第197話:水曜日の勝利

 水曜の約束のおかげで、火曜は落ち着いていられた。僕は次第に慣れてきたルーチンワークの<効率化・合理化>の最初の一歩を踏み出し、無駄に二枚出力していた帳票を一枚にまとめて印刷して、エクセルのフォーマットも変えた。今のところこれをいじるのは僕と佐山さんだけだから、佐山さんにだけ了承を得て、小さな変革が始まった。

 いずれ、こんなもの、全部なくしてやる。

 ゆくゆくは、スキャナーを買って取り込んで、必要なものだけ全てデジタルで保存してやる。

 無為に膨らんでいくファイル、途中から月別でなくなるテプラのラベル、<2013年_月>のままコピーされ続け、かすれて灰色になったチェック表・・・。

 一ヶ月、いや、一週間丸ごと僕にここを貸し切ってくれたら、業務に支障は出さずに、これらを全部綺麗にするのに。佐山さんはこういうの気にならないんだろうか。島津さんはどうだろう。こんなことにきりきりしてるのは僕だけか?


 夕方。帰社して、頭の上にパトランプのように<明日>を掲げて、まったくもう我慢できないけど仕事をした。食欲すらなく、ただあいつと話したい。どうしてこの席はこの向きなんだ?せめて三課と向かい合う席ならどんなによかったか。黒井が誰かと楽しそうに話す声が、内容は分からないけど後ろから笑い声だけ聞こえるなんて、ひどい拷問。振り向きたくなる首を固定して、まるで寝違えた人みたい。こっちも当てつけに、西沢と楽しく盛り上がってやろうかな!

 


・・・・・・・・・・・・・・・



 水曜日。

 朝から、着ていくスーツすら迷った。

 ネクタイは当然アレだとして、Yシャツは?

 夏用の薄手のスーツにするか、もうちょっとピシっとしたやつで頑張るか・・・。

 気にし始めたら靴下まで気になって、いや、そんなこといってももうこの顔なんだから、これ以上どうしようもないんだけどさ。

 駅まで歩きながら、まるで初デートに行くような心持ちの馬鹿な自分を生温かく見守る。そして、分かっていても無意識に展開していく呆れた妄想。発送部屋に連れ込まれて、「あのさ、俺、お前と・・・」とか、いやいや、馬鹿じゃないの!?


 会社に着いて、後ろから聞こえる黒井の声を聞かないように般若心経でも聴きたいんですが、こっそりイヤホンしてはだめですかね?僕に話しかけないなら、いっそのこと遠く離れた島に行ってくれ。いつ何時、万が一僕に話が振られるんじゃないかって、しなくていい準備を勝手にしてるんだからこっちも大変なんだ。

 ああ、夕方までが長い。一分一秒長い。三課に何か用事が出来ないかと賢明に仕事をするけれども、掘っても掘っても出てこない。こないだ自分で改革してしまったせいで、三課の分もまとめて出力してハイ終わり。会社が終わるまであと何時間?もうイライラしてきた・・・けど、時が来れば、一緒に、二人で、帰ったり、とか・・・。あ、やばい、ちょっと緊張してきた!


 何かやらかしていてもまったくおかしくないなあというやっつけ具合で、反復の慣れに任せて客先でクロージングと保守契約とセミナーのお知らせ。あ、そういえば今新人が電話かけまくってるからいらなかったかな?

 帰社して、まずはかきこんだ松屋のにおいを消すべく歯磨き。いや、だって、もしかしてってこともあるし。しかし、女の子だったら化粧やら服やら髪やら、カレにアピールすべく工夫できるところがたくさんあるんだろうが、僕なんか、他にどこをどうすればいいってわけ?ボタンを開けて鎖骨でも見せたらいい?はは、誰も見たくないって!

