第113話:先生の逆襲

 やかん片手に部屋に戻り、まずはベッドの下を見るように言われる。はいはい、何もいませんよ。グラスに湯を注いで、お湯割りの残りのお湯割り。まあ、99%白湯だ。

「はあ、ちょっと落ち着いた。で、何で凝視してたの?」

「え?し、知らないよ、ぼうっとしてただけだろ」

「ふうん。ああそうだ、背中を押してもらわなきゃ」

「え?」

 黒井先生は布団をめくって向こうへ押しやり、ベッドに横になった。枕をどけて、両腕を枕にしてうつ伏せ。

「・・・お、俺が押すの?」

「そう」

「う、うん・・・」

 うなずきはしたが、これ、ベッドの上の、黒井の上に乗れってこと?足をばたばたさせて「早く!」とせかすので、ぎこちなく腰のあたりをまたいで、膝をついた。

 背中を押そうと前かがみになると、ベッドがぎいい、と軋んだ。

「あ、あのさ、床の方がいいんじゃない?よ、夜だし」

「やだ」

「え、何で」

「だって、下・・・」

 あ、もしかしてベッドの下がまだ怖いのか?

「わ、分かったよ」

 仕方なく背中に向き直る。だ、大丈夫だ。ちょっと背中を押すだけだ。何てことはない、やれる。ええと、背骨が1番、そこから2番と3番を見極めて、4番で終わりだ。それだけだ。

 ・・・。

 僕は黒井の紺色のセーターを見つめる。しわになってよれているし、中心線なんか分からない。1番の、背骨の位置が分からない。

 ああ、それで、手を入れて触るしかないのか。

「ちょ、ちょっと、失礼」

 先生に教わったとおり、シャツをズボンから引っ張り出して、中に、手を・・・。

 ひい。

 手を引っ込めた。ぼ、僕がこれから、あれをやるの?あんな、痛いだの気持ちいいだの連呼させて、いいようにほぐしちゃうの?このベッドの上で、僕が上になってギシギシ軋ませながら、「気持ちいいよう」なんて言わせちゃうつもり?

 静かな部屋で、僕の心臓の音が聞こえそうだった。でもここまできて、やりたくないとも言えないし。唾を飲み込んだら、えらく響いた。

「・・・どしたの?」

「え、・・・えと、手が、冷たいから、悪いと思って」

 僕はあわてて手をこすり合わせた。さっきやかんで温めたし、冷たくも、ない。

「あったまった?」

「は、はい」

 ささっとやってればよかったのに、自分でハードルを上げてどうする。こんなんじゃ赤点だ、落第だ。ズボンの腰のあたりに触って手を慣らし、そのまま上に、ずらして、いくだけ・・・。

 あ、あったかくて気持ちいい・・・。

 とりあえず右手を入れて、上にすべらせていく。しっとりというよりはさらさら。ま、まずい、変な気持ちになりそう。1番だ、背骨だ、位置確認だ。

 解剖学の授業か何かだと思うんだ。よし、それなら出来そう。僕は手を入れ替えて左手で背骨をなぞり、それをセーターの上から右手でなぞった。右手の位置はそのままで、温もりから引っこ抜いた左手を添え、2番の位置取りをする。たぶん、背骨の2センチくらい外側?3センチかな。左手を自分の背中に回して、さっき押されたところを思い出す。うん、やっぱり2センチ。

 親指を当てて、押してみた。どこまで押すと何が起こるんだろう。あれ、押しすぎるとあばらが折れて心臓に刺さるんだっけ?あ、それは心臓マッサージか。

 押していくと、ベッドに沈み込んでしまって、どれだけ押せてるのかよく分からない。黒井はああともううとも言わない。だめってことか?親指の間隔は2センチのまま、少し下におろす。腰方向に2センチほどずらして、また、押してみる。ぎい、と沈みこむ。でも、こんな感じじゃなかった?

「あ、あの・・・」

 おそるおそる訊いてみる。失格ならもう、おりたいんですけど・・・。

「もっと強くていいよ」

「は、はい」

 だめか。そう簡単にはおろしてもらえないか。

 もう一度2センチ下げて強めに押すと、「もっと垂直に」と言われた。垂直。

「・・・垂直?」

「えとね、肩と、腕と、指が一直線になる感じ」

 ・・・ふむ。腕を前に出して、指だけ下向きに押してたけど、肩からまっすぐ下ろす感じか。もっと体勢を立てて、こ、こうかな?

「ううう・・・」

 強めに入ったらしい。先生が息を吐いてうめいた。

「・・・い、いい感じ」

「そ、そう?」

 ちょっと嬉しくなる。先生のアドバイスが良かったんだけど。

 ギシギシ鳴らないように、ゆっくり長めに押していく。上から、削岩機みたいな気持ちで、まっすぐ下ろしていく。

「ううー。あーきもちー」

 うあー、とか、はああ、とか、温泉に浸かったときみたいな声が漏れる。声は低くなるばかりで、僕みたいに高くなっていかない。あ、あれ、もしかしてこういうのが普通の反応なの?何か、僕、痴態をさらした?

 急に恥ずかしくなって、何だかおかしな八つ当たりもあって、もう少し強く、スピードもアップする。えい、ベッドが軋んだってかまうもんか。こんな夜中に、変な声とセットじゃ隣の人に迷惑かと思ったけど、僕の腕じゃそんなことにならなさそうだし!

 2番が腰まで来たので、もう一度背中に突っ込んで、3番の位置取りをする。あ、気づかないうちに黒井の尻に座ってた。まあいいか、何だか今はそれどころじゃない。

 あたりをつけて、また肩の下に戻る。たぶん2番から、更に2センチくらい横。

「・・・この辺?」

「うーん、もうちょい、横」

「こっち?」

「もうちょい」

「こう?」

「あっ・・・そ、そこ」

 うはー、と、一杯引っ掛けたみたいな、裏返った声。

「・・・せ、先生色気ないね」

 つい、口に出た。な、何言ってんだ。取り消せるもんなら取り消したい。スルーしてくんないかな。

「え、何だって?」

「何でもない!」

 黙って押した。今度は息しか漏れない。・・・な、何だよ。でも、黙って押すしかない。

 背中から、腰へ向かう。ただ押すだけでも、一回一回きちんと力を入れるとわりと重労働で、少し息が上がる。黒井がうめかないので、僕の呼吸だけが響いた。そこ、きもちー!と言われないので、基本に戻って、まっすぐ、ゆっくりを心がける。垂直に、ぐうっと押し込む。

「・・・んっ」

 あ、強すぎたかな。あわてて力を抜いた。

「・・・いいよ、そのまま」

 な、何だよ急にそんな、低いけど、本当に先生みたいな声出して・・・。

「・・・は、はい」

 やっぱり、聞こえてた?え、色気、出してくれてるの?

 ど、どっちにしたって、僕は押すだけだ。何でこう、一瞬で空気が変わっちゃうんだろう。また心拍数が上がり始める。背中に手を置くのすら緊張する。ええと、続き、まっすぐ、上から・・・。

「・・・んんっ」

 反射的に引っ込めそうになるのを抑えて、最後まで押した。手を離すと、僕と同じく、空気を吐ききった後の息継ぎの声が漏れる。・・・さ、誘ってるの?っていうような、ため息。は、はやく、「なんてね、どうだった?」とか笑ってよ。演技って分かってても、いや、分かってるからこそ、それをどう受け止めていいかどぎまぎする。「おー、男の色気だね!」なんて、もう茶化すようなタイミングは過ぎちゃったよ。

 3番が腰まで来たので、あとは4番。また、手を入れなきゃいけない。あ、確かここで2と3を、指の腹ですべるようになぞられたんだっけ。え、今ここで、こんな状態でそんなこと?

