第53話:黒井と山根のフルネーム
とりあえず無心で、仕事をした。
ふせんを一枚、一枚、片付けていく。いつもなら納得がいかずぐずぐずと延ばすものも、ここまでだと諦めて終わりにした。きっと誰もそこまで期待していないし、どんなにキレイな提案書を作っても、最終的には口で説明して、その後更に関口や他の人が事細かに詰めるのだ。
集中してやったおかげで、あと二枚になっていた。もう少しだ、と思ったとき、課長の帰れコール。え、もう、そんな時間?
「はいはい、そろそろ時間ですよ。帰って帰って。キリつけて、上がってくださいねー。ノー残業デー、明けて二回目ですからねー」
また小野寺さんにせっつかれちゃうからさ、と言って誰かと笑っている。時計を見ると、いつのまにか19時半近くなっていた。残業申請は19時までしか出していない。反射的に振り返ったが、黒井はいなかった。パソコンもなかったので、多分、直帰。
先週ほどではないが、順次フロアから人が出ていき、エレベーター前は少し賑わっていた。一課の同期がいて、「どうよ」「やばい」みたいな会話。
「だって俺昨日、三時間だよ?三時間」
「え、何が」
「客先で怒られっぱなしですよ。ねえ?いっつも俺、こんなん」
「なんでそーなった」
「知りませんよ。コールセンターが繋がんないって話から始まって、何で日本の景気まで俺のせいになるの?」
「ほんと、当たるよねー、木内はね」
「やってらんねー」
その場に居合わせてしまったからには、何となく相づちをうって、何となく一緒に笑う。エレベーターに乗って、鈴木と隣り合わせた。
「おう」
「お疲れ」
「そっちは、どうよ」
「ああ・・・横田が、来るって」
「マジで?いつ」
「明日」
「そっか」
肩をすくめて、扉が開いた。僕はわざと少し遅れて、携帯などを取り出してぐずぐずと塊から離れた。
「じゃあな、お疲れ!」
二、三歩先で律儀に鈴木が手をあげた。無視してくれていいのに。「お疲れさま!」と返し、そのまま何とかやり過ごした。鈴木になら何か話せるかもしれないが、今は、どんな気持ちも他人と共有できる気がしなかった。
・・・・・・・・・・・・・・・
朝。
横田はもう来ているのかと思ったけど、まだ席は空いたままだった。何だ、やっぱり来ないのかと思っていたら、朝礼のあとおもむろに現れた。
「うっす」
「あ、ああ、久しぶり」
横田はそれには答えず、課長が来てまた応接スペースへと連れて行った。何ともいえない感じで昨日のふせんの続きをやって、落ちつかないまま、三十分くらいで横田は帰ってきた。
「何か、リスト整理とか、すんだってさ」
卑屈そうに少し笑って、パソコンの電源を入れる。
「うお、パスワードとか」
「ああ、・・・切れるね」
「切れましたね。あ、何、間違えた?俺覚えてないとかいうオチ?」
「おいおい、入れないのかよ」
「仕事出来ないな。帰ろうかな」
「・・・って」
・・・。
驚いた。
会話のペースに、ついていけない。
ああ、どうやってこいつと喋っていたのか、よく思い出せない。今までずっと、隣でこうやって、どうでもいいことを話していたのに。愚痴と皮肉と悪口しかなかったけど、それでも会話はしていたのに。
・・・昨日の感覚が、現実になっている気がした。夢が終わり、そこはすっぽり抜けて、過去と繋がる。
仕方ないのかもしれないけど、横田に対して、違和感しかなかった。右隣に人がいる。左は元々空きだったから、僕はもう何ヶ月も両隣がいなくて、えらく気が楽だったのだ。そんな日はこうして、唐突に、終わる。
「まあ、何かあったら、言ってよ」
とりあえず課長の頼みを遂行するべく、声を掛けてみる。こういうこと言われても、やりづらいだろうなとは、思いつつ。
「何、山根くん、出世?」
「・・・別に」
「いやまあ、ちょっと、頼みますわ。世話になります」
ああとかううとか適当に濁して、出掛ける準備をした。まだ早いけど、「行ってきます」と佐山さんに丸投げ。僕も、辛抱なくなったかな。
困ったときの、工学院の隣のビルのカフェ。コーヒー一杯で、書類を広げる。どうしてこうなった。どうして、こうなった?
