第276話:西新宿、路上のキス

 コンビニの向かいの、植物のない植え込みみたいな、コロッセオの客席みたいな、レンガの大きな段差の部分にのぼると、黒井は壁に寄りかかって早速缶を開けた。この場所の横と上がミネラルフェアの会場だったはずで、だからきっとここを知っていたのだろう。昼間はうちの会社のビルと同じくサラリーマンが闊歩しているだろうが、夜は人もほとんど通らなかった。

「あの・・・かんぱい」

 黒井が缶をこちらに差し出す。少し離れて横に座った僕は、「あ、ああ、ちょっと待って」と味違いの同じ缶を開けた。

「・・・乾杯」

 何に乾杯だかは分からないが、とにかくひとくち飲んだ。グレープの味がまるでファンタみたいだ。

「あの、もっと、ちゃんと店選ぶんだったよ、ごめん」

「・・・べつに、そうじゃなくて」

 さっきと違って、辺りは静かだった。

 大きな声を出したり、聞き返したりしなくても全部聞こえる。わずかなため息や、声のトーンも。広い空間だけど、響いてしまうことはなくて、周りに聞かれる心配もなかった。

「お前、ちゃんと、話してくれたからさ」

「・・・うん」

「何か、・・・じゃあ、俺も話さないとって、思ったんだよ。こんなの、話すつもり、なかったんだけど」

「・・・うん」

「お前は別に、知りたいかわかんないけどさ。・・・俺が、初めて告白されたのは、幼稚園の時。っていっても何人もいて、誰が最初か覚えてないけど。初めてのキスは・・・あ、そのさっちゃんは別だけど、五年生。・・・そんで、初めてやったのは、高校一年のとき」

「・・・」

 僕は黙ってもうひとくちロング缶をあおった。

 ストロング、9%と書いてある。

「あのね、た、確か、マユミちゃん。美術の、デッサンの時間に、仲良くなって。美術部で、美大目指してて、絵画も、マンガも、何でもよく知ってた。それで電話とかするようになって、彼氏と別れたって。大学生の彼氏。そんで俺、じゃあ、やったことあるんだって言ったら、うん、って。俺すげえ興味あったから、いっぱい訊いた。・・・だって、まあ、しょうがないじゃん?」

 少し笑う黒井に、僕は曖昧にうなずいた。普通に言えば、普通、そうだ。高校一年の男子が、興味がないわけがない。興味があるからって、直接訊いてしまうかどうかはおいといて。

「そしたらさ、もう、じゃあ、しようよってなって・・・俺すごい興奮して、とにかく、やった、出来るって、嬉しかった。次の日早速、学校終わって、ファッキンでポテト食って、それから、そそくさと路地裏に連れてかれて、・・・キス、して、ゴムつけられて、もう、あっという間。立ったまんま、後ろから、スカートん中入って、あっという間。・・・はは、前から早かったんだ、俺」

「・・・」

 うん、心臓がやけに速いのは、アルコールが回っているからだろう。

 別に、嫉妬もしないし、怒りもわかないけど、相槌ひとつ打てない。

「それから、電話と、他の場所で、いろいろ、教わった。すげー細い指で、やたら器用なの。腰までの黒髪、一瞬でいろいろ結って、身体はほっそくて・・・。好きだよ、とは言われたけど、何か、造形物として、みたいな。やるのも、あれ試そうよとか、これは体勢的に無理だねなんて、浮世絵の本とか見ながら、ほとんど芸術の延長でさ。あたしたちエロくなんないねって、色気出せ黒井ー!って頭叩かれてた。そんで、俺、実は他にも気になる子がいて、そのマユミちゃんに相談して、あと二人、なんていうか・・・落とした」

