第42話:裸の付き合いと、ご休憩
昼飯をかなりのんびりと食べ、さて、いよいよ、温泉とやらに浸かる時が迫ってきていた。あの金曜の夜、温泉にでも行きたいなんて、本当に、いつかの未来の話で言ったのに、たったの二日後、こうして温泉に来てみれば、まあ、二人ででかい風呂に浸かるだけなのだが、その行為を思うとこの上なく緊張した。会話もさっぱり上の空で、表面をすべるように流れていく。
「ねえ、サウナって好き?」
「え、まあ、そうね」
「そうなの?俺、全然だめ。一瞬も入れない」
「そう?あれはね、まあ、自分の忍耐との、協調というか」
「・・・ううん?」
「お前には向かないね。忍耐なさそうだし」
「いや、忍耐の話じゃないよ。息が出来ないもん。空間として、無理だよ」
「だから、その無理に、どこまで自分を削って、合わせていくかっていう・・・」
「・・・やっぱお前、ドM」
「そうね」
「はあ」
そうだよ、お前のおかげで、息も止まる、心拍数は上がる、一気飲みで昏倒する、アリジゴクへ行くわ、女が出てくるわ、三半規管はイカれるわ・・・。そう、どこまで自分を削って、合わせていくかって、ああ、本当にその通りなのか。自分で自分がよく分かってるんだな。
しかし、そうやって、何分も歩かないうちに。
今度こそ、本当の更衣室が近づいてきて。
たった一枚の薄布すら、脱がなきゃならなくなる。
いや、別に、それがどうしたってことではあるんだけど。
結局、物理的に布一枚で歩くことが妙な解放感をもたらすのであれば、ではその一枚も取り去ってしまえば、何をかいわんや、だ。
0か、1かだ。その差は大きすぎる。
本当は今だって、この浴衣の状態だって、結構倒れそうなくらい刺激的なのだ。黒井はしょっちゅう動き回って前がはだけたり、裾が乱れたり、目に飛び込んでくる映像が、常に腹がひゅっと透ける「あの感覚」を伴う。しかも、さっき女の子の集団の中を通った時だって、僕は彼女らの視線が黒井のその鎖骨とか、胸元を這うのをはっきりと見た。そのついでに僕を見て、たぶん<あ、彼女連れじゃないんだ>って顔で浮かれ度合いが一ポイント上がった。さすがに声まで掛けてこなかったけど、もしそんな、逆ナン?みたいなことをされたら、どうすればいいんだ。
とまあ、人生で初めてのいらぬ心配をしながら、やっぱり、とうとう脱衣所に着いてしまった。
「何だよ、温泉、楽しみじゃないの?」
「ああ、楽しみだよ。ちょっと、緊張してるだけ」
「お前が緊張するとろくなことにならないよ」
「・・・確かに」
「あ、そうだ。じゃあさ、先に外の足湯ってのに行こうよ。そしたら、慣れるじゃん」
「外の?足湯?」
「そうそう」
「それなら行けそう」
「本当は夕方にしようと思ってたんだけどさ。まあいいや、行きたきゃまた行くし」
というわけで、少しだけ執行猶予がついたのだった。
外は晴れていたが、さすがに浴衣一枚では寒かった。丹前を貸し出していたので、二人でそれを羽織る。うん、なかなか様になってるし、浴衣一枚より刺激が少なくて助かった。
「え、ここ一面、みんな足湯?」
「そうみたい」
浅い池のような湯が、アスレチックのように広がっていた。水面からもくもくと湯気が立っている。
「入ってみるか」
早速入って、歩いてみた。板張りに慣れた足の裏が悲鳴を上げる。
「いたた、底の、石が、痛い」
「ほんとだ、いった!」
青竹踏みのような効果になっているらしく、なめらかな石は延々と続いていた。
「俺はいいや。座っとく」
「じゃ、俺も」
足湯を囲んでしつらえてある竹のベンチに腰を下ろす。子どもが歩き回るのを父親が悲鳴とともに追っていったりして、何だか、夏休みの市営プールみたいだった。
「でもさ、足だけでも、あったかくなってくるね」
「あー、そうだなあ」
何時間かぶりに外の日差しを浴びて、太陽の下で見る浴衣姿の黒井はまた別人のようだった。もし今僕にタバコが吸えたなら、そっぽを向いて、プカプカふかしてやりたい。何だかそんな気持ちだった。
しばらく陽光を見つめながら、そんな風にしていた。会社に行ってたら、有り得ない時間。こんな時間が週に一日でも確保できるなら、もう、二十四時間働いたって構わない、とまで、思いそう。
少しだけ、ぼうっとしたまま、うとうと、していた。
「ねえ、そろそろ、・・・いいかな」
何だか、耳元で、黒井の、くすぐったい、甘い声。
「・・・ん」
