第182話:マンガ喫茶の夜2
そして僕はホームに設定されたページにも嫌気が差して画面を閉じ、デスクトップの壁紙を勝手に<風景>に変更した。映し出されたそれはちょうどガラパゴスを思わせる岩場の海で、浅瀬の棚が滝のようになっている。
借景ってわけでもないけど、少しだけ、窓から奥行きが出来た。狭い個別指導塾から小型セスナへ、とは言いすぎか。
いい加減汗をかいたジュースを取り替えに行き、戻ってきても黒井はいなくて、他のマンガでも読みに行ってしまったのかもしれない。
・・・なかなか、うまくいかないな。
俺とやってくれなんて啖呵切っといて、何も形になっていない。ネットは目的が決まっていれば調べるのに便利だけど、あいまいなイメージを拾おうとしても、つい具体的で即物的な方向に流れてしまったり、余計なものが目に入って気を逸らされたりしてしまったりする。・・・もしかして、黒井はそれが嫌で、だからパソコンすらもない?大江戸温泉の情報をスマホで見ることなく、でも、バスの中のパンフレットは読んでいた・・・。
今なら少し、分かる気がした。
やっぱり紙だ、とかいうのもあるけど、たぶん、情報の拡がりが、僕たちに想像力という余地を与えないんだろう。全てはそこで終わらず、次へ、次へ、もっと詳しく、さらに詳しく・・・。グーグルマップより、林や離れの家や×印が描かれただけの地図の方がわくわくすることもある。今の時代、情報を遮断される方が難しい。
情報の、断絶・・・。
それは案外、どこにも行かないまま、<ここ>を<向こう側>にしてしまう術かもしれない。
・・・。
うん、何となく、こういう、方向だ。
別に、特別なプランで外国へ行くとか、何かを見るとかじゃなくたって、ただ目を閉じるだけでここに暗闇があるし、頭の中の脳みそを感じようとすれば、かゆくなるようなもどかしさ。
ああ、こういう<感じ>なんだよ。ミドリが死体の<向こう>を探るような、何かの、向こう側。何がなくても、この体ひとつで出来そうなんだ。それはインターネットの画面なんかじゃない。そんな二次元じゃなくて、四次元より、もっと、あ・・・<あっち>!
・・・・・・・・・・・・
ガサガサ、と音がして、プラスチックのちゃちな扉が軋んだ。そう、手前開きの扉だから、両手が塞がってると入れなくなっちゃうんだ。
前回のエジプトの続き、今度は杜王町の全巻セットでも抱えて来たのかと思いきや、黒井が持ってきたのは大量の雑誌だった。ああ、ここ雑誌も置いてあったっけ。
しかし、机の上はPCとジュースでもう置き場はなく、黒井は僕をまたぎながら僕にそれを渡した、というか、膝に置かれたら最後、なだれになって右へ左へどさどさ落ちていった。
「お、おい!」
小声で叫ぶけど、「へへ」と返される。悪いとも何とも思ってない。
「何でこんな持ってくんだよ」
「だって何か、さ。・・・あ!」
床に落ちた雑誌を気に止めることもなく、パソコンの画面に目を見開く。
「ああ、これ、これなんで!?」
驚いて上げた声が響き、どす、とパーテーションが隣からどつかれた。苛ついた唸り声とも、寝言とも取れる低い咳払い。僕は「はいはい、すいませんね」とつぶやき、少しして、「・・・で、これがどうしたの?」と気を取り直した。黒井は床の雑誌をひっくり返して、「これこれ!」と写真を僕に見せる。この男は全く意に介していない。また声がでかいのでおいおい、と思っていると、再びパーテーションが揺れた。ああ、もう、席替えてもらおうかな。
「ね、ほら!」
僕が隣を見遣って顔をしかめると、今度はぴったり僕に寄り添って座り、顔を寄せて小声で「これでしょ?」と。肩も腕も足もくっついて、スタンドライトに照らし出されたそれは、デスクトップの借景と同じ、まるで木目模様のオブジェのような巨大な、岩・・・?
