第77話:痕跡からその姿を想う

 何となく、以前黒井から借りて着て帰ったスキニーパンツを履いて現場へ赴いた。いつものゆるめのストレートブルージーンズより、向いている気がした。引っかけにくいし、伸縮性がある。いろいろなものが、自分のためにしつらえられているような気分がした。風が少しぬるくて、まだ一月なのに、いつかは春が来るんだということを思わせた。

 二重生活で既に通い慣れた現場に顔を出す。たったの三日目ではあるが、どんぐりを拾う顔も板についてきた気がする。軍手を装着し、門扉を乗り越え、通用口へ。しかし入る前に奥まで行ってブロックを確認する。特に変化なし。何となく気になって、更に奥まで回ってみた。まさか黒井が別のところから出入りしてないよねとか思って・・・。

 建物の裏手。扉はいくつかあるが、施錠されたまま。小さな窓もあるが、壊されたような様子もなく、もちろん開かない。壁に立てかけられた脚立も、・・・。

 脚立?

 小さめの、三段くらいの、脚立だった。

 何だ、こんなところにあったのか。昨日ブロックを掘り起こしたのはいったい何だったんだ。こんなおあつらえ向きのものがあったのに、しかもこんな近くにあったのに、無駄な労力と時間を使ってしまった。使えるものは何でも応用するタチだけど、本来の使用目的に沿った使い方が最も気持ちいい。ああ、悔しさがこみ上げる。使えるはずの素晴らしいものを無視して、静かに寝ていたブロックを無理矢理掘り起こした。むしろ、こんなもの昨日はなかったんなら、あれはあれで機転を利かせた選択肢だったんだ。あったばっかりに、こんな、半額のクーポン券をレジで出し忘れたような、財布にちゃんと準備していたのにうっかりしたような、悔しさと歯がゆさで思わず拳を握りしめた。ああ、昨日に戻ってやり直したい!

 ・・・。

 ん?

 っていうか、こんなの、あったのかな。

 記憶をたどる。最初に南京錠を発見したとき、一度ぐるりと建物を一周してるはずだ。今みたいに施錠を確認しながら、扉と窓を一つずつ見ていって・・・。

 まさか、誰か、来てるのか?工事業者?建物の外の配電盤でもいじってるのか?

 こんな夜中に作業するとも思えないし、今それらしい物音もしない。急いで脚立の周囲をライトで照らすが、脚立でのぼれるくらいの位置に何か作業するような物体は見当たらなかった。

 持ってみると、意外と軽いアルミ製で、新しいみたいだった。とにかく、これは使わせてもらおう。今日だってまず天井の猫を取るところから始めなきゃいけないんだ。欲しかったものが労せずして手に入り、まあ、昨日の失態は忘れることにした。今日もこれからブロックを運ぶところだったわけだし、むしろ早めに見つけて良かった。この脚立を活用すればするほど昨日のマイナスが取り返せることになり、まあ株で言うところのナンピン買いってやつだ。

 片手で脚立を抱え、通用口から入る。勝手知ったるなんとやらで廊下を進み、ライトで照らしながら脚立を組み立てた。脚立といえば古くて重くて錆びたやつしか記憶にないから、新しくて軽くて綺麗で嬉しかった。さて、猫は今日も無事に寝てるかな・・・。

 天井を照らすと、ガムテープがあった。脚立にのぼって手を伸ばす。ああ、何て楽なんだ。足場がしっかりしてるって、素晴らしい。容易に手が届き、ガムテープを剥がすと、そこに貼り付いた猫がべろりと出てきた。よかった、今日も見つからずに済んだらしい。ガムテープごといったん服に貼り付けて、下に降りた。さて、探索開始だ。

 

 二階と三階には何もなく、狼も宝も見つからなかった。残るは、まだ見てもいない一階。バインダー片手にライトを首からぶら下げる。ロープとガムテープで一時的に首提げ仕様にした。いちいちポケットにつっこんでいられない。

