2章:ノー残戦争からの、キスとケンカとアリジゴク
(残業をめぐる社内トラブルで、変な立ち位置になってしまう)
第17話:ノー残戦争と暗闇の歯磨き
つまり、こういうことらしい。
西尾という子が、僕たちと同様京王線だったのか、遅刻したらしい。それで、同じく勝手に残業申請は受理されていて、今日は全員で残業、という空気になっていた。
それを、午後まで知らなかったらしく。
そして、彼氏持ちだったわけで。
このノー残業デーを当てにして、約束を入れていたようだ。何だかいうレストランのクリスマスディナー。
当然、ショックだったろう。予約していたのだろうし、もう明日にずらすわけにもいかない。それを知った時点で「私今日は予定がありますので、絶対残業できません!」と課長に切り出せるような子なら、もちろんこんな事態にはなっていない。とにかく残業分を減らすべく必死に仕事に励み、まあ、最低限だけは何とか19時前に終えて、目立たないよう帰ろうとしたらしい。周りの女の子たちにだけは事情を告げて、フォローを頼んで。
しかし。
彼女が帰った直後、ミスが発覚して、明日の朝イチで必要な書類を全部直すことになった。担当は彼女だが、他に分かるのが新井という後輩で。周りの女の子たちが何とか彼にやってもらうよう頼んだのだが、新井も勝手が分からず、余計なミスを連発。やがて事情を知って、「おい、デートのために残業サボった女の尻拭いかよ」という愚痴になって男子連中に広まってしまった。
それを更に誰かがラインだかで流して西尾嬢本人に伝わり、真面目な彼女は急いで帰ってきてしまった。自分のミスと過ぎていく約束との板挟みで焦燥しているのを見て、女子たちがフォローに入り、男子対女子戦争が始まったわけだ。みんな、僕より三つも四つも若い。
まあ、ここまでは、ギスギスしたとはいえ、ちょっとしたすれ違いと言える。
しかし、ここで隣の情報管理の女性課長が登場したわけだ。小野寺というのだが、廊下でここぞとばかりに憤慨する女子連中の話をたまたま聞いてしまったらしい。
残業申請が勝手に出されていたこと。しかもそれがノー残業デーである今日だったこと。クリスマスだったことは、まあ小野寺にとってはついでにすぎない(彼女は未婚である)。小野寺は「社内コンプライアンス遵守」の鬼として有名な課長なのだ。
小野寺は、西尾一人の問題ではないと、西尾の属する二課の課長を相手に乗り込んできた。残業申請の権限は各課長にあるからだ。
「峰さんね、私はだから、そういう問題じゃないって申し上げてるんですよ。本人が申請ボタンを押したのは、画面に出ていたからでしょう。自分から自主的に出していないものがあって、いったん出されたら申請を取り下げるのにも許可がいるわけですよ。そういう空気じゃなかったんじゃありませんか?」
「いやいや、まあ、彼女は遅れてきたから、事情がちょっとね、伝えきれてなかった面はありますがね」
「事情の問題じゃありませんよ。そもそも本人以外が申請を出すこと自体がおかしいし、問題なんです。それもノー残業デーですよ。社内規範の意味がないじゃないですか」
「でもそれを言ってしまうんならね、こりゃシステム的な問題でしょう。だってこっちで申請できるんだから。そもそもそれだって、残業するのにわざわざ申請画面をイチから入力しなきゃ出来ないってんで、そんな暇があればさっさと終わらせて帰るわいって、そんで組み直したわけでしょう。ノー残だからって残業禁止する訳じゃないんだから。私らだって受けますよ」
「え。そういう話じゃないって分かりません?その、西尾さんがね、今日は用事があるってことを、言い出せなかったわけでしょう。システムがどうとかじゃなくて、見る人が見れば、ハラスメントになりかねませんよ?」
「いや、それは小野寺さんね、あなたがわざわざコトを大きくしてるんでしょう」
・・・。
いつの間にか二人の課長を遠巻きに野次馬が囲んでいる。かわいそうなのは西尾嬢で、話がここまで大きくなって今更帰るわけにもいかないが、誰あろう彼女を帰すための攻防でもあるわけで、しかし何かを切り出すタイミングはしばらく訪れそうもない。