「俺、行きたいんだけど」
「え・・・」
「大丈夫そう?お前も、行けそう?一緒に」
「う・・・うん」
「よかった。じゃ、行こ?」
手を、強く、握られて。
あ、そんな、まずいって。
「早くしないと、ここだけでのぼせちゃうって。ね、温泉、行こうよ!」
「・・・へ?」
我に、返った。
ああ、寝不足だから。うん。あはは。
・・・・・・・・・・・・・・
脱衣所でバスタオルと手ぬぐいをもらって、またもやロッカーを確保する。おっさんや子どもが真っ裸でうろうろと徘徊していて、本当に面白くない。黒井がいなければこんなところ、むしろ拷問じゃないだろうか。
しかしまあ、裸でいるのが当たり前という雰囲気になったので、一応、乗り切れそうだった。たぶん。きっと。
うん。
考えないように、してたけど。
何かされたら、いや、たとえされなくても、さっきみたいに耳元で変なこと囁かれるだけで、うん、きっと反応してしまう。お湯が濁ってればいいのに。別々の五右衛門風呂みたいのに入ればいいのに。一時的に、不能になればいいのに。いや、それも怖いけど。
そうだ。死体のことを考えて、平静を保とう。
土左衛門のことでも考えたら、一瞬で、萎えるんじゃないかな。
うん、それだな。それなら、大丈夫そうだ。
「いや、楽しみだね、クロ」
「お、その気になってきた?」
「うんうん。行きたかったんだよね、温泉」
「おお、いい脱ぎっぷり!」
「な、何言って」
お、お前こそ。ひええ、やっぱり、目を逸らした。見れるわけないだろ。
「さ、先行くから!」
僕は腰にタオルを巻いて、さっさと風呂場を目指した。
何だかいまいち泡立たないし、そのくせ泡切れの悪いシャンプーとボディシャンプーで頭と体を洗って、二人で湯に向かう。並んで歩く分には相手の体は見えないし、何だ、大丈夫じゃないか。このままずっと並んでいればいい。湯に浸かったらずっと「いい湯だな」って上を向いてりゃいい。もしここに鏡があって、二人の裸が映ってたらなんて思うと赤面しそうだけど、いや、想像しただけでもちょっとまずいけど、とにかく最初の温泉に浸かることにした。
「何か、いっぱいあって、どれがいいんだろうね」
「全部入る?」
「無理だろ」
「とりあえず、人がいない、あの辺?」
「ふむ、いいね」
結構、人が多いのだ。さすが連休、芋洗いとまでは言わないが、男の裸でごった返している。僕たちは比較的空いている、窓際の湯に入ることにした。
黒井が先に足をまたぐ。そういう、尻だとか、太ももとか、膝の裏とか。全部目の毒だから。いや、肩甲骨だって、背骨だって、だめだから。そんなこといってると、手とか、爪の先だってだめになってくる。っていうか、顔とか、もう。
猫背でかがんで、湯けむりの中から僕に「あっちぃ」と笑った。
「・・・。よし、俺も」
なぜかその笑顔で、劣情は少し吹き飛んでいた。何かすごい。さっきまでアレだった頭が、どんどんプラトニックになっていく。あはは、今で言えば、土左衛門の方が余計、おかしな方向へ行っちゃいそうだった。これでいいんだ。
「うお、痛いくらい、痺れる」
「だよね?これも、忍耐で?」
「そうだな。やれると信じるんだ」
「くうう」
二人してようやく体を沈ませ、肩まで浸かった。その頃には体が慣れていて、じわじわと染みてくる熱さが心地よくなっていた。
「ああ、ついに来たね、温泉・・・」
「やったな」
窓の外の箱庭の緑と、青い空がまぶしい。
「本当は、夜で、雪でも降ってたら最高だね」
「露天で?」
「熱燗」
「完璧」
「文句なし」
曲げていた膝を、自宅では有り得ないほど遠くまで伸ばしていく。肘は後ろのへりに乗せて、天井を仰ぐ。ああ、蒸発しそう。
「ねえねえ」
「ん?」
「・・・何でもない」
「何だよ・・・」
隣で黒井も天を見上げている。ふと顔を上げて、お互いを見合わせて、笑った。
「だから、何なんだよ」
「別に、何でもないって!」
ぴしゃり。顔に湯がかかった。
「ふうん、クロ、俺にそういうことするんだ」
「へへ、気持ち良さそうにしちゃってさ、何か、腹立った!」
「はあ?」
「だって、お前、俺の気も知らないで、・・・ま、今朝殴ったからもういいんだけどね」
「そ、そうだよ。ったくさ、俺、殴られるとか、有り得ないよ」
「ふうん。じゃ、俺が初めての相手?」
「・・・もう、勝手にしろ」
「よし、じゃ、次行こ!露天!」
