第19話:マンガ喫茶の夜

「寒い」

「さーむいっ」

「マジ寒い」

「ここで寝たら死ぬ?」

「死ぬ」

「じゃどこで寝る?」

「え?」

「もう帰るのめんどくさい。また朝、寝坊するかもだし、っていうか、あと何時間でまたここ来んの?」

「ええと、まあ、約九時間?」

「もういいよ。ここで寝よ」

「死ぬのか?」

「死ぬ」

 その辺をうろうろしていた黒井が、突然ひゃーーっ!とおかしな奇声を上げて僕に飛びかかってきた。そうやって正面から近づかれると、距離が縮まるのがスローモーションで見えて、カウントダウンされて、ああ、抱きつかれる衝撃。清水の舞台から後ろ向きに飛びそうだから、や、やめて。

「寒い寒い寒いさむい!」

 そう言うと、僕のスーツの上着の中に手を突っ込んでくる。

「や、やめ」

「うっしゃ!」

「おま・・・!」

 全力で止めるが、もう遅い。僕のシャツをズボンから引っ張りだして、その氷のように冷たい手を、僕の、背中に!

「ぎやあーーーーっ!!」

「あったけ」

「ゆ、許さん・・・!」

 逃げる黒井を追いかけ、全力ダッシュ。静かになったオフィスビル街に似つかわしくない叫び声。

「待てコラ!黒犬!」

「わんわん!」

 ビルの敷地内の植え込みにじりじり追いつめていく。れっつ黒犬はんてぃんぐ。

「何されるかは分かってるな?」

「くっ、貞操は死守するっ!」

 正面突破か。

 植え込みを飛び越える。

 ああ、綺麗に飛ぶんだなあ。

 って、手を出したら突っ込んで盛大にコケるだろ。仕方ないなあ。

「足!膝いってぇ!」

「ざまみろ」

 今のうちに前から回り込んで、逃げ道をふさぐ。

「まあ、おとなしく、されてしまいなさいよ」

「くぅ、ここまでか・・・」

「くらえっ!」

 体を押さえ込んで、シャツをズボンから引っ張り出す。うう、自分からつかむなんて、ああ、シャツの中に、手を、突っ込んじゃうよ。そんで・・・触ってる、感触が・・・もう、こっちはすごいハンデ負ってるんだからな!

 しかし。

「・・・ふっふっふ。かかったな愚かな山猫め」

「お、お前っ・・・!」

 ああ。

 僕の手が、もうすっかり温まってしまっていて。敵にダメージが与えられない。いや、そんな、素肌の、背中だの、脇腹だの、触っちゃって、ダメージ食らうのは、僕の方なんだが。

 背骨とか。意外としっとりしてる皮膚とか。筋肉とか。

 どきどき、しちゃうだろ。

「おのれ謀ったな」

「ふふん、全然大丈夫だもんねー」

「そうか、それなら」

「あっ、やめ!卑怯者っ!あひゃっ!」

 脇の下をくすぐったら、身をよじって逃げた。ちょっと面白い。

「お返しだっ!」

 黒井が僕の脇や腹に手を入れるが、うん、実は、残念ながら通じないんだ。

「あれ、何で?・・・くすぐったくないの?」

「まあ、俺の唯一の、特技?」

「え、これでも?ほんとに?」

 身体測定よろしく腕を持ち上げられ、脇の下をこしょこしょとされるが、まあ、ざわざわするくらいだ。元々鈍いのか知らないが、あまりくすぐりが効かない体で、同級生に面白がられてやられているうちに、更に平気になってしまった。大人になってから、こんなことが何かの役に立つとは思わなかったけど。

「え、なんで?」

「知らないよ。何か、体質」

「えーずるい。俺の負け?」

「お前だって、死ぬほど冷たい目に遭わなかったんだから、あいこだろ?」

「ま、ね」

 微笑んだ黒井から、休戦の握手。

 しかし僕は、握らないまま。

 ・・・やっぱり、謝らなきゃ。

「クロ、さっきは、ごめん。あと、ありがとう」

 黒井は手を引っ込めることもなく、僕をじっと見ている。無言で、「何が?」と。

「俺の話に合わせてくれただろ。お前きっとああいうやり方嫌がるって思ったけど、俺、突っ走っちゃったから」

「ああ・・・」

「本気で、怒った?」

「だって俺、別に、隠すことなんて」

 ・・・やっぱり、ね。本当危ないなあもう。

「でも、お前・・・怖かった、よ。結構」

「あはは。本当に殴るとこだった」

 本気かよ・・・。別の感じで、腹が透けるよ。

「でもさ、よく分かんないけど、ねこが本気だって分かったから。じゃ、いいやって思って。だって、それって、俺のためでしょ?」

 いや、まあ、自己保身だけど。まったく俺様なんだから。

「だから、いいよ」

「うん。・・・ありがと。じゃあ、その、仲直り、してくれる?」

 恥ずかしい、セリフだな。

 でも、僕は思ったんだ。

 僕は、この目の前の男に、片想いなんかしちゃってたりしてて。

 しかも、キスなんかされて、それでもこいつは何とも思ってなくて、だから恋人にはなれないんだけど。

 でも、友達には、なれるじゃん?

 俺、お前の友達になりたいよ。喧嘩したり、仲直りしたり。キスは、その、たまには?

