第240話:飯塚君と黒井の違い

 <コペンハーゲン>のふせんは進まないまま月曜日。

 方向としては斜め上に乗り上げてしまった感で、どう方向修正していいかもちょっと分からなくなっていた。

 そして、この暑さで、また八月という月のせいもあり、どうにも腹の底からふつふつと、怖いものを求める気持ちがわいてくる。

 薄ら寒いものよ、来たれ!

 旅行に行くならお供にそのようなミステリでも用意したいけど、黒井といるのに僕が一人で本を読むわけもない。でも本能的にそういう思いは一日に何度かわきあがってくるし、どうしよう。 

 夏はやっぱり、和のミステリだよな。

 特に昭和や大正とか、地方の山村モノなんかもいい。何かの言い伝えとか呪いとか、感染症のパニックものもぞくぞくする。

 ・・・島根の、どこなんだろう。

 近くにいわくつきの古寺とか、道祖神とか、忌まわしい言い伝えとかないかなあ。神隠しに遭いそうな山の麓の神社とかどうだろう。

 これが、黒井の生まれ育った故郷で、「あのね、俺が子どものときは・・・あれ、こんなところにこんな分かれ道あったかな・・・」とか、禁断の土地に足を踏み入れてしまうのはどうだ?ああ、考えただけでぞくぞく、うっとりする。

 そして、ジュラルミンを運びながら自動認識モードで黒井の背中を視界に確認して、思わず見つめた。朝礼の時といい、やっぱり僕はお前の背中が好きみたいだ。満たされた気持ちになるし、どきどきするし、この人生でそれは夢じゃなく、現実に、俺にはお前がいるんだって思える。顔を見て、笑いかけられたらまた別の次元に行っちゃうんだけど、でもとにかく、僕はその背中が好きだ・・・。



・・・・・・・・・・・・・・



 火曜日。

 外回りに出るとき四課配属の新人、飯塚君とエレベーターで一緒になり、何となく成り行きで、JRまで歩いた。

 ・・・歩くスピードが同じで、それがたぶん、彼が先輩に合わせてそうしてるんじゃなく、元々そうなのだろうと感じて、えらく、力が抜けた。

「その業務フロー的には、やっぱり事務に集約した方が効果的と思いますね」

「うん、俺もそうは、思うんだけどね」

「新人がオールアラウンドにいろいろかじっても、実際こなせるかと言われれば、まあご期待には添えきれないわけで」

「い、いや、まあ」

「でも、ほぼ一年研修に充ててもらってるようなもんですから、有難いことですけどね」

「殊勝なことを言うね」

「口ばっかりですけどね」

 相変わらず理解が早く、しかしガチガチの頭の固さではなく、柔軟性と、どこか達観したところがある。頭の中は、たぶん本社の営業部長とか、もしかしたら常務や役員くらいの目線なのかもしれない。新人としてくだらない電話や外回りをさせられているのに、大枠の業務の流れや、まさか株価や上場とかまでその視野に入ってるんだろうか?かっこつけた<意識高い系>とか、野心に燃えてるようにも見えないけど、こういう人が本社で采配を振ってくれたら本当にいいだろうになあ・・・。

「それじゃあ、僕はここで」

「あ、うん、頑張ってね」

「はい。どうも、失礼します」

 ちょっと手で扇ぐ仕草をして<暑いからね>と肩をすくめてみせると、飯塚君は歩き去る直前でちゃんと振り返り、同じことをして苦笑いしながら、軽く会釈して改札に消えた。次の瞬間、どうしようもなく恥ずかしいというか、場違いというかお節介というか調子に乗ったというか似合わないことしたというかつまりとにかくちょっと気負わず話せたからといって先輩風を吹かせたというかなれなれしかったんじゃないかとかもっとスマートにシンプルに何もなく、彼に何の記憶も残さずに去っていけたんじゃなかったかと、しかし時間は巻き戻せないから僕はぶんぶんと首を振って忘れることにした。飯塚君は出来た人間だからこんな一時メモリはさっさと消去してパフォーマンス向上に努めているだろう。僕は無駄に汗だくになって、そのついでに、地下鉄で馬鹿なことを考えた。



・・・・・・・・・・・・・・・



 もし、飯塚君に好かれていたらどうしよう。

 ・・・わかってる。無駄な思考だ。別に意味なんかないし、でもただ、シミュレーションとして一体どうなるのかちょっと気になって、最後までやってしまわないと気持ち悪いだけ。一度で済むから、ほんの、ちょっとだけ。

