第74話:昼は会社員、夜は侵入者
空気は冷えていた。ほんの少し埃っぽい。
急に誰かが来るような気がしてしばらく外を窺い、すると今度は中からゾンビでも歩いてきそうな気がして振り向いたりした。幽霊は怖くないが、死体が物理的に動くのは嫌だし、あと宇宙人も嫌だ。とりあえずゾンビと宇宙人だけ中を徘徊していなければいい。そして彼らもそこまで暇じゃないはずだと言い聞かせ、ペンライトをつけた。
長い、廊下。
廊下の左右に扉。壁は、何となく元は学校みたいに、ポスターや掲示物が貼られていたような感じだった。何の施設だったのかは、まだ分からない。
じわじわと、廊下を進んだ。あまり入り口から離れると酸素が切れるみたいな感じがして、ちょっとずつ。途中まで来て、適当にドアを開けてみた。ノブをひねるけど、やはり、施錠されている。ということは、どこかに鍵がある?たぶん、<管理地>を管理してる管理会社ってやつ?別に、ここの中のどこかに鍵束がぶらさがってたりは、しないよね・・・。
と、なると。
長い廊下は一直線で、今のところその直線で鬼ごっこするしか大人の遊び場は開拓されていない。たとえ手のひらに収まるぬいぐるみだって、隠し場所なんかなかった。
そして、つきあたり。
思った通り、防火シャッターが閉じていた。ライトで照らすと、円形のノッカーみたいな取っ手。ああ、シャッターが閉じても、通れるか。これに鍵なんかない。軍手の手でノッカーをつまみ、引いてみた。
開いた。
入ると、その先は階段の踊り場だった。大きめの明かり取りの窓があり、ライトなしでもおぼろげに見ることが出来た。
今来たのと同じだけの廊下が三階分と階段部分、であれば、少しは、遊べるかな。
・・・しかし今、それを全部探索することはやめた。万全の準備をしていない状態でラスボスのダンジョンに行くなんてありえない。ひとまずセーブして帰ろう。セーブ、そして、駒を置く・・・。
いや、セーブの前に、宝のカンからだ。
他になければ外の植え込みに植えることになるけど・・・。ライトで照らしながら廊下を歩くと、左手に、さっきは気づかなかった奥行き。ああ、トイレ、だ。
夜の、真っ暗な、トイレ。ふつうだったらちょっと怖いけど、あの、記憶を、思い出して、・・・恐怖はなくなった。しかし胸をときめかせるほど落ち着いてもいない。とにかく、早く済ませなければ!
個室が三つしかない小さなトイレだった。用具入れらしき扉があるが、やはり鍵がかかっている。洗面台の鏡に反射するライトに自分でおびえながら、隠し場所がないか見ていった。
個室の扉をそっと開けた。・・・和式。隣も。一番奥だけ、仕方なく設置したような明らかに後付けの便座。廊下のリノリウムはそれほど古びていないけど、建物としては古いのかな。言われてみれば、微かに安っぽい芳香剤の香り?
こんなトイレの会社で働くなんてまっぴらだと思いつつ、洗面台の下を探った。物入れになっているかと思いきや、開かない。いかにも開きそうな薄い板ががたがたと鳴るだけだった。
マイナスドライバーを差し込んで、無理矢理、こじ開けた。中をライトで照らすと、ふつうの配水管と、板だか壁紙だか、用もないものが放置してある。僕は仕方なくトイレの床に這いつくばって宝のカンをその配水管スペースの一番左奥にぴたりと置き、その周りを、置いてあった板で隠すように囲み、上に紙を乗せた。埃っぽい!マスクが必要!・・・あとはどうにかはずした板を元に戻してここを塞がなくては。
しかし、一度取ってしまったものは、そもそもどうやって付いていたんだか、もう一度くっついてはくれなかった。・・・立てかけておく?バレるだろう。何とかくっつかないか?接着剤?ガムテープ?
