第198話:アトミク同好会(仮)
黒井は自分でレジにそれを持っていき、お姉さんに「領収書おねがいね」と。僕は何となく出口へ歩くけど、あっ、クロが持ってないならポイントカードを出さなきゃ損じゃないか!慌ててレジに引き返してカードを出し、一応「これ、いい?」と訊くけど、黒井はそんなもの見もせず、「ねえ、俺たちって誰なの?」と変なことを言った。
「へっ、何が?」
「だから、領収書の宛名だよ」
「・・・は?」
「これってさ、この<ATOM>はさ、俺のでもお前のでもなくて、二人で買うわけじゃん。何て書いてもらえばいいの?」
「そ、それは・・・」
・・・アトミク同好会?かっこつかないな!
黒犬と山猫?ちょっと違うか。
そんな、<俺たち>の名前だなんて、妄想すらしてなかった。領収書をもらって活動するなんて、何か、本格的で、感動するじゃん・・・!
「あの、上様か、空白でもよろしいかと・・・」
レジのお姉さんがおずおずと訊ねる。気づくと後ろに人が並んでいた。僕はとりあえず「じゃあ空白で」と頼み、それをひとまず財布にしまった。
黒井は紫のブックカバーを断って、青いビニールに入ったそれを「どうもありがとう」と受け取った。笑顔でそんなことさらっと言うからモテちゃうんじゃないか、このやろう。
そのまま上のタリーズに行くけれども、「混んでるね」と黒井は引き返した。前来たときは大雪で、ガラガラだったんだ。
「じゃ、うち来る?」
「・・・う、うん」
「あ、でもだめか」
黒井は斜め上を向いて、「お前の掃除に何時間・・・?」とぶつぶつ言った。え、まさかまた部屋散らかしてるの?ゴミと洗濯物にまみれて物理の勉強なんかしないからね!ちゃんと片付けてから・・・あ、確かに一時間はかかるかな。
「でもどこも混んでるかな。まったく、静かでゆっくり出来るとこ、ないのかな」
全く同感だけど、それならホテルとか、行ってもいいよ・・・なんて、下心見え見えすぎ?
「うちの近くのカフェは・・・もう閉まっちゃうな。んー、とりあえず電車乗ろっか」
「え、そ、そうだね」
僕に本を持たせて黒井は歩き出し、僕は、もらった領収書をしまう20ポケットくらいのクリアファイル、と頭の隅にメモした。それから、<俺たち>の名前。何となれば、何かの非営利団体的な登録とかして、公的に施設見学の予約とか、活動しちゃったりする?っていうかもう、会社組織にしちゃって、俺たちそれで生きていけば・・・って、どっから収益を得るんだ?
・・・収益モデルが必要?
うん?
・・・。
収益があれば、俺たちは、こんな会社を辞めて、二人で生きていける?
事務所兼自宅みたいなのを借りて、二人で住んで?
僕が会計とか事務をやって、お前が取材の申し込みとかして?
・・・まさか。
とりあえずそんな夢想を追い払って、でも、僕は、今の営業事務みたいのや、会計や、マーケティング的なことを、学んでおくべきなのか、と背筋を正した。やっつけ仕事してる場合じゃない。何もかも、学べることは学んでおかなくては。こうして事務も営業も、管理者的なことも出来ているんだから、今のうち、なのか。
ちょっと、ぞくりとした。
別の、人生。
黒井はもしかして、そんなの、望んでないかもしれないけど。
そんなのは<仕事>であって、<冒険>じゃない、って言うかも。
確かに、そうだろう。でも、レオナルド・ダ・ヴィンチじゃあるまいし、メディチ家なんていうスポンサーもいないんだから、今の日本で食べていくためには何か収益の上がる<仕事>をしなくちゃならない。せめて二人分の家賃と生活費をまかなえるような、となると、月に少なくとも二十万?どんなに抑えても十五万?