去年まで、あれが、普通だったのだ。
あれが当たり前の、日常だったのに。
横田が、来なくなって。
それから、黒井が、現れて。
会社に入ってから、初めて人の家に行ったし、・・・キスしたし、私的な電話をしたし、休みの日に二人で会った。っていうか、・・・人を、好きになった。
そうか、あの頃の僕には、好きな人なんか、いなかったんだ。
もう、信じられなかった。そういう生活を、思い出せなかった。いったいどうやって生きていられたんだろう。どうして会社なんか、通ってられたんだろう。
黒井と話したい!!
携帯を握りしめるけど、昼でもないのにかけられるはずもなく。頭が、混乱した。たった一人、休んでいた同期が帰ってきただけで、どうしてこんなに困惑するんだろう。別に、何も変わっていない。やることは何一つ、変わらないのに。
「だめだ」
立ち上がって、手付かずの書類を片付ける。考えてもしょうがないし、どうにもならない。お客さんとこ行った方がマシだ。今日はお喋りな経理のおばちゃんのところだから、存分に世間話に付き合おう。そうだ、ちょっと手土産にお茶菓子でも買って、ご機嫌も取ろう。それがいい、そうしよう・・・。
・・・・・・・・・・・・・・・
「ただいま戻りました」
・・・遅く、なってしまった。お昼すら、食べていない。
「おう山根、遅かったな」
課長が僕の席で、横田に何か教えていた。
「すいません・・・追加で細かいの、取れちゃって」
「お、いいよいいよ、頼むよ先生」
ばしっと腕を叩かれ、課長は横田の右へ移る。うう、温まった椅子に座るの、好きじゃないんだけどな。
とりあえずパソコンを立ち上げ、立ったまま書類を整理し、佐山さんに契約書を渡した。本当に、自腹で手土産買った分と、佐山さんの手間なども考えれば、むしろない方が良かったかというくらいの金額だけど。
まあそれでも、取ろうと思って取れた契約だから、嬉しかった。今抱えている大口案件はどれも棚ぼた的なものだったから、もちろんそれも僕らしいけども、自力で取れるのも自信になった。うん、しばらくは外回りに重点を置いて、あとは残業しよう。横田も最初からそこまで残らないだろうし、結局、人がいないほうがはかどるのだ。
しばらくは課長がいたから、横田のことは気にせず仕事が出来た。今日の小さな契約の後処理を早々に済ませ、たまっていたふせんに戻る。いくつか電話をかけ、FAXを送り、佐山さんを助けるべく、かかってきた電話に出たりもした。
「はい、いつもお世話になっております。はい、・・・はい、少々お待ちください」
・・・。
黒井さんいらっしゃいますでしょうか・・・だって。
え?
黒井宛て、だ。ああ、黒井って、あの、僕の黒井だ。保留ボタンを押して一秒緊張し、後ろを振り向いた。
・・・いる。
黒井に電話を取り次ぐなんて初めてだ。え、どうする、ここから叫ぶ?席まで行く?この距離で内線する?