 そして、じりじりしながらパソコンに向かい、課長の「上がりましょう」コールを待つ。こんなところでも、三課とタイミングを合わせるのは結構大変だ。中山課長は放任主義だし、まあ黒井が「そろそろ上がれる?」なんて来てくれたら一番やりやすいんだけど・・・と思っているうちにも、後ろから新人たちの「黒井さん今ちょっといいですか?」「あのう、これなんですけど・・・」の声。くそっ、知ってるよ、お前らそうやっておずおず相談に来ておいて、だんだん「えーホント!?」「黒井さんやってくださいよぉ!」って黄色い声になるんだろ?そんでクロもクロで、「えーめんどいなあ」「最初だけやるから覚えてよ?」って構っちゃうんだろ?

 ・・・いや、分かる、分かるよ。自分が若くてかわいい女の子だったら、こんなイケメン絶対ほっとかないよな。ボタンも開けてスカートも短くしてアタックするよな。あんな笑顔で「うん?」って目を合わせられたら、だめなんだって。


 とうとう18時半を過ぎて、課長から「ノー残ですよー」の声がかかった。ちら、と後ろを振り向いて、何となく、黒井もひと段落ついたような雰囲気。

 ・・・今、か。

 大急ぎで勤怠を入力し、作りかけの見積もりを保存し、共有ファイルの進捗管理表をちゃんと閉じて、パソコンをシャットダウンする。そわそわするのを必死に隠し、島の他の人と一緒にそれとなさ全開で「それじゃ、お先しまーす」。そして、あ、そういえばって顔で、「進捗管理表のことだけどね」ってせりふも口の中に用意して、三課に向かう・・・。

「あの、黒井さんどうしよう、さっきのでまた段ズレしちゃったんですけど・・・」

「ええ?」

「何か、ハ行とマ行の間で分けようとしたら、全部ずれて出て来ちゃって・・・」

 ・・・。

 ・・・えっと、ノー残なんですけど。

 新人さんにもそういうの、徹底した方がいいと思うんですけど。

 っていうか、段ズレってエクセルか何か?そんなの自分のPCすら持ってない黒井に訊いてもしょうがなくないか?っていうか伊藤さんに訊けよ、っていうかハ行でもマ行でもテレアポすんなら一緒だろ!!

 しかし、ここまで黒井の席に近づいてきてしまって、新人の女の子二人とバッティングして、さてこの場をどうしよう?・・・と思っていたら黒井と目が合った。

「あ、いや、いい」

 とっさに出てきたのはそんな言葉で、僕はそのまま帰ろうとした。もういいよ、何だかんだで三十分、あるいは小一時間、外でじーっと待たれても嫌だよね。

 そうして廊下へ向かって歩き出したら、後ろから声がした、もとい、地獄耳で聞きつけた。

「あのさ、悪いんだけどこれ明日にして?俺帰んなきゃいけないから」

 女の子たちが「あ、すいませんでした!」と恐縮する雰囲気。そして、「ごめんね。それじゃお先!」でカードキーをかざす僕に追いつき、「帰ろ!」とその笑顔。

 腰が、抜けそうだよ。



・・・・・・・・・・・・・・



 勝った。

 何の勝負だろうが、他人に勝ってこんなに嬉しかったことはない。

 あの女の子たちに勝った。

 ふつうの男なら、新人の女の子たちにきゃあきゃあ頼られたらノー残なんか知りもしないという顔で「ええ?どれどれ」ってところだろう。友達との約束どころか、彼女との約束だって遅刻するかもしれない。

 それが、これだ。

 ・・・やっぱり、俺が、いいんだって!

