第75話:あいつのこと、何にも知らない
客先でも、建物ばかり見ていた。
最新のものから、いつの昭和だというものまで、実にいろいろ。道を歩いていても、取り壊し前のビルだとか、警備員だとかが目につく。どういう格好、どういう挙動をしていれば、目立たないだろう。藤井いわく、<どんぐりでも拾ってましたって顔>。
何かを思いつく度にノートに走り書きをして、しかし、<例の案件>を考えそうになる頭を何とか仕事に持っていった。このくらい、こなしてみせる。五年もやってんだ、ほとんど初めての不法侵入に比べたら、プロじゃないか。
帰社してからも、印鑑やら計算ミスやら、佐山さんから三回もやり直しを食らって、「大丈夫ですか」と心配された。マスクのおかげで病み上がりのせいってことになり、何とか事なきを得たが、それも今日までだ。一度やった仕事を自分であと二回見直して、自分でミスを発見する度ため息と苦笑いが出た。
とうとう夕方、横田や課長にまで心配され、早く帰れと言われた。幸い立て込んでるものだけは片づけたので、有り難くそうさせてもらうことにした。寝不足がすでに効いてきていて、あれ、そんな年じゃないはずなんだけど。
19時前には上がって、まずは発送部屋に立ち寄り、バンドエイドを少々横領した。ついでに使えそうなクリップやビニールの小袋なども頂戴して、何食わぬ顔でエレベーターに向かった。どんぐりでも、拾った顔だ。
21時閉店のホームセンターに間に合って、こまごまと買い物をした。結局いざとなれば使わないだろうなと思うものも、つい買い揃えてしまった。三分の一が物を入れる入れ物であり、現場であたふたしないための小分け袋等だった。
これから、僕は鑑識官として現場に向かうのだ。ごっこ遊びだと分かっていてもわくわくした。黒井が荒らしたであろう現場を一人でひたすらに捜査する。ああ、どうして昨日くまなく写真を撮ってこなかったんだろう。どうしてまだ見取り図を完成させていないんだろう。こっちの方が先に現場を見ていて有利なはずなのに、全然生かせてないじゃないか。やっぱりこういう時に、一歩出遅れる癖が出るんだな。今日で、挽回しないと。っていうか、もしかして既にゲームオーバーの可能性も、あるけど・・・。
・・・。
こうしちゃ、おれないか。
慌てて携帯を見るが、勝利宣言は来ていない。ま、まずは、整理だ。見取り図か?いや、道具か。ううん?
だめだ。僕はエスカレーターで二階に駆け上がって、クレープやら軽食を出す小さな店というか、そこのスペースのベンチに陣取った。お腹が空いたのでホットドッグとオレンジジュースを頼み、テーブルいっぱいに荷物を広げた。それらの包装を全て剥がして綺麗に詰め直したい欲求をこらえて、やっぱりノートを引っ張り出す。胸ポケットからふせんを出して、うん、結局これしか出来ないんだな。高校生くらいの女の子の店員がホットドックを持ってきて、お待たせしましたーと小声で言いながら、じろじろと無遠慮にテーブルの上と僕とを交互に見ていった。うん、ピンセットと折りたたみ椅子と、ロープと僕との取り合わせが、不審だったかな。
お告げみたいなふせんの指示に従って、ここで出来るだけ荷物を整理してから、家に帰って残りの物を全て準備し、着替えて出掛けることにした。「ごちそうさま」と皿を返すと、女子高生は「え、もう?」という顔で受け取った。学生がこんな時間までバイトしてるんだから、僕だってホットドックの早食いくらい一分で済ませて、さっさと仕事に取りかかろうか。
・・・・・・・・・・・・・・・
考えられる可能性を挙げていく。
ひとつ。黒井はまだ何も行動していない。
ひとつ。黒井は行動し、既に勝利条件を満たしている。
ひとつ。黒井は行動し、しかし勝利条件は満たしていない。
つまり、黒井は宝のみを発見し、宝と狼の駒がどこかに置かれているか、あるいは、猫のみを発見し、猫はどこかに隠されている、あるいは、どちらも発見しておらず、狼の駒のみがどこかに置かれている・・・。
猫は、息を潜めて無事に待っておられるだろうか。まるで本当の分身のように思えてくるから不思議だ。早く行ってやりたい。しかし、鉢合わせして本気の鬼ごっこをして勝てる自信はなかった。あくまで、僕のやり方で、行くのだ。