「別に俺、喧嘩したなんて思ってないけど。でも、お前がしたいならするよ」

 僕が握手の手を差し出す前に、勝手につかまれる。そしていつものように強く握って、ぶんぶん振り回す。

 もう、強引なんだから。

「前も言ったけど、俺、勝手だからさ。お前もそうしてくれると、嬉しいんだ。変な遠慮とかなしでさ。何か、信頼されてる、みたいな?」

 黒井は、えへへ、よく分かんない、と珍しく照れた。

「なに照れてんだよ」

「うっさい!」

 このやろ、と肩をつかんで揺らしてやる。

 黒井は笑って、僕の肩に頭を預けてもたれかかる。

 こっちだって、照れるだろ。


 とりあえず、これで、同期から友人、そして、友達に、なったり、してみたのだ!



・・・・・・・・・・・・



「ん」

「あい」

 ・・・。

 お互いマンガから目を離しもしない。黒井がムラのあるスピードで読み終わったものを、僕が受け取って読んでいる。


 結局、新宿の漫画喫茶に泊まったのだった。

 夜中の漫画喫茶には寝息といびきが響いて、避難所のような、4等船室のような、よそよそしい連帯感があった。

 僕はあくまで羽目を外しているサラリーマンを装い、「マジで?」「やべー」などを連発しながら、ペアシートのナイトパックを指定した。ペアシートの名称が「カップルシート」と書かれていて死ぬほど恥ずかしかったし、それを見て黒井が「俺たちラブラブだねえ?」などと言うもんだから、まあ店員は「うぜえなあ」くらいに流してくれただろうが、僕は気が気じゃなかった。ねえねえ面倒くさそうな店員さん、僕たちさっき、会社のトイレでキスしてきたんですよ。なんて・・・ドン引きだよね。

 コンビニで買ってきたサンドイッチを食べ、ドリンクバーの飲み物を片っ端から試しながら、二畳あるかないかくらいのスペースでマンガを読む。

 僕は、もう眠いのか眠くないのか、体が麻痺してきてしまった。

 ドリンクバーに行く途中、「シャワー300円」の文字。

 もう遥か昔のことのようだが、家で風呂に入ったのは、丸二日前だ。こんなところで入るのも気持ち悪いが、背に腹は代えられない。

「クロ、俺、ちょっとシャワー浴びてくるから」

「ん・・・」

 全然聞いていない。集中すると周りが見えなくなるのだろう。彼は今エジプトにて宿敵ディオを追っているのだ。

 

 更衣室はまあまあ清潔だったが、少しぬるりとする床とか、前の客の髪の毛とか、色々なものは見ないようにして、熱い湯を浴びた。

 この二日で、どれだけのことがあっただろう。

 急性アルコール中毒まがいのことになったようだし。

 人生で初めて、男とキス、したし。

 喧嘩の真似事をして怒鳴ったりもした。

 そして、ふと見れば、腹に赤い内出血の痕。

 ああ、満員電車でついた、黒井のバックルの、あと。何だか、いやらしいな・・・。変な興奮が身体を駆け巡った。

 二人の身体はこれ以上ないほど密着して、苦しくて、息が出来ない。そして、黒井の、硬いものが当たって、俺の下腹部に、挿し込まれて・・・。

 ああ、もしかして、黒井の腹にも、同じ痕があったりなんか、する、かも。

 あいつのにも僕のそれが、きりきりと刺さって、ああ、あの時の、冷たいドアに押し付けられた、圧迫感。ふたりでその痛みに耐えながら、息を詰めて、ただ無言で・・・。

 ・・・。

 だめだ、だめだ。記憶と感触と妄想がごっちゃになっている。膨張してくる下半身は無視して、さっさと頭を洗おうとしたが、たんこぶが痛くてあまり洗えなかった。

 そして。

 顔を洗ったのがこれまた痛かった。

 下唇が、切れている。これって・・・。

 一日で、あいつに、三つも傷つけられ、ちゃったよ。


 体を拭いて、更衣室の鏡を見ると、唇は痛々しく腫れかかっていた。

 さっき食べたサンドイッチのパンの赤いのは、トマトじゃなくて、血だったんだ。

 これってやっぱり、黒井にキスされたときに、歯が当たったんだろう。その後のドタバタですっかり忘れていたし、痛みも感じていなかった。

 ああ、もしかして。

 これを見た課長は、本当に僕が殴られたと思っただろう。

 本当は、全然違うんだけど。

 それでも、首筋にキスマークがついていたりするよりは、断然良かった。いや、まあ、そんな事態には、なる、うん、予定はないんだけど。


 席に戻ると黒井は丸くなって眠っていた。横に外したベルトが置いてあり、ズボンもシャツもボタン全開で、もう目のやり場がない。

 腹の傷を確かめてみたいが、この状況で覗き込むわけにも、いかないし。

 黒井なら、「見せてよ」ってあっけらかんと言うだけなんだろうけど。僕から言って、「やめてよ、そういうの」とか言われたら、もう撃沈するじゃん。ずるいよ。

 ふう。

 暖房の効きすぎで寒くもないが、僕の上着を掛けてやった。

 二回も黒井の家に泊まったのに、こうしてふつうに眠る姿を見るのは、初めてだ。

 僕もあと四時間あまりの睡眠をとるべく、壁の角にもたれて座ったまま目を閉じた。今は、こいつが隣で安心して眠っている、という事実を噛みしめて、浅い眠りについた。

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