第69話:二度としない、ちゃんとしたキス

 黒井が僕の歯ブラシで先に磨き、僕は後から、布団の中でゆるゆると磨いた。

 ほとんど磨けてないけど、気休め。でも口の中がすっきりしたら、気分もだいぶ落ち着いてきた。

 口の中に歯磨き粉を溜めたまま立ち上がったりして、ふらついたらどうにもならないので、仕方なく洗面器を持ってきてもらう。うつぶせで、布団から顔を出してそこに吐いた。

 少しずつ、座薬が効き始めている。直接だから、効くのが早いんだ。

 口を拭いて、枕に転がる。ああ、あとは寝てれば、何とかなりそう。

「他に何か、ある?」

「ない・・・寝る」

「俺も寝て・・・いいよね?」

「・・・う、うん」

「一緒に、隣、入っても・・・」

「は、はい・・・」

 黒井が、横に、来た。

「お前、あったかい・・・っていうか、熱い」

 そう言って、腕を回して、足も乗せてくる。触れる足先の冷たさが、痛かった。

「あの・・・いろいろ、その、ありがとう」

「いいって」

「その、助かった」

「気にすんなって」

 気には・・・する、けど。

「あ、あの・・・そんな、近いと、風邪うつるから」

「え?そんなこと言われたって」

「いや、そうだけど、でも」

 狭いけど、顔をくっつけるほど、狭くは・・・。

「クロ、お前今日ちょっと、ヘンだよ・・・」

「しょうがないよ」

「え?」

「朝、お前があんなことしてくるし・・・」

「・・・あ」

「だから俺だっていろいろ、我慢してるし・・・」

 え、どういう、意味・・・?

「お前、耳まで、熱いね」

 耳に、歯磨きで口をゆすいだ後の、冷たい唇が押し当てられた。あ、もう、だめ。

「だめだよ、クロ・・・そんなことされたら、死んじゃいそう」

「でも、お前、言ったもん」

 囁きとともに耳に息がかかって、左半身が痺れた。

「な、なんて」

「おれを、どうにか、しろって・・・」

「ひあっ・・・!」

 黒井が冷たい手を、僕のトレーナーの下に突っ込んで、腹を直接触った。冷たさに息を飲む。

「な・・・」

「ね、この辺?俺のなまえ・・・この辺かな」

 指先でへその周りをくるくる撫でた。耐え切れず、黒井に背中を向けるけど、ああ、だめか、そのまま手がついてくる。

「お前、こんなことしても、くすぐったくないんだよね」

「う、うん・・・」

 声が耳から離れたけど、今度は、首筋に。ほとんど逆くの字で重なるように、ぴったりと。

「薬、効いてきた?」

「・・・うん」

「ねえ、俺、ちょっと、だめかも」

「・・・な、なにが」

「眠いのにさ、眠れない」

「・・・なんで」

「どうしようかな」

「・・・え」

 黒井は布団から腕を出して、何やら床を探った。そのうち部屋に青白い光が溢れ、小さく、音が流れ出した。

 コンポの、リモコン?

 え、そのCD、かけちゃうの?