僕は、黒井がもう現場に行った方に賭けた。わざわざ朝訊いてきたのも、きっと昼間行くためだ。外回りの合間を見計らって、スーツ姿で隣のビルに用がある振りでそっと忍び込む。正面玄関ではなく通用口の階段を発見しただろうか?まあ、玄関がだめならあそこが一番近いのだし、一周しようと思えば必ず発見するだろう。一見、鎖も南京錠もないのだから、普通に施錠されているように見える。開けてみるだろうか?・・・まあ、みるだろう。
昼間、あそこはどれくらい明るいだろうか。それでもトイレの中は暗いだろう。トイレに窓はなかったはず・・・いや、よく見ていないだけか?やはり正確な見取り図だ。
今時点で何の連絡もないということはおそらく、何も発見できていないか、一つだけ発見したかのどちらかだろう。・・・だとしたら、黒井は夜、出直すだろうか。もしそうなら、スーツのまま直行するか、一度帰宅して準備を整えて来るか。
・・・来るとしたら、終電前、か。
あるいは、始発。
僕が黒井の駒でなく本人を発見したからといって、得られるものは何もない。逆に、黒井に僕本人が見つかって、捕まったら、駒と同じ役割になるのだから、あとはお宝、となる。既にお宝を発見していれば黒井の勝ち、もし見つけていなくても、僕、つまり人質本人に吐かせるという手もあるのだし、僕としては不利以外の何でもない。僕は、徹底的に逃げ回りながらの戦闘になるのだ。
僕は終電から始発までの時間で現場へ出かけることにした。そこで黒井がどう行動したかを見て、隠し場所を変えていかなくてはならない。そして、まだ一日目では難しいかもしれないが、黒井がどんな犯人になりきっているか、当てなくては。
三時間ほど眠り、目覚ましに起こされる。真っ暗な部屋で、ひたすらに、眠い。しかし、行かねばならない。僕は買っておいたフルーツヨーグルトをかき込み、暖房を入れて服を着替えた。ああ、温かい飲み物を持参するのに、水筒がいる。明日ホームセンターやスーパーに行けなければ・・・水筒なんか、どこで売ってる?・・・ああ、今はタンブラーって呼ぶか。スタバとかのカフェに売ってるだろう。半分閉じている眠い目をこすり、ノートに<スタバ>と殴り書き。マスクに軍手で、さあ、出陣だ。
当然ながら、夜中だ。街はしんと静まりかえっている。遠足だか修学旅行だかで、夜明け前にリュックを背負って家を出たことを思い出した。たぶんあの時と同じ星が見えていて、あの時と似たような格好で、でもあの時と違って僕は自分のために出掛けていく。誰の予定でもなく、僕だけのために。
寒空の下歩きながら、何だか、とても僕らしいと思った。
こういうことをして生きているのが、本来の僕なんだ。
本当は黒井をイメージする<魔法の石>をポケットに入れたいところなんだけど。生憎、そいつの人質だからね。
昨日と同じ、門扉に着いた。月曜の夜、いや、日付は火曜になっているが、この時間では隣の自社ビルの明かりも消えていた。まずは立ち止まって、車の出入りがないか、警備員が巡回していないか、ざっと気配を探る。それから<例の案件>の建物に目を移し、物音がしないか耳を済ませた。特に、どこも、異常なし。
門扉から通用口まで黒井の形跡を探しながら歩くが、ここまでは念のためライトをつけずに歩くので、よく分からない。まあ、本番は、中に入ってからだ。・・・う、黒井の下ネタみたいになってしまった。
昨日の今日だからか、通用口を開けることも少し慣れていた。途中でキイィと鳴ることも分かっているから、その手前で止めて、体をすべり込ませる。そういえばここ、内側から鍵が掛かるのか?やってみたが、鍵らしきつまみを回しても扉は開くので、意味はなかった。つまり、ここは施錠不可能。両者とも、閉じ込めたり閉じこもったりは出来ないということだ。
ちょうど五秒突っ立って、息を整え、感覚を研ぎ澄ました。
まずは嗅覚。どんなに現場の写真を撮っても、空気の流れや匂いは分からない。・・・あれ、何か、におうな。ちょっと埃っぽい、あるいはトイレの芳香剤のそれでもない。最近かいだことのある、舌が覚えている匂い。・・・タバコだ。
まさか、黒井がここでタバコを吸っているのか?にわかに緊張する。今、いるの?それとも、残り香?
