(2日目:会社が嫌になって、もう、世界が終わればいい)

第108話:黒井先生、お願いします

 翌朝、九時前に起きた。

 会社、と思って慌て、ここはどこだと慌て、黒井を見て更に慌てた。僕に背を向けて、丸まっている。起こさないように慎重にまたいで、ベッドを降りた。今日は、落ちないように。

 湯で顔を洗って口をゆすぎ、勝手にタオルを借りた。ユニットバスの洗面台に来たついでに風呂の水を抜いて、以前自分で買った洗剤とブラシでバスタブを洗った。それから昨日まとめておいた洗濯物を洗濯機に突っ込んで、洗剤を入れた。音がうるさいから、回すのは黒井が起きてから。

 昨日飲み食いしたもののゴミもまとめて、冷蔵庫の中身を確かめる。紅ショウガと、笹かまぼこと、クリームチーズと、瓶詰めの海苔。僕がいない間よく一ヶ月暮らしてこれたものだ。

 玄関に無造作に置かれていたクリーニング屋の会員カードを見つけ、ああ、昨日のダッフルを出さなくちゃと思った。ズボンは洗濯できるけど、コートまでは無理だ。

 クリーニング、食材の買い出し、それからまた図書館で資料も仕入れたいし、出せるならゴミも出したい。雪はまだ降っているだろうか?

 昨夜のさまざまな混乱の後で、秩序回復への欲求が波となって押し寄せていた。とにかくリセットして、フラットな状態にしなくては。トーストとコーヒーでブランチをするまでに、それをしてしまおう。

 僕は上着とコートを着て、土曜なのにスーツで部屋を出た。湿った靴下と湿った靴が最悪だが、降り続いている雪を見たらどうでもよくなった。帰ってまた足を洗うしかない。

 マンションのゴミ捨て場は土曜も開いていて、まずはゴミ捨て終了。あとは雪の中を歩いてスーパーと図書館を回り、住所の書いてないこのクリーニング屋を発見したらコートを出す。よし。

 

 雪の中を歩く人は少なく、僕は昨日のコンビニまでの小旅行?を思い出しながら、多少感傷的になって歩いた。

 黒井にとって僕とは、何なのだろう。

 一番訊いてみたいはずのことなのに、昨日は思い出しもしなかったし、っていうか、「俺のこと好き?」ってまともに訊けるはずもなく、そしてたぶん、僕は聞きたくもないのだ。

 今聞いたって、明日には、変わるかも。

 来月には、ホワイトデーには、違う人といるかも。

 僕はどんな永遠性を求めてるんだって話だが、それでも、聞かなければ、ブラックボックスに入ったままの情報なら、それでいいんだ。しなくてもいい一喜一憂はしたくない。

 ・・・。

 性懲りもなく、昨日黒井がどれだけ自分に触れたか、思い出したりしている僕がいた。だって、しょうがない。あの極限状態で裸で抱き合って以来、半月ぶりなんだから。

 ・・・。あ、あれも、思い出すと恥ずかしいな。

 でもそれより、昨日「好きなんだよ、山猫」と言われたその声を思い出すと、腹が透けるのを通り越して、ほとんどイッたかのような恍惚感。自分のことじゃないって分かってても、勝手に身体が震えた。あんなの、勘違いしたってしょうがない。僕はポケットに入れていた手を出して、冷たい空気にさらした。せめて思い上がったそのプラス分を元に戻したくて、体でマイナスを払わなくちゃ。ついでにまた指を噛むくらいでトントンかな。僕はまた赤くなってやたらカサついた左手の人差し指を噛んだ。感覚がなくて昨日ほど痛くないが、同じだけ穴が開けば、同じと見なされるだろう。痛むかどうかは主観の問題で、それなら痛みを感じないよう鍛えておけば、ボクサーが減量するみたいに有利になる。少し気が済んで空を見上げ、それから指に開いた穴を見て満足した。

 

 スーパーの中にそのクリーニング屋はあった。コートを出すと、代わりにYシャツを二着渡された。

 そのまま買い物をしようとしたが、パンのコーナーは品薄だった。雪の影響で入荷が遅れていますとの貼り紙。ああ、なるほどね。

 残っていた食パンをかごに入れ、ベーコンや卵、じゃがいも、玉ねぎ、ポタージュスープの素、シチューのルー、それから調味料をいくつか。あとポテチにせんべいを買って、買い物は終了。

 一つずつ片づいていくのが気持ちいい。あとは<本番>の時に調べた図書館へ。

 <ブラックホール>で検索をかけると、<ブラックホール戦争>と<ブラックホールで死んでみる>というのがヒットした。しかし後者の方は刺激的なのはタイトルだけで、中身は科学エッセイというかコラム集だった。そして、前者はまさにブラックホールとホログラムを扱ったどんぴしゃのものだった。

 というかまあ、この作者はスティーブン・ホーキングとブラックホールをめぐって二十年来争っているということで、まあ、どんぴしゃというよりは、僕はこのやりとりの一端を<ホーキング、未来を語る>で見て、それで興味を持ったということらしかった。そのまさに原点がこの本に書かれているわけだ。