小野寺は味方にすると相当頼もしいが、敵に回すと相当面倒くさい。女性特有の潔癖症的な理論武装と、上にも下にも男にも女にも、一貫してなびかない態度。自らに非があればすぐに認めて改善し、つけ入られる隙を作らない。この人に比べれば男性陣のほうがよっぽど女々しくて、仲間で群れて感情的ななあなあを優先したがるところがある。小野寺は孤高だ。
潔いとは思う。嫌っている人は多いが、僕は好感を持っていた。自分が矢面に立つのは絶対にごめんだけど。
「ノー残って社内規範なのかよ」
「それをいうなら、ノー残で女だけ帰っていいってのが、逆セクハラじゃね?」
同期が野次馬に加わる。何だかんだいってるが、まあ、高見の見物で楽しんでいるのだ。
「え、あの子、何ていうんだっけ」
僕に話が振られる。
「え、西尾さんとかって?」
「あれで彼氏いんの」
「お前なあ、さすがに失礼だろ」
「いや、まあ、あれだろ?女子のさ、変な嫉妬がいけないんじゃないの?何つーの、味方してるけど、内心複雑なんじゃね?オニ寺さんも、ねえ」
鬼の小野寺。
「おーこわ」
「見ろよ、望月とか、課長たちに挟まれてちょーかわいそー」
「ホントだ、あれきっついよ。残業できてねーよ」
しばらくこの状況をネタに談笑する。
「え、何?」
後ろから野次馬がまた一人。
「お、黒井さん」
心臓が跳ね上がり、緊張してしまう。べ、別に、普通にしてればいいんだ。
「や、それが・・・」
同期たちが適当に説明する。僕は口を挟むこともなく、何となく突っ立っていた。普段ならこの辺でもういいやと切り上げるところだが、黒井がいるから、用もなく輪に混じっている。
「は?無視して行っちゃえば良かったのに」
黒井は馬鹿馬鹿しいとばかりに切って捨てた。社内規範に興味はないらしい。
「ま、確かに。帰ってきちゃったから、更にややこしくなったわけだし」
「んー、ディナーはもう流れたね。夜景の見えるレストランってヤツ?」
「もう今夜は全部お流れでしょ。こうなっちゃったら」
そこで、黒井が一言。
「別に、今すぐ帰ってセックスすればいいだけじゃん」
同期が吹き出して、「うわ、さすが黒井さん」と黒井を見ずに呟く。僕だってびっくりする。場が凍りつかないよう、同期は本能的にフォローに走る。
「いや、ストレートだね。さすが帰国子女は違うね」
「ま、でも、ぶっちゃけ、そういうことっすよね。はは」
僕はなぜか冷や冷やしてしまい、一言も喋れない。え、帰国子女?
「だって、したいことすればいいだけだろ?なあ?」
そして黒井は、明らかに僕に向けて同意を求めた。
「え、あ・・・」
何て言っていいんだ。
しかしそこで僕はふと、同期たちの視線を敏感に感じ取った。
彼らは、黒井が僕に話しかけるのを意外に思っているし、そして、明らかに僕に対し、苦笑いで同情していた。
黒井さん、こーいう話題、山根に振ってもかわいそうでしょ。
ほら、困ってるじゃないすか。きっついなあ。
顔に、書いてある。
だから僕は、わざと、別に言わなくてもいい本音を言ってみる。
「でも、そういうディナーの雰囲気からの移行でさ、セックスが盛り上がるだろ?」
一瞬固まる同期の二人。ふん、ざまあみろ。ま、そんな経験はないんだけど。
「そう?そうかな。出来ればよくない?」
「お前は女の子の気持ち分かってないよ」
「うん。だって、泣いたり怒ったりうざいんだもん」
同期たちは場のバランスを取り戻すべく、取りあえず黒井の発言をはやしたてる。僕は何だか満足して、ダンボールを抱えなおし、席へと戻った。
・・・・・・・・・・・・・・・・
名づけてノー残戦争も、今日のところは終息したようだった。
結局、西尾が泣き出して「女の子の涙」という伝家の宝刀を抜き、これには二課長もたじたじだった。大人になっても、自分のせいじゃなくても、女の子が泣いている光景というのはきつい。とにもかくにも西尾は帰され、課長たちはやれやれという顔で逃げるようにどこかへ消えた。クリスマスくらいみんな、ルールも粗利も忘れて仲良くすればいいのに。