 飯塚君は年下だけど、大人っぽい落ち着きがあるし、僕より聡明で賢いことについて劣等感を感じさせない・・・のが技術として身についてるのか、素なのかは分からないけど。

 とにかく、もし彼に「あの、もしよかったら、一緒に住んでほしいんですよね。コストパフォーマンスもよくなるし、山根さんだったら僕も落ち着くので」なんて言われて、完全な割り勘で、うん、同棲というかルームメイトだ。きっと彼は共用キッチンでの僕のやり方を何も言わずともすぐ把握して尊重してくれるだろう。新しいラップ(同じブランドのもの)を所定の位置に補充しておいてくれ、生ごみをまとめるタイミングも分かってくれるに違いない。僕だってきっと、彼が三角コーナーをどんな風に使いたいのか、ポリ袋の大きさのこだわりなんかも理解して、理解すればたとえ納得いかなくても、譲歩することだってやぶさかではない。時に勘違いがあっても「あ、じゃあこれは次回から僕がやりますね」なんて、喧嘩になんかなる気配もない。時々どちらかの部屋でお茶でも飲みながら「これは納得いかないですよね」なんて、ドラマやゲームや、時に四コママンガまで笑いながら大真面目に論評して、心ゆくまで理論理屈を語り合う。お互い、知識を補うためのアドバイスや説得はしても、それ以上には踏み込まない。もしそうになってもドライにかわして、妙な気遣いもナシ。話題のお菓子や食材を差し入れることはあっても、憂鬱そうな顔をしているからって酒を飲みながら背中を撫でてくれることはない。

 (・・・週に一度くらいベッドを共にするかどうかは、申し訳ないが特にそういう対象としては見ていないので、考える必要がなかった。いや、そりゃ向こうも、頼まれたって願い下げだろうけど。)

 ・・・何だか、非常にうまくやっていけそうな気がした。

 でもたぶん、どちらかがやがて出て行くだろう。っていうかたぶん、彼が僕なんかで満足できるはずがない。彼が新天地へ旅立つか、僕が落ちぶれて脱落するか、だ。

 寮生活の何年間、とかならきっととてもいい関係が築けただろうけど、僕たちにはもうそういう区切りはなくて、あとはただ毎年年齢の数字が一つずつ増え、申し込み用紙に記入するとき「え、そうだっけ」と思うだけ。人生のガイドラインも目標もあるようなないような、でも越えたり壊したり迂回策を練ったりする具体的な壁も立ちはだかってないから、今更ながら、自分の人生を自分で考えて生きていくしかない。

 そして僕は、なぜか飯塚君より黒井を選ぶんだ。

 はは、あいつと住んだって、今考えたみたいな快適さは望むべくもない。キッチンの清潔さも、暗黙のプライベートの尊重も、会話という名の理屈の披露会が催されることもない。その代わりにあるのは、突然の喧嘩、言い終わる前の「分かってる」、そして、そもそも言わせてもくれない、きついキス・・・。

 ・・・ふう。

 それでも僕は、黒井がよかった。

 もしクロが、飯塚君みたいな性格だったら?

 でもそしたら、「あの男の子はお前なんじゃない?」なんて言葉が突き刺さることもない。飯塚君ならたとえ気づいても、僕が言い出した後で「なるほど、可能性はありますね」って控えめにうなずくだけだろう。墓を暴くようにザクザクと遠慮なくスコップが入れられることもなく、本当の自分を見ることもない・・・。

 見たくも、ないし。

 見られたくなんか、もっとないはずだけど。

 でも、どうしてだろう、クロだったら受け止めてくれるって、何の理屈も証拠も確約もないのに、透明な空気中からそれが現れて、その、信じられるって気持ちがそこにあるんだ。感極まって、行くとこまで行ったら、全部さらけ出してもいいって、そう思えるんだ・・・。

 一瞬、飯塚君ならそうは思えないのか?と考え、黒井との違いが、差分として現れた。

 飯塚君だって受け止めてくれるかもしれないが、でも、そこまでだ。

 クロとだったら、その先がある。

 つまり、性格とか、受け止められるかとか、そこに愛があるかとか、そういう問題じゃない。

 ギリギリの限界の先に続いてる、次元の違う<向こう側>・・・。

 一緒に行けるのは、お前だけだ、クロ。

 ねえ、言わなくても分かってる、でしょ・・・?



・・・・・・・・・・・・



 旅行のこと。

 <コペンハーゲン>のこと。

 誕生日の夜のこと。

 僕の夢のこと。

 仕事のこと。

 会社の人のこと。

 ミステリのこと。

 日々の思考はそんなことであちこちふわふわして、何をするにも気もそぞろだった。一度、例のコピー漏れが危うく発覚しかかって肝を冷やした。一つ前の契約だったからごくふつうに対応できて助かったけど、ついでにバレたりしないよね、とビクビクしていたが、何事もなかった。

 このままいくと、来週は内勤になりそうだ。

 

 水曜日、18時に終わらせて飯を食いに行こうと誘われて死ぬ気でやったけど黒井の方が終わらなくて、結局タイミングも合わず一緒に帰れなかった。残念だったけど、誘われたことが嬉しくて、木・金を頑張ることが出来た。


 土曜の朝。

 新しい下着一式と手土産を選ぶべく新宿の百貨店に行こうとしていると電話。「土産なんかいいって!」とかまた言われるだろうけど、あいつはデパ地下が好きだし、一緒に行こうと言ったら行くかな。あ、でも下着を買うのを見られるのはちょっと恥ずかしいけど・・・。

 ・・・。

 黒井じゃ、ない。

 実家の番号だった。

 しばらく携帯を持って鳴るに任せたけど、どうせ留守電に入って、それを聞かなきゃならない、「電話ちょうだい」なんて吹き込まれて折り返さなきゃいけないと思うと憂鬱で、仕方なくボタンを押した。