・・・ホームセンターのビニール袋の、結び口を閉じた、セロハンテープ。あとは、カイロだとかが入っていたプラ包装の、接着部分。僕は床にポケットの中のゴミをばらまいて、使えそうな接着物質を探し出した。
セロテープの他に、カイロと軍手のビニール包装から接着部分を回収できた。
まず板で洗面台下の空洞を塞ぎ、本来開いてほしかった感じで、左に蝶番があると見なして板を開く。蝶番部分をベタベタする接着プラ包装で代用し、空洞部分の壁と板とを貼り合わせた。それから、板の上部が合わさるところには、セロテープを切って丸めて一センチほどの輪っかにしたものを、五センチおきくらいにつけておき、慎重に板を閉じる。ぎゅうぎゅう何度も押して、手前にパタンと倒れてこないことを確かめた。
当然だが、この、左の板一枚だけ、何センチか他のより下がっていて、床に着いてしまっている。そりゃ、基本的には立てかけてあるだけなのだ。しかしまあしょうがない。
トイレを出て、入り口に戻る方向にある、もう一つのトイレも照らした。あれ、男?・・・そういえば小便器がなかったわけで、今入ってたのは女子トイレだったんだ!何となく気まずいけど、これももう仕方ない。意外な盲点に、なるかも?
あとは、セーブして、入り口を片付けて、帰るだけだ。
もう一つのトイレに入ろうかと思ったが、やめた。もう一度廊下を歩き回り、全てのドアを開けてみたが、全て施錠されていた。
・・・ここしかないな。
僕はシャッターの手前の壁の足元に設置された、元は緑色に光っていたであろう<非常口>の箱を見た。しゃがんでライトを当てると、銀の丸に、十字。ドライバー、だ。
いったんそこに猫を置いて、入り口からドライバーと七つ道具セットを持ってくる。ドアを開けるとき緊張したが、そそくさと取って返した。
ドライバーで蓋を開け、蛍光灯に押し付けるように猫を押し込み、無理矢理カバーをつけ直した。セーブ、終了。僕の身代わりの駒はこの狭い棺桶でしばらく眠るのだ。
入り口に戻ると、もう取るものもとりあえずという感じで全てをめちゃくちゃにナップザックに詰め、入りきらない段ボールをホームセンターの大きなビニールに入れて、女の家から裸足で逃げ出す間男みたいにその場を去った。ずっしりと重い鎖が振り子のように揺れるので、胸に抱えて、走った。不審者だな、不審者だよ、と笑いをかみ殺して、大通りまで戻るとようやく現実に戻った気がした。
コンビニでカップ麺とおにぎりと、ユンケルでも飲んでおこうと思ったが財布の手持ちがなく、チオビタにした。小銭を払っているときに、指の皮が少しめくれているのに気づいた。皮肉にも?以前アリジゴクで切ったのとほとんど同じ箇所。しかし、鋭かった痛みと裏腹に、よく見るとそれほどの傷でもなく、既にふさがりつつあった。左手の、棒が刺さった箇所は、まあ、穴だった。それ以上述べようもない、穴。
そして、錠を外そうとして落とした棒一本を回収していなかったことも思い出したが、もう無理だ。冷え切った病み上がりの体を抱えて、とにかく、帰って暖房を入れるんだ。
・・・時間が、ない。
自宅について、玄関で棒立ちになり、まず初めに何をすべきかを考えた。
カップ麺の湯を沸かすか。
暖房を入れるか。
パソコンの電源を入れるか。
何をしている間に何をするのが最も効率的なんだ?何が最優先なんだ?
・・・しかし、こうしている間も寒いので、まずは暖房だと決めた。風邪をぶり返すのが何より悪い。
あとは、着替える間もなくノートを取り出して、結局、いつも通りのことをする。順不同にやることを全て書き出し、ふせんに書き写して、並べ替えていく。ネットで調べること、買い物リスト・・・絶対買うもの、出来たら買うもの・・・等々。こうして会社員になって、会社でのやり方で自分の個人的な領域のことをするのは腹立たしくもあったが、もうこれが今なのだとも思った。葬儀屋にも刑事にも鑑識官にもなっていない自分が、今手にしている道具と経験だけで、目の前のことを何とかしなくちゃならない。あらためて、何もしてこなかったんだ、と思った。風邪を引く前、泣きながら思ったこと。何もない。何も、持っていない・・・。
鉛筆の手が止まる。でも、だめだ。もう始まってるんだ。嘆いていてもしょうがない。泣いてる暇があるなら、カップ麺でも食え!
