第381話:二日で二回も変なこと
黒井少年が夏のキャンプで家族とともにはしゃぐ様子は、容易に思い描けた。
そしてまた、昨日のフレーズが頭に響く。
客に茶の一杯も出さなかった家。
そして、僕が今年の夏に行った家は、お茶どころか圧力鍋まで送ってきてくれた。
黒井のお母さんが出してくれた冷茶。ガラスのカップの下には、白いレースの敷物。
白いレース・・・。
・・・やや白茶けたそのレースの飾りが、ふいに頭の中ではっきり見えた。
夏の日差し。セミの声。
夏休みのキャンプや家族旅行なんて記憶はなく、あるのは墓参りだ。
母が持っていた、レースの日傘。
僕はいつも坊さんの読経中に日射病でフラついて、しかし父に「よその墓へはみ出すな」と腕をつかまれ、仕方なくその場にしゃがみこんだ。
それで、じっと恨めしく、その母の折りたたまれた日傘を見つめていた。
せめて日陰にしてくれたらいいのにと。
でも母は「もうちょっとだから」と僕を迷惑そうに見下ろすばかりで、絶対に読経中はそれを差してはくれなかった。
・・・僕が迷惑なら、連れて来ないとか、何かの薬を用意するとか、対策を取ればいいのに。
毎年それが繰り返されて、いつしか期待するのもやめた。自分でどうにかする以外にない。誰も助けてはくれない。
・・・。
「おい、ねこ、どしたの?・・・具合悪い?」
「・・・」
ごめん、クロ。
お前が昨日洋食屋で「これからは俺と一緒に食おう」と言ってくれて、それで、俺はお前を家族みたいに思ってしまって、しかも、お前のお母さんやお姉さんたちまで含めてそう感じてしまっていて。
こっちが本当の家族だったんだ、なんて。
でも、クロの、家族との楽しいキャンプの思い出の中に、僕はいない。
そう思ったら、途方もなく、真っ暗な穴が開いたように寂しくて、悔しくて、悲しくて。
・・・本当は、めまいで倒れたら迷惑がられるはずなのに。
「だいじょうぶか?」なんて、心配した声で、肩を貸してくれるから。
やっぱりこっちが<本当の家族>じゃないか、とか、思っちゃうじゃないか。
いや、でもそんなはずない、優しくされるはずはないんだ、こんなこと<されて当たり前>だなんて一ミリも思えない。<してほしい>と願う事すらおこがましい。だから離してくれ、いいから放っといて・・・。
・・・<客に茶の一杯も出さない、変な家>。
・・・じゃあ、やっぱり、うちがおかしかった?
こうやって優しくされても、いいってこと?
・・・・・・・・・・・・・・・・
店の外に出て、黒井は僕を建物の裏手のベンチまで連れて行き、「昨日からいろいろ、お前、疲れたんだよ」と言ってくれた。
でも、その言葉に甘えてしまおうとまさにそう思った時、携帯の着信メロディ。
・・・見てみると、それはやはり実家の番号だった。
ああ、そりゃそうだよな、借金も返してないのにこんな甘えが許されるわけがない。やっぱりツケは払わされる。世界は僕を見逃さないんだ。
半ばやけくそで、黒井に「ごめん」と断り、その場で電話に出た。
「・・・はいもしもし」
「あ、もしもしヒロくん?」
ひろくんて誰。
「ちょっと、あのねえ、昨日言い忘れたけど、・・・今年はお正月、帰って来れるんでしょう?」
「・・・」
「もしもし聞いてるの?・・・お父さんの具合だってあるんだから、ちゃんと一人で帰っていらっしゃい」
・・・。
ちゃんと、・・・ひとりで?
何だそれは。
ああ、昨日は客に茶の一杯も出さないで失礼じゃないかって、言うんだ、言わなきゃ。
「・・・あの、・・・そういえば昨日、その」
「ああ、そう、昨日の人は何だったの?どうして会社の人がついて来たの?・・・何か、あなた変なことしてるんじゃないでしょうね」
「・・・」
・・・。
・・・へんな、こと?
「ちゃんとしてちょうだいよ?・・・おかしなこと言いふらされたりとか、そういうことないようにしてもらわないと」
「・・・、な、なに、・・・変なことって」
「ええ?知らないわよ。だって土曜日なのに何で会社の人が出てくるの?」
「・・・そ、それは、・・・ちょうど、その、会ってて」
「会う?あんな朝から?どうして」
「・・・い、一緒に、買い物に、行くところで」
「・・・買い物、ねえ」
「なに、そんな、買い物くらい」
「はあ、お金の貸し借りとかしてないでしょうねえ。先輩か何か知らないけど」
「先輩?」
「向こうが年上でしょう?」
「そ、それは、そうだけど、・・・先輩じゃなくて同期。一緒に入社した」
「ああそう。そんなことより、何日から帰って来れるの?」
「・・・」
・・・そんなことより?