だったら、今の仕事をしながら、趣味でやる方がよほど金をかけられるか。
こんな、本とかファイルだって、経費も馬鹿にならないし。
でも、じゃあ、やっぱり一緒に住んでさ、家賃や食費を抑えて、その分開業費用として貯めたり、もっと本を買ったりしようよ。そんで、夜なんか、お前がお気に入りの本をベッドで読んでくれたりして、それから・・・。
「・・・ね、もう、そろそろ、いい?」
「うん、いい、よ・・・」
・・・。
えっ?
・・・気づくと、電車で二人並んで座って、僕は黒井が持っている本の<はしがき>のページを押さえていた。
い、いつの間に?
っていうか僕、寄りかかりすぎだろ!
僕は軽く咳払いをして座り直し、鞄から眼鏡を出した。危ないな、そのうち妄想と現実の区別がつかなくなりそうだ。
・・・・・・・・・・・・・・・
そしてページは進み、<序文>に入った。
突然、<都市はすべて塵と消えた。>で始まる。何だ、SFか?いつの時代の何の話?
そのページの内容は、こういうものだった。
つまり、いつかの未来、何かの災害で人類はほぼ滅亡寸前となる。建物は焼け、デジタルデータも消失、本の一冊もない。人類が積み上げてきた知識はゼロに戻る。
もし、それに備えて強化スチールの板を用意し、短い文章を生き残った人類に遺すとして、何と書くのが最も良いのだろう?
物理学者リチャード・ファインマンによれば、答えは、<原子>なのだという。
水のろ過方法とか方位磁石の作り方とかじゃなく、未来のロゼッタストーンに書かれるべきは、原子という概念なのだと。
・・・それってつまり、何千年の歴史の中で人類が発見してきたもののうち、何より重要なものが<原子>だってこと?
そこで黒井がページをめくった。歩くのは僕のほうが速いけど、読むのはお前が速いのかな。物語に入り込んでる時はどんどん読んじゃうけど、いちいち考えて反芻してる時は目が止まっちゃうみたいだ。人と一緒に読んだことなんかないから、こんなことも、どきどきして新鮮だった。
そして序文は、原子とは私たちに実在を疑わせる存在なのだ、として締めくくられていた。ああ、何だか、上等じゃないか。科学という鉄壁でもって寸分漏らさず突き進んで、その果てにあるのが実在の不確かさだなんて、まったく、望むところだ。よく分からないけど僕は何かをかき立てられたようだった。
次のページに進んで、ふと気づくと、桜上水を過ぎていた。
「あ、お前、駅・・・」
「いいよ、もうちょっと行こ」
「う、うん」
僕はページに目を戻し、黒井の言葉に甘えて、食い入るように読んだ。
単調な、少しずつ時代を追う教科書的スタイルではなくて、時代を斜め斜めに切り取るような、行きつ戻りつしながら様々な人物に光を当てる、そんな書き方だった。
ああ、この本自体が、ドキュメンタリー番組の書き起こしなのか。
小説と映画でシーンの移り変わりの描き方が違うように、ノンフィクションでもきっと、映像を文章にするとこういう感じになるんだろう。背景が分からない僕は焦点があっちこっち行くたびに戸惑い、それぞれの意味は追えるけど、全体像のマッピングに苦労した。そんな僕を見て、黒井がちょっと、微笑ましそうに笑った。
「何だよ」
「いや、何か、難しい顔してるから」
「しょうがないだろ、そんなの。じゃあ先生さあ、例えばこの<不思議なエネルギー>って何なのさ。説明がないままアインシュタインの記述に飛んでる」
「え?ああ、これって放射線のこと。ほら、ベクレルって単位さ、聞いたことない?」
「・・・あ、そうか」
震災の時散々聞いた、何ベクレルとか、何シーベルトとか。
じゃあ、シーベルトも、人の名前?
