第110話:先生のお手本は、気持ちよすぎて

 僕はレンガの半分くらいでやめておいたが、黒井は全部食べてしまった。

「お前、鼻血出すなよ」

「これくらい、平気だよ」

 そう言って、結局ゴディバまで食べてしまった。チョコ中毒は自分もじゃないか?

 僕はどうにも胸焼けがして、ちょっとベッドで横にならせてもらった。

 一気に食べ過ぎたのと、それに、「好きになったってしょうがない」ってせりふが渦巻いてどうしようもない。

 ・・・。

 ああ、こうして今、じっとしてる分には大丈夫だ。でも、もうちょっとしたら、帰り支度とか、しなきゃならない。電車とか、止まってないかな。まあ、動いてるだろうな。たとえ止まってたとして、もう一泊していけばって言ってもらえたとして、でもだから何なんだろう。そして月曜が来て、好きって言えないまままた会社へ行くんだ。

 会社。

 チョコを見て会社の面々を思い出したこともあり、急に現実に引き戻されたような気がした。さっきまでブラックホールにいたのに、月曜からは五日間も会社で、その後もずっと、三月なんかもっと忙しくなるばかりだ。

 ・・・。

 ・・・ああ、嫌だ。

 急に、会社イヤイヤ病が発病した。ああ、何でこんな楽しい勉強をしてるのに、会社なんか行かなきゃいけないんだろう。人生に何の知的興奮ももたらさない、あんなくだらないことに、僕の時間のほぼ全てを持って行かれてしまう。次のまとまった休みはいつ?五月の連休?もう、うんざりする。これ、いつまで続くんだ?学生時代は夏休みがせめてもの救いだったけど、今はそれすらもない。うちの盆休みはたったの二日だ。土日と合わせて四日だ。ふざけてる!もう、一週間といわず、一ヶ月も、一年も休みたい。っていうかもう何もしたくない。会社なんか行きたくない・・・。

 こんなの、久しぶりだな。

 たぶん黒井に会ってから、ただ走るのに必死で、あと、会社に行けば会えるってのもあって、大丈夫だったんだ。少し、気が抜けたのかな。

 ・・・。

 分かってる。

 バレンタインにチョコを渡してみたって、本命チョコをあいつが退けたって、僕に未来なんかないからだ。だから何もかもが嫌になってる。仕方ない。そんなの最初から分かってたことだ。

 好きだから、理由なしに好きだから、わざわざ訊くこともないんだって、そのままのお前を見ていたいんだって、そう言えなくて、つらい。クリスマスもバレンタインも一緒にいるのに、何も伝えられない。正直に伝えたのは、知りたくないだなんて、親友としても薄情な一言だけ。ああ、もう言っちゃえばいいのかな。そうすれば楽になる?

 俺のこと何にも知らないのに、って、知りたくないくせにって、言われちゃうかもしれないけど。でも、それでも好きだって言えるよ。その気持ちは本当だ。こんなにも、確信が持てる真実。俺は、お前のこと、好きなんだ。

「ねえ」

「うわっっ!!」

 び、びっくりした、告白してるときに声かけないでよ!