 クロはあんな女たちに興味ないんだよ。僕の方が著しく魅力的ってことだよ!まあ、どこが?って質問は置いといてさ。

 エレベーターを待ちながら、「忙しくってさ」とか「○○ちゃんがね」とか話を振られるかと思っていたが、黒井はすっと真面目な顔になって、「あのさ」と一言。

「うん?」

 そこでエレベーターが来て、人が乗っていたので会話は中断した。


 地下通路を、二人で歩く。

 勝利の余韻に浸って、「いやあ、さっきの新人ちゃんたち、大丈夫だったわけ?」なんて軽く訊いちゃいたいけど、どうもそういうノリではないみたいだった。

「ちょっと、寄りたいとこあって。一緒に、いい?」

 僕は、「う、うん、もちろん」とうなずき、勝利の興奮は緊張に変わっていった。

「といっても、すぐそこなんだけどさ」

「う、うん」

「今日、時間、いい?」

「別に、何も、ないよ」

 ずっと片想いだった憧れの人に、一緒に帰ろうって誘われて、どこかに寄るんだって。

 その上、「時間、いい?」って、あの、俺はどこまで想定すればいいの?

 どうしよう、喋れなくなりそう。手も、声も震えそう。

 心臓なんかばくばくしてきて、はあ、せいぜい段差でコケたりしませんように。かっこ悪いとこ見られませんように・・・。それから、願わくば、新卒の誰かが近くを歩いていて、僕たちを見ていますように。この二人の距離を見て、もう黒井のことを諦めてくれますように・・・ってそれは無理か。

 もう、僕だって、僕たちがどこまでのどんな関係なのかって、よくわかんないよ!

 ・・・無意識に、なぜか、本屋への階段を昇っていた。

 そして、「おい、俺たちはこっちだよ」と、腕を引っ張られる。

 ブックファーストの地下。行くのは、もちろん・・・<G>ゾーンの理工書コーナー。

「・・・はは、ごめん。そうだね、俺たちは、下だ」

「あ、お前、上に寄りたかった?」

「ううん、全然。間違っただけ」

「そっか」

 ガラスの重いドアを僕が開けて、黒井が入る。少し進んでレジを越え、科学の新刊コーナーへ。

 静かな店内を縦に並んで歩きながら、少しずつ、剥がれていく。

 優越感。

 独占欲。

 どうでもいい、嫉妬。

 うん、会社でのどうのこうのは、意味なんかない。

 クラスの人気者に僕なんかがちょっと声をかけられて、いい気になりたいって、それだけ。

 自分に自信があればそんなの考えなくていいのに、まったく情けない。

 しかもなお恥ずかしいことに、そんなことにかまけている間、僕は<アトミク>のことなんか忘れてたんだ。

 僕は何となくそれが後ろめたくて、黒井とちょっと離れた棚をぼんやりと見上げた。

 やっぱり、だめだな。

 二人でいれば考えられるのに、集団の中に入ると、自分の立ち位置を確保するのに四苦八苦して何も出来なくなってしまう。お前は、どうなんだろう?いろんな人に囲まれてても、自分を見失わないの?会社での自分と、今ここでこうして自分の世界に入っていける本屋での時間は、区切りをつけて分けてるの?

 ・・・自分の、世界。

 僕にとって、本屋でミステリを物色するのはこの上ない至福の、自分だけの時間だけど、もしかしてそういうのを指してお前は「中身」って言ってる?だとしたら、「中身がない」って、つまりここで外国の物理の本の分厚い背表紙を見るのと、新人の「ハ行とマ行」の世話が、同じ自分ってこと?

 まさかね。

 いや、もしそうだったとしても、せめて、僕といる時間だけは、僕の黒犬でいてほしい。

 別に、独占欲で言ってるんじゃなくて。

 お前は「ハ行とマ行」の世話なんかで人生を浪費してはだめだし、物理は、そんなどうでもいいこととは一線を画した崇高な存在だ。聖と俗をはっきり区切って、会社なんかに邪魔されないよう容赦なく斬らなくては。境界線開けっぱなしでふらふら歩いてる暇なんかない。自分の世界は自分で完全に守らなくては。


 ・・・守るものなんか、ないんだよ。

 ・・・だから土足で構わないんだって。

 ・・・それで、お前が、羨ましくて。

 そんな声が、聞こえた気がした。



・・・・・・・・・・・・・・



「何か、あった?」

「えっ」

 ふいに声をかけられて、慌てた。棚なんか全然見ていなかった。アトミクのことも、考えてなかった・・・。

「あ、あの、これとか・・・」

 当てずっぽうに背表紙を指でなぞっていく。指が細かく震えているのを悟られないよう、ふらふら動かしながら、どれだっけ、なんてつぶやいて・・・。

「あ」

 僕の指が通り過ぎたところを、黒井が凝視した。っていうかここどこのコーナー?物理学じゃなくて、科学一般?