「あ、あの・・・」

「今度はうるさくしないから。ね?」

 ああ、さっきも、かけてたのか。

 何か思い出せないけど、音楽の夢を見ていて、音がうるさくて、起きたんだった。

 今度はほとんど聴こえるかどうかくらいの音量で、やがて青白い光も消えた。小さなリズムが、細かい旋律が、ちりちりと胸に、何だろう。

 米粒に文字が書いてあるような。

 ミニチュアの精巧な何かを指先で撫でるような。

 苛立ちのような、衝動。壊してしまいたくなる感じ。

 脳みそが、かゆくなった。

「あのさ、クロ、かゆいんだけど」

「うん?どこ?掻いてあげるよ。背中?」

「・・・背中じゃ、なくて」

「うん」

 ほとんど感じないほどの細い針で、しかも剣山みたいなやつで、刺されてるみたい。

 脳みそから、心臓、腹から、その下へ。

 黒井が、腹に置いていた手を、上にずらしていく。ああ、そっちじゃないんだけど。どんどん、離れてく。

 ずり上がった手のひらは胸まできて、指が、その小さな突起を、つまんだ。

「やっ・・・」

「・・・ね、男ってさ、何でこんなの、ついてるんだろうね」

「や、あの・・・っ」

 た、勃っちゃう、って・・・。

「ねえ、どこ?かゆいの・・・。ここ、引っ掻いていいの?」

「あ、ちが・・・」

 乱暴に爪を立てて、胸に五本の筋がついていく。そのうちの一本は、乳首を、通って・・・。

「言ってくんなきゃ、わかんないよ・・・。体中、引っ掻くよ?」

「く、クロ、・・・な、なんで・・・」

 尻に、硬いものが、押し当てられた。あ、あの、もう、ほんとに・・・!

「座薬、意外と、小さかったね」

「・・・」

 息が荒くなって、頭が白くなっていく。座薬を挿れられたときの感触がよみがえって、そんなものに比べたら巨大なお前のそれを、想像、しちゃって・・・。

「く、クロ・・・」

「なに?」

「お、お前だって、言ったじゃん」

「何を?」

「む、無理だとか、お前とはこんなこと出来ないとか・・・」

「え?」

「き、キスしようとして、無理だって、笑った・・・」

「ああ」

「だから、おれ・・・」

「うん、あんなのは、無理だったよ」

「だったら・・・!」

「・・・健全すぎて、出来ないよ」

「え?」

「なんにも、面白くない。ぜんぜん、足りないよ・・・」

「な、なにが」

「手、また縛ろうか?それとも別のこと?」

「は、はあ?」

「だめなんだって。お前についていくので、精一杯だ」

「え?」

「その、ぶっ飛んだ振れ幅・・・見たことない、お前みたいなやつ」

「・・・」

「たとえ、彼女が出来ても・・・一緒にいて、くれるでしょ?」

「・・・」

「じゃあ、ちゃんと、キスしようか・・・。こんなの、もう二度と、しないから、ね・・・」

 徐々に低くなっていく声にやられている間に、上向きに、転がされて。

 もう冷たくない、熱くなった唇が降ってきて、その舌が、僕の舌に、絡まった。

 熱い。熱い・・・。

「あ、・・・んんっ」

 荒い息と、声が漏れる。舌で、尖った八重歯を探られて。流れ込んでくる温かい液体を、今度はちゃんと、飲み込んで・・・。

「っ・・・!」

 苦しい。もう、苦しい。

 どちらのとも分からない唾液が、口の端から、垂れていく。

 ・・・溺れそう。

 ・・・。

 唐突にそれは離れ、黒井は掠れた声で「おやすみ!」と言って、背中を向けた。

 僕は放心したまま、やがて薬のせいか、意識が途切れて、どこかの沼に沈んでいった。



・・・・・・・・・・・



 朝、体が軽くなっていて、測らなくても分かる、たぶん熱が下がっていた。

 いつの間にか、手を、繋いでいて。

 その体温が、同じくらいだったから。

 そういえばタイマーでもついていたのか、コンポの音楽は切れている。車の音とか、雀の声とかがして、ああ、日曜の、朝。

 覚醒した少しまともな脳みそで、僕は目を閉じたまま、いろいろなことを思い出した。

 ・・・。

 キスを、した・・・。ディープな、やつを。

 ・・・あいつの、その、唾液まで、飲んじゃって。

 え、夢だった?でも、二度としないとか、言ってたけど・・・。

 それから、それから、他にも、いろいろ・・・。

 胸が苦しくなる。思わず手をぎゅっと握ってしまったので、黒井がうめいて、ああ、起きてしまう・・・。

 な、何だか。

 初めての朝を、二人で迎えたみたいで・・・。そこまでは、してないのにね。でも、どうしようもなく緊張した。

 あ、熱いコーヒーとか、淹れようかな・・・。

 僕はそっと手を離して、じわじわとゆっくり布団から抜けだし、キッチンで湯を沸かした。沸くまでの間に口をゆすいで、顔を洗う。口から頬に一筋、かさかさとしたよだれのあと。ああ、やっぱり、夢じゃなかったんだ。