「あのさあ」

「・・・うん、何?」

「ちょっと肩揉んでくんない?何か、凝っちゃって」

「・・・は、はいはい、ただいま」

「何だよ、寝てたいならいいよ」

「いいですよ先生。お疲れでしょう」

「まあ、お疲れだよ。もう、難しくて。でも面白いけどね」

 ベッドに腰掛けて、後ろから黒井の肩に手を置いた。・・・しかし、僕、人の肩揉んだりとかしたことないし、加減とかもよくわかんないんだよね。どうしよう。

「・・・こ、こんぐらい?」

 セーター越しとはいえ少し骨ばった肩に触れちゃってるし、それに、髪だの首筋だの、うん、近いよ。

「ええ?ちょっと。もっと強くだよ」

 ち、力、抜けちゃってるんだって。

「こ、こんな感じ?俺、あんまやったことなくて」

「何、お前マッサージとかすごく下手?」

「す、すいません」

「先生が教えなきゃいけないの?」

「・・・はい?」

「しょうがないな、ほら、交代!」

「い、いいって、いいですって。そんな、お手を煩わせるような」

「うるさいな、生徒は大人しく教わる!」

「は、はい!」

 え、何でこうなるのかな。僕、肩なんか凝ってないんだけど・・・。でも、内心やっぱり喜んでる僕もいて、それは身体に触れるのがどうこうってこともあるけど、やっぱり黒井が普通に接してくれるのが嬉しかったからだ。何を考えてるのかはわかんないけど、とりあえずこんな僕でも、一緒にいてくれるみたいで。したくないこと無理してするようなやつじゃ、ないよね?そのくらいしか、お前のこと、分かってないけどさ。



・・・・・・・・・・・・・



「ちょ、ちょっと、何?」

「お前肩凝ってないよ」

「だ、だからそう言って・・・!」

 黒井がベッドから立ち上がり、僕を床にうつ伏せに倒した。ベッドとテーブルに挟まれて身動きが取れない。

「俺、こっちの方が得意」

「な、何するんですか先生!」

 もがいていた腕を取られ、身体の横に付けられた。手のひらは上向きにされて、そこに黒井の膝が乗る。

「いてっ!」

 床が、ちょうどラグとの境目で、痛いんですけど!

「あ、だめか」

 つぶやいて、黒井は僕の体と腕との間に少し隙間を空け、そこに膝を押し込んだ。だから、狭いんだって!

 それから、両手で僕の肩を押して、背中、腰、とどんどん下がっていく。下がると同時に、黒井の腰も、っていうか尻も、僕の尻に着地する。う、うわ、っていうか、こんなの・・・!ま、まずくないかな。か、感触が・・・。ちょっと、全神経を尻に集中したいけど、あ、また離れて、手が肩に戻った。ひい、こんなんじゃ、下半身が、うつ伏せで寝てられなくなっちゃうよ・・・。

「い、いた、いたたた!」

 さっきより強く、親指でぐっと押される。背骨のすぐ両脇と、もう少し間隔をおいた両脇。

「んー、こっちか」

 黒井は何かつぶやいて、シャツの下から直接僕の背中に手を突っ込んだ。ちょ、ちょっと、昨日から着っぱなしで、風呂にも入ってないのに!

 背骨をすうっと上から下になぞられ、その後両手でさっきの幅広いラインの方をなぞられた。縦方向で、真ん中の背骨を1とすると、そのすぐ横の両脇が2番、更に横が3番。そして、肩甲骨の脇もなでられる。ここは4番。

 すっと手がいなくなり、今度は尻が着地して、肩の下の2番のラインをゆっくり、呼吸に合わせてぐーっと押された。ふうう、と息を吐く。親指がぐっと食い込んでいく。もう、いろいろ、何も考えられない。

「い、いた、いたたたた、ああっ」

 ぐっと押された後はさっと離れて、息継ぎ。押さえ込まれた肺に空気を満たし、また、吐いていく。

「うう・・・ああ、いたた、痛いよ先生・・・ひあっ」

 い、痛いけど、気持ちいい・・・。肩は凝ってないけど、背中は凝ってたみたい。マッサージチェアとかも苦手で痛いとしか思わなかったんだけど、ほぐれるとこんなに気持ちよかったんだ・・・。

「ひいいっ、あ、あっ、いたい・・・」

 だんだんと声もか細くなる。よだれが、垂れそう。

「せんせい、いたいよう・・・」

 目を閉じて、もう何だか、よく分からなくなってくる。2番が腰まで来て終わり、3番に移った。こ、こっちの方が、何か慣れない刺激で、痛みとは別にくすぐったさというか、ものを食べた瞬間あごがきゅーんと痛むような感覚があった。

