第107話:虎じゃない山猫と、狼じゃない黒犬
・・・。
しかし。
何で、言えないかなあ。
今、こうして真夜中、いや、わずかに明け方?外は雪で、二人はベッドの中で、暗闇でお前は天井を見つめていて、これ以上の機会なんかない。明日になれば、空気が変わってしまう。今言わなきゃ、さっきのお前の言葉に対する返事はたぶん永遠に出来ない。普通の会話の中で出来る話じゃない。
うん、分かってる。言うなら今なんだ。
宙ぶらりんのポケットに入ったような、この時間に。どんな言葉も明日には幻のような記憶になる、この浮いた時間。夜が明ける、その前に。
でも。
・・・でも、何で、出てこない!
今お前が死ぬところなら、これから零戦にでも乗りに行くなら、僕は百万回でもお前が好きだと叫ぶのに。
でも、そう簡単に世界は終わらないから、叫べない。ああ、大声で叫びたいな。本当に腹の底から、喉が裂けるような大声。どれくらい、そんな声出してないんだろう。こんな生活してたら、24時間365日、そんな声を出すことはない。いつか、雪山で叫んでみたいな。
・・・。
さて。
言わなきゃ、いけないな。
何一つ、出てこないけど。
本当は「お前、今何考えてんの?」なんて訊いてくれたら楽だけど、でもそれじゃ意味がない。
・・・言えって、今すぐ!
でも、何て?俺お前のこと好きなんだって?そうじゃない、何か、違うんだ。
ど、どうしよう。夜が明けなくたって、黒井が寝ちゃったらおしまいだ。もう時間はいくらもない。こんな、考えてたってしょうがない。何でもいいから何か決めて、踏み出すっきゃない。でも、だから何て?取っ掛かりだけでも!
どうして雪が好きなのとか、物理のどういうところが面白いのとか、演劇部では大声を出すのかとかどんな台詞があったんだとか、でも、全部、違和感。こんなの、用意した質問。わざわざそれっぽいものを引っ張りだしただけの、カンペ。こんなとこでカンペ見てないで、本心言わなきゃ、生きてる意味ない!
どうなんだろう、本当に、本当に僕は黒井に興味があるのかな。わかんない。知りたくなんかないけど、え、興味って何?知りたいって意味なら、ないんだろうね。魔法の石の組成なんか知りたくなくて、ただ手のひらで、眺めていたいんだ。
え、じゃあ、興味ないよって正直に言うの?でもその身体とか味には興味ありますって?バカじゃないの!?
いい加減腹が立ってきた!
<興味>って、どういう意味だ!味を興すって何だよ!そうじゃない、辞書なんかに載ってるはずない。思い出すんだ、言葉なんか関係ない瞬間を。
・・・。
ああ。
月、か。
あの本番の現場で、階段の踊り場の窓を見上げて、タバコを吸いながら読書するお前を想った。月を見たかったのかな、と想像して、それはとても、大層な幸せだった。僕にとってその想像は、月に思いを馳せるようなそれだった。知りたいんじゃない、ただ、感じたいだけだ。つかみたいんじゃない。手を、伸ばしたいだけだ。
ああ、この感じだ。分かったのに、どう言葉にすればいい?<興味>なんて単語一つで色褪せてしまう。
・・・しかし、よく考えたらこんなのただ僕が空想に耽って愉しいってだけの話で、あいつにしてみれば気持ち悪いばっかりじゃないか?僕の中ではこんなに美しい情景なのに、まったく身も蓋もない!やっぱり呆れた!
いい加減にしてくれ!墓穴を掘るばっかりじゃないか。こんなんなのに、お前は俺に興味があるって?俺の馬鹿さ加減に?愚かさ具合に?どうしてこんなんで生きていられるんだって、知ってみたい?ねえ!
だめだ、誠実になろうとすればするほど、ただどうしようもないってことが浮き彫りになる。もっと綺麗に、かっこよくいかないのかね。ここまで考えてこんな答えなら、もう泣けてくる。出てこないよ、やっぱり。どんな興味深いものも入ってない。もう諦めて寝ようか。疲れた。
・・・。
くそ、まだ諦めないのかよ!
諦めないんだよ!
黒井のこと、本気なんだ。僕だって本番続行中なんだ!
・・・。
じゃあ、何とかしてくれよ。もう、どうすりゃいいの。どうしたいの。・・・いい感じで伝えたいんだよ。それだけなのに。
・・・。
無理なのか。こんな僕に、<いい感じ>なんてないのか。スタイリッシュなぴこぴこもついてない僕に、<いい感じ>な部分なんてないんだ。あはは、なんて魅力のない。
もう、いいね。
それで。
・・・疲れた。しょうがないね。
取り繕ったって、意味ないんだ。正直に、向き合うしかないよ。ねえ、みーちゃん。
「あのね」
つぶやいた。何も言わないけど、起きているのが分かった。
「いろいろ、考えたんだけど」
鼻から息を吸い込むと、空気が冷たくてつんとした。
「俺、お前に・・・」
だめだ、興味ないなんて、本人の前で言えないよ。
「き、訊いてみたい、ことが」
あ、逃げた。
「・・・な」
何だよ、本心で一つくらい、ないのか?黒井について知りたいこと。訊いてみたいこと。何か、ひとつくらい?
「・・・な、ないんだ」
もうたまらなくて、がばっと起きあがった。何てひどいことを。好きとかどうとかじゃなくて、人間として、どうなんだ!
黒井を見ると、両手を頭の下で組んだまま、無表情で目だけがこちらを見ていた。暗闇に慣れた目で、それくらいは見えた。
「ご、ごめん。あの、そうじゃないんだけど、いや、言い訳してもしょうがない。俺はお前について、な、何も、知りたくなんかないんだ。知ったってしょうがないし、そんなこと、何の関係もなくて」
「・・・」
「何だ、その、きょ、興味が、ないんじゃないんだけど、いや、だ、だめだな、うまく言えなくて。いや、うまく言えるほどの何かもないんだけど。・・・全然だめだ。き、訊かなくてもね、教えてもらうのは好きなんだ。何が好き、とか、そういうこと。ふうんって、思うんだよ。雪だの月だの、そういうのが好きなんだって、あの、オレンジピールのチョコだって、ああこれかなって思い出して、買ってみたらうまくて、お、お前食っちゃったけどさ、こういうのいいなって」
「うん、俺も好きだよ・・・」
「・・・」
突然黒井が声を出すので、しかもそんなせりふ、・・・僕はもう、胸がつかえて、泣いてしゃくりあげた時みたいに喉の奥が痛い。
「ねえ」
「・・・う、うん」
黒井もベッドの上で体を起こした。布団から出していた冷たい手で、僕のシャツの肩を、そっとなぞった。
「お前、あの時さ、あれ、菅野ちゃんから言われてたんでしょ」
「・・・え、ああ」
「生チョコですって言うから、俺それ好きなんだって言ったら、実は、って教えてくれた。山根さんに訊いてもらったんです、って。それで、ああ、なーんだって。お前からめずらしく俺のこと訊いてきたと思ったら、そういうことかって」
「・・・ご、ごめん」
「うん・・・でもそしたら、その、オレンジのチョコ、ちゃんとくれたからさ。許してやろうと思って」
「・・・うん」
二人の言葉だけが部屋の冷たい空気を震わせた。布団から出ると寒くて、でもまだ僕の手は少し温かいから、肩の上の黒井の手を取って、あたためてやった。それは芯まで冷えきっていた。
「俺ね、好きなもの、たくさんあるよ。月もいいし、海もいい。あと、動物とか、魚とかも好きだよ。行ってみたい場所も、いっぱいある」
「・・・」
黒井は頭を垂れて、鼻でふふふ、と笑った。「いいよ訊かなくて」って言う。本当にしょうがないやつ、って感じで。
「いいよ、勝手に喋る。あのね、クラゲ。クラゲばっかりいる湖があんの。ジェリー・フィッシュ・レイク。湖だよ?海から取り残された湖でさ、結構深いんだけど、上から下まで全部クラゲなの。そこにしかいないクラゲ。潜ったらさ、もう、無重力みたいに、どの方向にも、ちっちゃいのや、大きいのや、とにかくクラゲだらけ。それでね?」
「・・・うん?」
「お前も興味あるかもしんないけど、その、死体だよ」
「え?」
「死んだクラゲ。どうなると思う?」
「死んだら・・・、食われる?」
「まあ、食われもするけど。・・・沈むんだよ、底へ。ちょっとは棲んでる魚についばまれながらさ、たぶん毎秒一匹くらい、紅茶の葉っぱみたいに、沈んでくんだ」
「・・・沈む」
「浮かばないんだ。沈むの。でさ、底、湖底っていうの?当たり前だけど、クラゲだらけ。積もってるの」
「へえ」
「テレビのドキュメンタリーとかで見たんだけど、うん、だから結構昔の話だよね・・・テレビ。それ見て、何かずっとそのイメージがこびりついてて、すごく、何だろう、物理っぽいんだ」
「物理?」
「意味なんて、ないんだって」
「・・・え?」
「クラゲがこんなにいて、クラゲしかいなくて、どうすんだよ、って。そんで死んで、積もって、もう、お前ら何がしたいんだって。笑っちゃうよ、面白くて。意味がない。生きてることと死んでることの間に意味がない。物理も同じなんだ。素粒子だって、何種類もあって、重さが違って電荷が違って、作用する範囲が違って、でも意味なんかないんだ!」
黒井は一人で楽しそうに笑った。もうおかしくて仕方ないという感じ。僕の手を片手で持って、上からもう一方の拳を手のひらに叩きつける。なに、お手?
「いっか、聞いてくれるだけで。あはは、こんなこと誰も聞いてくんないよ。ふうん、黒井さんインテリだねとか、ばっかみたい。こんな楽しいこと、何で笑わずにいられるの?ねえ、お前はどう思う?お前も、その・・・」
急に声が小さくなる。もしかして、不安になった?僕が何も言わないから、一緒に笑い転げないから、寂しくなった?
「・・・夜は」
「え?」
「暗いのかな。暗闇の中でひたすらにクラゲがいて、夜も毎秒一匹死んでて、真っ暗闇で沈んでく・・・?」
「うん。月の光も、沈めば届かない」
「真っ暗闇に積もるクラゲのベッドだ。埋葬場所としては申し分ない」
黒井はお前らしいと言って笑った。そして、埋葬と言えば、とまた話し出す。
「うん、他にもあるんだよ。あのね、ブルーホールっていうところ」
「ブルーホール」
ブラックホールじゃなくて、ブルーホール。青い、穴。
「海なんだけどね、入り組んだ洞窟みたいになってて、迷路みたいのを抜けてかなきゃいけないんだ。ダイバーもなかなか潜れないようなとこ。そこにね、硫酸だか何だか、そういう層があって、そこを抜けたとこに、あるんだよ」
「・・・何が?」
「お前の大好物」
「・・・死体」
「はは。まあ、っていっても、すごい昔の人のだよ。原始人っていうかさ、何とか原人みたいな。半分ミイラみたいになって、沈んでるんだ。腐らないんだよ、その、何かの成分で。天然の、タイムカプセルというか」
「・・・すごい。面白い」
進化や古代人を扱ったミステリも、ロマンだ。そしてそれが現実なら申し分ない。
「海も本当、面白いよ。特に深海」
「お前何で、そんなこと知ってんの」
「あ、ついに訊いたな」
「う・・・」
「でも別に、ただ好きで、本とかで読んだってだけだよ。・・・ああ」
「・・・え?」
「俺ね、クラゲとか深海魚も好きだけど、他にも」
「うん」
「好きなんだ、特に」
「うん?」
「陸の生き物でさ、ほ乳類で」
黒井はくくく、と笑った。僕の腕を握る。
「・・・何だよ。どんなやつ?笑っちゃうの?」
「そうだよ。あのね、俺が好きなのは・・・」
僕をじっと見て、「やまねこ」と、言った。
・・・。
わ、わらえば、いいの?
そういやお前、写真集、だとか。
ああ、最初からこうだったのか。こいつはずっと、こうだった。
「ぴ、ぴこぴこが、好きなわけ?」
「そう!何でお前にはついてないの?」
「・・・そ、そのうち、生えるかもよ」
「はは!馬鹿だなお前!」
黒井は僕に抱きついて、頬を寄せると、唇で耳をなぞった。全身の力が抜ける。耳から上に、今度は頭の上。さっき雪の上で探られたあたり。ほとんど、髪にキスされるような。
「・・・好きなんだよ、山猫。あのね、虎が一番かっこいいけど、あんな王者じゃなくて、もっと小さいのに、でも中身は同じなんだ・・・」
僕はもうほとんど小さく震えて、どこも見てない目で、あの山猫の写真集を見ていた。朝からコンビニに誘われて、そう、ツリーが出た日に颯爽と歩いてきたお前。
甘美で、恍惚とする。このままそのクラゲの湖に沈んでいきたい。ブルーホールで一緒にミイラになりたい。いや、やっぱりもう少し、生きていたい。
自分の中の全部の力を右手に込めて、黒井の腕をつかんだ。ぶるぶると震えてる。仕方ないよ、全部の衝動を抑えてるんだ。
「・・・また、話してよ。話を聞くのは、好きなんだ」
「お前からは、訊いてこないのに?」
「・・・うん」
「俺から話すのは、好きなの?」
「・・・うん」
「それで?・・・寒いわけ?」
「・・・」
うん、まあ、震えてるのは、寒いってのもあるね、確かに。
「ああ、こないだみたいに風邪引くねお前。ほら、もう布団入ろ」
「・・・」
それでおさまる震えと、そうじゃないのが、あるけどね。
二人で布団に入って、天井を見ながら「おやすみ」を言った。僕はそっと黒井の反対側にある自分の左手を口元に持っていって、人差し指の第一関節と第二関節の間を強く噛んだ。本当は右手のが噛みたいけど、仕方ない。薬のケースで切って、お前が噛み切ってやりたいと言った指。思わず息が漏れるほど強く噛んで、親指でなぞると、何だか穴が開いていた。たぶん、山猫みたいな八重歯で、開いた穴。
・・・ぴこぴこなんか、生えてこないよ。
思い出し笑いがこらえきれなくて笑うと、黒井も笑った。お互い何のことか分からないままひとしきり笑って、それから疲れて、仲良く眠った。それはたぶん、種族を越えて仲良くなった、山猫と、黒犬。虎じゃないし、狼でもないけど、それでいい、それがいいと思った。
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