第78話:違和感の正体

 だから、ライトの光がそれを照らしたときも、ついぼうっとして見逃していた。首を振って現実に戻り、もう一度目をこらす。例の窓の、下。何かがある。ぶら下がっている?僕は脚立を抱えて、建物の中に取って返した。何でさっき窓を開けなかったんだろう。何で脚立を発見したときに見逃したんだろう。ここまで近づいていて、僕はどうしてこんなに鈍くて甘いんだろう。

 さっきの踊り場で脚立に乗り、窓の取っ手をライトで照らす。黒い糸が巻き付いていた。取っ手をひねってぐいと外へ押すと、ぎぎぎ、と軋んで窓が開く。糸を手繰り寄せると、狼と、宝のカンがガリガリ壁にこすれながら上がってきた。

 カンの上部の持ち手と、狼の胴体に黒い糸がぐるぐるに巻かれていた。はあ、こんなすぐそばにいたのか、お前。宝を回収し、七つ道具の小さなナイフで宝の持ち手の糸を切った。その糸をそのまま狼に巻いて、命綱を強化して外に放した。どっかに飛んでいくなよ?

 窓を閉じて、勝負をかけることを決めた。

 さっきの猫を取りに行き、メモ帳を破って<リスベット>と書き、輪ゴムで猫に巻いた。それは通用口に置くとして、さて、ハズレたときの保険のために、宝を隠さなくては。


 結局脚立を使うことにして、入り口近くの廊下の天井に隠すことにした。

 天井裏の配線をいじるため?の四角く開けられるところがあって、丸い服のボタンのようなものがついていた。その丸の真ん中がまっすぐ溝になっていて、そこに十円玉を当てて回したら、ぱたんとその四角い天井の板が降りてきた。中を覗くと何やらケーブルだか電線?なんかが見えた。あまり頭を突っ込みたいスペースでもなかったので、すぐそこにカンを置いて、蓋を閉じた。

 バインダーにその天井裏の位置を書き込んで、脚立を片付けて帰ることにした。

 帰る間じゅう、本当にリスベットだったのか、と考え続けた。タバコの灰一つで、安易過ぎないか?直感が告げたとはいえ、これで、本気を出し切ったといえるのか?勝ったという手応えはなかった。ないのに、勝って、しまうかな。七分の一なんて、当てずっぽうでも当たっちゃうか。脚立まで買って、ヘッドライトも注文したのに、終わりだろうか。引き返して勝負を延ばしたい気もするが、でもそれじゃ、それこそ全力を出してない。ポケットの中のしおりを出して眺める。やっぱり、<ミレニアム>に、付いてきたんじゃないのか、これ・・・。

 帰宅して、何となく納得がいかないまま寝た。そして夢を見る間もなく起きて、また出社した。


 四日目、水曜日。

 会社に行って、雑用を片付けて、出て行って、帰ってきて、課長からノー残業デーだからと言われ、帰路に着いた。今日何をしていたのか、もう思い出せない。胸にひたすらわだかまりがあって、ずっと足が重かった。何かが違うし、このままじゃだめだ。でも、何が?

 未だに工事中の狭い地下通路を歩く。ポケットに手を突っ込んで、あのしおりを出し、ふと見ればコクーンタワーのブックファーストがそこにあった。ちょっと、寄ってみるか。

 文庫本の、海外ミステリコーナーへ足を運ぶ。小説なんか、しばらく読んでいないな。今の新刊には全然ついていってない。黒井に提示した七冊だって、今思えば古いものばっかりだ。わりと最近のものは、この<ミレニアム>と、<ロスト・シンボル>くらいだろう。ほんの二、三年前だと思っていたものが、四、五年になり、もしかしてほとんどが十年以上前のものか?