 そして、たぶん僕も同じ背表紙を見つけた。青灰色っぽい地に、金文字で、タイトルは<ATOM>、副題は<原子の正体に迫った伝説の科学者たち>。

 黒井がそれに指をかけてすっと取り出し、僕にも見えるように手に取った。

 ハードカバーでもなく、新書でもなく、めずらしい判型。

 表紙も金文字で、タイトルの下にはずらずらと科学者たちの名前が綴られていた。

 中ほどに、<Werner Heisenberg>の文字を見つけた。ハッキリした硬めの英字フォントが知性と上質さを感じさせる。

 そして、その下には<部分と全体>にも挿入されていた、何かの会議でアインシュタインだのキュリー夫人だのが一堂に会したモノクロの集合写真。

 次に黒井は奥付を確認して、「こんなの見たことなかった」とつぶやいた。発行は2010年。

 ・・・そうか、物理史の本か。

 黒井が言っていた、「俺、物理史しかわかんないからね」って、これなのか。

 ぱらぱらと中をめくる黒井に、「あの、それ、何書いてあるか、分かる?」と訊いてみる。

「・・・分かるよ、大体は」

 低い声でそうつぶやく黒井の横顔は、自慢げでもなく、楽しそうでもなく、刺すような視線。

 それを見て、考える前に、声が出ていた。

「何か、かっこいいよお前」

「・・・えっ?」

「あ、いや、その、そんな本すらすら読めるなんて、すごいって・・・」

「え、だって、大体歴史をなぞってるだけだよ。何ていうか、王道。でもいい本だ。どうして今まで目に入らなかったんだろう」

「だってそれ、2010年で初版だろ?しかも端っこちょっとヤケてるし、あんまり出回ってない本なんじゃない?」

「そうかな、まあいいけど」

「あの・・・あのさ」

 黒井が何となく本を戻そうとするのを感じて、僕は思わずそれを止めた。

「ん?」

「あの、俺に、それ、教えてよ。黒井先生、物理史なら、分かるんでしょ?」

 言いながら、腹がひゅうと透けて緊張してくる。僕が自分から相手に何かをしてほしいだなんて、黒井にゆっくり抱きしめられる時と同じ感覚に襲われた。僕と黒井の境界線がぐにゃりと曲がって、怖いのと、焦がれるのとが、水に垂らしたインクをかき混ぜたような模様を描いていく・・・。

 しばらく黙っていた黒井の顔は見れなかったけど、答えは、しぶしぶながらの「別に、いいけど」。

「あ、その、無理にとは・・・」

「だからさ、俺、そんな教えるのうまくないよ。だから、俺なりの、ただの解説ってか、感想みたいになっちゃうけど」

「・・・うん」

「いいよ。じゃあこれ買ってさ、一緒に読もうよ。・・・はは、何かさ、ちょっと悔しいよね。ちょっと知ってるヒト気取りたいけどさ、お前の方がこういうの、見つけちゃうんだもん」

 そう言って、本を眺めた。

「べ、別に、違う違う、俺が見つけたんじゃないよ。俺が見たのはそれじゃなくて、いや、どれかはわかんなくなっちゃったけど」

「なに、気ぃ遣ってんの?」

「違うって、本当に」

「俺がぶーたれてるから?」

「しつこいな、ちゃんと、お前が見つけたんだよ、もう」

 僕が苦笑いすると、黒井も笑った。

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