訊くと、「そうだよ、シーベルトさん。他にも例えば、ガイガーカウンターもガイガーさんだし、レントゲンだって」と事もなげに。
「何か、嫌な印象になっちゃってるね」
「はは、今はそうかもね。でも原子ってほとんど、放射性物質から分かってきたようなもんでさ。何ていうか、足がかりなんだよね。止まってるもの見るより、変化があれば数えたり実験とか出来るし、そうそう、ガイガーさんもそれで苦労してさ、目で見て数えるの超大変だから、ガイガーカウンター自分で作っちゃったんだよね。あ、まあ、自作のカウンターに自分の名前がついただけか」
周りの人がちょっとだけ引くのを感じながら、いまさら不謹慎とかじゃないよな、と余計な心配をした。これはガイガー氏の人生の個人的な苦労話であって、原発事故とは別の話だ。
ページが進むと、黒井の言うとおりのことが書いてあった。
マリア・スクウォドフスカことキュリー夫人が登場し、ベクレルが注目した<不思議な放射線>を放つ元素、ウラニウムの研究に着手した。そういえば偉人・キュリー夫人って放射能を研究してたんだっけ?
恥を忍んで、き、訊いてみちゃうか。
「あのさ、キュリー夫人って、ウランの研究してたの?」
「うん。ウランとか、ラジウムとか」
「ラジウム・・・ああ、何か思い出した。俺、てっきり、ラジオの研究かと思ってた。鉱石ラジオ作ってたんだって、え、勘違い?」
「はは、鉱石ラジオではないけどね。ああ、放射能ってさ、レディオ・アクティビティって名付けたの、キュリー夫人か。でも別にあのラジオとは関係ないんじゃない?放射とかいう意味なだけで」
「ふ、ふうん」
「ああ、きっと、ウラン鉱石とごっちゃにしたんだよ。ピッチブレンド」
「え、え?」
「まあ、どうせすぐ出てくるよ。言ったでしょ、王道って。別に俺が頭いいんじゃなくて、ただその辺のこと知ってるだけ。でも何か、ちょっと久しぶりで、古巣に帰ったみたいな感じかな」
「そう、なんだ」
ハイゼンベルクのことだけじゃなくて、こんなにいろいろ、調べてたのか。
僕は、急に出てきた<放射能>という言葉が引きずっている重たい何かと、今までの量子力学や相対論の、デジタルで宇宙っぽいイメージがいまいち重ならなくて、でもそれは<原子>というキーワードの元に密接に結びついているようだった。
そして、本の中のそんな世界と、ふと見る車内の現実と、明日も会社だってことと、それでも今隣に黒井がいるってことで、少し揺れ動いた。
・・・ここがいい。
こっちが、いい。
心臓がきゅうと締め付けられた。
僕はここがいい。こうして黒井と話していたい。内容が愛の睦言なんかじゃなく、放射性物質の話だって全然構わない。むしろ、そっちの方がいい。だって俺たちらしい、じゃん?
やっぱり、こうしていようよ。こういうことして生きていこうよ。
領収書に書く<俺たち>の名前が決まったら、夢物語のレベルでいいから、考えてみて、くれないかな。たぶん会社で、こんなの読んで喜んでるの、僕たちだけだよ。こんな<アトミク>、俺たちだけだって。
・・・・・・・・・・・・・・・
結局第一章を丸々読んでしまい、その都度質問をしたりして、僕の駅に着いてしまった。
そのまま、泊まるって、言ってほしかったけど。
改札まで見送ると言うのを止めて、僕が反対ホームへ送った。
本当に楽しくて、まるで映画館とかスペースマウンテンにいたみたいな、別世界にいる時間だった。
「その、ごめん。こんなとこまで」
「ううん、俺も楽しかった」
・・・泊まりたければ、泊まるって言うやつだし。
なら、今日は、帰るんだろう。
「ほんとに、お前、よく知ってて・・・」
「・・・何か、別れたくないね」
・・・。
息が、止まる。
じゃあ、一緒に、いようよ。でも、その言葉は、喉から出てこなくて。
ホームに立ちつくして、線路をじっと見つめた。
ああ、もう、身体が、痺れてる!