・・・これ、終わんないよ。
僕は、仕事の残りを見つめる。見つめてもなくならないけど。
みんな、残業について、ノー残業デーについて、そして今日がクリスマスであることについて、各自何かしら言いたいことがあり、そういうものが無言のうちに空気になってフロア全体に滞留していた。そしてもちろん、きっと全員、仕事が手につかなくなっている。
一度席を立ち、トイレに向かう。
どこかで気持ちを切り替えないと。
わざとゆっくりと歩き、肩を伸ばしながら廊下へと向かった。
帰国子女、だそうだ。
そして、あの奔放な言動とスキンシップ。どこまでがあちら仕込みなのか分からないが、帰国子女というレッテルを貼ってしまえば、色々とうなずけるところもあった。
それなら、軽いキスくらい、恋愛対象どころか、ただの挨拶程度のことなのかもしれない。だとしたら、それで白い目で見られたり、「そっちの気」とまで言われては、傷つくというより呆れて怒りたくもなるだろう。
いや、まあ、同期の発した一言で分かった気になっちゃいけないけど。なぜなら、こういう細切れの情報は、事実ではあるが真実とはほど遠いことがよくあるからだ。単語だけが一人歩きして、勝手なイメージを作ってしまう。
ふう。
小便を済ませ、洗面台で自分の目の下のクマを見ていると、ふ、と電気が消えた。
廊下も、トイレも、たとえ人がいたって、フロアより先に消灯するのだ。
何となく暗闇で立ち尽くした。目が慣れなくて、真っ暗だ。
ポケットから持参した携帯歯ブラシを出して、手探りで歯磨き粉をつける。気分を変えたいときはこれが一番だから、デスクに常備しているのだった。それに、ここで磨いて帰れば家でバタンキュー出来るし。
シャカシャカシャカ・・・
暗闇に音が響く。何だか面白い。こうして暗闇に溶けて、僕のことなんか誰も見えなくなればいいのに。真実じゃないレッテルを貼りまくって満足する世界なんて、くそ食らえ。僕にいらん属性をくっつけるな。分かったような顔しやがって。そういう価値観をやめろってんだ。取り繕うのをやめて、本音で話してみろ。暗闇の中で、何も見えなくて、その中で話すその言葉に、お前らはどんな真実を乗せられるっていうんだ。暗闇に、降りてきてみろ!
・・・。
まあ、寂しいだけなんだろうけど。
うん。
黒井も同じ気持ちかもしれないな。
もしかしたら僕たち、似てるのかも。
上辺の付き合いが嫌いで。自分をさらけ出したくって。感情をぶちまけたくって。
黒井は空気をうまく読むことも出来るが、抑えることが出来なくなって。
僕は抑えられるけれども、うまく逃げているだけで。
そんなだから二人とも、キスし・・・
・・・。
・・・?
・・・??
歯を磨く手が止まり、静寂。
キス?
キス、して、とか。
言わなかったか昨日俺???
あれ、何だこの記憶。
流しに吐き出して、口で息を吸い込む。
何だっけ?
確かに言った。キスして、と。僕が、黒井に、言った。
した、の?
したの?しちゃったの?
・・・覚えてない。
何、告白しちゃったってこと?
昨日どうやって寝たか、そういえば、また、覚えていない。
朝起きてからが慌ただしすぎて、電車でのあれが生々しくて、思い出している暇もなかったのだ。
昨日の黒井の部屋の様子がランダム再生される。ビール、チューハイ、あれ、カップ酒?
「へ」
何かが当たった。
「わっ」
「なになになに」
「う、うわわわあああ、ひとがいた」
「えっ」
「だれ?だれがいんの?」
「お、俺だけど」
「お、おれじゃわかんないよ、って、あれお前やまねこだ」
「クロか?」
「あたり」
「こええよ」
「こわいのそっちだよ」
黒井が僕を手探りで触ってくる。胸には触らないでくれ。心臓がやばいから。
「なに、これ。棒?濡れてる。あ、なに、歯ブラシ?」
「・・・そうだよ」
僕は言いながら手を洗面台に差し出し、センサーの水を出して口をゆすいだ。とにかく、平静を保て。
「なんかいいな。真っ暗闇で歯磨き」
「ま、ね。情緒があるよ」
「ねえ、俺にも貸して」
「え?・・・うん、いいけど」
使うの?