もう十秒待つが、何も起こらないし、何の音もしなかった。僕は思い切って、勢いよくパン!と手を叩いてみた。何もない廊下に反響がこだまする。僕の鼻は既にタバコらしきにおいに慣れてしまい、今となっては本当にそうなのかすら分からなくなる。しかし、最初の違和感はたいてい当たるものだ。
僕はそれを残り香だとみなして進むことにした。
本当は一目散に宝を確認したいが、万が一のため、ぐっと抑える。放免されたカモが一直線に何かの隠し場所へ急いだり、真の黒幕に連絡したりするようなものだ。
ライト片手に、まずは階段手前の非常口の通路灯を目指す。駒を取ったら捜査開始だ。
非常口のカバーは、見たところ異常なしだった。ポケットに用意していたドライバーを取り出し、カバーを外す。猫は、昨日の体勢のまま窮屈そうに入っていた。それを引っ張り出してポケットに突っ込む。今日はもうちょっとマシな所に隠れよう、な。
僕はリュックからバインダーを出すと、左腕で抱えた。右手に水性ペンを握り、それと一緒にペンライトも握る。ペンをライトより前に出しておけば、ライトで照らしたものを、そこから持ち替えることなく書きとめられる。ライトが紙に近すぎるとむしろ見えないので、ペンは長めに出しておくとよい。
見取り図を描きながら、メモを取りつつ、黒井の痕跡も探す。昨日歩いた感覚を呼び起こし、どこか少しでも違和感がないか探っていく。ここを一人の人間が何かを探しながら歩くなら、どうなるか。足取りは?手はどこに触れそうか?視線はどこへ?鑑識の基本は、なりきることだ。
全ての部屋のドア、部屋だか消火器入れだか分からないノッカーなどを確かめながら一つずつ進む。やがてトイレに差し掛かり、まずは昨日見ていない男子トイレから見ていくことにした。個室の扉を一つずつ開けるときは怖さを感じたが、特に何もなかった。女子トイレも然り。超簡易蝶番が開いた様子もなかった。開けて宝がなくなっていないか確かめようかと思ったが、もしそうなら、どこかに狼と一緒に置いてあるはずだ。今ここで無理に開けることはないだろう。
そうして、二階の見取り図を大体描き終え、あとは上下階の探索だ。・・・どちらから行くか。
ごく普通の神経なら、何となく迷ったら上に行くんじゃないだろうか。左右で迷ったら、左へ。それはたぶん右利きだったら左手を壁側にして、右手を自由にしておきたい欲求だと思うが、上下でそれをどう感じるかは、その人次第、だろうか?
とにかく直感にしたがって三階へと上がる。人が余裕ですれ違えるが、三人並ぶのは狭いというくらいの幅。壁側に金属の手すり。明かり取りの窓。窓ガラスには格子の線が入っていて、真四角の、取っ手を握って下から外側へ押し上げるタイプのもの。ここからの出入りは出来そうにない。
・・・その時。
ふ、と何かの影が見えた。
窓の、桟。
窓は階段の踊り場部分にあり、僕が手を伸ばして取っ手に届くかという高さ。滅多に開閉しない前提だと思われるが、ライトを当てたとき、虫の死骸のようなものが、正確に言えばその影が、見えた気がした。
・・・まあ、虫の死骸なんだろう。
しかし、立ち去るにはあまりに惜しかった。僕は踊り場にリュックを置いて、中から茶封筒を出した。これも発送部屋からかっぱらったもの。それから百円ショップで買ったお好み焼き用の刷毛を出し、ライトは口にくわえて、苦労して封筒にその小さな塊を落とした、と、思う。
ライトを口にくわえるのは結構大変だった。よだれも出るし、歯が痛いし、ライトつきヘルメットが欲しいと思ったが、まあ、そこまではね。
封筒の口をいっぱいに開け、早速戦利品を観察する。何だか、黒っぽいような、埃のような・・・。封筒を揺さぶるうちに粉々になって、どうやら虫では、なかった?何となくぴんときて、ゆっくりにおいを嗅ぐ。・・・まさか、タバコの灰?僕が指で押し潰した、崩れそうで崩れないが、崩せばすぐに粉々になる、あれ。
・・・証拠品か?
においの正体なのか、これが?え、まさか今までここでタバコを吸っていた?
