第115話:幻覚の中は、コペンハーゲン

「はい、じゃあ山猫くん、俺にブラックホールのこと教えて?」

「あの、先生」

「なに?」

「足が冷たいんですけど」

 風呂上がりの僕の足に、先に上がって冷えきった足を遠慮なくすりつけてくる。足の裏と、そして指で、僕のすねの骨を、ふくらはぎを器用になぞる。冷たい上に腹が透けてしょうがないから、もう物理どころじゃない。ああ、夏だったらこれとTシャツで寝るわけなの?そんなの、皮膚を覆う面積が少なくて・・・ってまあ、夏にここに来るかどうかなんて分からないわけだし。

「そうなんだよ、足が冷たくて」

「いや、だから俺の足が」

「あったかくて」

「・・・うん、もういいよ」

 足の裏も足の甲もまんべんなくひっつけられ、エントロピーは拡散して、黒井の足は少し温まり、僕の足は冷えた。

「それでさ、ブラックホールの中では、何が行われてるんだろう」

「・・・中、ってどこですか」

「え?中は中だよ。え、中じゃないの?」

「いや、事象の地平線の中と、特異点があって」

「うんうん」

「一応、地平線の内側が、ブラックホールの中、ってことみたいで」

「じゃあ、それ」

「えっと、地平線の中に落ちたら、もう絶対出られなくて、そのまま特異点へ・・・ってまあ、その先はわかんないよ。書いてないもん」

「ちょっと、それじゃだめだよ。自分で考えなきゃ」

「・・・すいません」

 先生にたしなめられてしまった。確かにそうかもしれないけど、さすがに宇宙のブラックホールの特異点の先までは、自分で考察出来ないよ。

「で、特異点って、点なの?何?」

「ええと、重力崩壊で、時空の膜が破れて、飲み込んだものすべてが一点以下に凝縮された・・・」

「すべてが?」

「そう。どんなにたくさん飲み込んでも、大きくなるのは地平線の半径で、特異点は大きくなったりはしない。ブラックホールが大きいって意味は、その半径が大きいってことであって、ホールそのものが大きいわけじゃない」

「ブラックな空間が大きい」

「そう。観測可能な世界が浸食されて、観測可能が情報が飲み込まれていく・・・」

「へえ・・・何かすごい!」

「うん、すごい、スケールだ」

「いや、それもそうだけどさ、お前がだよ」

「へ?」

「えへへ、何か恥ずかしいんだけどさ、嬉しくて。お前、物理、合ってるんじゃない?」

「・・・そ、そう、かな」

「うん。でも、俺が・・・えっと、先生が訊きたいのはさ、もちろん理論や仕組みも知りたいけど、その、お前がどう思ったかってことなんだ」

「お、俺がどう思ったか?」

「うん。それが知りたい」

「え、えっと、ど、どうって・・・」

「感じたこと。何でもいいよ」

「・・・せ、先生それ知ってどうするの」

「・・・俺、頭悪いからさ、理論理屈はそんなに分かんないんだ。だから、イメージとか、面白いとか怖いとか、そういう、感覚でしかつかめないんだよ」

「で、でもあんな、難しそうな本」

「だから、挑戦してるんじゃん。それに、あの本だって、別に数式とか計算じゃなくてさ、やっぱり、イメージでしか読めないんだ俺は。理系の頭じゃないんだ」

 ・・・。

 ああ、そうかもしれない。そうだったのか。

「そっか。先生は、芸術家肌だね」

「・・・そ、そう?」

「歌もうまいし、ロマンチストだし」

「な、何だよ急に」

「じゃあ、先生に分かりやすいように教えてあげるよ。ブラックホールは、暗くて寒くて静かで、・・・悪魔で、終わってて、そして、・・・えっと、えっと」

「・・・」

 黒井は静かに待った。僕は思考を巻き戻して、思ったことをたどる。でも、資料を読んでたときより、さっき、雪の中でたどりついた場所の方が、近いんだ。

「・・・とても、寂しいけど、俺が」

「・・・うん?」

「や、やっぱり何でもない」

 ・・・ああ、だめだ。漏らしては。

 言葉にしたら、蓋が開いて、どっか行ってしまいそうだ。

「何だよ、聞きたいのに」

「・・・え、えっと」

 黒井は体勢を変えてこちらに向き、「ね、教えてよ」と優しくつぶやいた。右半身が痺れる。先生の誘惑に、陥落しそうになる。話して、しまおうか。でも、だめだ。あそこは僕の最後の砦だ。失うわけにはいかない。

