第76話:最初の推理はタバコから
三階の廊下のつきあたりに宝のカンがあり、その上で黒い狼が寝ていた。ライトに照らし出されたそれは、まるで本物の獣のようだった。
ありゃ、早速、見つかっちゃったんだな。
僕は狼をその寝床から下ろして、静かにそれを強奪した。さて、次はどこに隠すか。
最上階の最奥に鎮座していた狼は、何かを盗んだり逃げた人質を追いかけているというよりは、まるで王のように君臨していた。宝をどこかに隠すでもなく、廊下のほぼど真ん中に・・・。それは何となく、湖の主だとか、幻獣みたいだった。
僕はまた写真を撮っておかなかったことに思い至ったが、この光度ではどのみち無理だったか。僕はバインダーに正確な位置情報を記載し、ああ、巻き尺がなかった、とメモもして、探索を続けた。
結局、宝のカンは例の灰の窓に置いた。適当な隠し場所もなかったが、隠す気も起きないのだった。猫さえ隠しきれれば負けないのだから、お前の痕跡を見つけたという意味で、窓の桟に置いておくことにした。
さて、あとは猫。
今日も同じ非常口でいけるだろうか?しかし、なぜいかにも怪しいあの箱を黒井が開けなかったかといえば、きっとドライバーを持っていなかったというだけだろう。それは今日にも揃えているはずで、明日にはきっと見つかる。やはり変えるべきだ。
二階と三階を、永遠にそうしているのかというほど歩き回った。思考は停滞し、あちこちライトを向けてみても、消火ホースの扉もエレベーター機械室もどうにもならなかった。何でこんなに鍵穴ばっかりあるんだろう。ライトを壁と床に這わせて舐めるように何かを探すが、手頃なものはなかった。壁から天井へ向けてみても、電球の取られた傘だけ・・・ああ。
ここか。
傘の中に猫を入れて、ガムテープで封をしてしまえば、この暗闇の中ではわざわざそこを照らさない限り、目立たないのでは?しかし先ほどと同様、この折りたたみ椅子では天井に手が届かない。
何か、台はないか。
外から、運んでくるか。
僕は何がしかのやる気で緊張し、思考と行動を同時並行で行った。二階の通用口から飛び出し、最初カンを埋めようと思っていた植え込みへ。ライトで照らしていくと、あった。ブロック塀が仕切りのように、半ば土に埋まっている。甚だ面倒かもしれないが、この敷地内に踏み台になりそうなものが今は他に思い当たらなかった。
リュックからスコップを出し、軍手でブロック塀を掘り起こす。土は硬いしブロックは持ちにくいし、本当にこれをすべきなのか段々疑問に思えてくる。これならペットボトルの上に立った方がましか?
しばらく土いじりに専念する。そういえば土なんかに触れるのは何年ぶりなんだろう。ブロックの周りの土を少しずつ掘り下げていく。土は硬かったが、スコップが入らないほどではない。ならいつか、掘り起こせるはずだ。
最後は多少強引に引っこ抜いて、土をざっと落とし、タオルにくるんで例のホームセンターのビニール袋に入れた。土を振りまきながら歩いたら、ヘンゼルとグレーテルになってしまう。
何とか腕に抱えて建物内に運び込み、あとはどの電球跡を今宵の猫の寝床にするか、だった。出来るだけ目立たない、天井にライトを当ててみようと思わないような場所。
・・・入り口?
