(3日目:上機嫌な黒井と気味の悪い事象)

第116話:なぜか美容院へ

「あはははっ!ねこ、大変だ」

「な、何だよ」

「髪。乾かさなかったから」

「え・・・」

 黒井がどこからかブラシを持ってくるが、全然入らない。

「いた、痛いっ!」

「だめだ、とけないや」

「いいよ、もう一回洗う」

「いや、ちょうどいいよ。あのね、今日俺髪切りに行くの、予約してたのすっかり忘れてたんだ。一緒に行こう」

「・・・はあ?」

「お前も伸びてるし、そしたら向こうでどうせ洗うしさ。はは、それまで帽子でもかぶってな」

 黒井は例のニット帽を持ってきて僕にかぶせた。寝起きで何だかよく分からないが、とりあえず、帽子は耳まで暖かかった。

「あのねクロ、俺、起きたばかりでよく分かってないんだけど」

「うん。俺一睡もしてなくてナチュラルハイだよ。だから今日は出かけよう」

「え、寝てないの?何で?」

「まあ、興奮して」

「はあ?」

「俺、お前に会えたから、良かったよ」

「・・・はい?」

「俺がトースト焼くから、お前コーヒー淹れて?」

「は、はあ」

「ほら、早く」

「か、顔くらい洗わせて」

「顔も頭もひげもそれでいいよ。あはは、ぴこぴこ、生えたじゃん」

「・・・」

 黒井は帽子を取ってもう一度はねた髪を楽しそうに触り、また勝手にかぶせた。何だ、出かけるって?髪を切るって、まさか美容院に連れていく気か?

「お、俺行かないよ?別に、そんな」

「・・・じゃあ、シャワーも帽子もブラシも貸さないよ?そのまま帰る?」

「ず、ずいぶん強引だな」

「髪切ったらそのままどっか行こうよ。雪、やんだし」

「どうしたんだ、そんな、浮かれて」

「いいから。ほら早くコーヒー!」

 仕方なくやかんに水を入れて火にかけ、マグカップとコーヒーを用意した。黒井は上機嫌で僕にまとわりついてくる。何だ、朝から酒でも飲んでるのか?ちょっと顔を見ると、まっすぐ見つめ返されて、僕は目を逸らした。どうして朝からそんなにかっこいいの?どうしてそんな人が僕にいろいろ言ってくるの?ああ、まだ眠い。コーヒー飲んでから考えよう・・・。


 トーストをかじりながら、明大前の美容院に一緒に行くんだとか言われた。何だそれ?しかし断りきれるような雰囲気でもなく、僕は慌てて洗濯機を回した。アンダーシャツと、Yシャツと、パンツと、靴下。アイロンをかけて強引に乾かせば、着れる、かな。

 洗濯機の<スピードコース>を選んでいると、黒井が後ろからのぞきこんできた。肩に手を置いて、今にも抱きついてきそうだ。

「別に、俺の着れば?」

「お、お前のパンツを履いて帰るわけにいかない」

「・・・何それ、どういう意味?ちゃんと洗ったやつだよ、これ」

 黒井は後ろから僕の半ズボンをずりおろし、パンツを確認すると、その布を、つまり僕の尻を無遠慮に触ってきた。液体洗剤をキャップに注ぐ僕は、本当に動けないのか、動けないふりで何かされたくてしょうがないのか。

「そういう意味じゃないよ!汚いとか、そういうことじゃなくて」

「じゃあ何?」

「お、俺の秩序の問題だ」

「また頑張ってるわけ?」

「そう。分かったら協力して」

「しょうがないなー」

 黒井はようやく僕の尻から手を離して、部屋に戻った。僕は数秒固まって、ああ、洗剤、洗剤・・・。ズボンはずりおろされたまま、しかしきっちり計量は怠らない。ここで慌てて洗剤をぶちまけたりしたら目も当てられないんだ。一つずつ、確実にこなさなくては。キャップをきちんと閉め終わってからズボンをずりあげ、ああ、黒井先生の下半身のマッサージをしそびれたことを思い出した。・・・朝から何を考えてるんだろうね、僕は。


「あ、もしもし、今日予約してた黒井ですけど。・・・あ、やってました?この雪だから、開けてないかなとか。・・・あはは、うん、大丈夫、行きます。それでね、連れが一人いるんだけど、いい?・・・あ、そうなの、はは、まあそうだよね。・・・うん、それで、時間、ちょっと遅くしても・・・あ、そう?じゃあそれでよろしく!はーい、それじゃ、どうも」

 スマホを切って、「お店ガラガラだから、いつでもいいってさ」と黒井は言った。ふうん、美容院の人とそんな風にフレンドリーに話すもんなんだ。電話の向こうから聞こえてきた若い女性の声に、少し嫉妬。何ヶ月に一回くらい行ってるの?行きつけってやつ?

 洗濯を回してる間に、ジャガイモとベーコンと玉ねぎでジャーマンポテト風のものを作ろうとする、が、ブラックペッパーがない。まあ仕方ないか。

 今日は勉強をする気がないのか、黒井はまた僕の周りをうろついた。包丁握ってるときは、近づかないでほしいんだけどな。

「へえ、そうやって皮、剥くんだ。何でそんなするする出来んの?怖くない?」

「怖くないよ。意外と切ったりしないよ」

 ジャガイモの凹凸を包丁の刃がすべっていく。毎日刃物を握っていれば、まな板の鯉にも慣れてくる。

「俺昨日、ちょっと、切ったよ」

「おい、大丈夫?」

「えっと、ほんの、薄くだよ」

 目の前に、左手の人差し指を突き出してくる。僕は包丁の手を止めて、その爪を見た。本当にうっすらと、白っぽい線が入っている。ああ、そういえば昨日・・・うん、いつ見たっけ?でもそんなことより、その指に、関節に、爪の形に見入ってしまう。骨ばっているけどごつすぎず、指は長いけど細すぎず・・・。

 僕は適当に「気をつけてね」と目をそらし、玉ねぎに移った。その手で、乱暴にされたいだなんて、ああ、昨日の黒井先生にされたみたいに、手首を押さえつけてほしいよ。そしてそのまま、包丁で僕を・・・。

「あ、危ないから、どいててよ」

「手、出さないからさ」

「うっ・・・どいてろって、泣くぞ」

「え?・・・あ、目、痛い」

「何だ、今日は妙に、しみる。いてて」

「うわ、玉ねぎって本当に涙、出るんだね」

 涙でにじむ視界で更に玉ねぎを切る。少し多めに作っておけば、お前の明日の夕飯の足しになるかな、なんて。うう、痛い。

「・・・何で二人で泣いてんだ。あはは」

「まったくだよ。お前は泣かなくてもいいのに、のぞきこむから」

「だって何か、お前が料理してるの、ちょっとかっこいいじゃん」

「・・・は、はあ?」

 べ、別にかっこよくなんかないし、それに、もしお前が料理上手になんかなったら、もう僕なんか、月とスッポンだよ。想像しただけで、うわ、かっこよすぎる・・・けど、料理が出来てテキパキして綺麗好きなお前なんて、何かちょっと、もう近寄りがたいね。

「で、何作ってるの?」

「ジャーマンポテト」

「お、いいね!あ、ねえ知ってる?ドイツではジャーマンじゃなくて、ドイッチュなんだよ」

「へ?」

 あ、ああ、ジャーマン、か。やだな、本場とは程遠いものになっちゃうと思うけど。


 ブラックペッパーがないのを言い訳に半端なジャガイモ炒めを食べ、洗い物をして、洗濯物を干して、アイロンをかけた。っていうかアイロン台がない。

「お前どこでかけたの」

「え、床」

「・・・」

 なるほど、アイロン台って大事だな。そりゃ、シャツが皺にもなる。部屋を見回して、仕方なくベッドのシーツを剥いで、マットレスを台代わりにした。

「ふうん、そうやってかけるのか」

「違うからね。小さくてもいいからアイロン台買ってくれ」

「どこで売ってるの?」

「・・・」

 そう言われると、確かに、どうだろう。スーパーの雑貨コーナーに、あるかどうか。

「分かったよ、セットで渡さなかった俺が悪かった」

 僕がアイロンをかけている間、黒井は床に寝転がってぼんやりしたり、うとうとしたり、ごろごろしていた。本を読む以外は、本当に何もしない。何かしているのを見たことがない。僕がいるからなんだろうか?手持ち無沙汰ということはないんだろうかと、いらぬ心配をした。いや、逆に手持ち無沙汰だからこそ、ごろごろしてるのか。

 まあ、客が部屋の主に難癖付けることもないので、何も言わなかった。しかし今日は妙に視線を感じるし、僕も、何かを忘れてるような気がする。何だっけ?昨日はブラックホールの話をしながら、結局頭痛がして寝てしまった。まだ少し左目が痛んだ。なぜかいつも左目の裏側が痛む。さっきの玉ねぎでそれが助長されて、更に腫れぼったく感じた。



・・・・・・・・・・・・・



 黒井はブーツにダウン、僕はスーツにニット帽というおかしないでたちで合宿所を後にした。まあ、周りを気にしなければ耳が暖かくてとてもいい。

 何となくの違和感を抱えたまま、しかし黒井が上機嫌なので、それをたどっている暇もなかった。本当に酒を飲んでないか?ってくらい、腕を組んできたり、肩を抱いたり、手を繋いだりと、腹は透けっぱなしだった。