僕は急いで軍手を取って茶封筒に指を突っ込み、灰に触れた。うん、別に熱くはないし、たとえ多少温かくても、この指で感知出来たかは怪しかった。ああ、せっかくの物的証拠を潰してぐちゃぐちゃにしちゃったよ。ま、別にここから成分分析するわけでもないから、温度の方が大事だったか。
僕は指を払って茶封筒の口を閉じ、そこに水性ペンで<2F~3F踊り場、窓のさん>と書き、二つ折りにしてリュックに閉まった。
よし、やった!
建物に入った瞬間にタバコのにおいを嗅ぎ、そして今、灰を発見した。
・・・か、快感だ!
科捜研に回すわけでも何でもないけど、証拠物件を入手した!何て楽しいんだろう。あはは!
・・・待て待て、浮かれてばかりでもしょうがない。推理もしてみようじゃないか。
十中八九、今日、黒井がここでタバコを吸った。
最初にライトに照らされた塊っぽい影を思い出すに、自然に落ちた感じの灰だと思う。つまり、吸いかけのまましばらく放っておいて、ぽとりと落ちた・・・。
・・・こんなところに?
一瞬、何も考えず浮かれたのが悔しい。優秀な鑑識官なら、なぜそれがそこにあるのかという違和感に最初に気づくはずなのに。
僕はライトで周囲を丹念に見ていった。しかしそう簡単に足跡やら指紋やらが採れるわけでなし、掃除機で微細証拠物件を集めるわけでなし、灰の採取以上のことは出来なかった。ただ、状況証拠だけだ。
窓の、桟。
そもそも、手が届かないとは言わないが、わざわざ手を伸ばしてこんなところに灰が落ちるか?落ちるとしたらどんな状況だ?僕は自分がタバコを持ったつもりで手を伸ばしてみる。意図的に灰を置きたいのであれば出来ないことはないが、意図的でないのなら、こんなの不自然だ。
この状況が自然になるのは、どんな時だ。窓の桟に灰が落ちる・・・桟に足をかけて、どこかに登ろうとしていた?いや、踊り場で窓の桟から飛び移れそうなところなどどこにもない。天井にライトを向けるが、不気味な何かが吊り下がっていたりということもなかった。
窓の桟・・・。
あ。
もしかして。
窓を開けた?窓から外を見ていた?
何でそんな単純な推測に思い当たるのに何分もかかるんだ僕は。あらゆる可能性を考えたいばっかりに、いかにも手の込んだトリックを暴きたいばっかりに、当たり前のことが見えなくなってしまう。フィクションの謎解きに慣らされた柔軟な頭・・・ではなく、夢見がちな絵空事で現実逃避した愚鈍な頭だった。
窓の取っ手に手を伸ばしたいが・・・しかし何でこんな高いところについてるんだ。いくら黒井だって、軽々と手が届く場所じゃない。もしこの窓から出ようとするなら、何か踏み台でもなければ足がかけられないだろう。
踏み台、か。
僕はリュックから折りたたみ椅子を取り出した。いや、かろうじて尻を乗せられる程度で、踏み台にはならないか。それでも、僕は右の靴を脱いで不安定な布に乗ってみる。ライトで他の残留物を探すが、なかった。何とか重い窓を向こう側に押して、ほんの少し開けてみる。景色が見えるわけでもなく、風が吹き込むわけでもなかった。
黒井のことを、思った。
いったいお前は、どんな気持ちでここにいて、どうしてタバコを吸って、どうしてこんな高いところの窓を開けたんだろう。いや、開けたかどうかは分からないが、何となく、開けた気がした。ふと、前に言ってた話を思い出す。テラスで酒が飲みたい、月なんか見ながら、とか。月は好きだ、なんて。お前は月の何が好きなんだろう。何にも知らない、何にも知らないなと思った。あいつがどんなものが好きで、どんなことをするとどんな風に幸せな気持ちになるか、そんなこと一度も考えたことがなかった。そして今、僕は一人でそれを考えている。お前の人生の、本気の本番って何なんだ?俺が勝つってことは、それを理解するってことだ。
それなら。
やっぱり、勝たなきゃならない。
勝負に勝ってどうのじゃなくて、自分のフィールドのゲームだからとかもなくて、ただ、黒井のことが愛しかった。黒井が何を考えているのかを考えるその時間が、甘い水のように美味しく、春の風のように気持ちが良かった。僕はしばし、想像の<魔法の石>を手のひらで転がしながら、ライトを消して目を閉じた。
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