「・・・」

 おとした。

 女の子を、落とした。

 ・・・高校、一年生って、そういう、ことだったっけ。

 うん、みんなは、もしかして、そうだったのかもしれない。

「一人はえっと、すごい大人っぽくて、いっつもだるそうに髪かき上げんのがかっこよかった、外人と付き合ってたユウコと、あと、転校生で、ギャルなのに乗馬とバンドやってた、明るくて可愛いアヤちゃん。二人とも、頼んだら、やってくれた。『今日、いいよ』とか、『週末、家にひとりだよ』とか言ってくれて、すっごい、やるの、好きだった俺。それに、話聞くのも好きだった。全然知らない世界の話。その三人ともみんな、学校以外でいろいろ、生きてて、何ていうか自分の世界持ってて。・・・それで、その影響もあって、俺も学校以外で生きたくて、そんで結局ドイツ行くことになって、・・・だから、そんだけ。最後の方はエッチしないで、話ばっかしてた。正直、身体の方は・・・何ていうの、気が済んだ。だからそれが俺の最初で、全盛期で、あとは実は、そんなにしてない。なんつーか、あのあとは、女の子ってみんなオンナになってて、化粧とか香水とかいろいろ、俺そーいうの好きじゃなくて」

 ・・・。

 そうして黒井も一息ついて、チューハイをあおった。一気に喋ったからか、ほとんど飲み干す勢いで。僕も何となく口をつけて、炭酸が喉に痛かったけど、痛いまま飲んだ。クロじゃない黒井くんの話は、何だか別世界で、このままその高校時代に戻って、三人の女の子とよろしくやればいいと思った。どうして僕なんかといるんだか。

「・・・全盛期って、高一って、十六とかだよ。そっからもう、十、四年?俺、何やってんだろ」

 黒井のその声は、以前の、失われた<それ>を語る声と似ていた。

 あのかわいい「うん」よりは、こっちの方が、まあ、なじみがある。

 そして、「何やってんだろ」には、大いに同意した。

 ・・・そう、たぶん、こうして現実的な、女の子がどうとか、やったやらないみたいな話になってしまえば、ただ、リア充っぽい黒井さんと、地味で冷たい山根がいるだけだ。そこから目を背けたくて、ただただ現実から逃げていたフシもある。こんな僕とお前の共通点は、現実の中にはなかったから。

 黒井はもう一度ぐいと缶をあおり、飲み切った。「二本目いこう」と言うので、僕も缶を空け再びコンビニへ向かった。



・・・・・・・・・・・・・・・



「だって、ほんとに、きもちよかったんだもん。すっげーよかった。おれ、おんなのこの腰が好きで」

「あっそ。よかったね。それ俺に言うひつようなくない?」

「・・・裸でうしろから抱きついて、腰の骨なぞるのが、すげーよくて。細くても、がっしりでも、どっちでも」

「いらないんだよそういう情報」

「胸とかは、別にいーんだよそんなの。そうじゃなくて、おれがはいって、そんで腰おさえて、そっからもっとはいるのがすきで」

「いい加減にしろバカ犬。それ以上言ったらキレる」

「え、なんで?」

「なんでじゃないよ。だまれよ。十六でなにやってんだよ。何とか条例違反だろ、逮捕されろよ」

「なんでおこってんの?」

「・・・知るか。もういい。お前なんか知らない。女の子とやってろ」

「・・・なんでおこるんだよ」

「うっさいな。わかんないの?わかんないんなら・・・えっと」

 目は半分くらいしか開いていない。何を喋ってるのかもよくわからない。女の子たちに対する嫉妬はわかないと言いながらも、確かに僕は怒っていた。

「・・・もういい。帰る」

「ま、まってよ!」

 つかまれた手を振りほどいて、「この、酔っぱらいのハレンチ野郎!」と怒鳴った。ヤリチン!は言わないでおいた。

「な、・・・なんだとこのやろ」

「うっせーこの色ボケ」

「ふざけんな、おまえ、・・・お前、おれの気もしらないで」

「知るかよ。何で急にかっこいい黒井くんの色ボケ自慢大会なんだよ、そんなの、おれが、しるわけ・・・しりたいわけ・・・」

「・・・ごめん。ねこ、ごめん」

「・・・くそ」

 背中をさすられて、肩を抱かれたら、だめだった。

 体温が高くて、お前のにおいがして、あんな話を聞いた後で、自分が何をするか分からない。

 ・・・もう、このままホテル行って、やろうよ、俺たち!

 そう言いたくて仕方がなかった。お前に抱かれたい。お前に腰を押さえられて、後ろから深く突き上げられたい。・・・違う、嫌だ、俺は女の子の代わりじゃない。・・・代わりなんか、務まらない。

「帰るよ。終電がなくなる。帰ってひとりでする」

 歩き出して、腕時計を見るけど、何時なのか読めない。針が、何本もあって、どっちを向いてたら何の意味があるのか、ちょっと憶えていない。

「まってよ、ねこ、ごめん。おれ、おまえに知ってほしくて、きっと、ずっと、お前に、おれのこと・・・なにが好きで、どう感じるか、それ、わかってもらうのが、好きで」

「もういいよ。わかったよ。お前が女の子が好きだってのはよくわかった。とってもよくわかった。これでいい?」

「・・・」

「いいだろそれで?」

「・・・ごめん」

 黒井は大人しく謝って、鞄を取ると、僕についてきた。風に当たりたくて、地下通路ではなく地上から駅へ歩いた。

 確かに、やっぱり僕が何に怒っているのかはよくわからない。きっと、いろいろな感情が爆発する、その、吹き出し口が、セックスの話、だったのかもしれない。

 ・・・黒井は、告白せずに、三人と、やりまくっていた。

 それで、・・・俺に、こくはくしたら、どうなるの?

 おれとは、やらないの?

 それとも、やるの?

 それって、すきなの?

 ・・・全然、わからない。

 すきなのかどうかが、何のために大事なのか、自分の何に関係があるのか、さっぱりわからない。

 だから、怒るくらいしかやることがないんだと思った。



・・・・・・・・・・・・・・・・



 また繁華街に戻ってきて、雰囲気は少し、夜の感じになっていた。

 外人や、ほんの少し怖そうな人もいる。

 単なる酔っぱらいサラリーマンも多いけど、夜のお姉さんみたいな恰好の女性もいる。

 こういうのは苦手で、だからほとんど地下通路しか歩かなかった。

 でも、今日はもうどうでもよかった。みんな、そういう、告白もしない営みをしていればいい。僕だってあの時藤井をホテルに連れ込んだんだし、そもそも・・・。

 ・・・そもそも、あの女の子に、もちろん告白しないまま僕を、触らせたんだし。

 ・・・。

 そのあと、両親に、怒られたこと。

 そして、それを女の子とその両親と、他にもまさか、誰が知っているのか分からないというのは、怖かった。

 でも、本当のトラウマは、そこじゃない。

 ・・・僕は黒井みたいに、「やりたくて、出来るのが嬉しくて」なんて、あっけらかんと、言えない。あの女の子に触られて、嬉しかっただなんて、言えない。いや、恥ずかしいから言えないんじゃない。そういう、嬉しいなんていう、前向きな感情じゃないんだ。

 ・・・後ろめたい。

 後ろめたさの裏側に、愉悦が貼り付いている。

 だめなんだぞと怒られて、社会的にそれを封印したのは、あくまで二次的な問題で。

 一次的な問題は、僕がそれにしか悦びを感じないという、初めからそこにあった社会との断絶だ。

 だから、・・・お前に禁断の片想いをするのはよくて、告白されずに犯されるのもいいけど、・・・お付き合いをして恋愛をして抱かれても、感じないかもしれない。

 ・・・俺と付き合えよ、ヒロ。

 あなたと付き合ってたら、どうなってたんだ、ショウゴさん。

 大事にする、なんて言うから、この人は違うと思った。僕のことを、大事にする?僕のことを本当に思うなら、蹴り飛ばして、刃物を当ててくれなくちゃ。そうじゃなきゃ、裏側の愉悦まで届かない。あなたはそこまでする気があった?ないんならお断りだ。だからあれでよかった。あれでよかったんだ。

 クロは、いろいろ、痛くしてくれた。

 でも、急に、優しくなって。

 二次的な問題で、理論武装していたのは、緩んだかもしれないけど。

 一次的な問題は、どうにもならないよ。だってこういう人間なんだ、それは防御プログラムじゃなくて、本当にそれが僕なんだから。


 早足が徐々にふらついて、ついに、止まった。

 後ろから、追いついてくる気配。

 ただ女の子と付き合って、ただセックスをすれば、もちろんただ気持ちいいだろう。

 でも、もう、僕は・・・。

 お前と過ごした時間は、そんなもの遥かに凌駕してしまっていて、今更まっとうに告白なんかされて、恋愛話なんかされて、いったいどこへ行けばいいんだ。俺はもう、いや最初から、「すっげーよかった」なんて言葉で済ませられる普通の欲求は持ち合わせてないんだよ!

 ・・・いつまで経っても腕時計が読めないので、ポケットから携帯を出してデジタル表示を見た。

 23:03って、全然終電間に合うね。

 歩道の脇で鞄を地面に置いて、携帯と財布と腕時計も突っ込んだら少し身軽になった。

 そして体を起こしたら、目の前に黒井がいた。

 ・・・また、ごめんって言うのかな。

 それとも、また好きだって言うのかな。

 どっちなんだろう。

 ・・・。

 顔を上げて、見るともなく黒井の顔を見て、すぐ伏せた。

 だってあんまり、近かったから。

 どうせ、お前が好きだとか言って、でも触ろうとすると、逃げちゃうんだ。

 セックスなんか、告白から何日後だって、できるわけないだろ、ばーか。

 黒井が、ふう、と浅く息を吐き出した。ほんの少し斜めで向かいあって立ち、胸と肩が上下してその息遣いが分かる。

 いつもなら、黒井のことをちゃんと知ろう、分かろうとして、あんな女の子たちの分析だって始めちゃう僕だけど、今日はただ自分だけの欲求だ。お前のことなんか知らない。俺が気持ち悪くたって、それを知られたって、もう関係ない。

 キス、してやろうか。

 いや、しろよ、早く。

 じっと黙って立っている。周りには人がいるし、ここは会社の目と鼻の先。俺たちが避けてきた現実の社会。どこかへ行きたいねっていう、<ここではないどこか>の、<ここ>。まさにその、西新宿のど真ん中。

 僕も深くため息をついた。

 目の前の、パリッとかっこいいシャツの襟の間に喉仏があって、それが上下して、ごくりと唾を飲み込むのが分かった。

 ・・・何だよ、俺のこと好きなわけ?

 ・・・俺だって、好きだよ。

 一度目を合わせて、それは切なげに濡れていて、すぐ隣を人が通っていったけど、僕はそのまま口づけた。その唇は温かくて柔らかくて、「んっ・・・」と声にならない声を聞いたら、理性が飛んだ。完全に目を閉じて、誰に見られたってもう知らない。唇を少し離してふうっと息を漏らすと、黒井の身体が跳ねるのが分かった。もう一度しっかり口を塞いで、今度はわざと、「んん・・・」と声を出して煽る。腕にそっと添えられた手が震え、黒井が半歩近づいて、その下半身が当たった。思わず「ふあっ」と口が開いて、それで、もう舌を出してその唇に当てたら、ふっと熱が離れて、黒井が一歩下がった。

「・・・っ、・・・ご、めん」

 泣きそうな黒井が下を向く。

 ・・・別に、いい、よ。

 こんなところで、舌とか入れようとして、ごめん。

「俺こそ、ごめん。行こう」

 急に、誰かに一部始終を見られて後ろ指をさされているような気がして、足早に駅へ歩いた。「行こう」というより、「俺行くわ、それじゃ」の間違いだった。

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