第18話:したいこと、してるだけ
トイレの床に座って、頭を抱える僕。
その前にしゃがみこみ、膝を立ててその胸に僕を抱え込む黒井。
「ごめんね」
「・・・うん」
子どものように、頭をなでられる。
黒井の、匂い。
甘えて、しまおうか。
「いたかったよ」
震える涙声。本当に、星が出るほど痛かったんだ。
「ねえ、何でおまえって、そうなの?」
普通、こんな関係、おかしいでしょ。好きじゃなきゃ、しないんだよ。分かんない?
どんなに抱かれたって、なでられたって、お前には何も届いてないし、お前は何とも思ってない、って現実を、また、突きつけられて。
「い、いたいよぅ・・・」
嗚咽。
ついに、泣いてしまった。
だって。
本当に、痛いんだもん。
「おまえの、せいだよ・・・」
そして、後頭部を支えられたまま、唇に何かがぶつかって。
「いっ・・・」
何だか分からないうちに。
たぶん今、柔らかくて、温かいものが、重なった。
吐息。
え・・・。
何だこれ。もう、お前本当になんにもわかってない。
届かないままこんなことされたって、だめなのに。
気持ちよすぎるから、もっと、だめなのに。
会社のトイレでキス、とか、しちゃったじゃん。
ねえ、お前にとって、おれって、なんなの・・・?
・・・・・・・・・・・・・・・
その時。
足音がして。
「うわっ、暗いじゃん」
「あー、もう消える時間っすねー」
たぶん、もし明かりがついていれば、丸見えの位置。
僕たちは一番奥の床の上で、キスしていて。見えていないだけの、ありえない光景。
息を殺す。嗚咽が。しゃくりあげそう。
「・・・っ」
漏れた。
「えっ。びっくりした、そっち誰かいんの?」
「見えねー。何、何か音しましたよね」
ポケットから、白く光る四角が。
黒井が素早く立ち上がり、僕の手を引いて個室へ逃げ込んだ。
「あ、やっぱ誰かいる?」
「えーと、ライト、これだ」
静かに、個室の扉を閉じる。間一髪。
「やべ、入ってた」
「こんな時間に?」
小声で、すんませーん、の声。やがて、二人分の小便の音。
小学生なら扉を叩きに来ただろう。だが、会社ではどこの上司が入っているかも分からないから、向こうも絶対不審に思っているはずだが手出しは出来ない。
はあ。しかしこれからどうすんだ・・・。
そして、二人が手を洗う音。足音。廊下へ出る。
まだ入ってるよ、やばくない?の声。
黒井が突然動き、手探りでトイレの水を流す。その音にまぎれて、「ここにいろ」と。
扉を開け、ふああ、とあくびしながら手を洗う音。
廊下に出る。
「あ、何、今の黒井くんだったの?うっそ」
「黒井さん、な、何やってんすか?」
「いや、お腹痛くなっちゃって」
「え、だいじょぶ?」
「あ、やっぱだめかも。もっかい行って来ます」
「ええ!?お、お大事に・・・」
声が遠ざかる。
何食ったんすかねあの人・・・。
面白いね黒井くんって・・・。
・・・。
黒井が早足で個室に戻ってきて、ガチャリと鍵をかけた。
そして、やっぱり。
僕を、きつく抱きしめる。まるで見えてるみたいに、まっすぐ。
いつまでだって抱かれていたいのに、いつか離れちゃうんだから、余計つらいのに。
「ドキドキしてる?」
お互いの、鼓動が。
「・・・してるよ。だって人、来るなんて」
「昨日、出来なかったから」
「なにが?」
「・・・キス」
「え・・・」
ああ。
そうか。
思い出した。
キスしよって言われて。
しらふじゃ出来ないと思って。
一気に、あおったのか。
「何で・・・」
僕とキス、したいの?
「俺、何でとかないよ。それだけなんだ。したいこと、してるだけ・・・」
さっきも、言ってたか。
だって、したいことすればいいだけだろ?なあ?
それで、したくなったら。
僕とでも、セックス、する?
「かえろっか、うち」
「・・・うん」
責任、取ってよね。
泣き顔で、会社のトイレから、乱れた背広で出て行かなきゃいけない、責任。
・・・・・・・・・・・・・・・
あの時。
先に黒井がトイレを出て、外の様子を見に行った。帰ってこないので、僕もそろそろと廊下に顔を出した。しかし、そこを、支社の総務課長に見つかった。
「おい、まだ残ってたのか?外出たか?」
「え、いや、まだ・・・」
「何やってんだ。施錠されてんだぞ。お前・・・あん?何かあったんか」
「あ、や・・・」
「ん?おい!お前もか!お前ら二人だったのか、出てないのは」
「あ、あのー!何か入れなくて」
「施錠済みなんだよ、何やってたんだ馬鹿。ちょっとこっち来い!」
そして、オフィスに入れず荷物は取れないまま、業務用エレベーターに乗る。裏口から夜間窓口で名前を書き、ビルの外に出されて。
元々コートは着てきていないわけだが、とにかく寒かった。
「どういうことか、ちょっと説明して。な、黒井?」
「え、あ、何か・・・」
「トイレで何やってた?」
「あ、それは・・・山根と、ちょっと・・・」
黒井はちょっと迷うと、何か言いかけた。
その時。
僕の中のものすごくまずいセンサーが緊急警報を告げた。今、黒井は確かに「ま、いいよねえ?」という表情をしたのだ。
こいつ、そのまんま言う気だ!!!