携帯を少し耳から離し、思いきり床に投げつけたい衝動に駆られたけど、こらえた。
とりあえず「十二月のスケジュール、まだ出てないから」と言って、あとはまだ何か言っていたけど、「それじゃ」と一方的に切った。
・・・やっぱりおかしい。
やっぱりおかしいんだ。
明確な<おかしさ>にいつも届かなくて、煙に巻かれたようにろくな反論もできないけど、きっとおかしいんだこれは。
「ねこ、・・・俺のこと何か、言われたの?」
「・・・分からない。・・・何を言われてるのか、俺にも、分からない。でもとにかく、俺のやってることは何もかも怪しくて信用ならないんだろ。最初の就職先だって、それに、昨日の俺が殴った云々だって、『ああやっぱり』って思われてたわけだし」
「・・・やっぱりって、何が」
「ごめん、いいんだ、もう。・・・いっつもこうだ、ある日突然、何か、思いもよらぬところから疑われてて、あの、部屋の、死体の本とかナイフとかだって黙って捨てられてて・・・でもきちんと理由を言って糾弾されるわけじゃないから、反論のしようもない。ちゃんと言ってくれればちゃんと答えるのに、いつだって<何となく>嫌な感じになって<いつの間にか>よく分からない理屈でたしなめられて終わる・・・。でもこれで、分かった。俺は何かアブないやつだって思われてるんだ。きっと、あの時から。あの、小学二年のあの時から、俺は・・・」
「落ち着けって。いいから、ちょっとあっち行こう」
背中をさすられながら、とにかく、促されて歩いた。
・・・いろいろ言ったけど、でも。
正直、実を言えば、それは今はどうでもよかった。
本当は、「変なこと」と言われて、昨夜のことを思い出してそれは図星だから慌てふためいて、ここぞとばかりに反撃してるだけ。
それと、結局「失礼じゃないか」とも言えず向こうのペースになって、敗北感と無力感を感じて、わめき散らすしか能がないだけ。
そのまま歩いて、建物を離れて、テントが買えてなかったけど、「いいから、別にどうにでもなる」と言われて電車に乗り、吐き気をこらえているうちに桜上水に着いた。
そして、そのまま黒井の部屋で「とにかく少し休めって」と、上着を脱がされてベッドに横になる。
後ろで、黒井もベッドに上がってきて、「ごめん、俺が、昨日から無理させすぎた」と。
「違う、お前が悪いわけじゃない」
「ううん、これは本当に俺が悪いと思ってる。だってお前が、・・・その、こんな時に」
「・・・え?」
「でも俺、どうしても、我慢できなくて」
一瞬、僕が親に「失礼だ」と言えず引き下がったことについてかと思って、思わず振り向いた。
すると、顔が近くて、ああキスされると思ったら本当にキスをされて唇を舐められて、舌を誘い出されて絡められ、あっけなくも、もう勃った。
「・・・あっ、ん、・・・クロ、あの」
「俺、全然足りない・・・足りなくて、もっとしたい」
上から乗っかられて、耳を噛まれて、冷たい手がシャツの中に入ってきて、何だか、それは思ったよりずっと、初めてする高校生みたいな性急さで、年上なのに幼くて全然余裕がない。
そして黒井は僕の手をつかむと自分のそれをズボン越しに触らせて、「うああ・・・っ」と腰を震わせた。
ああ、熱いし硬いし、もう、何なんだよ。
いったいどうしてこうなってるんだ?
「・・・クロ、したい、の?・・・俺、いいよ」
ああ、裏返った声で何言ってるんだろう、まだ無理だし何もわかんないのに。
「うん、・・・あの、ねこ、・・・今日は、俺に、やらして」
「う、うん・・・」
「ちょっと、待って・・・」
そうして、黒井はベッドのどこかに手を伸ばし、カサカサと、何かを開けて何かを取り出す音。
・・・まさか?
あ、どうしよう。
「あっ、あのっ、クロ、でも、おれ」
「だいじょぶ、ちゃんと、するから。これなら、洗濯も、いらない・・・」
「・・・へ?・・・あっ」
ベルトを外され、いやらしくジッパーを下げられて、もう、目をつぶって腰を浮かせる。
・・・いや、やっぱり、まだだめだ。そんな、まずい、無理だって・・・!
「・・・あんっ」
握られて、思わず変な声が出た。
それから先端が冷やっとして、あとは何か、知っている感触。
くちゅくちゅと音がして、・・・根元の方まで。
・・・ゴムを、つけられている。
・・・えっ、な、何で!?
ま、まさか、・・・まさか僕が挿れる方なの!?
嘘だ、そんな、挿れる方だなんて妄想だってしたことがない!
「クロ、なに、してる・・・お、おれ、むり」
「・・・いいから、やらして」
「・・・っ、ちょ、・・・やっ、ああっ」
・・・。
黒井に直接(ゴム越しだけど)握られた感触はもう、心臓を鷲掴みされたみたいで、恥ずかしすぎて、とにかくもう一秒でも早くイってしまいたくて、無我夢中で腰を動かして最後は自分で黒井の手を上から握って絞り出すように達した。
・・・。
しばらくしてから、ああ、挿れるとかすっ飛んでて最速でイっちゃったとか思ったけど、・・・たぶん、クロは昨日みたいに別々にするんじゃなく自分で僕をイカせたかったんだと気づいて赤面した。
でも、そんなことより、放心してる間にベッドが揺れ始めていて、もう、何だか興奮と混乱で涙が出てきて、僕の方からは何もできないうちに揺れは収まった。
・・・。
・・・二日で二回も<変なこと>をしていて、これじゃ、親に反論の言葉もない。
でも、いつも何かよく分からない理由で何となく批難されていたけど、こうしてちゃんとやましいことをしてそれを責められるなら、別に、痛くもかゆくもないや。
それからズボンがずり落ちた恥ずかしい格好でトイレに駆け込み、ものすごく久しぶりにゴムを外して、何だかわけもわからず泣けてきて腰が抜けて、ドアの向こうにいる黒井が恋しくて、でもしばらく動けなかった。
・・・・・・・・・・・・・・・・
何となく火照った身体と心のまま、久しぶりに黒井のうちのキッチンの洗い物や掃除をして、適当な残り物を炒めて冷凍の焼きおにぎりと一緒に出し、二人で食べた。
あっという間に夕方になり、「お前、どうする?」と訊かれ、スーツも鞄もないし、「とりあえず、帰る」と言うほかない。
手ぶらの黒井と一緒に部屋を出て、まあ、つまり今日のところはそれぞれ自分の家で寝るということだ。買い物もできず、物を運び込む計画も何も進んでないけど、・・・別のところだけ、妙に進んだみたいでまた赤面。
「ねえ、やまねこ・・・あのさ」
道にはカサカサと黄色い葉っぱが落ちていて、風で足元を流れていく。
「・・・なに?」
「その、俺、結局、いろいろ・・・」
「・・・うん」
「思ったよりずっと、その」
「・・・」
「ちょっと、どうなんだろうね、俺たち」
「・・・え?」
「こんなんで、一緒に、住んで、まともに会社に、行けるのか、どうか・・・」
語尾はもう途切れてぐにゃぐにゃで、僕も恥ずかしくなって「うん、それは、確かに、その通り」と同意した。
駅が近づいてきて、二人ともそれとなく歩を緩めて、わずかな残り時間を延ばす。
そうまでして作った時間なのに、でもどうしてか、ただ無言で歩いたりして。
どうなんだろう、もう、会社がなくなっちゃえばいいのか?月曜日が消滅すればいいのか?・・・でもきっとそれも違う。どこかを捻じ曲げたり切り捨てたりすることなく<現実でいい>を実践するためには、きっと、こうして止まっちゃいそうにゆっくり、でも立ち止まらずに歩かないといけない気がする。
駅に着いて、でも、黒井がいやにあっさり「それじゃ」と手を上げたら、急にいろいろ込み上げてきて、その手をつかんで壁際に引き留めた。
「あ、あの、クロ、俺・・・」
「・・・うん?」
「その、・・・あらためて、実家でのこと、お前に」
「あ、だからそれはいいって。お前が謝ることじゃないし」
「違う、そうじゃなくて・・・」
何となく、クロを引き留めたくて真面目な話を切り出したみたいな気がするけどでも、口が勝手に喋っていて、自分の言葉を聞きながら、そうだったのかと思うような。
「俺、お前が強引に行くって言わなかったら絶対実家へなんか行ってなくて、全部、蓋をして、何も考えないようにしてきてて・・・。その、いつかは向き合わなきゃと思いつつ、あのスーツは捨てたけど、でもまさか実家に行くなんて、し、しかもお前と一緒に、とか、絶対そんなこと、自分じゃできるはずなくて・・・」
「・・・そ、っか」
「全然、・・・全然何も、何もできてはいないしどうにもなってないけど、でも俺の中でちょっと、何ていうかちょっとだけ認識が変わったような気がして、その・・・」
「・・・うん」
「それに、なんか、・・・お、お前のおかげで、初めて家族って何なのか、本当はもっと楽しいものだったんじゃないかとか、えっと、だからその、・・・今日は買えなかったけど、よ、よかったら、お、俺と、あらためて、キャンプ、してほしい、とか・・・」
「・・・」
「あ、ああ、何言ってんだかよくわかんないけど・・・、絶対無理だと思ってたこと、その壁を、破ってくれたこと・・・お礼が、言いたくて」
・・・。
うつむいたその視界に、ゆっくりと、クロの、右手。
僕も右手を出して、それを、握った。
少し乾いていて、指がちょっと長い、黒井の意思で動く、僕の好きな手。
「・・・」
「・・・」
きゅっと握られて、あ、もしかしてこの手でさっき僕を・・・と思ったら腹がひゅううと透けて、「ま、また明日、会社で」と、何とか手を離して改札に向かった。
後ろから「うん、あした、会社で」と聞こえた気がして、ああ、月曜日も会社も消滅しなくていいですとさっきの願いをキャンセルしておいた。
黒犬と山猫! あとみく @atomik
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