歯を食いしばんなきゃ、何かの衝動を、抑えきれないよ。
でもそうしたら何も喋れなくて、僕はただ息を飲み込んだ。
だめだ。抱きしめたら、別れられなくなる。
お前から一瞬でも離れることが出来なくなる。
深呼吸をして、電車を待った。
まともな人間として、まともに、別れなきゃ。
息を吸い込んで、言葉を、搾り出した。
「・・・本、俺が持ってていいの?」
「うん」
「じゃあ・・・」
そして、電車がまいりますのアナウンス。もう、止まっちゃえばいいのに。全線不通になればいいのに。
「・・・また、教えてね」
「うん」
当たり前みたいに電車はやって来て、黒井はゆっくりと乗り込み、空いた席に座って僕の方を見た。発車すると、ちらりと、膝の上で小さく手を振った。
胸の動悸はおさまらないまま、雨の中、本を抱いて帰宅した。
黒井は今頃まだ電車の中で、ちょっと遠い目で車窓の景色を見てるのかと思うと、わけもなく、苦しくなった。
・・・別れたく、ないよ。
どうして「俺もだよ」って、言えないんだろうね。
胸が苦しい。
なぜかずきずき、下半身まで疼いてる。
だってたぶん、身体中で、お前を求めてるんだ。
「クロ・・・俺も、俺だって、別れたくないよ。ずっと、一緒に、いたいよ・・・」
布団に倒れこんで、ベルトを外した。こんな僕でごめん。でも、弾けそうで、もう我慢できない。
「ううっ」
きっと、お前が、ちょっと寂しそうだったからだよ。
俺の質問に答えるのは楽しそうだったけど、でも、どこか、諦めたような・・・。
ああ、そうか。
物理史をやってきて、でも、それでは取り戻せなくて、素粒子に手を出したのか。
どうなんだろう、僕がやったのは、古傷を抉る行為だった?
でも、別れたくないなら、嫌では、なかった・・・?
本人にも、説明は出来ないのかもしれない。苦しいような、むずがゆいような、少しこそばゆいような、そんな時間だったのかも。
「・・・っ」
お前を想って、何回目?
お前が知ったら、どう思うだろう?
・・・でも、まさかお前にも、俺を思ってするような、そんな夜があったりする?
っていうか、これから、帰ったら、とか・・・。
そんな、あるわけない。
ないないないけど、でも、妄想は一時停止できなくて、勝手にどんどん進んでく。
ねこ、俺・・・挿れて、いいでしょ?
ごめん、はやくて・・・もういく、よ・・・っ!
いいじゃん、ずっと、一緒にいようよ。
会社も明日もどうでもいいよ。したいだけしようよ、気持ちいいこと、どれだけだって・・・。
がくん、と落ちかけて、目を開けた。
後頭部を何度か叩いて全ての思考を頭から追い出し、シャワーを浴びて、昨日の残り物を少し食べ、歯を磨いて、寝た。
・・・・・・・・・・・・・・・
木曜日。
憑き物が落ちたように、すっかり落ち着いていた。
今日の運だめしみたいに黒井との接触を図ることもしないでいられた。仕事まで忘れそうだったけど、マニュアルの簡略化と改善を怠らなかったおかげで、滞りなく業務は進んだ。
外回りで、愚痴が延々長いお客さんにつきあい、苦笑いで頬も痛くなった頃解放される。結局案件の進捗はナシ。GW明けに分かると言っていた予定が、五末になり六末になり、十末になりそうな物言い。ないならないで、はっきりしてほしいんだけどな。
急に雲行きが怪しくなって、雷が鳴り出した。
どこかで黒井もこれを聞いてるかな。
きっとあいつは月や雪みたいに、雷とかも好きなんだろう。僕も、雷は好きだ。何かを壊してくれそうだから。
佐山さんに、コンビニのちょっとしたお菓子を買って帰社した。
ファイリングや何かでいくつか変えたいところがあって、それに際して差し入れ、というとちょっといやらしいけど、まあ最近お世話になっているから感謝の気持ちだ。
そうしたら、残業中に「山根君、ちょお言いにくいことやけど、佐山さん婚約しとるんやで」などと言われた。「は?」とぽかんとしていると、「まあ、ショックやろうけど」って、いやいや、それは知ってるし、勘違いだって。まあ、「言いにくいけど、黒井君は男やで?」なんて言われるよりはマシか。・・・言われなくてもわかっとるわい!
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