにしか思っていなかったのに。っていうか、支社長に呼び出されてるんですけど。

 ・・・僕は呼ばれなかった。

 背中に耳が生え、目が開眼するんじゃないかというくらい、意識を後ろに集中する。支社長席はフロアの真ん中で、僕は振り返らなければ見えないが、みんながそちらをチラチラと注目しているのがわかる。西尾嬢と小野寺、このメール、そして支社長の呼び出しとくれば、みんな、誰でもいいからこっそり目を合わせて「何だろね?」となるのは100%必至である。

 先ほどより、社内の喧噪が40%ほどダウンして、心持ち、シーンと静まり返っている。プリンターで大量出力されている誰かの資料だけが、一定のリズムを刻んでいた。

 そんな中で、黒井と、三課の中山課長が支社長に何事か言われている。当然、昨日の、あのことで。

 支社長が、少し、声を荒げる。

「だからって、殴っていいわけないだろう。ヘラヘラするな!」

 もう誰も、キーボードすら叩かない。まずいタイミングで空調もストップし、聞こえるのは本当にプリンターの音だけ。

 ・・・何だか。

 僕としては、ビルの施錠とセキュリティ管理の問題だと思っていた。それ以上の何があるというんだ?

 しかし、上司たちが気にしているのは、別にビルの管理の問題ではなくて、社内で暴力沙汰が起きたという、そこについてのようだった。

 もう、引く血の気もないほど、たぶん僕は青ざめている。黒井が殴った相手が僕であるということは、すでに周りのみんなが察していて、誰も僕の方を見ない。唇の傷が憎かった。黒井の馬鹿!

 そして。

 更に静かになる。誰かが小走りでこちらへ来る。

「ちょっと」

 その一言でうちの道重課長が立ち上がり、「おい」と僕に苦々しい視線をよこす。

 ・・・呼び出された。

 全員の注目が僕に集まる。

 本当に殴られていたとしても十分気まずい状況なのに、実際は・・・なんて、考えそうになっただけで身震いがする。

 え、もしかして、殴られたなんて言わない方が、良かった?

 でも、だからって、キスして抱き合ってましたとも、言えないでしょ?言えないよねえ??

 床がまるで薄氷のようで、踏みしめられないし、歩くのすらおぼつかない。支社長席までが、遠くて、近い。

 そこにはいつの間にか総務課長も来ていて、何やら支社長に耳打ちしている。昨日の状況を伝えているのだろう。

「はい。で?とにかく、大丈夫なの」

 支社長がとりあえず怪我を心配する。まあ、病院送りなんて事態だったら、会社的にもまずすぎるしね。

 とにかく僕は、何でもないんだという姿勢を貫くだけだ。それ以外の知恵は回りそうもない。

「は、はい、だいじょうぶです・・・」

 消え入りそうな声。昨日のハッタリはどこへやら、だ。総務課長も腑に落ちないという表情。

「ん、その口、切ったの?」

「いや、これは・・・その」

 口ごもる。カミソリ負けです、なんてわけ、ないし。

 そして。

「あ、あれは僕がやりました」

 明るい声で黒井が言った。

 な、何でそんな、あっけらかんとしてるんだ。空気読めよ!

 うん?っていうか、キスの時やったって、きっとあいつ思い当たったんだな。何だよ、照れるじゃないか。

 ・・・いやいやいや、今はそういう場合じゃないよ!

「あと、ぶつけてたんこぶも作りました。そんだけです」

「お前ね、会社の仲間を傷つけといて、その口の利き方はないだろう!」

「はあ。でもちゃんと謝ったし、あとから仲直りもしました!・・・な?」

 な?じゃないよ。「ハイ!僕たちもう仲良しでーす!」なんて雰囲気じゃないだろう。病院送りもやばいが、今更、ちょっとした喧嘩で残業さぼってトイレでぐだぐだ居残りしてました、では済まされないところまで話は大きくなってしまっているじゃないか。

 ・・・今。

 僕がいったい、どういう態度を見せれば最も被害が少ないんだ?

 ・・・分からない。

 土壇場で窮鼠猫を噛むことは出来るが、こうして衆人環視の中、上の思惑や、今もじっと成り行きを見守っているみんなへ与える印象や、支社と総務と小野寺との残業をめぐる対立なんかを勘案すると、一番スマートな答えなんか出ない。

 結局、僕はうつむいて顔を伏せたまま「はあ・・・」としか、言えなかった。

「何だよ、ちゃんと仲直りしただろ?」

 黒井が少しイラついている。お、おい。やめてくれよ。仲直り、したけどさ、ここはもう、スルーしてくれよ!僕は大人数に囲まれると、弱いんだ。お前みたいに、出来ないんだよ。

「何だ、どうなんだ、山根?和解してないのか?」

「い、いえ、だいじょうぶです・・・」

「本当だな?」

「本当ですって。わだかまりとか、ありませんから」

「お前は黙ってろ」

 口を挟んだ黒井が、たしなめられて不機嫌になる。「・・・ンだよ」と小さく舌打ち。

 あ。

 今、支社長たちがそれを見て、おいおい、こいつ反抗的だな、と感じた、ことを僕は感じた。違う、きっと今の舌打ちは、僕に対してだ。支社長、違うんですよ。黒井はあなたに歯向かってるわけじゃありません。僕にイラついてるだけです。分かってくださいよ!

 ごめん、どんどんお前が悪者になってく。黒井、ごめん。

「あ、あの・・・僕、黒井くんとは本当にその、・・・とにかく、今回のことは、ご迷惑をおかけして、申し訳ありませんでした。黒井くんも、すみませんでした・・・」

 僕は誰の目も見れないままただ頭を下げた。もう、謝るしかない。何だか知らないけど、誰のためか分かんないけど、頭を下げますから、通りすぎてくださいこの嵐!

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