「ひいっ、やっ、いたた・・・んんっ」

 もうほとんど、喘いでる。でも、声が出ちゃうんだもん。どんどん細く、高くなって、もう自分が出してるのか、どっから出てるのか、よくわかんない・・・。

「あっ、そ、そこ、きもちいいよう、きもちいい・・・」

 肺の空気を吐ききって、「ひあっ」っと変な声が漏れて、息継ぎ。僕が気持ちいいと言ったところは何度も念入りにぐりぐりされて、ああ、もうだめ。そこ、そこです・・・。

「せ、せんせい、うまいよ・・・ああっ、そこ、すごい、だめっ・・・」

 また背中に手を突っ込まれて、2番と3番を、全部の指で強めになぞられる。ゆっくり、黒井の指が僕の背中の皮膚をすべっていく。それから4番。シャツが更に引っ張り出され、中に空気が入る。皮膚が世界にさらされて、何だか、変な解放感が増した。もう、どうにでもしてください・・・。

「うう、いたい、いたいです・・・」

 痛い、って言えてない。いらいれすぅ、って、もうこの人誰なの?「せんせい、そこ、いいよう」って、いったい誰が言ってるの?

 4番まですっかり終わって、背中が全部ほぐれた。もう、放心。尻が急に軽くなって、密着してた熱がなくなって、冷え冷えした。お、おわりれすか。へろへろ。

「・・・っ!」

 少し痺れかけた尻に、手が、置かれた?もう声も出ない。下から、横から、両手の腹でぐいぐい押される。ちょ、ちょっとそんなとこ・・・、でも何の抵抗も出来ない。尻というより腰に近い両脇から中心に向かって押されて、「ひやああ」とへろへろ声が漏れた。もう指一本動かない。もうだめ。

 半目で寝そうになっているとふいに暗くなり、黒井の顔がすぐ上にあった。

「お前、よだれとか、垂らしてる?」

「え・・・すいません」

 口元を指で拭われる。あれ、いつの間にこんなに・・・ってまさか、その指、今舌なめずりみたいな音しなかった?

 黒井は小さく笑って、「気持ちよかった?」と耳元でささやいた。はい、としか言えない。上手ですねもありがとうも出てこない。

「・・・ほら、次、俺の番だよ。出来る?」

「・・・」

 小さく首を振る。無理ですそんなの。そんなにうまく出来ないし、そもそもしばらく動けない。

「出来ないの?」

「・・・」

 うん、とうなずく。

「せっかく教えてあげたのに?」

「・・・ごめんなさい、せんせい」

 小さくそれだけつぶやいた。そしたら黒井が上から覆いかぶさってきて、「お前、だめなやつだね・・・」と、僕の頭を強めに押さえつけた。はい、だめなやつです。・・・すいません。

「でもね、俺も、だめなんだ」

「・・・へ?」

「だって、うつ伏せになんか、寝れないよ」

「・・・」

「お前が変な声出すからだよ。どうしてくれんの?」

「す、すいません、おれ・・・きもちよくて」

 髪の毛を乱暴につかまれて、床にぐりぐりと押し付けられる。い、いたい。

「ごめんなさい・・・」

 何だろう、痛いし、みじめなのに、身体は気持ちいいんだ。

「・・・反省した?」

「はい」

「今度からちゃんと出来る?」

「・・・できない、ですけど、がんばります」

「しょうがないな、こんなの、赤点ギリギリだからね?」

「はい、わかってます、すいません・・・」

 ああ、危なかったんだな、僕、赤点なんか取ったことないのにさ。・・・この教科、暗記も出来ないし対策もないし、いつもぶっつけ本番だから・・・ええと、何だっけ?先生は怒って、「ああ、もう!」と低い声で乱暴にドアを閉め、出て行ってしまった。ああ、すいません。出来が悪くて、すいません・・・。

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