結局は影響されてるわけだが、帰国子女だと言い聞かせる。
だって僕なら、男が今使った歯ブラシなんて、砂漠で遭難して口がジャリジャリ、不快感にもう耐えられないって時くらいでないと、使いたいなんてきっと思わない。
帰国子女でも、思わないんじゃないか?という突っ込みは置いといて。
僕は歯ブラシを念入りに洗い、手探りで歯磨き粉をつける。なかなか至難の業だ。
「ほら」
「ん」
黒井が隣で鼻歌混じりに磨き始める。
相手が全く見えないというのは、結構いいものだ。
・・・どうしよう。
今なら、聞けるかも?
昨日、何があったのか・・・。
だって、今こうして黒井は上機嫌なのだから、僕がまずいことをして二人の関係は決裂、ってことはなかったはずで。
だったら、キスしたのかどうか探りを入れたって、いい、かな。
・・・いや。
黒井のキレ癖は突然来るようだから、もしかして、藪蛇、かも。
「ねえ」
あ、口が先行しちゃった。
「あの、さ」
「んん?」
黒井が歯を磨きながら返事をする。
「き・・・」
「ん?」
「昨日俺いつ寝たっけ」
平坦に、早口で駆け抜ける。
んふふ、と笑われた。え、覚えてないのお?の意。
「え、何だよ、何かあった?」
「はいへんらっあ」
「え?」
黒井が唾液混じりの歯磨き粉を吐き出す音。
「なに?」
「だから、<大変だった>」
「なにが?」
ぶくぶくぶく。口をゆすぐのをじりじりと待つ僕。
「お前抱くの」
・・・っ!
言葉に詰まる。え?
ぶくぶくぶく。
「ベッドの上」
・・・!?
ぶくぶくぶく。
「焦った」
「え、・・・な、何が?」
ぶくぶく。
「お、前死ぬんじゃないかって」
「へ・・・」
死ぬほど、ベッドで、僕を、抱いて、大変だった、んですか?
いやいやいや、そんな形跡ないよ。ないよ。
思わず尻に手を当てる。
・・・ないよね?
「あのお・・・話がよく、見えないんですが」
「え?だから、突然倒れたから焦った、って」
「たおれた」
「・・・うん」
「俺が?」
「本当に覚えてないの?」
「・・・はい」
「俺大変だったんだよー、お前床からベッドに抱え起こしてさ。すごい重いの。何ていうの、急性、アルコールなんとか?そういうので死んじゃったらどうしようって」
「アルコール」
「日本酒イッキするからだよ」
「へ?何で?」
日本酒なんか、好きじゃないんだけど。あれ?
カップ酒?
ううん、何か、思い出すような・・・。
「ねこ、ハンカチ」
「え」
スーツの両ポケットを探られる。なし。つづいて、ズボン。脇、尻・・・。
いや、それ、全部探ったら、もうハンカチいらないでしょ。
スーツで拭かないでよ・・・。
っていうか、暗闇で体をまさぐらないで欲しいんですけど。
そして。
「よいしょ!」
「うわっ」
突然持ち上げられる。
「あれ、そんなに重くない」
「そ、そう?」
もう、このまま、ここで抱いてよ。
「・・・あのう?」
「ねこ何キロくらいあんの?」
「し、知らん」
「体重計ないの?」
「ない」
「体温計は?」
「ある」
「うちと反対だ」
「あ、そう」
「・・・」
「で?」
「・・・」
「っておい!どこ行く!」
暗闇の、奥へ、連れて行かれる。出口と反対、個室の方・・・。
「お、おろし、て」
もう声なんか、オクターブ高い。
「どれくらい持ち運べるかなって」
「な、なら廊下行け」
「人に見られたら嫌じゃん」
そういう感覚はあるのか。
「端っこでおろすから」
「た、頼むよ」
つかつかつか。
何でだろう、何も見えないのにそうやってさっさと普通に進むから。
ゴツッ!
突然壁に後頭部から、盛大にぶち当たるじゃん。なに、天井の、梁?
「いっ・・・た」
「わっ」
そいで、突然降ろされて、トイレで尻もちつくじゃん。スーツ、クリーニングに出そうかな・・・。
「痛かった?」
「い、痛かったよ。じゃなくて痛いよ」
「ごめん」
「・・・分かってくれればいいんだ。気をつけてよ」
「どこ?たんこぶ?」
「いっ・・・!」
だから、無造作に掻き回さないでって!
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