 日曜の朝で、部屋で黒井がまだ寝ていて、僕がコーヒーを淹れている。カップを二つ用意して、フィルターをセットして、粉をいつもより多めに入れ、湯を注ぐ・・・。

 いい香りがした。

 そういえば、立ち上がって、こうしてうろうろしてもふらつかなかった。やっぱり、よく効くんだな、あの・・・。

 思わず口に手を当てて、瞬きを何度か。

 どうなんだろう。それって、どうなんだろう。いくらなんでも、座薬を入れてもらう親友ってどうなの?っていうより、も。

 ちょっと、良かった、なんて思ってる俺、どうなの・・・。

 我に返って、コーヒーに向き直る。うん、今は、これを飲んで落ち着こう。カップに注いでいると物音がして、黒井がちょうど起きたようだった。

 注ぐ手が、震える。

 緊張して、振り向けない。

 昨日したあれやこれやが急に頭の中を駆けめぐって、意味が分からなくなってしまった。腹がひゅうと透けて、<くろ>の文字がじわりと熱いように、感じた。


 ドアが開いて、黒井が顔を出した。何て言ったらいいか、どんな顔をしたらいいか、用意、出来て、ないよ・・・!

「・・・起きてたんだ」

「おはよ、クロ」

「コーヒー?」

「いい香りでしょ?」

「・・・う、うん」

 し、新婚さんじゃあるまいし。何、言ってんだろ、僕。

「あんなキスして、うつらなかった?」

「だ、大丈夫、みたい・・・あ、あの」

「ん?」

「も、もしかして・・・マヤ、ちゃん?」

 ・・・。

 ち、違う、と、思うけど・・・。

 そう、なのかな。あはは、自分でもよく、わかんない・・・。

 黒井は突然僕の首に両腕を回して、ゆっくり、でも強く、抱きしめた。

「マヤちゃんでしょ。俺・・・ねえ、聞いて?」

「え、えっと・・・」

「あのね、昨日、ひどいんだ」

「・・・どう、したの?」

「ねこってばね、どっかの女としてきたこと、よりによって、俺にすんだよ?」

 ・・・。

 黒井は、完全に甘えた声。

 お前こそ、違う人みたいで。

 僕は、マヤでいるほかなかった。

「ねえ、あいつってば、しかもね・・・」

「・・・うん?」

「ちょっと気持ちよかったから、いいかななんて思ってたんだけど」

「・・・けど?」

「もう、たまんなくなってきたとこで、突然、やめんだよ」

「・・・」

「ねこの腰抜け。あんなとこで止めるなんて。もう、ぶち込んで、そんで、ぶちまけちゃおうと、してたとこで・・・」

「・・・。クロは、それで、我慢してたのね?」

「・・・うん。だから」

「ん?」

「座薬、いれちゃった」

「・・・っ、あ、そう。ちょっとは、気が晴れた?」

「ほんの、少しだよ」

「そのまま、指の二本や三本、入れちゃえば良かったんだよ」

「・・・そっか」

「そしたらきっと、ひいひい言うから」

「・・・はは、でも、ちょっとかわいそうだったかな。あいつ、熱がひどくて。俺、あいつに、甘いんだ」

「そうね」

「でも・・・きっと治ったんだよね。どう、しちゃおうかな」

「・・・」

「マヤちゃんなら、俺をさ・・・どうやって、天国に連れてってくれる?」

「・・・あたしのやり方、ひどいから」

「だめ?」

「ほんとの天国に、なっちゃうからね」

「じゃあ俺、また、我慢?」

「自分でするところ、見せてくれてもいいんだよ?」

「・・・っ、そ、それって」

「ん?」

「うわ、何で・・・は、恥ずかしいや」

「・・・しないの?」

「ど・・・どう、しよ、おれ・・・!」

 黒井は突然僕から離れて、部屋に飛び込んでバタンとドアを閉じ、まるで昨日の僕みたいにドアに背をもたれてその場に座り込んだ。ドアのすりガラス風の部分から、その背中と頭がモザイクのように見えている。