何度か振り向いているうちに、向こうから気づいた。犬のようなきょとんとした顔で、首を傾げる。僕は受話器を取って、<お前に、電話>と示してみせた。
「はい!何番!?」
「・・・さん!」
電話の、保留三番の緑の点滅が消える。やがて「はいお電話代わりました」と少しよそ行きの声がして、無事に取り次ぎ終了。そういえばどこからの電話か言わなかったなと思い、少し電話の成り行きを聞いていたけれど、黒井が今、どこか別の会社の別の誰かと喋っているということを何だか生々しく考えそうになってしまい、すぐやめた。
やがて課長がどこかに消え、横田と並んで二人、残される。やっぱり何だか気詰まりだ。でも話しかける話題もないし。ないのか?・・・ない。ないんだ。今横田に投げるような愚痴は、僕の中にないみたいだった。
あてどもなくエクセルに向かってテンキーを叩いていると、ふいに人の気配がして、「コーヒー」の声。振り向くと黒井が「行こ」と立っていた。ものめずらしそうに横田のことも見ている。それを横田も、姿勢は変えないまま窺っている。
「あ、ああ」
反射的に席を立った。過去の人と夢の人の間に挟まれて、現実が少し遠ざかる。コーヒー、という単語だけが頭の中に回り、コーヒーを飲むべきだ、と思ったので、黒井のことは見ないで歩き出した。
やがて黒井が追いついて、「・・・で、誰だっけ?」と。
「横田だよ。お前が来るちょっと前から、体壊して休んでた」
「へえ。じゃあ、元気になったわけ?」
「・・・そう、なんだろうね」
「ふうん」
何だか、後ろめたい。・・・いや、違う。恥ずかしかった。
黒井が来る前の僕を、垣間見られたようで。
こんな風になる前の、本当につまらない僕。ただ一日がさっさと過ぎればいいと、たぶん思っていたあの頃の僕。
・・・いや、黒井と会った時だって、確かにその僕だったわけで。
どうして、黒井はそんな僕に声を掛けたんだろう。まあ、今のほうがマシだっていうのが、思い上がりかもしれないけど。
訊きたいけど、そんなこと訊けなかった。
「昨日は、直帰だったの?」
だから、そんなつまらないことを訊いてしまう。黒井とは、上辺の仕事の話なんかしたくないのに。
「そうだよ、全然ノー残じゃなかった。そっちは?」
「まあ、19時半ごろ、帰ったよ」
「ふうん、そっか」
給茶機に着いて、黒井が紙コップをセットする。二人きりになって、こっちも違和感。何だこれ。誰なんだ、この人。
「あのさ」
たまらなくなって、肘をつかんでみる。
「え?」
「ああ、何でもないよ」
心臓が速くなった。「んん、何だよ?」なんて、はにかんで笑う。誰なの?俺の、恋人?
・・・違うよね。
同僚だよ、会社の人だよ、と斜め上から心の声がして、ハッとして息を呑んだ。そうだった、このままここで、僕を天国に連れてってくれるような気になっていた。
「ねえ、黒井・・・くん」
「はあ?」
思わず、呼んだけど。
・・・。
・・・呼び方が、出てこなかった!
「あ、あの」
「何、急に黒井くん、とか」
「お前さ、そういえば俺の名前、知ってる?」
「え、名前って?」
「下の・・・名前」
「ファーストネームって意味?」
「そう」
突然何を言ってるんだろう。自分でもよく、分かんないけど。
「知ってるよ」
「そう?」
「こーちゃん。やまねこの、こーちゃんだよ」
「・・・はい?」
クリープをかき混ぜる手が止まる。
え?
こーちゃんて、誰。
ん?前もそんなこと、思ったような。
「ええ、こうじ、でしょ?あ、それともこうし?」
「・・・そうだっけ?」
「はは、何、そうだっけ、ってさ」
「いや、たぶん・・・違うと、思うよ?」
何だろう、心臓のどきどきはおさまって、腹にひゅうと、あの感覚。え、自分、誰なの?
「あれ、違うの?何て読むの?」
「・・・俺、ひろ、ふみだと、思ってたけど」
「ひろふみ」
「たぶん・・・違ったかな」
「・・・じゃあお前、山猫じゃないの?」
「へ?」
「やまねこうじ、で、俺、やまねこって、呼んだんだけど」
「・・・」
・・・。
ああ、違ったのか。
夢が、醒めるのか?冷えた寂寞が近づいてくる。なくなっちゃうの?今更、無理だよ、戻れない。お前がいない人生なんて、もう、戻れないのに。
自分は山猫だと、思ってたのに。
「・・・ご、ごめん。俺、漢字しか知らなくてさ。勝手に勘違い・・・」
「べ、別に」
「お、俺の名前は、知ってる?」
「くろいあきひこ」
「あ、知ってるんだ・・・」
「俺・・・役所に行って、改名してこなきゃ」
「ど、どうしたの」
「何でもない。俺、こーちゃんになるよ」
「えっ?」
「いや、きっとさ、ひろふみってのが間違いだったんだ。お前が言う方にするよ。自分でも自信がない」
「・・・大丈夫か?まあ、下の名前なんてさ、しばらく呼ばれてないけどね」
「そうだよ」
「しっかし、まさか、間違って覚えてたとはね。親友の名前一つ言えないなんて、恥ずかしいよ」
「・・・だ、だから、いいんだって。こーちゃんてことに、してよ」
「気に入ったの?」
「そうして、ほしいんだ」
「じゃあ、そうしよっか。ひろ君じゃなくて、こーちゃん。・・・ま、結局ねこって呼ぶけどね」
「うん・・・俺も、あっくんじゃなくて、クロって、呼ぶから」
黒井は、やめてよ気持ち悪い、と笑った。
まずいはずのコーヒーも、今はうまく感じた。な、何とか保ったんだ。ギリギリすり抜けただけかもしれないけど、僕はこのまま歩いていけそうだ。黒井の・・・親友、って、ことで・・・。
・・・・・・・・・・・・・・・
「あのさ、さっきの・・・。同期、だったっけ?」
しばらくしてから、横田に訊かれた。ああ、こっちも、知らないのか。
「え、黒井のこと?」
「ああ、そうだったか。あれ?本社行った人じゃなかった?」
「うん、移ってきた」
「そうすか、ふうん。何か、山根くんぽくない人だね」
「え?」
「フンイキつうかね。何か、ああいう感じっすよ」
「・・・そう?」
ああいう、感じ。
そうだ、あの頃僕だって、そう思ったんだ。
三課に移ってきたあいつを、<黒井さん>を、<へえ・・・>って目で見て、同期に囲まれてるのを横目に、声を掛けようとも思わなかった。ああ、思い出した。あいつが移ってきたあの日。
朝礼で、短い挨拶をして。
横田と同じだ。へえ、誰だっけ、とか思って。
三課で良かったなって。あんな人が左隣に来たらどうすんだよって、ああ、僕はそう思ったんだ。今初めて思い出した。朝礼の後、後ろで三課の連中と改めて自己紹介をしていた。それから、向こう側の端っこで一課、二課の連中に囲まれていた。
「お久しぶりっすね」
「黒井さん、本社で何してたんすか」
僕はたまたま近くを通りかかったんだけど、会話に入ることはなくて・・・。
ん?
違う。
何だこの記憶。黒井が、僕に、声をかけてきたんだ。遠目に見ながら通り過ぎようとする僕に向かって、「あ、よろしく!」と。
何だこの人、僕のこと同期だって、分かったのか。
へえ、そういうの律儀に覚えてて、挨拶とかしっかりしてくるんだ、って。
違う人種だ、と、思った。
あれが、黒井だ。あの「あ、よろしく!」の人が、黒井なんだ。
その時の黒井の顔は今のそれとまったく変わらないのに、何でもうこんな、前世みたいになってるんだ。どうして今は、<黒井さん>じゃなくて、クロ、とか、呼んでるんだ。
「あの、山根くんさ」
「はい?」
「共有フォルダの場所、教えてくんない?四課のリスト、見つかんねー」
「あ、共有。ええと・・・」
フォルダを探しながら、ぐう、ぎゅるると腹が鳴った。
「腹、減ってんの?はは」
「昼、抜いてて」
「そんなウケることしてないで、食べてきて下さいよ」
「そう?じゃあ、そうしようかな。あ、あった。これ」
「ああ、これか。どうもすいませんね」
「じゃ、ちょっと外すわ。三十分で戻る」
「りょうかーい」
僕はどこで何を食べるかも考えず、とにかく外へ出た。黒井さんが、クロで、親友とか、言われたりして、ああもう、何だかよく分からない。
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