第109話:戦利品をはんぶんこ
たぶん、黒井がごく普通に「わかんないとこ、センセイに訊いてよね」とか言ってたら、僕はむしろ何も訊かなかったと思う。でも、僕が先生って呼んだ途端にあいつが妙に照れるから、あいつに対して、僕の中で変なスイッチが増えてしまったみたいだった。
先生をちょっと困らせてやりたい、だとか。しかも、可愛がられたいとか、そんな欲求・・・!あ、ちょっともうだめ。
「せ、先生!俺ちょっと、ペンを買ってきます」
「・・・ペンって?」
「蛍光ペンが、切れたので」
「そ、そんならうちに、あるよ」
「そう?」
「い、いつまでその喋り方なの?」
「何か、自分でもおかしくなって、戻らなくて」
「もう先生はやめてよね!」
「でも、クロって呼び捨ても、いけませんし」
「いけなくないよ!クロでいいでしょ!」
「そうかなあ」
「じゃあ俺山根くんって呼ぶの?やだよ」
「山猫くんでいいですんで」
「な、何それ」
「俺も黒犬先生って呼びます」
「もう、わけわかんない。勝手にして!」
「はーい」
黒井は、ねこがまたおかしくなっちゃったよ、とつぶやいた。何だよ、またって。
僕はかすれかけたペンを捨て、黒井から借りたペンで・・・って、色が違うじゃないか!どうして黄色で引いてる人にピンクを渡すのかな。
「ねえ、黄色はないの?」
「ない」
「・・・そう」
まあいい。先生がないと言ったらないんだし、ピンクでやれと言われたらやるんだ。ページの途中から色が変わるとか許せないけどしょうがない。・・・さて、ざっとそれらしいところに線を引いたら、精読しなくてはね。目の前に素敵な先生がいるからいまひとつ集中できないけど、ここが踏ん張りどころだ。やってみせる。やってみせるよ俺は。
ここでいうホログラムというのはあの、銀のシールに絵が浮き上がって見えるようなあれのことではないようだった。それよりも、二次元バーコードの方が近い。ぐちゃぐちゃのモザイク模様に特殊な光を当てると元の像が立体で再現される。レイア姫を思い出した。
しかも、モザイク面の一部分だけ破ったとしても、そこから粗い画素の立体が取り出せるらしい。たとえば普通の商品についてる線のバーコードも、線が長くても短くても、たぶん横方向に半分に切っても読み取れるだろう。まあ、そういうホログラム面があるということだった。三次元の立体を二次元に閉じ込めたモザイク模様。
何だか難しいことが書いてあるけれども、要するに、ブラックホールの中の情報はそれを取り囲む事象の地平面に、ホログラムのモザイク面として書かれている、ということだった。
・・・何だそれは。
ある立体の中に、例えば図書館の中に本や紙をどんどん詰めていって、マイクロチップも放り込んで、つまりは文字情報を1ビットずつ中に入れて、その情報が入る限界値というのは、図書館の広さ、つまり体積ではなく、図書館の壁の表面積に比例しているらしい。これは直観に反しているが、事実だ、と書いてある。そりゃそうだ、どうして図書館に本を入れるのに、内部の空間でなく壁や屋根の表面積なんだ。いや、そりゃ図書館が広ければ表面積も増えるんだから、一緒じゃないか?いや、立方メートルと平方メートルでは話が違うか・・・ううん、混乱するが、これは前提として証明されていることらしいので、そのまま信じる事にする。まあ、何かに比例して増えるんだろう。
そして、最終的にマイクロチップよりすごい情報記録装置でもって図書館を埋める事にする。それは原子だか素粒子だか1個につき1ビットという情報で、それでどんどん詰めていく。詰め続ける。すると、ある地点で図書館の床が抜ける。・・・つまり、重力崩壊を起こし、特異点が出来、ブラックホールになる。その周りを、光速と釣り合った半径の事象の地平面が覆う。重い星が潰れようが、1ビットの素粒子で満たそうが、ブラックホールになってしまえばそれは区別がつかない代物らしい。星みたいに、赤いのや青いのや、輪っかがあるとか、そういうのは一切なくて、その組成に関係なく、行き着くところは同じ姿だ。まるでダークファンタジー系のRPGみたい。どんな英雄も、剣士も魔法使いも七賢人も、堕ちて悪魔に成り下がれば同じ姿で同じことを言い始める。その存在意味は、世界を呪い、滅ぼすことのみ。もう名前も個々の特徴もない、<悪魔>という概念になってしまう。暗黒星、とか言ってたな。似合いの名前じゃないか、そっちの方がかっこいい。
しかし物理学者は中二病ではないようで、その特徴のなさを<名もなき悪魔>ではなく<ブラックホールには毛がない定理>と言い表した。髪型で区別がつかない、ハゲ頭というわけだ。もうちょっと何とかならなかったのか。
まあとにかく、元は何であろうがブラックホールになってしまえば、中身の情報は一切引き出せない。事象の地平面をくぐったら最後、絶対情報を持ち帰れない。図書館の中身は永遠に不明・・・というところに、ホログラムがやってくる。三次元情報を掻き混ぜたモザイクのバーコード面。
いわく、先ほどのビットを図書館に放り込むたびに一つ一つ数えていて、正確なビット数が分かっているとする。そしてその数は、事象の地平面の表面積に、モザイク面的に書き込めるビット数と一致する。ビットというのをコインに書かれた<1>か<0>の情報だとして、ブラックホールの中はコインがじゃらじゃら、そして周りの表面には一面に<1><0>がびっしり書き込まれている・・・。うん、それって中身丸見えじゃないか。本の表紙と裏表紙に本の中身が全部書いてあるようなものだ。
しかし、何だかまさに身も蓋もない、みたいな話が難しい理論で拡張されると、すごいことになるらしかった。
この宇宙丸ごと、その中身が<中身>であり、それを覆う宇宙の地平面に、僕たちの情報が刻一刻変化するモザイクとして書かれている、という。まるでそれは昔流行った、宇宙のアカシック・レコードみたいじゃないか。
ふと黒井を見ると、飽きずに<標準模型>を読んでいる。<標準模型>なんて響きに比べて、僕はどうしてこんなにオカルトチックな方向へ来てしまうんだろう。まあ、ミステリとオカルトは紙一重であって、そこをうまいこと現実的な方向で縫い合わせて波乗りしていく醍醐味ってのもあって、そしてそれが本物の物理学を土台としてるなら、まあ願ったり叶ったりというところではある。まあ、そもそも時空が破れた特異点というところで、どのレベルの現実の話をしてるのかってのがもうアレな話だし、僕はそこに惹かれたわけでもあるし、仕方ない。たぶん僕は圧倒的な現実逃避がしたいのだろう。完全な現実に基づいた現実逃避。ファンタジー世界になんか逃げ込みたくはない。この現実から科学の推論を積み重ね、積み重ねて、その先にある、そしてここから地続きのどこかへ行ってしまいたいのだ。
急に何かの音が鳴って、それは黒井先生の腹の音だった。ああ、もうお昼か。
米を炊いていなかったから、パスタにした。麺を茹でて、隣のフライパンでベーコンと玉ねぎを炒め、ケチャップとコンソメで味付け。サラダがないけど、フライパンをおろしてやかんを乗せ、ポタージュスープをつけよう。キッチンタイマーがなくて、つい茹で時間を計り忘れていたから、仕方なく何度も麺を味見。まだ芯がある、まだちょっと固い、もうちょっと・・・。ふと、スパゲティのように伸びてブラックホールに落ちることを考えた。人間一人分のスパゲティは何メートル?それとも圧縮すれば意外と高密度に出来ちゃうのかな・・・おっと、味見味見。
アルデンテよりちょっと過ぎたけど、平皿に盛って上から大味のケチャップ・ベーコンを乗せ、出来上がり。急いでさっきのコーヒーのマグカップを洗って今度はスープ・マグになる。ああ、ブロッコリーとかアスパラとかの緑が欲しいなあ。