 しかし逆に、この本全部がその内容なのだが、全部読むにはあまりに分厚かった。コピーを取ろうにも、このままでは全ページコピーすることになりかねない。

 とりあえず<ホログラムとしての世界>という章をコピーするにとどめることにして、さあ、合宿所に戻らなくちゃ。



・・・・・・・・・・・・



 勝手に借りた鍵を開けて玄関に入ると、黒犬が出迎えた。

「おかえり」

「た、ただいま・・・」

 スーパーの袋とクリーニングの袋を置いて、靴を脱いでいると黒井がマフラーを取り、コートを脱がせ、何だかおかしな気分になってくる。別に、会社から帰った旦那様じゃないんだけどな。

「また勝手にいなくなったね」

「ああ、ごめん。書き置きすればよかったか」

「どうせ買い物だと思ったけどさ」

「まあ、ね。ほら、シャツ取ってきた。いつから出しっぱなしなんだ」

「・・・クリーニング?ああ、すっかり忘れてた。何か足りないと思ってたんだ。ほら、最近自分でやってるから」

「・・・ああ、そっか」

 アイロン、か。自分が贈ったものを使ってくれてるなんてこそばゆくて、僕はさっさと雑事に戻った。

 まず靴下を脱いで洗濯機に入れ、そのまま回した。それから冷蔵庫に食材をしまい、コーヒーのために湯を沸かす。

「い、今、朝食を」

「うん」

 新居じゃない。愛の巣じゃない。自分に言い聞かせる。ここはただの・・・合宿所だ。

 黒井は僕を残して部屋に戻る。朝食ほか全ての当番なんだろうな、僕は。昨日買ったコーヒーを淹れ、トーストにクリームチーズを塗って皿に乗せた。お揃いのマグカップが欲しいだなんて、いやいや、そんなこと。

 一ヶ月ぶりなのに、こうしてちょっと慣れてしまうともう、ずっとここで暮らしてるような気になってしまう。むしろどうして一緒に暮らしていないんだろう、なんて。・・・あ、牛乳買うの忘れた。ここの家のコーヒーミルク、開けたらどろっとしてて、賞味期限半年前のだったんだもん。

「お、お待たせ」

 まずはコーヒーを二つ運び、それからトーストを持っていく。黒井が本から顔を上げて笑いかけるから、少し照れた。まったく僕は、旦那様なのかお嫁さんなのか。

「いいね、朝食が出てきた」

「別に、そんな大層なもんじゃ・・・」

「合宿らしくていいじゃん」

「そ、そうだね」

 そうそう、合宿、合宿。

 窓から見える雪を見ながら、トーストを噛む音が響いた。

「ねえ、チーズもっと塗りたい」

「はいはい」

 冷蔵庫から輸入もののクリームチーズのカップを持ってくると、黒井はほとんどてんこ盛りというくらいに乗せて食べた。

「俺、今度からこれくらいね」

「今度も何も、もうなくなるよ」

「いいの!覚えといて?」

「・・・はいはい」

 また、好きなものを教えてくれてるってやつ、なのかな。アメリカンクリームチーズ、青い容器、てんこ盛り。覚えた。

「あのさあ、お前、今日やることある?」

「え?」

「その、勉強するもの、とか。うち、ブラックホールについての本はないんだけど・・・」

「あ、大丈夫、図書館に寄って来たから・・・」

「え?そうなの?借りれた?」

「いや、コピーだけ」

「あ・・・、そう。言ってくれれば、カード貸したのに」

「いや、いいんだ。どっちにしろコピーしないとなんないし」

「ふうん・・・」

 黒井はマグカップに口をつけたまま少し黙った。あれ、何かまずかったかな。お前に興味がなさすぎた?・・・なんて。

「もしかして、何かしてほしかった?」

「え、ううん、別に」

「まあ、俺が出来ることなんてないと思うけどさ」

「いや、うん、まあ」

「・・・何だよ?」

「・・・うん。何か勝手に俺、知ってることお前に教えなきゃって、思ってたみたい。でも全然、要らないね」

「え?」

「まあ、ブラックホールは元は暗黒星って名前だったとか、シュバルツシルトさんのことくらいしか、知らないんだけどね」

「シュバルツ・・・何とか、半径?」

「戦死しちゃうんだけど」

「そ、そう」

「あ、あの、お前訊かないから先に言っとくけどね、俺やってきたのって、物理史だから。今ようやく素粒子のこと勉強してて、でも基本的には百年前とか五十年前の知識しかないからね。最新のひも理論とか、あと数式とか相対論の計算とかも、わかんないからね!」

「・・・そ、そう」

 黒井は何だか一人で憤慨して、床をドンドン叩いた。あ、もしかして、何か教えてくれるつもりだったのかな。僕はもうちょっと、先輩に対して謙虚に、ああ、っていうか弟子入りすべきだった?