 基本的には一階も同じ造りだった。さっき脚立があった辺りの扉は搬入口だったらしく、スロープがつけられていた。扉の内側には簡易版の南京錠。まあ、ここは開ける必要もあるまい。いや、また開けられる自信もないけど。

 仮に狼と宝を見つけられなくても、猫さえ隠し切れれば問題はない。が、僕が勝負をかけるには猫を出入り口に設置しなければならず、宝が狼の手中にあるのなら、答えをハズせばそこで敗退だった。

 僕は例の階段の踊り場に戻り、脚立をセットして、もういちど灰のあった窓の桟を点検した。脚立さえあれば、こうしてまたいで座って、桟にひじなんか掛けて、楽にタバコだって吸える。ああ、途中のコンビニで買ってきたピースとやらを出してみた。自販機ではタスポ?とかいうのが必要で深夜は買えないから、仕方なく店員に言って、やたらたくさんある種類の中から普通っぽいのを出してもらったのだ。

 軍手を外して封を切り、一本出す。ライターの火をつけると、オレンジの光が幻想的だった。さて、あの量の灰がぽとりと落ちるまで、何分くらいかかるのか・・・。やっぱり下手くそで何だか先が黒く焦げるけど、タバコに火をつけてあとは放っておいた。

 肘が当たって、ライトがガムテープからすっぽ抜けて、下に落ちていった。カン、と乾いた音がして、コロコロ転がっていく。そのまま階段を、ああ、カン!コン!・・・カン!・・・段々と間隔が伸びていって、やがて静かになった。何となく煩わしくて、振り向くこともしなかった。やっぱり応用と工夫ではすぐにガタがくるな。

 左手でライターの火をつけたり消したりもてあそぶ。昔はガリガリ回す歯車みたいなものがついてて、父親のそれを点けようとして指が痛かった覚えがあった。今はもうそんなものはないのだろうか。

 あれ、っていうか、そういえば、そもそも火をつけた時間を見ていなかった。何をしてるんだ僕は。しかも、灰皿だってないしどうやって消すつもりなんだろう。だめだな、全然頭が働いてない・・・。

 もういいやと思って、タバコを吸った。それまで灰になっていた部分が下に落ちる。どこに行ったかはもう分からない。現場でタバコなんか吸うもんじゃないな、微細証拠物件を撒き散らすばかりだ。フィルターからは唾液が検出されて、血液型まで分かってしまう。さて、やり直すか、どうするか・・・。

 ライターの火で桟を眺めていると、何か、丸いものが見えた。コンタクトレンズ?ライターを近づけると、その部分の感じがじわじわと変わり、透明感が増してきらめいた。え、何?照らしながら指で触ると、やはりコンタクトなどではなく、液体。あれ、熱い?

 思わず天井を見上げるが、何も見えはしない。いや、鳩の糞だとかじゃないけど、何か、垂れてきたのか?もう一度ライターを近づける。ただの水一滴、いつからここにあって、蒸発せずに残ってる?まさかガソリンとかじゃないよね。あっ、と思い慌ててライターを消した。火なんかつけたらまずいか。え、罠?

 さっき触った指のにおいを嗅ごうとして、何か変な感触。においはないが、糊みたいな、いや、もっと粘性の低い、乾いた膜が張ったような・・・。ガソリンではないが、水でもない?

 くわえタバコで脚立を降り、壁伝いに階段を下りてペンライトを取りに行った。にわかに緊張が走る。マスク、マスクか。不審物、液体、・・・サリンだとか思わないけど、念を入れても構わないだろう。今のところ触ってしまった指は痛くも痒くもないけど、あとからかぶれたりとか、するか?先に手を洗う?いや、検証優先だ。