「あ」
「・・・あ?」
二人で写真と画面を見比べていると、画面の向こうは突如、流氷になっていた。暖色から寒色へ、一気に気温も下がったかのような錯覚。確かさっきは岩場の海で、ああ、時間で自動的に変わる壁紙か。
でも確かに、さっきのは黒井が開いている薄い冊子のカラー写真と同じものだった。オレンジが眩しい、遠近感と大きさが分からないCGのような景色。
「今ね、これ見てたんだ。こないだ話した、ブルーホールが載ってる」
表紙を見ると、<世界の絶景ベスト>なるカラー冊子。山猫の次は絶景ね。
「ね、こういうの、さ」
黒井は僕を気にしてかちゃんと声をひそめ、片膝を抱えて僕に冊子を持たせた。ぱらぱらめくると、絶景、絶景に次ぐ絶景。
「・・・すごい」
写真に比して細かい説明文は、眼鏡なしの僕にはよく見えない。とにかく、この世のものとは思えないような、ゲームや映画の中みたいな写真が続く。
夢中で二人、ページを繰った。黒井は僕が驚いているのが嬉しいようで、犬のようにぐいぐい身を寄せてくる。でも、そのことで緊張して気を散らしても、次のページでまた写真に吸い込まれた。ついに黒井が僕の肩に手を回す。二人で息をのむ瞬間を感じて、ああ、これがブルーホールか。本当に、セスナから見下ろしてるみたいだ。つかまれた肩の手に力が入って、僕は無言でうなずいた。
それは海にあいた、青い、蒼い孔だった。
海の中にインク壷の青インクを注いだみたい。こんなところに潜って、危険の末に古代人の腐らない遺体を見つけたりしたら、いったいどんなにか、いや、幸せなんて言葉じゃ表せない・・・。
「こんなとこ、行きたい・・・?」
僕は黒井にささやきかけた。
「・・・行きたいよ。行きたい。でも、今行きたい。今この瞬間、行きたいんだ・・・」
低いささやき声は、今の僕には甘美な意味にしか聞こえなくて、・・・場所が許せば、本当に今すぐ、いかせてやりたいけど。
あとは、黒井がめくるのに任せて世界を旅した。やがて旅が終わってもすぐに次が来て、今度は<ナイト・トレイルを極める>と題された表紙の、登山やアウトドア系の雑誌。
夜明け前、藤色の空と、山と、沢と、細い月。数人の男女がアウトドア・ルックに身を包み、既に歩き出している。続いて<夜(ナイト)の魅力と危険>というインタビュー記事。あ、これ、僕が<本番>用に買って結局使えなかったヘッドライトじゃないか。
考えてみれば、本当の自然の中を夜、歩いたことなんかなかった。地球に住んでて、人生で一度も?夜なんて毎日来てるのに、でも僕は何年もたぶん土を踏んだことすらない。何だか急に停滞した空気が蒸し暑く感じて、僕も羽織っていた薄いパーカーを脱いだ。そうしたらさらさらと腕が触れ合って、浮きだした血管や薄い腕の毛も、ああ、そういえばお互いTシャツで過ごすなんて初めての感覚、だ。気持ちだけは高揚して、ただ上着を脱いだってだけなのに、剥き出しの身体で剥き出しの自然を駆け抜けたいだなんて、でも、お前がいなかったらそんなアウトドア、思ったことすらないよ。
ページは進み、トレイル・ラン大会のスナップ。カナダかどこかかと思ったら、長野か。関東近辺でもこんなイベントがやっていて、ああ、申し込みさえすれば、本当にこんなことが出来るのか。今までの人生であり得なかった選択肢。ドイツも、セルンも、ブルーホールもナイト・トレイルも、自分一人ではまさか、やろうとすら思わない。それなのに、隣にお前がいたら何でも、リアルに、まざまざと、顔の前に突きつけられる感覚。やれば、出来るんだ、ただ手を伸ばすだけなんだって、いつもお前からは、そう感じるよ。どうして俺ばかりそう感じて、お前自身は空っぽだなんて。
「・・・出てみたい?」
再び僕はささやく。少しずつ、自然に訊けるようになってきた、かな。地図作りのリサーチって面もあるけど、やっぱり、お前が好きなものについて話すのを、じっと聞いてるのが好きなんだ。
「うん、ちょっと、でも」
黒井は少し言い淀んだ。
「・・・うん?」
「大会に出ても、ね。いや別に、いいんだけど」
「あ、ああ、そうか」
大会は、本番は本番でも本当のサバイバルではないわけで、ダーウィンの航海のようなそれではない。出てみればもちろん楽しいだろうし、気づきもあるだろうけど、ちょっと、違うのか。僕たちが今求めてるのは、その先だ。その何かのためにこの大会が必要ならもちろん出る。でも、まだ、何かが足りない・・・。
うん、さっきからちらちら見えてる、それだ。
引っかかっているのは、結局その<何か>。物理に関連するっていうことは分かってるけど、近すぎて、膜のように取り囲まれていて、逆に、ここだ、と指させないような、そんなもどかしさ。
何を体現したいんだ?
そして次に渡されたのは、<ヒエログリフを読んでみよう、書いてみよう>というムック本。碑文の解読なんて憧れるけど、いや、日常で書いて使おうとは思わなかった。うん、なかなかアグレッシブな試みだ。黒井に「書いてみたい?」と訊く前に、「鳥がかわいい」とのこと。
写経をしていて、やはり表意文字の漢字はすごいと思ったけど、ヒエログリフの方が少し上手だった。文字そのものと、デザインと、表したいトーンと、イラストとしての文字と、とにかくそういったものが渾然一体となっている。大体が王族に関する記録なわけだけど、王家の人物の名前はそのまま固有の意匠があって、絵と文字と意味と、それ以上の立ち昇る何かがそこにある。それはその人物の雰囲気であったり、その人物に対する尊敬の念であったり、或いは当時のエジプト文化そのものが感じられたりした。
何かを、何かだ、と表現しようとして、それを、作っていく・・・。
体現。何か、そのものずばり表せないような事柄を、別のカタチで「こうなんだ!」と伝えていく、そういう情熱というか、変換のセンス、理解と認識と、アウトプット・・・。
ダーウィンが動植物や地形を、絵で、文章で記録し伝えたように、僕たちにも何か、それが出来るような、出来て当たり前のような気がしてならない。今が夜であり、夜だってことを感じるのが本当は容易に出来るように、そう、窓がなくて、スタンドライトが明るいから星も見えないんだ。でも本当は、壁一枚隔てたところに夜はある。いや、実際は何もなくたって、僕たちは今夜に住んでいる。感じればそこに、手の中に、あるはずなんだ。あるもないも、それはあって、そしてないということを感じる、無色無受想行識・・・。
ふと、また画面が切り替わり、今度は一面のラベンダー畑。
黒井も気づいたのか、雑誌から顔を上げてちらりとこちらを向く。僕は無言でうなずき、特に何が、ということもない肯定を示した。
「ね、これさ、お前が・・・」
どすん。
久しぶりに出したその声は、確かに少し大きく響いたかもしれない。僕たちは二人でそちらの壁を見つめ、しかし、そのあまりのレスポンスの速さにちょっと、顔を見合わせて吹き出した。
「・・・おきてるわけ?」
黒井がほとんど声を出さずに唇の動きだけで僕に訊く。僕は肩をすくめ、「でも、いびき、聞こえない?」と返すけど、なかなか分かってもらえない。
<え?>
<だから・・・>
<みみみ?>
<ちがう、い、び、き>
<ええ?>
二人で笑いをかみ殺し、静かにしなきゃいけないのが余計に変なツボを刺激して、黒井は声を出さずに痙攣して膝を叩いた。僕は腹を抱えて前かがみになり、やがて二人は折り重なってお互いを叩いた。ああ、この感じ、<みつのしずく>から脱出して笑い転げた時と同じだ。お前は普段すましたイケメン顔のくせに、でも、笑うと何にも関係なくなっちゃうんだ。
<バカ、うるさいよ!>
<だめ、だめ、なんかムリ!>
ついに黒井が「くひぃー!」と裏返った変な声を漏らし、すかさずドスン!を食らったらもう、涙が出た。Tシャツ一枚の体を二人で叩いたりどついたり腕をつかんだり、ああ、腹がよじれて、痛い、痛い・・・!
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