「ご、ごめん。黒井先生」

「な・・・!」

 そ、そうだよな。同じ立場で合宿だとか、共同研究者気取りとか、厚顔無恥だった。黒井は大学からこっち、ずっとやってる先輩じゃないか。一緒にやるとか言うから、つい同じゼミ生みたいな感覚になってしまった。そうか、<一緒にやる>からには、相手のことも考えなきゃな。昨日今日始めた人間に「何かしてほしい?」なんて、そりゃ憤慨もするだろう。

「先生、俺、その・・・すいません。勝手に進めちゃって」

 テーマや課題は先生からもらうもんだよね。そんで、手取り足取り一から教えてもらうもんだ。人から教わるのって苦手で、だから一人でやってきたわけだけど、黒井先生なら話は別だ。うわ、考えてもみなかった。真理の大海が一緒に見たいとか、勝手に夢見ていつか追いつきたいとか思ってたけど、変なプライド捨てて、さっさと弟子入りすればよかったのか。もちろん僕が僕自身で<極上ミステリ>を見極めたいってのは変わらないけど、ああ、そうだったのか。<親友>とか<相棒>みたいに思って、肩を並べたい、並べるまでは必死なところを見られたくないって思ってたけど、立場を変えればそんな態度も転じてしまう。先生と生徒なんだと思えば、僕は何も知らなくて当然であって、うん、そんなら、いいか。

「ちょ、ちょっと先生とか、何!だから俺教えらんないって言ってるじゃん」

「そんなことないです先生。俺が傲慢でした。自分だけで出来るとか、間違ってました!」

 床に手をついて頭を下げる。黒井が慌てて飛んできた。

「な、何なのねこやめてってば!お、俺、そんなんじゃ」

 黒井にしてはめずらしい慌てぶりだった。てっきり、「そうだよ、だから言ったのにさ」とか言うかと思ったのに。

「いえ、先生」

「もう、何なの?からかうの、おしまい!」

「からかってないって。お前が一緒にやるとか言うからおかしくなったんだ。最初から教えてやるよって言ってくれれば」

「だ、だから教えらんないんだって言ってんでしょ!お前のその、ホログラフとかも、知らないし」

「・・・っていうか、最初からテーマをくれてれば」

「な、何が最初からだよ。そんなの知らないよ!」

「あ、そうか」

「・・・お前が、何にも言わないからだろ!」

「・・・そうか」

「い、今更何なんだ!まったく、だから、めちゃくちゃだって」

「ごめん」

「しょ、しょうがないな。でも、先生とか無理だからね!俺、教えるの下手だし」

「実は俺も、教わるの下手」

「・・・じゃあ、だめだね」

「うん」

「・・・なら、逆は?」

「え?」

「お前が教えて、俺が教わるの」

「・・・教えられるわけないでしょ」

「俺、教わるのはわりと好きだよ」

「お前が好きだからって」

「人に教えた方が身につくっていうし」

「いや、無理だって。何でそんな、釈迦に説法みたいなこと」

「だから、俺知らないんだって。いいじゃん、物理っていうかさ、お前のその、ミステリみたいな感覚で教えてくれれば」

「そ、そんなこと、言われてもな」

「別に発表会しろとか言わないよ。俺が訊いたら、教えてよ。俺も知りたい」

「・・・わ、分かった。いえ、分かりました先生」

「・・・白衣とか、着たくなるね」

「用意しましょうか」

「いらないよ!」


 黒井がそっぽを向いて本を開くので、僕は皿とコップを下げた。何度か先生と呼んでみたが、しばらくすると慣れてしまったようで、それほど慌てなくなった。ちょっとつまらないなと思いつつ、<生徒>という仮面をつけてしまうと、わりと何でも言えてしまいそうな自分に驚いた。「俺、先生のこと、好きです」とか、ふつうに、言えてしまいそうで。

 ・・・。

 い、言えないって!

 何プレイをしてるんだ俺は!

 ・・・で、でも、何だか興奮するな。ちょっと、いいかも。黒井先生とか、あれ?やばいかも。居残りで追試受けたりとか、その後も、放課後の教室で、なんて・・・。

 だめだ、変な想像しちゃったらもう、呼べなくなりそう。っていうか、何か勢いで、久しぶりに別の自分っぽいのが突っ走っちゃったけど、今更ながらに恥ずかしくなってくる。面と向かってよくそんなこと言えたな。いや、先生って呼んだのは、最初は本当に謙虚な気持ちからであって、まあ、今はちょっと違くなってきてるけど、とにかく・・・!

 ・・・ふう。

 深呼吸をして落ち着こう。キッチンに逃げてきて、これから顔を合わすのがちょっと気まずいけど、自業自得だ。

 とにかく、どちらにしたって僕はこれからちゃんと勉強しなくちゃ。黒井に訊かれても教えられるくらい理解を深めなきゃいけないし、それに・・・。

 く、黒井先生に可愛がられるためにも、頑張って勉強しなきゃ、だよね・・・なんて。

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