 年をとったのかなと思いながら棚をたどっていくと、<ミレニアム>が三冊あった。もう平積みじゃなくて、帯もない、棚の真ん中。ああ、もしかして、もう、ないのかな。これよりずっと古い他の本なんか、棚に並んで、ないかもしれない。

 ・・・。

 気になって、他の棚を見て回った。ライム・シリーズの<コフィン・ダンサー>も抜けていて、<針の目>もなかった。<模倣犯>は巻数がとびとびで、<ロスト・シンボル>は上巻がなく、<ハンニバル>は下巻がなかった。<黄金を抱いて翔べ>はぎりぎり、とっくに終わった映画化の帯とともに並んでいた。

 意外と、揃わないんだ。

 新宿の、こんな大きな書店でも、どんどん棚は流れていくんだ。

 ・・・じゃあ、やっぱり、リスベットで正解?

 つまり、しおりがあるってことは本屋で買ったってことで、本屋にないものはアマゾンか図書館じゃなきゃ入手できない。アマゾンってこんなしおりついてくるか?僕はつかつかとレジに歩いていって、「こういうの、つけてます?」と店員に訊いた。いつもなら手順をしっかり考えて、「つかぬ事を伺いますが」とか「営業の者なんですが」とか言い訳を考えるところだけど、もう、今は、いいやと思って。

「・・・はい?」

「こちらで本を買ったら、このしおり、つけてくれます?」

「しおりですか・・・」

 レジのカウンターの下から底の浅い箱が出てきて、中身を見せられた。僕が渡したものと同じものが、百枚くらい入っていた。

「どうもありがとう」

 僕は店員が何か言う前にきびすを返した。誰かの肩に当たったが、そちらを見もせず「失礼!」と外に出た。


 電車でドア側に陣取り、外を見ながら考えた。

 黒井はあそこで<ミレニアム>を買って、あの窓の桟で読んでいたのだろうか。

 日曜日、あのファミレスで黒井が<ミレニアム>を引いていたとして。そして、本屋でそれを見つけて、すぐに買った・・・。

 新宿のブックファーストで?

 ・・・。

 <ミレニアム>だったら、新宿まで出なくても、街の書店だって、あるんじゃないか。文庫本だし、それこそ、うちの駅の小さな本屋だって。

 腕時計を見た。八時十分。あの本屋が閉まるのは九時。ギリギリ間に合うか。

 後は思考が散乱して、じりじりしながら駅を待った。焦りばかりがつのる。確信もないのに勝ってしまうのか。勝ってしまったら、こんなキリキリした寝不足の日々も終わるのか。

 それで、いいのか。

 電車のドアをコツコツと叩きながら駅を待った。心拍数が上がってくる。間に合ってくれ。何が?分からないけど、間に合え。俺だって本当の本気でやりたい。もうちょっとだ。

 駅に着いて階段を駆け上がり、改札を抜けて駅前の信号を突っ切り、本屋に飛び込んだ。ためらわず店主のおじさんに「あの、ここでこのしおり、つけてます?」としおりを突き出した。何だ、僕は被害者の写真を見せて回る刑事か。

「ええ?」

 店主はすっとぼけた顔で眼鏡をずり下げ、しおりから顔を離した。

「え、これ、何のしおりですか?」

 見覚えがないなら、ブックファーストみたいにレジでつけてくれるんじゃないんだろう。

「あの、文庫本で、ミレニアムって置いてます?ハヤカワの」

「え?ハヤカワ?ああ、ミレニ、うむ、ね。ありますよ」

 店主は海外ミステリの狭い棚を手で示した。礼も言わずそちらに向かい、<ミレニアム>を三冊引っ張り出して、ぱらぱらとめくった。はさまっていたのはハヤカワ文庫の案内ばかりだった。

「すいません、これ、最近出ました?」

「はい?」

「ミレニアム、最近まとめて買っていった人とか、います?」

「うーん・・・え、早川の方ですか?」

「いえ」

 僕は、あの、屋上に行ったときの黒井みたいに「どうも!」と快活に言い捨て、足早に店を出た。


 違う。

 何かが違う。

 歩きながら考える。どんどん足が早くなる。

 本番を生ビールで乾杯して、その場で買わなくて何が本気だろう?いや、もちろんそうじゃない可能性もいくらだってあるが、とにかく何かが違うと思った。いや、たぶん、本の話じゃないんだ。入手元じゃなくて、そういうことじゃなくて・・・。