 ライトが壊れずに光を放っていてくれたおかげで、暗闇の中手探りで探さずに済んだ。タバコは床でこすって火を消し、脚立の下に吸殻を置いた。

 脚立を上がって、引火する心配のない光を当てた。何となく、さっきと違う。液体というか半透明のヤマト糊みたい。素手で触るのはやめて、何かでつついてみようか。

 リュックからいくつかの小分けバッグのうちの<小物類>を出して、中からピンセットを取り出した。

 何かあればすぐに飛び降りれるように、脚立の向きを変えてまたがらずに立ったまま覗き込んだ。左手のライトで不審な物体を照らし、ピンセットの先でそれに触れた。・・・固形だ。液体じゃない。何だこれ?ピンセットで少しこすると、削れた。固形だが、柔らかい。何だ、この感触を何となく知っている。懐かしい感じ。消しゴムじゃなくて、チョークじゃなくて、うん、チョコっぽい?溶けて、固まって・・・。

 あ、・・・ロウソク、だ!

 ああ、だから、火を近づけたら溶けたんだ。溶けたら液体になったんだ。ああ、そうか。これ、ロウソクだ!ピンセットを桟に置いて直接指で触る。サラサラ、ツルツルした感じ。やっぱりそうだ。

 一度脚立を降り、バインダーの紙を一枚持ってまた上がる。ピンセットで少し削って、つまんで、紙に載せた。四つ折にたたんで、ポケットへ。そして今度はもう一度ライターの火を近づけた。ああ、さっと溶けて透明になり、オレンジの光が反射した。ロウソクのしずくだったんだ!

 検証した喜びもつかの間、自分を問いただす。浮かれてる場合じゃない、どうしてここにロウソクのしずくなのか、それが問題じゃないか。全く、本当に視野が狭いというか、物事を全体的、包括的に見れないというか・・・。まあいい。ここにロウが一滴垂れていた理由、だ。

 ・・・ここでロウソクを使ったから、でしょうか。

 脚立に乗らないと容易には届かない窓の桟に、ロウソクと、タバコの灰。

 頭を切り替えて、推理する。残されたものは、全体像の一部に過ぎない。昨日ここに人間が一人いて、灰が落ちるくらいの時間、たぶんそれ以上の一定時間ここにじっとしていて、何をしていたか。脚立を降りて、手を伸ばしてみる。右手は灰が落ちるまでずっと上げたまま動かさず、左手で何をする?周囲の壁に細工をした跡もないし、いや、そんなの不自然だ。

 そもそもロウソクは何のためだ。明かりか、火を使うか。タバコに火をつける?いや、わざわざこんなところにロウソクを立てなくとも、ライターで充分だろう。なら、明かりのため?ここに明かりを設置して、どうする?

 どちらにしても、高かった。踏み台がなければロウソクも置きにくい。

 ・・・。

 あれ。

 もしかして。

 僕はものすごく馬鹿だった?

 この、脚立。またがって、窓の桟に肘を掛けるにもちょうどよくて。

 っていうか、これ、黒井が持って来たんじゃない??

「ああー!ははっ!」

 思わず笑いが漏れた。あ、なんだ。これ、お前の?どうして思い当たらなかったんだろう。工事も始まってないのに業者が突然、裏口に脚立だけ置いていくわけないだろう。天井の猫が無事だったもんだから、黒井と脚立を結び付けていなかった。ああ、そうか。お前が脚立を持ち込んで、こうしてまたがって、ロウソク立ててここで一服してたのね。・・・何でかは、わかんないけど。

 ・・・何でだ。

 タバコの火ではない。昼間なら窓があるんだから明かりはいらない。じゃあ夜か。夜なら、明かりのためか。でもここは窓があるから廊下なんかよりは薄明かりがあってライトがなくても見える。ここで、わざわざ、ロウソク?

 しかし、今こうしていろいろやってみるとやはり実感する。ペンライトでは、作業がままならない。ヘッドライトじゃないなら、そう、ロウソクやランプのように明かりを置いて固定しないと、両手が使えなくて不便だ。しかしここの電源は使えないだろうから、持ち込めるのは電池式のランプか、・・・アナログなロウソクか。ふむ、お前はどういう趣味なんだ?リスベットはロウソクで何をしている?