「・・・別に、変なことだって俺、大丈夫だよ」

「そ、そうじゃ、ないよ」

「そんなに、迷うようなこと?」

「いや、えっと」

「俺には、話せない?」

「・・・な、何でそんなに、知りたいの?俺のイメージなんて、知ったって、どうしようも・・・」

「理由なんかないよ。知りたいだけ。だってそんなの、知りたいだけだよ。はは、やっぱり俺、うまく訊けないね」

「・・・」

 そうじゃ、そうじゃないよ。

 別に、隠したいとか、言えないわけじゃない。そうじゃないけど、怖いんだ。

 いったん口にしたら、全部、全部言ってしまいそうで。最終的には、お前がいなきゃ生きていけないって、すがって泣いてしまいそうで。でもそんなことしたら、余計に生きていけないんだ。

 少し、呼吸が浅くなった。

 結構僕は今、ぎりぎりのところを歩いてるんだ。胸が圧迫される感じがある。頭が冷えてくる。

 もう、たぶん、爆発しそうなんだ。昨日から。一昨日から。

 お前は、人生を押しつけたとか、興味があるとか、<俺たち>とか言ってくるし、そんなものが僕の中で膨らんで、ちょっと、限界だ。

 もしかして、お前も、僕のこと・・・とか。

 絶対だめだ。思うだけでもだめだ。矛盾してるかもしれないけど、絶対、考えてもいけない。僕が何の介入もせず、言わせたわけでもなく、純粋にお前の意思だけでそれを告げられない限り、だめなんだ。

 ああ、もう、心と体がバラバラになりそう。身体が勝手に、震えてくる。お前に抱きつかないように、必死にとどめておかないと。僕は自分の腕を抱いた。強く、強く。

「・・・あの、せんせい」

 ああ、勝手に声が出た。だめだってば、暴走するって。

「なに?」

「ちょっとおれ、だめかも、しれない」

「え?」

 圧迫感は強まる。僕は胸を押さえる。心拍数が上がり、冷や汗が出てくる。息苦しくなって、頭が冷たくなって・・・。

「せ、せかいが、まわる」

「ねこ?」

「ひ、ひんけつ、めまい・・・」

「え、おい、ちょっと」

「・・・おちる」

「ま、待てって」

 頭がベッドの下に落ちていきそうだ。宇宙人に会ってしまう。ああ、やっぱりいたのか。

 黒井があわてて起きるのでベッドが軋む。揺れが頭の中でどんどん共鳴するように大きくなって、ぐらぐらした。

「ど、どうすればいい?俺、何か」

「・・・」

 細い息しか出来ない。本当は手を握ってほしいけど、そんなこと言えない。頼るわけにはいかない。

「ねえ、聞こえてる?何か言ってよ」

「・・・」

「・・・俺には、やっぱり、言えないの?・・・言えって。言えってば!」

「・・・」

 肩を揺さぶられる。や、やめて、世界が、モザイク模様にかき混ぜられる・・・。髪をつかまれて、押しつけられた。ああ、どこか、地面はあるんだな。これ以上落ちない地面が。

「だめなやつだよ、本当、お前!何にも言わないで、一人で、どっか行っちゃうんだ・・・。先生、そういうの、許せないな・・・!」

「・・・ご、ごめん、なさい」

「じゃあ言えって!」

 ・・・いい、の、かな。

 涙が、きっと、出てる。

 怖いんだ。頼ったら、弱くなる。弱くなったら、もっと頑張らないと、何にも、出来なくなる。

 ・・・。でも、もしかして。

 黒井のためだったら、もっと、頑張れるかな。頼ったりして、弱くなっても、もっと自分に鞭打って、頑張れそうかな。

 っていうか、さ。

 この世の誰のために鞭を打たれてもいいって、こいつ、じゃんか。

 好きな人が、僕に何か、求めてるなら。

 死ぬ気で応えれば、いいじゃんか。

 そんな幸せ、きっと、もうこれ以上ない。

 ・・・クロにはまだ、弱いところ、見せるの怖いけど。先生にだったら、まだ、大丈夫かも。何たって、先生なんだからさ、助けを求めたって、いいんじゃないか?大丈夫だ、言えって。暗闇に足を踏み出すように怖いけど、<一緒にやる>ってそういうことだ。怖い、怖いよ。今まで保ってきた何かがずるずる崩れそうだ。でも、やるんだよ。俺はお前が、好きなんだから!

「せんせい、・・・たすけて」

「うん」

「たすけて、こわいよ」

「どうすればいい」

「・・・手」

「うん?」

「握ってて」

「うん、ちゃんと握ってるよ」

「え・・・」

 感覚が、なかった。手って、どこだっけ?黒井がぎゅうと強く握ったので、少しだけ分かった。あれ、何だ、握ってくれてたのか。

「な、なんだ、もう」

「お前は今、どこにいる?」

「えっと、モザイクの、ぐるぐるの・・・」

「そこに、連れてってよ、俺も」

「・・・え?」

「お前こんなに冷や汗かいて、中身どうなってんだ・・・」

 僕の湿ったおでこに、手が、頬が、おでこが押し当てられたみたいだった。そのまま首筋、そして僕が押さえていた心臓に、下から手を入れられて直接、その手が触れた。

「貧血って何?お前に何が起きてるの?」

「ぐるぐる、まわってるんだ。どこまでも、落ちて、おちてく・・・」

「何か・・・見える?」

「見えるよ。ああ、悪魔。こうもりに似てる・・・混ざってく。飛んできて・・・おれに刺さって、溶けて、混ざる・・・」

「それ、今見てることなの?」

「ああ、そうだよ。頭が、これ以上は・・・色がない、おちる」

「どこへ、どこへ落ちるんだよ」

「暗くて・・・頭が、圧力が、しめつけられる・・・名前がない」

「なまえ?」

「痛い、いたいけど、もう感じない・・・抜けた」

「え?」

「おちた」

「・・・どこへ?」

「向こうだ。ねえお願い、抱いて」

「・・・うん」

「骨を、ひろってほしい。置いてきた」

「待って」

「もういいんだ。だいじょうぶだ」

「何が?何が大丈夫なの」

「え、なにが?」

「大丈夫なのかって!」

「・・・だれが?」

「お前だよ!」

「・・・お前って、だれ?」

「お前だってば!」

「・・・ゆ、揺らさないで、気持ち悪い、離して」

「・・・」

「く、苦しいよ、どいて、吐き気がする」

「・・・」

「誰だっけ?ええ?誰が?置いてきちゃったから、今ちょっと・・・き、気持ち悪いな。うう、つらい、きつい・・・」

「ねこ?」

「んん?」

「あの・・・」

「ちょっと今声かけないで。え、誰なの?よくわかんないんですけど。うう、吐きそう。気持ち悪い。何で?うう、何かせり上がってくる。やばいか、風呂場で吐くかな、トイレかな」

「ねえ、ちょっと」

「何なの?え、誰かいるの?・・・どうせ幻覚か。知らん。ほっとけ。いつものことだ。どうせこれだって起きてないんだ。じゃあ吐いてもしょうがないか・・・」

「え、ちょっと、どうなってんの?お前何を見てるの?」

「うっさいなあ!」

「・・・ごめん」

「いいよ別に。ったく、何で叩いた感触までリアルなの?クロがこんなとこいるわけないじゃん。騙しすぎだよこの頭!・・・あ、クロだって。思い出した。っていうか俺よく喋るけどこれいつ終わんのかな。おい、そこのクロ!知ってる?・・・知るわけないか」

「俺、幻覚じゃないよ、本物だよ」

「はいはい。言ってれば?何でもしてくれたらいいじゃん。俺の望むこと、何でも。・・・虚しくなるから、やめてくれる?」

「何だよ、望むことって」

「知ってるくせにうるさいなあ!アレだよ、アレ!」

「あれって・・・」

「何か今日は妙にリアルだね。ほら、こんな、ねえ。髪の感触まで、よく出来てる。ホログラム効果、みたいな?ここまでリアルに喋れたことないね。ねえ、クロ?ほら、何か言って」