 違和感。

 ろくに考えが進まないうちに、家に着いてしまった。思考が途切れるのが嫌で、そのまま通り過ぎ、歩き続けた。違う。全然、届いてない・・・。

 脚立にまたがって、タバコ片手にロウソクの明かりで<ミレニアム>を読んでいたんじゃないのか。そのイメージは間違いなのか。窓の外に分身を吊り下げて、それってリスベットじゃないのか。

 ・・・。

 ああ、もしかして。

 本を読んでいた、というのが、違和感なんだ。

 いや、ロウソクは読書のためじゃないとか、しおりもどこかから飛んできたものだ、とかじゃない。そうじゃなくて。

 ・・・本気で読めば、火曜の夜まで、かからないだろう、ってことだ。

 もちろん、読み返していただけかもしれない。さすがに三冊は読破できなかったのかもしれない。でも。

 少なくとも、最初に現場に来るまでに、大体の感じはつかんでいたはずだ。

 だから、月曜の夜、そう、三階の廊下のつきあたり。そうだ、宝箱の上で悠然と眠っていた狼。逃げも隠れもせず最上階で、そこが王座だと言わんばかりに僕を待っていた。

 それが、違和感だ。あんなのリスベットじゃない。

 僕はそこでUターンし、もう走って家に帰った。もどかしく着替えてリュックを引っさげ、そのままの勢いで現場に走った。いても、立っても、いられない!



・・・・・・・・・・・・・・・



 息せき切って駆けつけ、軍手をつけて門扉を乗り越える。ああ、アマゾンから何が届いたって受け取れやしない。今日も仕方なくペンライトをつけ、音を立てないように走る。つい時間が早いということを忘れそうになるが、まだ十時かそこらなのだ。丑三つ時ではないのだから、隣のビルだってちらほら明かりがついている。静かに行動しなければ。

 まずは裏手に回り、脚立をチェックする。踊り場の窓を見上げ、ライトで照らすが狼がぶら下がっているかどうかは、よく見えなかった。

 脚立はひとまず置いて、通用口へ向かう。リスベットは取り消しだ。うまく理屈はつけられないし、推理は穴だらけだけど、とにかく今のまま当てずっぽうみたいに勝つわけに行かない。

 通用口の階段を駆け上り、入り口に置いた猫を回収すべく扉を開け、・・・。

 ・・・っ?

 ノブに手を掛けたその瞬間、何かが見えて思わず手を引っ込めた。

 体に緊張が走る。何だ?

 見えたのは、扉のガラス窓に内側から貼られた紙だった。ライトを向ける。反射で光ってよく見えないが、小さな紙だ。僕は左右を見回して、扉を開けてさっとすべり込んだ。

 セロテープで貼られたそれを剥がし、ライトを当てる。それは、僕が猫に持たせたあのメモだった。

 <リスベット>の走り書きの上から、油性マジックで大きく × 印。やたら丁寧に、定規でも引いたかという、紙いっぱいのバツ。ハズレた。リスベットじゃ、なかったんだ。

 ・・・。

 詰めていた息をようやく吐き出す。

 ・・・安堵した。

 足元を見る。猫はいない。そして、狼と宝も揃っていない。負けたわけじゃない。

 ・・・生き延びた。

 胸に手を当て、「はあ、はあ」と大きく息をした。遅れて冷や汗が出てくる。ああ、やっぱり、リスベットじゃなかった・・・。

 ・・・。

 <リスベット>。ああ、<ミレニアム>って、書かなかった。

 分かったかな。まあ、自分の引いた本に関係なさそうなら、バツにするか。スマホで調べれば他の本の主人公だということは分かるだろう。・・・ん?でも、黒井は他の、引かなかった六冊のタイトルも知らないはずか。じゃあ、そのまま<リスベット>って本があると思ったかな。まあ、どっちでもいいんだけど。

 僕は軍手を取って脇にはさみ、両手でパン、と頬を叩いた。しゃっきりしろ、今度は絶対、確信を持って勝つんだ。

 