「あの、殴られただけです!大丈夫です。迷惑かけてすんませんでした!!!」
頭を下げる。僕が殴ったと言っても説得力は皆無なのだから。
しかし言ってから、別に、殴る必要はないか、と思い当たる。僕は頭のたんこぶが今もずきずきするけれども、そんなのは見えないんだし。傍目には、僕は泣きべそかいてるだけで、外傷はないのだ。
だから、口論してました、くらいだって十分だったのかもしれない。でも、ごめん、もう遅かった。
「おい・・・」
僕が顔を上げると、黒井が嫌悪感に満ちた目でこちらを睨んでいた。
嘘が、言い訳が、嫌いなのだろう。
いや、違うか。
自分がこれくらいはいいだろう、と思ってするその奔放な行為を、他人から「それはナイよ」とたしなめられるのが大嫌いなのだ。たぶん坂本の時だって、根は一緒で。やられた本人から直接イヤだと言われれば素直に聞くが、他人の物差しや世間の常識では、黒井は納得しない。
でも、社会ではそれじゃ、だめなんだ。
嘘で上等、切り捨てて逃げなきゃ。
「おいおい、どうしてそういうことに・・・」
課長が眉をひそめる。
はあ、まあちょっと、などと言い始めては、追求の余地を与えてしまう。もうこれ以上言いようがないくらい簡潔な事実を与えて、逃げるが勝ちだ!
「さっきの残業の騒ぎで、黒井が女の子のこと悪く言ったんで、腹が立って僕が絡んだんです。それで喧嘩になっただけです。ついカッとなって、時間を忘れてました。ご迷惑をおかけして、申し訳ありませんでした!」
ノー残戦争は総務課長にとっても頭の痛い問題なはずで、それが遠因となれば、引け目も感じるだろう、という魂胆。
寒空の下、震える声でもう一度更に深く頭を下げる。ここまですれば、あとは「以後気をつけろ」以外の何が言えるだろう?高校時代に、不良のクラスメイトから学んだ技だ。
案の定課長は口ごもり、「・・・で?怪我はないのか」と訊くにとどめた。
その時、黒井が僕の胸ぐらをつかむ勢いで突っかかってきて、「お前なあ!」と、聞いたことのない低い声で凄んだ。
本当はものすごく怖いが、ここは舞台の上だ。配役が決まれば、劇は進行する。本物の怯え方じゃなきゃ、真実は隠せない!
「やめろよ!さっき謝って、もういいって言っただろ!?蒸し返すなよ。殴って納得したんだろ?」
「何だと?俺は・・・」
「課長すいません。話は済んでるんですよ。もう、大丈夫です。明日からちゃんとやりますから」
「まあ落ちつけって、な。ったく、血の気が多いよ。仲良くしろとは言わないが、もうそういうのはナシにしてくれ。いいな?」
「はい」
黒井は憮然として、再度頭を下げる僕を睨み続ける。
「黒井も、いいな?」
「・・・はい」
ほんの1%も納得していない声。それでも、僕の劇を続けてくれた。
僕だって、クリスマスの天使の前でなら本当のことを告白するさ。でも、うちの総務課長に言ったところで、いや、言うなんて選択肢はそもそもないんだよ!
「じゃ、もう帰れ。お前ら、財布持ってるか?家まで帰れるな?」
確かめもせず「はい」を連発する。早く解放してくれ!
「ったくもう。いい加減にしてくれよ?俺だって今日中に帰りたいよまったく。これ以上問題起こさず帰れよ、いいな?」
「はい、ありがとうございました!」
腰を折ったまま見送る姿勢。あんたが見えなくなるまで、何が何でもこのままでいるぞという気迫が、伝わって、ねえ、早く立ち去ってほしいんだよ。
ようやく、「わかったわかった。ったく、対処は明日だ。風邪引くなよ?」と、背中を向けてくれた。いや、本当に、遅くまでご迷惑をおかけしましたね。すんません。
・・・一分もそうしていただろうか。
僕はようやく頭を上げる。
しーんとしている。
はあ、終わった。
黒井は、当然、怒ってる、よな?
こわごわそちらを向くと、案外そうでもなかった。
寒さのせいか、腕組みをして猫背になり、ひゅー、と口笛。
「ねこ、言うときは言うんだな。びっくりした」
はあ。
びっくりした方に気持ちが切り替わったらしい。犬のくせに、猫の目みたいだ。
「こういうときは、こちらから分かりやすいストーリーを述べて、大げさに謝り、絶対の意志を持って速やかにお帰りいただく。これがコツだ」
「へえー。感心した」
「そう。そりゃ良かったよ」
寒いのに冷や汗がどっと出る。黒井のおかげで、人生がバイオレンスとスリリングに満ちていく。まあ、楽しい、かな?
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