パソコンの電源を入れて湯を沸かし、チオビタを飲み干して、湯を注いで三分計り忘れた。別に、多少硬くても伸びてても食えるんだ、支障はない。ない、けど、悪い兆候だ・・・。僕はノートに<月曜まではミスを許す>と殴り書きして、パソコンに向かった。
・・・・・・・・・・・・・・・
二日目。月曜日。
寝たのは、四時過ぎだった。
例の建物のことを調べていたが、分かったことはほとんどないに等しかった。
建物に入っていたのは三つのグループ企業で、やはり隣の自社ビルが母体だったということ。光学関係?の部品を輸入している?らしいこと。閉鎖の理由も、現在の株の値下がりの理由も、公開されている資料からは読み解けなかった。KYテクノロジー、KYライン、環境有志の会、日本光学八重洲協会振興会・・・IR情報の関連企業名を眺めても、さっぱり分からない。
・・・まあ、産業スパイの真似事なんかしてみたって、何かが分かるはずもないんだけどね。
二時間ほどで起きて、ひげを剃り、ネクタイを結ぶ。さっき磨いたばかりの歯をまた磨いて、カバンにノートを突っ込み、家を出た。会社に、行かなくてはね。
駅でも、会社に着いても、床だの、壁だの、ドアだのを見ていた。よく見ていると、建物というやつにはわけの分からないドアや空間が多い。ふいに駅員や電気工事らしい作業員が現れたりして、壁をひっぺがしたり、火災報知器をチェックしたりしている。ふうん、そんなとこ、めくれたのか・・・。
朝礼なんかはほとんど他人事だった。今の本業は侵入者兼泥棒であり、昼間は仮の顔だ。月曜の支社長の訓示のためにフロアの真ん中を向くと、やたら姿勢のいい黒井の後ろ姿が見えた。あいつは今頃、何になっているんだろうか・・・。
毎度の話を聞き終わり、パソコンに向かう。相変わらず朝礼後に横田が現れたので、いつも通りおはようを言った。
「あれ、マスク?山根くん、風邪?」
「うん。ちょっと週末、熱出して」
「そうなの?流行ってるらしいよ。ノロじゃないだろうね」
「もう下がったから、大丈夫だと、思うけど」
今日のTODOリストを出して、外回り先を確認する。薬局と、ホームセンターと、スーパーなんかに、寄りたいけど。・・・ふと気づいて、三課の黒井のリストも呼び出す。誰でも見れるんだよね、これ。電話が来たとき、「○○は今、外出中でして」って時くらいしか使ってないけど。
・・・今日の予定は、えーと。顧客名をクリックすると、住所などの簡易情報が現れる。四件、全部、西方面ばっかり。あれ、もしかして、明日も、明後日も。調布だの、八王子だの、多摩だの。まさか、昼間に行く気じゃないだろうね。
「やまねくん」
「は、はいっ!」
突然後ろから肩に手を置かれ、反射的に右上の × ボタンを押した。
「・・・少し、いいかな」
「・・・は、はい」
黒井だった。
僕は振り向くことなく立ち上がり、その背中を追った。フロアを横切って、給茶機へ行くようだった。
「おはよう」
「お、おはよう」
「早速だけど、例の案件、どうなってる?」
「れ、例の・・・ああ」
会社も、みんなも、いつもどおりだけど。
僕たちだけが、<例の案件>に取り掛かっている。黒井の熱が冷めていないようなので、少し安心して、話を合わせた。
「あれね。うん。担当者がなかなか手ごわくてさ」
「へえ」
「でも、結局根負けして。中に入れてくれたよ」
「・・・どうやって?」
「ま、ちょっと硬い棒を突っ込んでやったらさ」
「・・・きみ、朝から品位に欠けるよ」
「ああ、まったくだ。失礼」
僕は笑ったが、黒井はつんと取り澄ましていた。先にいれたコーヒーまで渡してくれる。何だか調子、狂うな。もしやすでに、これも作戦?
「・・・じゃあ俺も、行動開始して、いいわけだね」
「・・・うん」
「風邪はもう大丈夫?」
「お前こそ、移ってない?」
お互いそれには答えずに、それぞれの席に戻った。僕は内心であの非常口の中の猫を心配しながら、虚勢を張って、考えないようにした。考えたら、頭を読まれて、バレてしまいそうで。しばらくは背中を気にしながらの生活になるな、と思いつつ、僕は朝一番のふせん、つまりATMで軍資金をおろす仕事にかかるため、会社を出た。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます