第114話:流れ星は宝石みたいな記憶
「せ、先生待って!」
「もう先生じゃない。ねこ、早く!」
黒井はコートを羽織るのもそこそこに、もう玄関のドアを開けていた。やっとベッドから起き上がった僕は、走って後を追う。会社用のコートに部屋着のズボンに革靴で、ああ、鍵もかけないで廊下を走り、エレベーターへ。何、もう、来てるの?待って!
・・・すべりこみセーフ。もう、<閉>ボタンまで押してるんだもんな。ひどいよ。
「・・・もうちょっと、何とか、ならないの?」
「何が?」
「その、何ていうか・・・」
さっきと今で変わりすぎな、それだよ。言葉が見つからないうちに屋上についた。空気が冷えていて、静かだった。
黒井がキーを合わせ、ドアを開ける。手前に開けて、そこから雪が舞い込んできた。
「さむっ!」
そう言って、でもためらわずさっさと出て行く。我慢できない、って感じで。
真っ暗な屋上に、誰も踏んでいない雪。
しばらく、ただ見ていた。黒井が先へ歩いていく。黒いダウンの塊が、ぼんやりと小さくなる。雪は風に流されながら、ちらちらと舞っていた。空を見上げて、灰色のような紫のような一面の雲を仰ぐ。頬を刺すような空気が、ああ、雪の中にいる、と思わせた。
「ねこー!はやくー!」
黒井の声が響いた。「うるさい!」と小声で怒鳴る。何時だと思ってるんだ。
雪を踏んで、進む。黒井の足跡の、隣をたどる。
・・・静かだった。雪が音を吸収してしまうんだろう。
足跡を見ながらゆっくり歩いていると、ふいに、黒い塊が近づいてくる。業を煮やして、手を取って引っ張っていくのかと思ったら、その場で止まった。
三メートルくらい、前。
こっちを見ている。ちょうど、表情まで見えないような距離。僕も足を止めた。
・・・。
ああ、知ってる、と思った。
急に鳥肌が立つような、寒気が襲うような、ぞくぞくとした焦りがやってきた。耳鳴りがする。唾を飲み込んだ。
目を見開いて、雪が目に入っても見つめ続けた。ああ、これだ。この感じ。
その黒い影が、目に焼きついていく。3Dの、立体視で浮かび上がるイラストみたいに、見えてしまえばずっと見ていられる。視線をそらさなければ、目と脳の間だけでホログラムが浮かび続ける。
・・・寂寞、だ。僕の知ってる、暗さと、寒さと、寂寥。
思い出した。これを感じたあの日のあの廊下。この屋上で抱き合った次の週。お前が雪の話をして、僕が「降ってない」と言った。こんな切なさなんだ、こんな、届かないけどそこにいるような、失われた充足感だ。足が凍っていく。動けない。涙さえ出そうだ。
僕の行くところは、会社でも、ドイツでもない。
ここから来て、そしてここへ行くんだ。緯度と経度じゃない方向。内側。
そういう、確信があった。魔法の石を手のひらに握っていれば、何も怖くないんだけどな。
でも、それはなくて。
押し潰されるような、締め付けられるような圧迫感と、内側から形を保とうとする力がつり合って、その、どこかへ押し出されるような強い感覚が何度も訪れた。ふっとやってきてどこかへ行ってしまう、いつかのメロディーのようなそれじゃなく、思う度、何度も何度も、感じた。そして、お前の手が俺の目を覆ったそれを思い出せば、世界は完結した。これが僕だ。
とうとう黒井は近づいてきて、僕に言った。
「ねえ、俺、寝たいよ、お前と」
「・・・いいよ」
いいに、決まってるだろ。胸が、喉が、詰まった。二人は歩き出した。それから悲鳴が響いた。
「こ、ここでなの!?」
「どこで寝る気だった?」
「そ、それは」
「あはは、冷たい」
黒井は両手を頭の上に伸ばして、空を仰いだ。いくら積もったとはいえ、雪国じゃないんだからふわふわの綺麗な粉雪じゃない。でもそんなことお構いなしなのは分かっていた。したいと思ったらしちゃうんだ。
「上から、降ってくるね」
「・・・そうだね」
マンションの屋上で、仰向けに寝てるってだけだ。二人並んで、夜中に、雪の中。ただそれだけのことなのに、普通に生活してたらあり得ない情景だった。
頭の位置が低い。雪のせいで、耳の周りの音の響き方がこもった感じになる。自分の声が内側に響く感じ。ぐっと首をのけぞって見ると、鉄柵がさかさまに見えた。
空までの距離が、遠い。僕と雲の間の何キロかを、もどかしく雪が落ちてくる。雲から放たれた雪が、僕まで届くのに何秒かかるんだろう。あるいは何分?視界いっぱいの雪を見ていたら、宇宙の本に出ていた絵を思い出した。エッシャーの騙し絵で、天使と悪魔が、円の外側にいくにつれどんどん小さく描かれる、<無限遠>。無限が一つの円に全て収まっている矛盾。
今見えてる雪が、やがて全部地面にたどりつくんだと思うと、何だか不思議な気持ちになった。星の光が地球に届くまでの時間。光速よりずっと遅い雪は、時間をスローモーションに感じさせた。がさ、と音がして、隣で黒井が、雪に向かって手を伸ばした。
「ね、流れ星って見たことある?」
心を読んだみたいに、そんなことを言う。月、雪、湖、海・・・そして流星。
「・・・どうかな、あった気もするけど、気のせいだったかも」
「俺ね、ばあちゃんちで、見たんだよ、何度も。ひゅう、って」
伸ばしたその指で、見えてるかのようになぞる。右から左へ、結構長い軌跡だ。
「見えてる間は、何か、ゆっくりに見えるんだよ。でも、それでもあっという間なんだ」
「ふうん」
「でね、俺が、今だって、そう思ったときに見えたことがあんの。すごい、何ていうか、ああ、俺ってそういう人間だったんだって」
「・・・は?」
「へへ、すごいでしょ。何かね、俺の、宝石みたいな、記憶」
「・・・」
何も言えなくて、隣を向いた。頬に雪が冷たい。黒井もこちらを向いて、微笑んだ。僕は満足してまた空を仰いだ。
黒井は伸ばしていた手を頭の後ろで組んで、小声で何か知らない唄を歌った。歌もうまいなんて、知らなかったよ。綺麗な高音が、切ないメロディーをつづる。僕はそれを聴きながら、雪を目に焼き付けて、そして目を閉じた。
・・・・・・・・・・・・・
へっくし、と黒井がくしゃみをして、僕は「そろそろ帰ろう」と言った。僕が立って、黒井を起こす。黒井が僕の肩に手を置いて、二人でエレベーターまで戻った。明るいホールに戻ると、濡れた髪を撫でられ、「冷えてる」なんて言う。「お前もね」と返すけど、そんな風にさらりと髪なんか、さわれないよ。
部屋に戻ってすぐに風呂を洗って沸かし、暖房を入れた。二人の濡れたズボンは洗濯機行きで、でもこれしか長ズボンがないという。そういえば毎回これだった。
「夏のハーフパンツしかない」
「・・・パンツ一丁よりマシだ」
僕はバスタオルを借りて腰に巻いてるけど、お前のそのパンツ一丁が目の毒なんだ。
先に黒井を風呂場に押し込むと、僕は暖房の部屋で、小さく膝を抱えた。
・・・。
何だか胸がいっぱいになる。何かがこみ上げてきた。
たぶん、クロのことが好きすぎて。
こんな青春みたいなこと、誰かと出来るなんて、思い描いたこともなかった。ちょっとなら仲間に入れてもらえるかも、どころじゃない。二人きりで、僕を見て、あいつは微笑んだ。僕だけに唄を歌った。たまたま二人になって、雪なんて非日常でちょっと盛り上がった、だけじゃない。どうしたいか訊かれて、言ったら、すぐこうなったんだ。あいつは僕の言うことを聞いてくれる。そのまま真っ直ぐ、受け取ってくれる。上辺とかその場のノリじゃなくて、本音で話してくれるんだ。楽しそうに、話したくてしょうがないって顔で、「ねえ、俺ね」って、いろんな話。
ちょっと、涙が出てきた。
今更、泣けてくる。
僕が好きな相手が、僕を、少なくとも嫌がったりしないで、一緒にいてくれる。
・・・嬉しすぎた。
ああ、今風呂から上がってこないで。抱きついて泣きわめきそう。だめだってば、こんな感情。これから一人でいられなくなる。見えてなかった寂しさが刺さりそう。猫を抱きしめなきゃ寝られない夜が続いて、死んでしまいそう。
どうしよう、苦しいよ。これが、胸が張り裂けそうってやつ?困ったな、一緒にいてもいなくても、こんなに、心臓が・・・。あ、ちょっとふらつく。貧血?もう、手を繋いで、屋上で寝ながら死んじゃおうよ。こんなんでこれから先、心臓が保たないよ。ここでもういい。終わってもいい。明日世界が終わればいい。だって嬉しいんだよ。好きな人が出来て、その人と一緒にいて、雪の中二人で寝たんだ。流れ星の話をして、宝石みたいな記憶だって、お前は微笑ったんだ。
手のひらで、頬の涙を拭った。
黒井が歌った唄を歌いたかったけど、もう思い出せなかった。このポンコツ脳みそめ、そのくらい上書き不可で保存しとけ。ああ、高音の伸ばした音の一音なら覚えてる。「あー、あー」うん、この高さ。・・・それだけ分かっても、意味ないけど。
子どもの頃、お気に入りのカセットを持って、二階の両親の寝室へ行ったことを思い出した。そこの窓から見える、裏の広いお屋敷。砂利の車寄せがあって、車が入るたびガリガリと音がした。窓の桟に腰掛けて、カセットデッキを外の格子に置いて、ああ、ひたすら外を眺めていたっけな。学校から帰ってすぐ、夕焼けまで。
きっと歌は好きだったんだ。音楽の時間に歌わされてから嫌いになってしまった。ああ、そういえば藤井からまたCDをもらったんだっけ。この家に再生装置はあるのかな・・・。
足音がしてドアが開き、パンツ一丁の黒井が入ってきた。うわ、かっこいいなあ。その鎖骨とか、胸とか、腹とか、もう全部。ちょっと伸びてきた無精ひげとかも、悪くないんだ。むしろそのままもう少し伸ばしてほしい。会社に行ってたら、無理だけどね。
「・・・な、なに」
僕の視線に気づいて黒井が振り返った。
「いや、早く着てよ。寒そうで、見ていられない」
嘘ばっかりだな、着てほしくないし、寒そうじゃないし、見つめっぱなしだったじゃないか。
「え、寒くないよ」
「お前はね」
「ねこも早く入りなよ。あったまる・・・あれ、お前泣いた?」
「べ、別に」
僕は立ち上がって、そのまま風呂場に向かった。「どしたの?」と後ろから声がかかるけど、そのまま全部脱いで風呂に飛び込んだ。泣きながら笑って、全部溶けていってしまいそうだった。
・・・・・・・・・・・・・
歯ブラシに歯磨き粉をつけていると、「もういいじゃん、寝ようよー」と黒井がせっついた。
「だめだよ、ちゃんと毎日磨かないと」
「どうでもいいじゃん、こんな時くらい」
「こんな時だからこそ、だ。ちゃんとしてないと、そこから秩序が崩壊する」
「崩壊するとどうなるわけ?」
「・・・俺が困る」
「何で?」
「・・・だって、一つ崩れたら他も崩れ始めて、そしたら復旧が大変になって、ものすごく頑張らなきゃいけなくなる」
「・・・ねこ、お前」
「なに?」
「・・・お前、もしかして、頑張らないと何にも出来ないんじゃない?」
ふと見ると、寒そうな足であぐらをかいた黒井が、部屋からまっすぐに僕を見ていた。
思わず何か反論しようとしたが、しかし、言葉が出なかった。
・・・頑張らないと、何にも出来ない。
確かにそうだ。うん、そのとおりだ。頑張らなくても出来ることなんて少ししかなくて、でもそれは大体役に立たないことばかりだった。みんなが何でもない顔でこなしていることが、僕には出来ない。そうだ、頑張ったら何とかそれなりに出来るもんだから忘れていたけど、今だってずっと、頑張るのをやめたらそこで終わりなんだ。そこから立ち直るなんて途方もない努力を要するから、そんなの無理だから、毎日ちゃんとしてなきゃいけないんだ。
「分かってるなら、協力してよ」
「・・・ああ、そっか、なるほどね。じゃあ俺も磨いてあげる」
「ありがとう」
僕は、ようやく手に持ったままだった歯ブラシを口に入れた。そして、いつもどおり右の奥歯から始めて、秩序ある歯磨きを実行した。
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