 少し思考が停滞したので、猫の隠し場所に戻ることにした。リスベットだという確信には至らない。やはりまだ勝負はお預けだ。

 脚立があるから天井で何か出来そうだけど、黒井が持って来たなら、逆に脚立が使える範囲は重点的に探される可能性がある。脚立を持って、ふらふらと階段を下りた。もう、眠い。

 結局、猫は裏の搬入口の南京錠の裏にセロテープで留めることにした。しっぽが垂れ下がってしまうので、尻尾も背中にセロテープ。鎖の中に紛れ込ませるようにして、まあ、わざわざ探そうとしなければパッと見えることもなかった。

 三時を過ぎていた。こんな、全力も出し切らないまま帰ってまんまと負けるかと思うとたまらないのだが、かといって、今これ以上何か出来る気がしない。もう、ここでうずくまって寝たいけど、会社には行くルールだから家に帰って着替えなくちゃいけない。それに、また風邪を引くわけにもいかないのだ。

 ・・・おでんが食べたい。

 コンビニでおでんを買おう。汁に虫が浮いてたってかまうもんか。そんなの飲み干してくれる。もう、眠いし寒いし腹が減った。ああ、何かついこないだも同じことを思った気がする。もう忘れた。

 ちょっとだけどうでもよくなって、脚立を持って外に出た。もう警戒もへったくれもありゃしない。出入りの業者よろしく、ハイお疲れさんという感じ。終わりましたよ、帰ります。

 脚立を元の位置に戻した。まさかこんなものまで持ち込んでいたとはね。さすがにこれを持ち歩いて往復するのもきついだろうし、まあ、置いていく、か。僕は念のため他に何か置いていったものがないかライトで照らしながら、反対側を回って帰ることにした。どうしても落ち着かなくなったり、いい隠し場所が思いついたら明日の昼間来てしまおうか。いや、ちょっと場所的にきついか。明日の外回り先は・・・。

 ・・・ん?

 ライトの光がさらっと舐めた地面の上。何かあった。

 四角い、細長い、紙?

 脚立から十メートルくらい行ったところだろうか。拾ってみるとそれは、本のしおりだった。

 ・・・。

 思わず建物を見上げる。

 ロウソク。タバコ。灰。窓。

 本を・・・読んでた?

 急いでしおりにライトを当てる。それは出版社のものでもなく、書店オリジナルのものでもなく、たぶんチラシのような感じで入っている、電子書籍の案内が書かれたぺらぺらのものだった。最初から入っていたか、それとも書店のレジで適当にはさまれたか。

 これが、窓からひらひら落ちた?気づかなかったのか?窓を開けて本を読んでたってこと?

 ライトを建物の窓に向けた。階段は廊下のつきあたりなんだから、つまり、建物の真裏であるここのはずだ。それなら、二階から三階への踊り場の窓は・・・たぶん、あれだ。あそこからひらひら落ちたら、この辺に、着地するかな。実験する?いや、別に同じ場所に落ちるわけじゃないし、可能性はあるとしかいえないだろう。

 ・・・あそこに、ロウソクの明かりが、見えたわけか。昨日・・・というか、数時間前なら。

 黒井がそこにいることを想像した。脚立に乗って、灰が落ちるのも気づかないほど集中して、ゆらめくロウソクの炎で活字を追う。まるでネバーエンディング・ストーリーのバスチアンだ。きゅうと胸が締め付けられた。会って抱きしめられるより、深く重く、掘り進むような。

 ふと藤井が言ったことを思い出した。こねこが生きてにゃあと鳴いて、それはどうしてぬいぐるみとこんなにも違うのか。それを追求すれば宇宙の成り立ちまで遡る・・・。つられて夜空を見上げた。星は、微かに一つか二つだけ。星の光は過去のものだというが、それなら僕だって昨日のお前のロウソクの光が見たい。これが、<きゅーん>なのだろうか。僕が読んだ本と同じ文字を目で追って、同じことを感じたわけじゃないだろうけど、何だか僕が犯されてるみたいだ。体が火照った。全身を舐められてるような、思わずぞくっとして、身震い。やっぱり<きゅーん>じゃないのかもね。少し勃っちゃった。

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