「・・・はい」

「あ、ヒロくん?」

 だから、ひろくんて誰。

「もしもし?」

「はい?」

「なに、寝てたの?調子悪いの?元気でやってるの?」

「うん、どうかした?」

「あんた、お盆休みはさすがにあるんでしょ?」

「・・・」

「・・・そろそろ、帰ってきた方がいいんじゃないの?」

「あの、もう予定が入ってるから。向こうの家に招待されてて、今更断れないし、キャンセル出来ないし」

「・・・え、な、なに、何の話?」

「あ・・・」

「なに、向こうの家ってどういうこと?」

「何でもない。別に、ちょっと知り合った人。ただ行くだけ。何でもないから」

「な、何でもないって、あなた、招待ってどういうこと?どちら様なの?」

「あ、遊びに来てって言われて、そんだけ。ほんとに、何でもないから。もういい?切るよ」

「ちょっと待ちなさ・・・」

 電話を切って、そのまま電源まで切った。

 一瞬、せめてどうでもいい嘘はつくまいと思ってしまったのが運の尽き。そろそろ来るんじゃないかと思っていたら本当に来て本当に嫌になる。でも、今回ばっかりは、たとえ何かを覚悟して何かをしようとしたって飛行機の予約をふいにするわけにはいかないんだから、これでいいんだ。本当の緊急事態なら駆けつけないわけにいかないんだし、とにかく、今年の夏は、もうこれでいいんだ・・・。

 

 クロから電話があったらどうしようと思いつつ、電源は切ったまま新宿に出た。

 手土産は、結局一番無難そうな小分けのおかきにした。来客用のお茶うけにも使えるし、たくさんあるから集まった親戚が多くてもたぶん大丈夫だろう。賞味期限もそこそこ長い。

 それに、こういうカンカンは何かと使い勝手がいいんだ。

 黒井のお母さんを思い浮かべ、でもやっぱり自分の母親も思い浮かぶから、もう向こうの養子にしてもらおうかな。そしたらクロと兄弟になって、公私ともにずっと一緒にいられる。遺書にも兄にすべてを遺すって堂々と書ける・・・。


 普段行かないような紳士服売場で、トランクスとTシャツと、寝間着にも部屋着にも使えそうなハーフパンツを新調した。スーパーの衣料品売り場なら一着分の値段で三枚セットが買えてお釣りが来る。しかもそこまで質が違うようにも見えないけど・・・。

 それから、寒いということもないだろうが、長袖のカジュアルっぽい、しかし地味目のYシャツもさんざん迷って買った。本当に、どうしてこんなものが七千八百円(税抜)もするんだろう?

 あまりに自分のセンスがなくて、いっそのことオシャレ大王の西沢に選んでほしいところだ。本当にこの辺を偶然うろうろしてないかなあなんて目で探すけど、でも、もしものすごくセンスのいい服ばかりを見繕ってもらって向こうへ行って、都会のオシャレな人などと思われてもとんでもない誤解と詐欺になってしまうので、これでいいと思った。

 あとは、下か。

 何年履いているか分からないジーパンを見下ろす。

 その先のくたびれたスニーカーも。

 適当にぐるぐる周回し、浮いてるよなあと思いながら、ハイブランドのスーツ(とやら)のコーナーを通り過ぎ、礼服売り場。

 ・・・ああ、まさか、法事?

 通夜や葬式ではないから喪服まではいらないだろうが、せめて、白茶けたり毛羽立ったりしてない黒のズボンを買うか・・・。

 しかしどうも折り目のついたやつではオッサンくさくて僕の顔に合わないし、結局カジュアルなジーパン屋でジーパンっぽくないごくふつうの黒いズボンを買った。ただただ布地がしっかり黒ければそれでいいと思って選んだらセールで三千九百円の20%オフだった。物の価値というのはいったいどこにあるんだろう。

 裾を直してもらっている間に、小さくて背中にフィットする、たすき掛けみたいにするナップザック?もそのまま衝動買いした。とりあえず荷物はあの新人研修の時持って行ったボストンバッグに入れるとして、手近な小物を持ち歩くものが要るだろう。


 両手に持ちきれないほど買い物をして、まるでお札が引換券みたいに飛んで行ったが、必要経費だと思うと別に惜しくもなかった。自分のためにこんな値段で服を買うことなんてないし、もし買うならコスパを考えてためらったり迷ってしまうから、こんな風に割り切って買えたのはよかったかもしれない。

 それに、少し、消費による快楽というのもあった。

 単純なストレス解消とともに、自己肯定の言い訳になっている気がする。間接的に、自分の力を誇示出来るように思えるんだろう。それはたぶん<誰のおかげで暮らしていけると思ってんだ>という典型的なせりふと同じ根源な気がした。働いて、やりたくない仕事もやって、給料をもらってれば偉いんだという正当化。百貨店で買って紙袋に入ったそれらが、俺は義務を果たしている、文句を言われる筋合いはない、と僕の代わりに主張してくれているような、気がした。

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