入った途端にその場で天井を調べようって、思わない、かな。うん、他の選択肢とグラム単位まで計量して比べてる暇はない。もう疲れたし眠いし寒いし、こんな重いブロックいつまでも持っていたくないし、ここで済ませよう。こういうところで思いつきが勝って詰めが甘いのかもしれないけど、悪くない気がしたので、これでいくことにした。
・・・。
あ、待てよ。
黒井は夜中に来るとは限らないのか。昼間、ここなら十分日差しで明るい。天井にガムテープなんて貼ってあったら、見える。ここはだめだ。危なかった。昼間も一度来てみないと様子が分からないな。しかし、昼に来る勇気もないけど・・・。
僕は結局、二階のつきあたりの、<非常口>より少し手前の電球跡に猫を隠した。暗闇でブロック塀に乗って背伸びをし、ライトを口にくわえて、手をいっぱいに伸ばしてぎりぎり届く天井にガムテープを貼るのはものすごい苦労だった。暗闇をライトの光がいたずらに走って、足下のおぼつかなさも手伝って酔いそうになる。やはり、ヘッドライトが欲しい。ガムテープを丸く綺麗に切れなかったのが悔しいし、ライトでしっかり照らせば違和感が丸わかりで、甚だ不愉快だが仕方がない。これからやり直す気力もないので今日はここでセーブ。ああ、安物でいいから押したら光るデジタル時計が欲しい。脚立も欲しいし、赤外線カメラとか、っていうか暖房が欲しい。僕はブロックを元の場所に戻して埋めるのもそこそこに、建物を後にした。
・・・・・・・・・・・・・
熱い風呂に入り、考えをまとめようと思ったが、気がつくとほとんど寝かけていた。もうすぐ、五時になってしまう。一時間でもいい、とにかく寝よう。
目覚ましだけ忘れずにかけ、布団に倒れ込んですぐに眠りに落ちた。タバコ、灰、タバコ、窓・・・。暗闇に慣れきった目が、閉じてもなお、まだ何かを見ていた。
目覚ましが鳴る。
ああ、行かなきゃいけないんだっけ。俺じゃなくちゃだめなんだっけ?さっき誰か代わりに行かなかった?俺はその後でも、いいよね・・・。
・・・だめなのか。
脳みそから誰か出ていったと思ったけど、僕はこの世に一人しかいないみたいだった。しかも、この体と一緒じゃなきゃだめらしい。じゃあ、体を起こして、移動させるしか、ないのか。
さっきのは、誰だった?たぶん、女・・・。いいや、マヤじゃない。もっと無口で、言われたことを黙々と遂行するから、一瞥くれてさっさと行ってしまった・・・。
あ、そんなこと考えてる場合じゃない。まずい、本当に起きないと遅刻だ!
火曜日、三日目。
今日も今日とてビルの内装をくまなく見て歩く。四課の鹿島と、SSの関口と客先へ納品。普段は誰かと行くのは緊張するし嫌だけど、今日は大歓迎だった。頭が働かないし、ちょっとした隙にも居眠りしそうなのだ。
「あんた、差分データ、持ってきた?」
「え、鹿島さん、差分ってあれですよね」
「ん、あるある」
「あります」
・・・。僕がいる意味ってないけど、なくていい。自分がそれどころじゃないから、関口の仏頂面も気まずくないし、鹿島のオヤジギャグも楽しいばかりだった。何でも手伝うから、僕に頭を使わせる仕事を振らないでくれ!
昼は三人でてんやに入り、天丼をかき込んだ。ああ、うまい。会社の人と食べる昼飯がこんなにうまいなんて、初めてだ。最初は僕と鹿島で営業の話をしていたが、ふと会話が途切れたので、関口に話など振ってみた。ペンと同じく力んだ持ち方で握った箸が止まり、「・・・え、俺?」と不機嫌そうな声。
「いや、関口さんもそういうの、あるのかなって」
「んんー」
真剣に考えているのかのらくらかわしたいだけなのか、関口は箸で天丼をぐちゃぐちゃとかき回した。ああ、そんなんじゃ、猫まんまみたいになっちゃってるよ。
「・・・別にないね」
「あ、そうすか・・・」
「やることやる、だけだから」
そう言って七味をぶっかけてどんぶりをあおり、「ごっそさん」。茶を飲み干して席を立ち、先に外に出て、たぶん一服つけているのだった。
「山根も、SS行きたいなんて思ってないだろうなあ」
出口をちらりと見やり、鹿島が言った。
「え、いや、前はちょっと、とか思ってましたけど」
「きついよー?あの人もさ、昔、一度カラダ壊したクチだし」
「え、そうなんすか?」
「最初は肺炎こじらしたとか聞いたけどね。結局半年くらい来なくなっちゃってさ。あすこの課長が頭下げて、戻ってくれって頼んだって」
「それっていつ頃の話ですか?」
「ええ?三、四年前じゃない?」
「へえ、そうなんだ・・・」
「あっちに比べたらね、ま、うちの課長もぐだぐだじゃない?楽よね。っはは、内緒よ?でも、横田なんかさ、まあ、オジサンには何考えてるか、わかんないやね」
「ま、まあ・・・」
僕は適当ににごして味噌汁を飲み干し、午後の仕事の話に切り替えて勘定をし、先に外へ出た。