露天は更に混んでいて、僕たちは膝を抱えて、隅っこでぼんやりした。エアー<夜空に舞い散る雪>もさすがに難しい。
「あのさ、クロ。ここ、カップル多かったじゃんか」
「うん?」
「でもさ、男女別れて風呂に入っても、面白くないと思わない?」
「ああ、なるほど。確かに」
「ま、浴衣で足湯がいいんだろうか」
「それもあるね」
「・・・ん?」
「いや、ここ、休憩できんの」
「え?」
「だからさ、ここ、泊まれるんだよ。で、宿泊以外に、二時間の休憩もできんの」
「それ、って・・・?」
「まあ、ねえ」
「ええ?」
「いや、別に、そういうことじゃないだろうけどさ。でも、ねえ」
「うわ、浴衣で?」
「布団は、ないらしいんだ」
「じゃ、畳で?」
「ちょっと、固いけど」
「きゃあ、不潔」
「でもさ」
「うん?」
「俺たちも、行くんだよ?」
「へ」
「さっき、聞いたんだ」
「は?」
「やっぱさ、混んでるじゃん。泊まりは、満室なんだって」
「はあ」
「ほら、せっかく温泉旅行だからさ、泊まりたかったじゃん。でも、もう予約で一杯なんだって」
「はい・・・」
「そしたら、休憩だけなら出来ますって言われて」
「はい」
「そのまんま、予約しちゃった」
「はい?」
「いや、だってさ、お前またのぼせたら、どっかで休みたいだろ?」
「はあ」
「それにさ、ちょっと、話したいこともあるし」
「は、あ・・・」
「一番狭い和室しかなかったんだけど」
「・・・」
「あれ、聞いてる?」
「・・・」
「また、のぼせたの?」
「・・・」
「おーい・・・」
・・・。
のぼせたかって?
まあ、そうだね、うん。・・・お前にね。
「だ、大丈夫だって、今度はちゃんと、うう、歩けるって」
「本当?よろけてんじゃん」
「ちょっと立ちくらんだだけ」
「ああ、言わんこっちゃない。部屋取っといて正解だね」
いや、むしろ、そのせいでこうなってるんだけど。本末転倒。
・・・部屋を、取っているだって?
いや、別に、黒井の部屋にいるときだって二人っきりで、おまけにベッドだってあったんだし、今更人目のない狭い部屋に入ったらどうしたって話なんだけど・・・。
っていうか。
話って、何だよ。
普段なら、手ぬぐいをぎりぎりと固く絞って、ざっと体を拭いてから脱衣所にあがるところだけど、ついにそれも気にせず、水を滴らせながらロッカーまで戻って、急いでバスタオルを取った。もう、前を隠すとか気にしていられない。
黒井は、俺いいことした、って顔で、濡れた前髪の間から僕に微笑みかけてくる。素っ裸で。いやだなもう、笑っちゃう。額に張りついた髪が妙に艶っぽいし、鎖骨が、女の子がガン見するだけのことはある、色っぽさで。そんなやつが、一糸まとわぬ姿で、僕の隣で僕に微笑んでるんだから、これはもう、どうしたことなんだろう。夢かもしれない。
「ねえクロ、そこ、何時から入れるの?」
「ええとね、あと十分くらい。ちょうどいいね」
「へえ・・・」
ここで私服に着替えるなら、別にまだ、大丈夫そうだけどね。
でも、着るものは、ロッカーのどこを見たって、パンツと、この布一枚しかなくて。
いや、今に比べたら、パンツがあるだけでも十分か。うん。
僕はいそいそと有り難いパンツをはいて、浴衣を羽織った。黒井も隣で、今度はちゃんと右前で帯を結ぶ。
あれ、おかしいな。
何か、さっきよりむしろ、えろい。
チラリズムというやつなんだろうか、青空の下で裸の付き合いをするより、こうして屋内に入って浴衣を着てしまったほうが、さっきのそれが頭の中で再生されて、まるで布が透けて見えるような感じになっちゃって、火照った体に毒なのだった。
うん、風呂上がり、とか。どうなんだろうね。
いやいや、何か、深刻な話なのかもしれない。そうだよ、わざわざ部屋まで取って、きっと何か重大な相談事なんだ、真面目に聞いてやらなくちゃ。
・・・別れ話とか?
・・・おいおい、まだ付き合ってないよ、大丈夫だって。
え、・・・大丈夫なの?
付き合ってない人って、別れなくていいの?
デートはしても、別れ話はないの?それって、超お得。いやいや、そうじゃないでしょ。
「じゃあ、行こっか」
「え?う、うん・・・」
何だかしっとりしたムードのまま、僕たちはタオルを返却して、その、和室とやらに向かったのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます