第111話:絵空事の欧州旅行

 しばらく放心して、寝たり起きたりを繰り返していたが、よだれの海が冷たくなってきて起きた。あれ、黒井はどこ行っちゃったんだろう。僕は一人で置いてかれたのかな。

 ティッシュで口と床を拭いて、そっと部屋のドアを開けると、黒井がキッチンの床に座って壁にもたれていた。鍋が弱火にかけられている。

「ど、どしたの」

「・・・何か、失敗した」

「え、これ何作ろうとしてんの?」

「・・・シチュー」

「何で失敗なの?」

「・・・何か、いろいろ!」

 まな板にはジャガイモと玉ねぎの残骸。ジャガイモの皮、というかほとんど身も削ぎ落とされている。シチューの箱が開いていて、ルーは四分の三投入されたあと。何でそんな半端なんだ?鍋のふたを取ってみると、何やらぐちゃぐちゃの半固形物質。・・・どうしてこうなった?

「ま、まあ、何とかすれば、大丈夫だよ」

「最初からお前にやってもらえばよかった」

「ご、ごめん、ちょっと寝ちゃったみたいで」

「・・・」

 黒井はあーやだやだと言って拗ねてしまった。何とか、僕の全能力を駆使して食べられるものに仕上げなくちゃ。

 とりあえず鍋の中をかき混ぜてみた。焦げたジャガイモが底に貼り付いているし、残りのジャガイモは溶けたようだ。おたまですくって、味見をしてみる。味としてはルーの味だけなんだから、煮詰まりすぎて濃くなったのを薄めたり、ルーを足したりで調整する以外ない。ホワイトシチューにして牛乳も買ってきてれば、もうちょっと修正も楽だったけどな。まあ結局西洋シチューはコンソメだろ、とぶっこんで、まああとはシチューというかスープとして、溶けきったジャガイモと玉ねぎを摂取すればいい。

「うん、ちょっと香ばしくて、いけるよ」

 まあ、焦げ臭いんだけど。ああ、そういえばよく焦がすって言ってたな。なおも黙っている黒井にスプーンで一口食わせてやる。

「ほら」

「・・・うん」

「機嫌直して、先生」

「・・・うん」

「ねえこれ、最初水何ミリ入れた?」

「・・・適当」

「・・・」

 瞬きで動揺を発散させて、深呼吸。うん、計量カップを買ってこなかった僕が悪い。

「ほら、食べよう。俺、夕飯までご馳走になっていくから」

「え?」

「・・・うん」

 いつかは、帰らないと。

「雪だし、泊まっていけって」

「そういうわけにも、いかないよ」

「何で?明日、何かあるの?」

「いや、そうじゃないけどさ。二泊もしたら、悪いし」

「悪くないって」

「・・・でも」

「いいじゃん」

「だめだよ」

「・・・何が?」

「だって・・・」

 だって、やっぱり、いつかは帰るんだから。それが今でも、夜でも朝でも、明日でも、明後日でも。長くいればいるほど、どこにも行きたくなくなる。自宅にも、会社にも。

「と、とにかくまず食べてさ、それから、電車動いてるか調べるよ。もし動いてなかったら、それはどうしようもないんだし」

「・・・そうだね」

 ボルシチ風にしたシチュー・スープに半熟卵をのせて、トーストもつけたら何だかそれなりに見えた。昨日の酒の残りも開けて、うん、暖炉でもあれば、いい感じの合宿所の夕食。

 黒井はそこそこうまいと言うと、ふと思いついてクリームチーズを落とした。少し溶けて酸味が出て、いけるのかもしれない。僕もやってみようかな、と思っていると勝手に椀に落とされた。食べてみるとチーズが冷たくて、なかなか美味だった。

「・・・楽しいんだけど、さ」

 ふと、口に出た。楽しい、合宿ごっこ。

「会社に・・・行きたくなくなっちゃうから」

「・・・え?」

「ううん。何でもない」

 無言でスープをすする。黒井が途中まで作ってくれたシチュー。あれ、もしかして、初めて食べる手料理?・・・それなら、手を加えずに一人で飲んでしまえばよかった。

「・・・また」

「・・・うん?」

 黒井がトーストを浸しながらつぶやく。

「また、温泉とかさ、どっか行きたいよね」

「・・・うん」

 うん。行きたいよ、それは。でも、一泊二泊したって、どうせ次の日会社なんだ。ずっとずっと、あんな終わりのない面倒をひたすら処理して行かなきゃならない。

「あのさ、ドイツに・・・また行きたいんだ」

「・・・ふうん」

「今度はミュンヘンに。ミュンヘン大学を見てみるんだ」

「・・・ハイゼンベルクの」

「そう。ねえ知ってる?ミュンヘン大学の本名」

「本名?」

「何だったかな、ルートヴィヒ・マクシミリアン大学ミュンヘン、ってのが正式名称」

「何かすごい名前」

「たぶん創ったときの、何か王様の名前。ベルリン大学とかもみんなそう」

「かっこいいね」

「それで、大学と、あとマックス・プランク研究所でしょ、それからイタリアでフェルミの大学を見て、いよいよ北上してデンマークへ」

「・・・コペンハーゲン?」

「そう!ボーア研究所を見て、もうちょっと北に行けばさ、オーロラが見れるかも」

「オーロラか」

「でも、それより俺、あれがいい。白夜」

「ああ・・・」

「ドイツでもね、夜の九時くらいまで明るいんだよ。でも、一日中じゃない。ねえ、明けない夜はないって、あれ嘘なんだよ。だって白夜の反対もあるんだから」

 黒井はスプーンで皿の底をカンカンつついて、嬉しそうに話した。明けない夜はない、月曜はやってきて会社へ行く、でも、そうじゃない国もある、そうじゃない宇宙もある・・・。

「それからさ、白夜を過ごしたら、今度はスイスに下りていって、LHCに行くんだ」

「LHC?KGBの仲間?」

「・・・カーゲーベーじゃないよ。ラージ・ハドロン・コライダー。巨大粒子加速衝突器。ほら、こないだノーベル賞取ったでしょ?」

「そ、そうなの?」

「あそこで働けたらどんなに幸せだろうね・・・。それくらい頭が良かったら、よかったのに」

「ふうん」

「ねえ、合宿の次は物理学をたどる旅だよ。白夜は寄り道だけど、量子力学の始まりから、最先端の実験物理学まで。紙とペンで作った理論がさ、百年経って、何千億ドルって施設で実証されていくんだよ。ね、行こうよいつか。最後はギリシャで、プラトンに還るのはどう?エーゲ海でイデア論を再考するんだ。素敵すぎない?」

「・・・素敵すぎるかは、わかんないけど」

 とりあえずお前が素敵すぎるよ。そんな夢みたいな優雅な話が似合うなんて。

「・・・いや、まあ確かに素敵なんだろうけど、さ」

「けど?」

「でも・・・」

「うん?」

「まずは日程の問題と、それから金銭的な問題。いったい何泊になるのか?どこの宿に泊まって、何にいくらかかるのか?コーディネーターとかを頼むのでなければ、その大学やら施設やら、見学許可みたいのがすぐおりるのか?加速器って何か知らないけど原発みたいなものなら、外国人がおいそれと見れるもんじゃないんじゃないか?何カ国にまたがって、何カ国語の準備が必要?費用は一人五十万じゃきかないか、っていうかさ、そもそもそれだけの休みが取れないんだよ。俺たちの盆休みは四日だよ、有給足して一週間。でもじっくり白夜やオーロラまで見るなら、二週間、いや、本当は一ヶ月ほしい。でもそんなの無理だ。そんなの、・・・無理なんだ」

「・・・」

「・・・」

「えっと、あの、何ていうか、<いつか>の話、だったんだけど・・・」

 ・・・ああ、そうか。

 何だ、いつかそんなことが出来たらいいねって話か。

 ああ、人の夢を僕と同じ現実に引きずりおろして、何がしたいんだ、みっともない。

「・・・ごめん。忘れてくれ」

「・・・いや」

「え?」

「ああ、そうか、そうだよ。俺はいつかの、絵空事の、夢物語をしてたんだ」

「だから、ごめん」

「違うよ、逆に言えばさ、今言ったのをクリアすればそれで実現できる夢だったんだ。別に、不可能なことじゃないよ。休みなんて・・・休んじゃえばいいんだ」

「休んじゃえば、って。無理だよ」

「だって、お前の隣の、横田だって休んでたんじゃん。家にいようが病院にいようが、外国に行こうが、休みは休みだ」

「・・・そ、そんなの」

「行こうよ。三週間あればきっと行ける。出来ることなんだ」

「む、無理だよ。っていうかそれこそ、いつかの話だ」

「そんなことないって、行けるよ!」

「・・・っ」

 バン、と、テーブルを手のひらで叩いていた。やめてくれ。だから、それじゃ、だめなんだ。スープの表面が揺れている。椀から、左、右、こぼれる。ああ、拭かなきゃ。

「ティッシュを・・・」

「・・・また、踏み込みすぎた?俺」

「違うよ」

「勝手な想像膨らませて、自分の事ばっか・・・」

「違うんだ」

「じゃあ・・・」

「違うんだよ。そうじゃない。俺も行きたい。ミュンヘンを見たいよ。白夜で徹夜したい。でも、・・・三週間じゃだめだ」

「え・・・じゃあ、一ヶ月?もっと?」

「・・・一生」

「え?」

「やっぱり、帰らなきゃ」

 僕は立ち上がった。どこへも行けない。どこへも行けない、と思った。



・・・・・・・・・・・・・



 上着と鞄を引っつかむ僕を黒井が止めた。

「ちょっと、ちゃんと説明しろって!」

「説明とかない。どこにも行けないんだ」

「行けるって話を、してるんだろ!」

「帰ってくるなら同じだ。行かなくても同じなんだ。離せ!」

 もみ合いになり、突き飛ばされた。壁に背中が当たる。もっと、もっと強く!

「・・・どうしたんだよ!」

 手首を強くつかまれる。血が、止まりそうなほど。嬉しかったので、力を抜いた。

「・・・ごめん」

「会社で・・・何かあった?」

「ないよ。そうじゃない」

「俺が振り回すから、嫌になった?」

「違う」

「じゃあ」

「・・・こんな日が続けばいいって、一瞬でも、うん、だめなんだ。諦めて、ちゃんと、諦め続けないと」

「諦めるって、何を」

「高望みだよ。嬉しかったんだ。勉強会、誘ってくれて」

「・・・え?」

「こんなの、日常にしたら、生きていけない」

「別に、勉強会なんて、いつでも、毎週だって」

「そうだね。きっとそうなんだろうね。でもだめなんだ。たぶん臨界点があってさ、ブラックホールの重力と光の速さみたいに、つり合うところがあって、でも、重力が、勝っちゃったんだよ。そしたら全部悪魔で特異点だ。ほんの少しでも越えちゃったら、我慢とか、出来なくて」

 僕はその場でしゃがみこんだ。キレてる間も、ぼうっと床を見つめる沈黙でも、部屋には、地球には、同じ時間が流れ続けている。それなら楽しく笑って過ごせばいいのにね。こんな、人の家で意味不明なことわめいて迷惑かけてないで、さ。

 でも、楽しいことなんか何もないのに、黒井はあはは、と笑った。

「す、すごい。お前すっかり、もう、分かってるね。暗黒星マスター」

「・・・は?」

「な、何だろう、嬉しくて、ちょっと恥ずかしいね」

「え?」

「お前だってさ、俺が、死体のどうとかとか、アリバイのどうとかって普通に話し始めたら、きっとこそばゆくなるよ」

「・・・そうかもしれない」

「でしょ?」

「・・・うん」

 黒井はそっと僕から上着を取り上げた。僕は大人しくそれを渡した。そして、「その格好で帰る気だったの?」と言われて初めて、黒井の部屋着のズボンを履いていることに気がついた。


 

・・・・・・・・・・・



「要するに、勉強が楽しくて、会社が嫌になったって話」

「・・・はい」

「旅行もしたいけど・・・結局会社が嫌になるって話」

「はい」

「じゃあもう、二人でセルンに就職しよう。英語かフランス語、どっちがいい?」

「え?」

「公用語。雑用か清掃員くらいでなら雇ってもらえないかな」

「セルンて何」

「KGBの仲間じゃないよ。欧州何とかエネルギー?機構、みたいな。LHCの元締め」

「そこに就職したら、でも結局会社じゃん」

「意味が違うよ。あっちは粗利なんか関係ないんだ。世界の真の姿の探求だよ?こんな高邁な目的が他にあるかって」

「分かった。じゃあ先生が先に転職して。そしたらコネで就職させてよ」

「・・・それは難しいね」

「何だよ、口だけか」

「うるさいなあ!」

 テーブルの上には、タリーズで渡した僕のノートの切れっぱし。そこにミュンヘンと、ベルリンと、イタリア、コペンハーゲン、スイス、ギリシャと、大雑把な位置と地名が書かれている。スイスのところに大きな輪っかが横たわって、それがLHCなのだという。ドーナツ?そしてその元締め機構がCERN、セルンと振り仮名。フランス語の頭文字なんだとか。

「あ、でね、ちなみに俺がいたとこは、ドイツの、この辺」

 少し思い出しながらの筆運びで<Dusseldorf>と綴り、uの上に二つ点を打った。ドイツ語、なんだな。振り仮名でデュッセルドルフと書き込む。僕は見えやすいように、テーブルの向かいから横へ移動した。対面から、テーブルの直角をはさんで隣に。黒井は僕の方へ紙を斜めにして、更に書き込む。

「あのね、この辺が、ハイゼンベルクが行列理論を思いついたヘルゴラント島。その時登ったらしい岩が、今もあるんだ」

「・・・何だっけ、確か、何か病気で?」

 僕は最近の<偉人>ハイゼンベルクではなく、<部分と全体>の学生ハイゼンベルクを思い出す。

「そうそう、枯草熱で療養中に思いついたんだよ。俺もそういうのにかかればいいのかなあ」

「何を思いつくの?」

「・・・何だろうね。まあ、思いついてもそれを理論にまとめる力がないね」

「残念だね」

「・・・うるさいな」

 デザートがないので、結局僕が残したチョコをまた二人で食べた。生チョコのレンガをつついて、ゴディバの丸いトリュフを一口ずつかじる。

「ちょっと、お前の一口は多くないか?」

「え、そう?」

「今二口分あった」

「じゃあ返すよ」

 顔が近づいてくるのであわてて肩を押し返し、「あげる、あげるよ!」と叫んだ。

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