「あ、あの、お待たせ」
「すげーいい匂い!」
ベーコンと玉ねぎとケチャップがまずいはずもなく、インスタントのスープもまずいはずがなく、あっという間に二人で平らげた。
「うまかった!」
「そりゃ、よかった」
黒井がトイレに立ち、僕は早速洗い物。ああ、洗濯物も部屋干ししなきゃ。そしたらアイロンもかけてやるか。あ、掃除機も。家事に精を出している間は黒井はただの黒犬で、僕はただの当番の人だった。
・・・・・・・・・・・・
しばらくすると黒井は読むのに疲れたのか、甘いものが食べたいと言い出した。しかし、あいにく買ってきたのはせんべいとポテチだった。
「あ、そうだ!」
「え?」
「チョコ食べようよ」
「・・・オレンジのは、食っちゃったじゃん」
「そうじゃなくて、ほら、もらったチョコ」
「え、バレンタイン?」
「お前ももらったんでしょ?へへ、みんな食っちゃおうよ!」
黒井はずっと座っていた膝をパキパキ鳴らして屈伸すると、玄関の鞄から手のひらいっぱいのチョコを持って来て、テーブルにぶちまけた。
「ほら、お前のも出して?」
「え、お、俺のも?」
「・・・あ、やだ?帰って一人で食べたい?」
「いや、別に、いいんだけど」
・・・っていうか、こんなに、ないけど。
僕はゴディバの小さな包みと、菅野からの生チョコと、あと三つの義理チョコをテーブルに置いた。
「・・・戦利品、ってわけ」
「そ。山分け?」
「・・・お、お前がいいなら」
「じゃ、コーヒー淹れて!」
そうだった、バレンタインだったんだ。黒井といると時間が濃密なのか、すぐ昨日のことまで忘れてしまう。ああ、菅野がチョコを渡すのにどうこう、ってのが、昨日のこと?何だか信じられない。
コーヒーを持って部屋に入ると、テーブルの上のチョコが綺麗に整列していた。菅野からのと、女性陣一同からのは二つずつ並んでいる。さて、他は誰からもらったんだ、色男?
「で、この最高級は、藤井って子からの本命?」
あ、先に訊かれてしまった。も、もしかして少しは妬いてくれてる?曖昧にうなずいて、「・・・最高級って」とつぶやく。
見れば、一番上がゴディバで下が佐山さんからのチロルチョコだった。ああ、お前のお姉さんがやってたってやつ?
「そういうお前のは?」
「え、俺?・・・これはお得意先のおばちゃんから。こっちは妹尾さん。これが、ええと、誰だったか後輩の女の子。そんでこっちが菅野ちゃんと島津さんと、あと伊藤さんだったかな」
「・・・で、どうして空箱まで置くわけ?」
「え?だって、戦利品だもん」
「・・・、べ、別にそれ」
さっきから見ないようにしていたが、<オランジェット>までちゃっかりテーブルの端に乗っていたのだった。いや、だからそれ、うん、まあ、あげたんだけど、さ・・・。
「じゃあ食べよっか。あ、お前、本命だけは一人で食べたいとかある?」
「え、別に、何でもいいよ」
っていうか、本命、なんだろうけど、付き合ってるわけでもないんだしね。
「俺が半分食ってもいいの?」
「うん。たぶんそれ、二つ入りだろうし」
もらったのが嬉しかったのであって、別にチョコ自体が食べたいってわけでもないから、それはどうでもよかった。ゴディバだろうがチロルチョコだろうが、まあ、チョコはチョコだ。
「じゃ、これは一個ずつね。そんで菅野ちゃんのはそれぞれ食べればいいし、これは二枚入りだし、こっちは割ればいいし・・・」
「そ、そんなに律儀に半分にしなくても」
「え、だっていろんな味食べれた方が得じゃん?」
「得?・・・ま、まあいいけどさ」
とりあえず、その後輩の女の子っていうのが唯一気になるけど、チョコ自体はそれほど本命っぽくもないし、菅野以外の心配はしなくていいみたいだったから、まあひとまず安心した。