 行っちゃった・・・。

 ほんのドア一枚だけど、逃げちゃった。

 あーあ、楽しいこと、しようとしたのに・・・。

 ・・・。

 って、いうか・・・。

 僕の、まま、なんだけど。

 でも、僕なら絶対言わないようなこと、どきどきすることもなく、平気で言えてしまった・・・。演じてるというか、なりきってるというか。ああ、何だか、自分が怖い・・・。

「・・・う、んっ」

 ドアの向こうから、何だか・・・な、な、何だかいけない声。も、もしかして、そこで、お前・・・。

 半ば自分で焚き付けたくせに、とんでもなく後ろめたくなって、隠れ場所を探した。・・・だ、だめだ、トイレにこもったって、どうしようもならないよ!

「お、お、俺!ちょっとタバコ買ってくる!」

 タバコなんか吸わないけど、とっさのでまかせ。僕は玄関の靴箱の上に散らばった昨日のピザの釣り銭をつかんで、ジャンバーを着る間もなく玄関を出た。裸足にスニーカーはいいとして、ああ、ジャンバーの裾が短くて、寝間着のズボンの、股間が、目も当てられない。仕方なく一度ドアを開け、そこにあった黒井のダッフルコートと取り替えて、鍵もかけず、非常階段から、逃げ出した。



・・・・・・・・・・



 タバコの銘柄も買い方もよく分からなかったが、何となくそれっぽい顔でマルボロライトというやつを手に入れた。別に本当に買う必要もなかったんだけど、何となく。

 五分?十分?十五分?

 どれくらいで帰れば、普通の顔でコーヒーが飲めるかな。そういうのって、他人と比べたこともないし、本当に同じことしてるのかすらわかんないけど・・・。

 少し長めにぶらぶらして帰ると、黒井がお帰りと出迎えた。・・・お帰り、だって。

「お前、タバコ吸うの?」

「あ、いや・・・」

「ふうん・・・?」

 すっとぼけてるのか、もしかして本当はいけないことなんかしてなかったのか。まあ、どっちでもいいわけだけど、黒井はもう何でもないという顔で冷めたコーヒーを飲んでいた。

「久しぶりに、俺も、吸おうかな」

「へえ。これ、どうやって吸うの?」

「吸ったことないわけ?」

「・・・うん」

 黒井が微笑むので、少し安心した。何だかいろいろあったけれども、別に、これでいいわけだ。こんな変態さ加減で、僕たちは通常営業だ。


 火は?と訊かれ、そういえばそんなものがいることに今更気がついた。

「ない」

「じゃあ・・・」

 コンロをひねって、黒井が火をつけた。一口吸って、僕に渡した。

「え、いいよ」

「いいから、さ」

「・・・ん」

 黒井は自分の分を口にくわえ、コンロは消して、僕のタバコに近づけた。何やら火のついたところがオレンジになり、やがて、移ったようだった。ほんの五秒の沈黙と、もらい火の親密さ。

「何これ、どうすんの?」

「吸えばいいんだよ。肺まで、吸い込むの」

 吸ってみたが、苦いにおいがするばかりで、おいしいとも、何とも思わなかった。くわえているとちりちりと熱く、目にしみた。

「ベランダで吸うか」

「ん」

 黒井がサンダルで外に出て、僕は部屋に座ったまま開けた窓から足を出して、ベランダの床にかかとだけつけた。膝に腕を置いてかっこつけるけど、まあ、つくはずもなくて。

「・・・ぐふっ、こ、これうまいの?」

「ま、気晴らしだよ」

 黒井はベランダの柵に寄りかかって、まあ、背を丸めて景色を眺めようが、こちらを向いて寄りかかろうが、様になるのだった。僕の寝間着だろうが、寝癖がついていようが。

「久しぶりだな・・・、マルボロ」

「何が好きとか、あるわけ」

「うーん、最初がフィリップモリスで・・・、マルボロの時期もあって・・・、結局ピースで落ち着いて、やめた」

「何で?」

「さてね。それどころじゃ、なくなって・・・」

 黒井が目を細めて独りごちる。ふう、と煙を吐き出して、次の瞬間には、「ね、ピザ食おうよ」などと笑った。

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