 ・・・。

 でもここで勝手に終われないし。

 あんな声で扇情的にじらされたら、ちょっと、何しちゃうかわかんないな、なんて思いつつ、両手を背中に入れた。僕の手のひらが肌に触れ、黒井の息が漏れる。ほとんど震えそうになりながら上にすべらせていく。親指で背骨に触れつつ、また2番を、目ではなく手で探って、位置を取り、なぞっていく・・・。

「・・・気持ち、いいよ」

 瞬間、心臓が跳ね上がった。思わず力が抜ける。も、戻らなきゃ、仕事、集中しなきゃ。どこまで来たかわかんなくなって、位置もずれてしまって、焦って、息が早くなる。

「・・・もう一回」

「は、はい」

 手を再び差し入れる。もう、目を閉じた。手のひらの感覚だけで背骨を探る。親指だけは背骨に置いたまま奥へ進み、肩甲骨を手のひらに感じて、肩にたどりつく。もう一度位置を確認して、指の腹をずるずるとすべらせる・・・。

 今度は何も言われないので、また違う心拍数が上がった。だめかな、うまくなかったかな、赤点かな・・・。

「ど、どう、ですか」

 訊いてしまった。何て辛抱がないんだ。

「・・・いいよ、大丈夫。はやく、次」

「はい」

 また別の心拍数が上がる。いや、心臓は一個だから、同じなんだけど。

 これが、演劇部の実力なの?色気、って言われたら、そんな簡単に出てくるの?先生、俺、単純だから、信じちゃいそうだよ。このあと、合格だったら、抱いてくれる?なんて・・・。


 何とかつつがなく4番を終えたけれども、どうなんだろう、やっぱり尻も揉まなきゃいけないのかな?

 僕は膝立ちのままずるずると下にずれて、まずは腰の下のあたりに手を置いた。すると黒井先生は上半身を起こして、「そこはいいから」と言った。

「は、はい」

 先生はベッドに腰掛け、目で僕を呼んだ。僕も隣に座る。ずっとついていた膝が、伸ばすとき痛んだ。

 肩に両手を置かれ、その手がそのまま背中に回って、抱き寄せられた。耳元で、低音のささやきが響く。

「・・・教えたとおりに、よく出来たね」

「・・・」

 全身が、ぞくっとした。合格、ってこと?

「・・・で」

「・・・」

「・・・何か言うことがあるよね」

「え」

「俺に・・・何が、ないって?」

「・・・え?」

 どん、と肩を押され、そのまま後ろに押し倒された。ベッドが軋んで、体が跳ねる。黒井が上から覆いかぶさってくる。

「ね、言ってみて。俺に、何が、ないって?」

「そ、それは」

 押し返そうとする手首を取られて、頭の上で押さえつけられる。ああ、この、抵抗できない、無防備!!腹から下はなくなってしまったように、ひゅうひゅうと寒い。

「すいません・・・!」

 顔をそむけて謝る。黒井の膝がベッドに乗って、また軋んだ。

「謝らなくていいよ。だから、ちゃんと言って?」

「ご、ごめんなさい、嘘です」

「え、何が?」

「嘘でした、すいません・・・」

 顔が近づいてくる。耳に息がかかる。もう、やばい。

「ん?」

 先生は許してはくれない。

「・・・あ、あの、・・・い、色気がないなんて、嘘でした」

「白状するのが早い。減点」

「すいません・・・」

 ああ、忍耐が足りなかったか。こんなじゃ拷問を生き延びられない。基本がなってないな、まな板の鯉が聞いて呆れる・・・。

「さて、これからどうしたい?」

「・・・え?」

「俺の下半身のマッサージが残ってるけど、お前はどうしたい?」

「や・・・そ、そんな」

 もう、色気っていうより、何か・・・。

「何でもいいよ。どうしたいか、教えて」

「え、えと、えっと・・・」

 目を閉じて考える。合格なら抱いてって?言えるわけない。せ、先生の気に入る答え。嫌われない、合格の答え・・・。

 ・・・。

 でも、そんなの違う。そうじゃない。もっと、本当に、したいこと。

「・・・な、何でも、いい?」

「いいよ」

 優しい声。痺れて、とろけそう。

「あの、おれ、したいことが」

「・・・うん?」

「手、はなして」

 僕は自由になった両手を口元に持ってきて、察した黒井が耳を寄せた。僕は、おくじょうで、いっしょにゆきがみたい、と言った。

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