「じゃあ、二人の戦利品に乾杯!」
「え?コーヒーで?・・・しょうがないな」
よく分からない乾杯をして、でもまあ、テーブルに並んだチョコは男として嬉しいものがあった。黒井は今更嬉しくもなかろうが、たぶん、勉強のしすぎで糖分が摂りたいんだろう。
「・・・あ」
「え?」
「いや、まあいいか」
黒井は早速下から、つまりチロルチョコから手をつけた、が、ああ、割れないね、それ。てっきり食べてしまうかと思ったが、黒井は半分だけかじった。
「え、いいってば」
「だってお前がもらった分だし」
「あ、まあ」
受け取ろうとしたが、「溶けるから」と口に突っ込まれた。溶けて指についたチョコは、唇になすりつけられた。そして、黒井は自分の指を舐め、僕は自分の唇を舐めた。心拍数が上がっていく。誰かポッキー一本とかくれてたら、もっといいこと出来たかも、なんて。
「じゃ、次!」
小さめの個包装が順当に空いていき、菅野の生チョコまで来た。箱を開けると、綺麗なココア色のレンガが並んでいる。あれ、二人とも同じもの?たぶんたくさん作ったんだろうけど、本命と同じものもらっちゃって、何だか悪いな。
「・・・あのさ」
「うん?」
生チョコを前に黒井がつぶやく。な、何だよ、知らないよ、付き合うとか何だとかは、勝手にしてくれ!
「菅野ちゃんのこれって、俺とお前に本命なの?」
「・・・そ、そんなわけないだろ。俺のはただのおすそ分け!」
「そうなの?」
「お前にその、チョコのこと訊いたから、そのお礼だって」
「ふうん。俺って菅野ちゃんに好かれてるの?」
「・・・そうだよ。そんなこと俺に訊かないでくれる?」
「あれ、お前もしかして?」
「ち、違うって」
妬いてないよ!いや、妬いてるけど。
「そうなの?だってお前の方が菅野ちゃんと仲良いからさ。うん・・・どうして俺なんだろう」
「そんなの、り、理屈じゃないだろ、恋って」
「・・・ふうん?」
「何だよ」
「お前も恋してるの?」
「な、・・・な、なんだそれ」
「だって、まるで分かったような口ぶり」
「そ、そんなの、一般論だよ。人としての、心の機微だよ!」
「ふうん。ま、俺、彼女イナイ歴・・・の人間だからさ、わかんないよ」
「あっそう!もう、菅野さんのチョコ、お前なんかにもったいないね!」
「俺もそう思うよ」
「何だそれ」
「だってさ、俺のこと何にも知らないのに、好きになったってしょうがないじゃん。あんな、若いんだからさ、俺のことかまってる時間なんて、もったいないよ」
目を伏せたまま黒井はチョコをピックで突き刺して一つ食べ、やらかい、と言った。
・・・何だか僕に、言われてるみたいで。
何にも知らないのに、好きになったってしょうがない。
そういえばいつもお前は言ってたね、「俺のこと分かってない」って。それなのに僕は昨日、興味もないし知りたくないなんて言っちゃったわけだ。それなのにどうして今日も、今も、まだこうして一緒にいてくれるんだろう?ああ、分かってないんだから、わかんないのか。少なくとも菅野の方が、知ろうとしてるよね。
・・・。
ここで、素直にどうして?って訊けば、一歩進むんだろう。お前のこと、理解していけるんだろう。でも、面と向かって「知りたくない」とは言えるけど、「好きだ」とは言えないから、プラス方向にはちっとも進まない。僕の恋心が僕の恋の邪魔をする。でも、仕方ないだろ、男なんだから。
僕も自分がもらった生チョコを一口食べて、ああ、やらかい、とつぶやいた。何となく二人でうなずきあって、おいしいね、って感じで食べた。黒井が菅野とすぐにどうこう、ってことはないみたいで落ち着いたけど、それほど慰めにはならなかった。
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