「な、何だよ、引っ張るな。すべる」

「えへへ、いいじゃん。何か、楽しいんだ」

 二日もずっと一つ屋根の下にいて、それからこうして外に出て、本を読む横顔とはまた違う黒井がいた。いつも、すぐ分からなくなってしまう。距離感が、あっと言う間にぶれる。あんまり近いような、しかしそれでいて、友達でも、同僚ですらない、ただの行きずりの同行人くらいな気さえしてくる。たぶん、まるで二十年ぶりに会った幼なじみみたいな感じ、だろうか。


 電車がすぐに来たので、あっと言う間に明大前だった。駅から近いと言って、本当にすぐ着いてしまい、心の準備もそこそこに、ビルの二階のガラス戸をくぐった。

「いらっしゃいー!お久しぶり」

「どうも!ご無沙汰です」

「あ、お連れさん?雪の中、ありがとうございます」

 何だかお洒落な雰囲気のお店には女性が二人で、お客は一人しかいなかった。黒井が先にシャンプー台へ行き、僕は待合い椅子で適当に雑誌を読んで待った。

 お洒落な内装、お洒落な音楽、シャンプーやパーマ液の香り。およそ僕には似合わないなと思いつつ、そわそわして、ろくに何も考えないまま僕の番がきた。あ、帽子を脱いだらひどいことになってるんだった。

 たぶん電話の相手らしい女性スタッフにコートと上着を渡して、仕方なく帽子も取る。・・・特に何も言われない。どうやらずっとしていたおかげで少しおさまっていたらしい。

「お湯、熱くないですか?」

「大丈夫です」

 顔に蒸しタオルを乗せられ、シャンプーをされる。人に頭を触られるのは好きじゃないけど、やっぱりプロにやってもらうと気持ちがいい。いつも適当に目に付いた千円カットで済ませていたから、ちゃんと洗ってもらうのは久しぶりだ。どうして突然こんなことになってるのか、まだ秩序は回復しないが、もう、いいか。髪くらい、長かろうが、短かろうが、くっついてりゃいいんだ。

 

 顔も隠れていて気持ちよかったシャンプーは終わり、鏡の前のカット台に移される。自分の顔なんかじっと見ていたくないので、また雑誌に目を落とした。さっきの客は帰ったようで、店内には僕たちだけ。二つ横で店長らしき女性が黒井の髪をカットしていた。

「だいぶ伸びたねー。今日は、どうする?いつもと同じ感じでいい?」

「うん、あんまし短くしないで。寒いからさ」

「あはは、そうね。今年は寒いねー」

 僕の方にもさっきの女性が来て、「どんな感じにしますか?」と。

「・・・えっと、その、適当に」

「ふふ、スーツに合う感じ、ですかね。ちょっと堅い感じ?きりっと?」

「いえ、もうちょっと、ゆるい感じで・・・」

「ふん。髪、細めですねー。ちょっとボリュームつけて、ふわっとした感じかな」

 濡れた髪を、シャキシャキと切られていく。しばらくするとまた話しかけられた。

「お友達、なんですか?」

「あ、はあ、まあ」

 雑誌から目を上げて、鏡越しに、小柄な女性スタッフを見た。ショートカットで、柔らかい雰囲気だけどキビキビしている。ジーパンの腰にはハサミや櫛やピンを入れた、使い込まれた革の物入れ。

「彼ね、最初カットモデルしてもらったんですよ。それで、それから来てもらってて」

「そ、そうなんですか」

 髪から目を離さず、そんなことを言う。うわ、モデルとか。

「私がね、駅前で、声かけたの。そしたら、安くしてくれるんならいいですよーとかってね。すごい、気さくな人ですね」

「・・・ああ」

「あ、ちょっと目つぶってて下さいね。・・・うん、それでね、その後写真飾ってたら、次来たとき、何で俺の顔があるのーとか言って慌ててね。それがモデルってもんですよ、なんて、・・・んー前髪、少し短くします?」

「い、いや、長めでいいです」

「少し梳いときますね。・・・もう、長いんですか?」

「え?」

「付き合い」

「・・・あ、いや、そんな」

「お連れさんと一緒って言うから、どんな人かなーって。意外と・・・意外とって言ったら失礼かもしれないけど、あの、しっかりした感じの人が来たんで、ちょっとびっくりしたんですよー?」

「え・・・ぼ、僕のことですか」

「ええ、ええ。もっと、こう、派手な感じ?何か、勝手にバンドマンみたいな人を想像してました・・・。ちょっとドライヤーしますね」

 会話も髪型もよく分からないままどこかへ向かっていき、気づいたら何だか知らない人が鏡の前に座っていた。何やら整髪料をつけられてくしゃくしゃとされ、「どうですか?」と言われる。こ、こんなかっこつけた人は知らない。どうしよう、こんなんで明日会社に行けるんだろうか。

「少しゆるくしてみたんですけど・・・ああ、どうですか、よかったら写真撮らせてもらって」

「・・・え?」

「モデル、ですよ」

 僕は慌てて辞退して、会計を済ませ、何だかパーマみたいなことをしている黒井に「その辺で待ってる」と告げて外に出た。

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