 人質の駒が取られた場合。

 駒なしで宝を動かすことは出来ないから、宝はあの天井裏のまま、見つからないよう祈るしかない。そして。

 僕に出来ることは、猫の駒を探すことだけだ。見つけなければ次の勝負をかけることも出来ない。何が何でも見つける。そして、その状況で見極めなくては。リスベットでないなら、何者なんだ。

 バインダー片手に、怪しそうな場所を片っ端から見ていった。トイレ二箇所を総ざらいし、<非常口>もドライバーで開ける。廊下の天井裏も、宝の場所以外の三箇所全部を開けてみた。もう一度トイレに入り、個室の上にも扉があったので脚立を持ち込んでそこも開けた。その作業を、三階と、一階も、全く同じ手順でやった。一時間はかかっただろうか。

 保守点検の作業員の気持ちでやった。一箇所やるたび、バインダーにチェックを入れた。少しずつ、レ点で埋まっていく。あとは、踊り場の窓。

 あの、二階と三階の間の窓には何もなかった。ロウソクのしずくが少しこびりついているだけ。取っ手から黒い糸は消えていたし、開けてみても何もなかった。

 そして。

 二階から一階へ降りる途中の踊り場。

 ・・・まただ。

 お前は、窓が好きなのか?桟に何かがある。今度は大量に何かが残されている。さっきもここを通ったはずなのに見てなかった。もどかしく脚立を立てて、ライトを当てる。え、何だこりゃ?

 ・・・なんだ。

 ええと、言葉が出てこない。 

 ・・・。

 まず目に入ったのは、200ミリの細長い<おいしい牛乳>。その隣に、小さなプラスチックの容器。中には何だかごろっとした白米と、カラン?とかいう緑の草みたいなビニールのぺらぺら。

 そして。

 狼と猫が窓に寄りかかって仲良く座っていた。これ、どういうこと?

 混乱した。<おいしい牛乳>を飲むリスベットなんていない。しかもこの容器、ご飯を少し残してるけど、何だったんだ?そっと持ち上げて、においをかぐ。…酢飯のにおい。容器の蓋を探したが、見当たらなかった。蓋にはタイトルっていうか、値札や成分表示が貼ってあるはずだけど、容器の裏を見ても分からなかった。

 しかしまあとにかく、黒井はここで何かを食べ、牛乳を飲んだのだ。そういうことだ。それ以外にない。

 ・・・それは、何を意味するんだ!

 分からない。分からない。その気持ちをぶつけるように、僕は容器のにおいを嗅いだ。何だろう、たぶん知っている。懐かしい感じ。もういい、手づかみで一口食べてみる。ああ、やっぱり酢飯。でも、寿司の<シャリ>じゃない?そして、カランを舐めまわしてこちらはピンと来た。つんとする感じ。ガリだ!

 ガリがついてて、でもシャリじゃない・・・ちらし寿司?いや、でも、この大きさ・・・三つ入りのいなり寿司ってところ?そして、お揚げだけ食べて、ご飯を微妙に残したの?

 っていうか、これもしかして、なぞなぞなのか?それとも何か、本になぞらえてるのか?

 うん?っていうか、じゃあ、タバコとロウソクも、やっぱりヒントだった?タバコはともかく、ロウソクなんか出てきたかな。ロウソク・・・火・・・。<ミレニアム2~火と戯れる女~>?ちょっとこじつけか。どっちにしろリスベットじゃないし。

 しかし、もしこれが演出というか、ヒントというか、見立て?だったとして・・・牛乳はともかく、寿司なんだから、和書だろう。そんなこともないか?<スシ>かもしれない?・・・ミルクと?

 まあいい、和書だとしたら、<模倣犯>と<黄金を抱いて翔べ>。うん、何となく引っかかるような気もするが、思い出せなかった。仕方ない。読んだのはどちらも十年前なんだ。

 とにかく、僕はリュックからビニール袋を出して牛乳パックとプラスチック容器を入れ、猫をそっと寝ている狼から取り上げた。

 駒を奪還した以上、宝の場所を移すことも出来たが、あのままにしておくことにした。僕は猫を最初の寝床、つまり<非常口>の中に隠して、そそくさと建物を後にした。

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