「・・・ねこ」

「ああ、喋った」

「ねこ、俺、ちょっと、こわい」

「怖いって?ああ、宇宙人ね。だめだめ、言ったら出てくるよ。さっき会ったんだから。・・・あ、ほら」

「え、い、いるの?」

「いるよ」

「え、ど、ど、どこ」

「そこ。手と、指、見えてる」

「・・・こ、こわいんだけど」

「怖いと思ったらだめだよ。意識を集中したものが出てきちゃうんだから・・・ああ、這い出てきた。へえ、粘土みたいな、マットな質感」

「や、やめて・・・」

「やめてほしいのはこっちだよ。こんなの細部まで見たかないよ。あ、やだやだ、振り向かないで。顔とか見たくない。お前の顔でも見てよう」

「な・・・なに、こっち、見てるの?ほんとに、いるの・・・?」

「いるよ。意外と地味だね。ジミーって名前にしよう。大丈夫、意識しなけりゃ消えるよそのうち」

「やだ、おれ、ちびりそう」

「お前はいくらでもちびりな。俺は寝小便はまずい。あーあ、いつ終わるんだろう。おーい!もういいよ、そろそろいいです!」

「だ、誰に言ってるの?」

「俺だよ。俺の体。クロ、俺を揺すってきてよ。向こうの俺だよ。そうしないと、起きれないから」

「え?向こうって」

「上だよ、向こう。いや、まあここなんだけど。動けないから、揺すって、声、出させてやって。声が出せたら、そしたら動ける。あれ、前も説明した?」

「・・・う、うん」

「お前といると、情緒不安定だよ。本気だからかな。じゃあ、頼んだから」

「う、うん」

「・・・違うよ、俺を揺するんじゃないよ!向こうのお前が何とかするんだよ」

「あの、ここ、どこなの?」

「幻覚」

「俺はお前の幻覚の中にいるの?」

「ちょっと違う。お前が幻覚なの。ここの舞台は本物。俺の記憶の再構成」

「幻覚なら何でも、出来るの?」

「まあね。ほら、お前の手も持てるし、見ようとすれば暗くてもよく見える。ん、ここ、爪、どうした?」

「え・・・それ、見えるの?この暗さで」

「どうせ今見てるんじゃないよ。記憶だから。意識してないものでも、人間、意外と見てるんだよ」

「あのね、それさっき、包丁で・・・」

「だめだめ!意識したら飛んでくる!刺さる!」

「ご、ごめん」

「何でも思いどおりってわけじゃないよ。すぐ共鳴しちゃうし、コントロール出来ない。あれ、でもそういえば今日はうるさくないな。ほんの耳鳴りくらいか」

「お前、他のものも、見えたり、聞こえたりするの・・・?」

「見えるときは見えるよ」

「じゃあ、たとえば、ブラックホールとかも」

「・・・ああ、面白いねそれ。出てくるんじゃない?お前の後ろから、つかめそうなくらい黒い塊が近寄ってきて、きっと喰われるよ。ああ、クロって、黒なんだね」

「・・・あの、それ、今?」

「ううん。まだ来ない。勉強不足だね、イメージが足りないよ。お前の言うとおりだな、もっと多角的に理解しないとイメージ出来ないもんだ」

「ねえ、お前はこれからどうするの?」

「ふん、まあ、待つしかないね」

「何を?」

「・・・仮想の、この世界が終わるのをさ」

「世界の、終わり・・・」

「ここは中間だからね。寝てもいないし、起きてもいない。こんな風に訊いてくるお前も、俺が言わせてるだけのレプリカだ。・・・俺、聞いてほしかったのかな」

「・・・そっか」

「もう頑張りたくないよ俺。疲れた。おーい!起きろ!・・・だめだな、起きない」

「ごめん」

「お前のせいじゃない。・・・はやく、本物に会いたいな。隣で寝てるはずだ」

「・・・すぐ、会えるよ」

「うん」

「会えるから、もうちょっと、待ってて」

「・・・うん」


 お前がこっちに来たのか、俺があっちへ行ったのか、分かりはしなかった。

 中身と表面のモザイクは等価だし、すべての時間と空間はお互いに相対的だし、量子力学でいえば、有名なシュレディンガーの猫で、蓋を開けるまで生きているか死んでいるかは確率でしかない。どちらが真実かって、すりあわせられないなら、永遠に分からない。

 二人の<コペンハーゲン>はこうして幕を閉じ、翌朝、めずらしく黒井が先に起きていた。

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