案の定、関口は短くなったタバコを何度も神経質そうにふかしている。猫背、サイドを刈り込んだ頭、睨むような目つき。誰かを思い出した。
次の一本を出して、何度やっても点かないライターと格闘している関口に火を差し出すと、最初の煙を吐き出して、怪訝な声。
「あんた、吸わんのかと」
「ええ、ま、最近」
「・・・顔に合わないよ。やめとき」
本当はタバコのためじゃなくて、道具の一つとしてさっき買っただけだけどね。
勘定を済ませた鹿島が後から出てくると、一口しか吸っていないタバコを躊躇なく足でもみ消し、関口は「さて、俺は次」と歩きだした。二人で「行ってらっしゃい」と声をかけると、後ろ手に右手を僅か振って「あんた、もういい」の合図。僕と鹿島は今までいた客先に戻り、関口は別の納品に向かうため、地下鉄の駅に消えていった。
客先のフロアの廊下に貼られたパネルを、ぼんやりと眺めていた。差分データを吸い出すまでやることはない。万一担当者やここの社員に話しかけられても、御社の実績や御社の商品開発の強みを見てるんだから、どうとでも話は出来るだろう。
<・・・新素材の開発により、アスベスト対策の技術は格段の進歩を遂げ・・・北欧諸国ではすでに積極的に取り入れられており・・・>
・・・。
何か、思い出したような気がした。朝から、何か気になっていたような。
その後仕事をしているうちに忘れ、そして帰社してトイレに入っているとき唐突に思い出した。
・・・リスベット。
・・・・・・・・・・・・
ヘビースモーカーは、リスベットだ。
単語一つからずるずると順不同に記憶が連結されていき、やがて一つのまとまった像を結んだ。リスベット・サランデル、<ミレニアム>の主人公。小説より映画の印象が強くて、鼻ピアスのパンクな姿が目に浮かぶ。手のひらで積み木を転がしてカラコロいわせるような響きのスウェーデン語と、抑揚のない低い声。イメージそのままの女優は、しかしその役をやるのは相当大変だったろうなと思ったことを覚えていた。
黒井は、あの舞台でリスベットになっているのか?しかしリスベットは小柄な女性だ。どうしてあんなところに灰を残した?
手を洗っていると、黒井が入ってきた。同じ会社の同じフロアにいるのだから、こういうことがあってもおかしくはない。僕は「ああ」と一瞥をくれ、黒井も「うん」と小さくうなずいて、すれ違った。ハンカチで手を拭きながら廊下を戻る間、その一瞬を反芻し続けた。服の感じ、匂い、表情、肌、髪。モンタージュが描けるくらい、心理分析ができるくらい、思い出して、記憶にとどめて・・・。
基本的には昨日と同じスケジュールとした。一時過ぎに出かけて、四時前には帰る。帰宅してまず一番にやったことは、通販でヘッドライトをポチることだった。意外と安い。そして二番目がカップ麺で、三番目が約一時間の睡眠。
階段と、踊り場と、黒井と、タバコの夢を見た。<階段の踊り場で黒井がタバコを吸っている>と綴り直せば、文字情報とともに現実が再構成される。映画のフィルムをひとコマずつ切って、それを一直線にドミノみたいに並べていって、ひとコマ目から奥を覗き込んだら、二時間を一秒で見渡せる。映画の中で流れる時間と、映画を鑑賞する二時間と、実際にカメラを回す何ヶ月が、見渡した一秒と等価になる。
タバコ一本を想像する。分解すれば、草とフィルター。その横にリスベットを置けば、等価になるのか?
・・・違う。僕は茶封筒の中身を思い出す。置くのはタバコじゃなくて灰なんだ。灰を基準とするなら、分解した構成要素は、草とフィルターと火の熱と、・・・時間。あの長さの灰が落ちるまで、いったい何分かかるんだ。
見た夢と連想していたイメージは目覚ましの音とともに忘れてしまったが、茶封筒の灰を確かめるということだけ覚えていた。A4のコピー用紙に中身を空けて、でもこんなのうちの料理用のはかりじゃ載せたってゼロのまま。ラボに帰ればナノグラムまで量れるのに・・・いや、まあ、そんなのが欲しいって話。
それからふと思い出してパソコンを立ち上げ、メールをチェックした。最初にあの現場に行ったとき、黒井が取った外観写真。このアドレスに送れと渡しておいて、結局チェックしてなかったんだ。
黒井の携帯アドレスからメールは来ていた。日付はあの日、ファミレスを出たすぐあとくらい。件名はなし、本文もなし。写真の添付のみ。僕はそれらのサイズを適当に変え、スクラップブックのようにエクセルに貼り付けていった。<ミレニアム>の映画で、主人公が失踪した女性を探すために、関係者の写真や新聞記事をどんどん壁に貼っていったのを思い出した。情報をどんどん集めて、視覚化して、五感で推理する。うちでもやろうかな、でも、画鋲を刺せないし、貼ってる暇もない。
僕はエクセルシート一枚を印刷して、バインダーの表紙に貼ることで満足した。すごく、充実していた。
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