第54話:beforeクロが思い出せない

 翌日も横田は朝礼後にしれっと入ってきた。課長にそう言われているのか自主的な遅刻なのか、まあでも誰も何も言わない。昨日来たとはいえ、まだまだ腫れ物扱いだった。通りかかった同期がたまに「おう、久しぶり」と一声かけ、「もういいの?」とまでは踏み込まず、去っていった。

 まだ・・・慣れない。

 隣に人がいることが、気になって仕方なかった。それが今だけ、今日だけじゃなくて、しばらくはずっと、続くなんて。

 そう、黒井にクッキーをあげたとき、そこに、その席に、座った、んだ。

 横田がいなくて何となくいつも手持ち無沙汰だった。それで、親切に声をかけてくれたなんて、思ってたけど。

 本当は、どうなのか。

 ・・・そして、横田だってどうして今また来る気になったんだろう。

 どちらも、聞けはしないけど。

「あー、山根くんさ、今日も外?」

「えー、うん。三件はしご」

「うへえ、頑張って下さい」

「へいへい」

「俺寒いの苦手だからなー、外とか、無理っす」

「でもここ、逆に、暑くない?」

「いや、全然」

 島の何人かが出かけていき、「行ってらっしゃい」で会話が途切れる。一息ついて、僕も出かける準備。

「・・・山根くん暑いの?」

「え?・・・そう、ね。・・・ねえ、佐山さんは暑くない?」

 無理矢理振っちゃった。ごめんね。

「そうですねー、ちょっと、お昼過ぎは暑いですよ。暖房、効きすぎ」

 向こうの席からわざわざ声を出してくれる。今度お菓子のお返ししなきゃね。

 僕は立ち上がりながら、「昼は、外も日差しがすごいよ」と、特に意味もなくつぶやいて、さっさと「行ってきます」。こりゃまた、工学院かな。手帳を忘れて慌てて戻り、もう一度「行ってきます」で、外に飛び出した。


 帰りがけに、コンビニに寄った。缶コーヒーと菓子を買うだけだったが、前の客がマルボロだのマルボロライトだのわめいている。怒るほどのことなのだろうか?今日はやめとけってことかと思ったころ順番が回ってきて、思いつきが実行されることになった。

 帰社して、自席には戻らず、デバッグへ向かう(そういえば、その部屋がなぜそう呼び表されているのかは知らない)。忘年会のことを思い出したこともあって、何となく、大月さんのところに行ってみようという気になったのだった。

「失礼しまーす」

 フロアの暖房の範囲外なのか、やはりここは廊下と同じ気温だった。

 奥に、いつも通り大月さんがいた。

「おっ、こんにちは」

「あ、どうも」

 お疲れさまでもお帰りなさいでもない、何だか素っ頓狂な挨拶で、頬が緩んだ。

「あの、別に用事ってわけじゃないんですけど、良かったらこれ」

 コーヒーと、ポケットサイズのチョコビスケットを袋から出す。

「え、なになに、差し入れ的な?」

「まあ、忘年会でもお世話になったんで、今更ですけど」

「いやいや、お世話とか、してもらった方だよ。でも、もらっとく。ありがとね」

 大月さんは缶コーヒーで手を温め、うれしいなあとつぶやいた。

「こっちは、結構暑いんですよ。でもここ、やっぱり寒いんですね」

「うん、常冬?」

「僕もこっちがいいな、暑いよりは、寒い方が、仕事的には」

「あー、そうかもね。うん、あ、じゃあこっちおいでよ。大歓迎。ほら、あっちのデスク・・・空いてないか。じゃあみかん箱で」

「うわ、いいですね。厄介になろうかな」

 他愛のない話をして和んでいると、カンカンと鋭いノックの音。直後に「失礼します」もなくいきなりドアが開いた。

「わ、客か」

 思いきり怪訝な顔でにらんできたのは、SSの関口だった。

「あ、あんたか」

「ど、どうも」

「何でこんなとこいんの?まいいや。それで大月くん、さっきの件」

「ほいほい」

 ・・・大月さんはSS部と何か連携してるのか。大月の仕事内容を全く知らない僕は、ちょっと好奇心もあったけど、やはりその場を辞すことにした。

「あ、じゃあ僕はこれで」

「ああ、ありがとね!またいつでも待ってまーすなんちゃって」

「はい、また来ますんで」

 後ろから、関口が「何なのあの人」とつぶやくのが聞こえた。あ、関口にもお菓子、渡すべきだったかな、まあいいか。


 自席に戻る途中で、佐山さんにも差し入れ。

「あ、ありがとうございますー。これ好きなんですよ。今イチゴ味も出てるでしょう」

「え、そうなの?よく分かんないけど」

「冬はイチゴフェアですよ」

「じゃあ今度、それにするから」

「あ、別に催促したわけじゃないですよ!」

 成り行き上、横田にも「いる?」と声をかける。横田は甘いものとか、食べるんだっけ。そんなことも、よく思い出せない。

「いやいや結構ですよ。今日も早上がりしますから。あと一時間半」

「そ、そっか」

 とりあえず、金曜なのだ。一時間半はバタバタと適当にやり過ごし、あとはまたゆっくり一人の時間を満喫した。もう、一日単位で何とかやりきるしかない。激動の一ヶ月は未だに最先端で更新中なのだ。



・・・・・・・・・・・・・・・

 


 たった四日だったのに疲れて、帰って寝た。気づいてしまったから、最後の力を振り絞って布団から這い出て、脱いだ靴下を拾って洗濯カゴに入れる。あとは心おきなく寝た。

 何だかおかしな夢を見ていると、どこかで、何かの、音がする。何か、鳴っている。携帯?何だっけ。どうすると、止まるんだ?

 仕方なく起きて手を伸ばす。カーテンから細く日差しが差し込んでいた。

 重い瞼を開けると、黒井から、着信。

「・・・はい」

「お、おい、お前も今起きたの?俺、寝坊した」

「へっ?」

 ・・・あれ、休みじゃなかったのか?え、もしかして会社?寝坊?まずった!?

「え、え、休みじゃないの?何曜?今何時?」

「十時半、過ぎ」

「十時半!?目覚まし、鳴ってない、何で?え、お前も寝坊したの?」

「今起きた」

「何だよ、何で俺に電話なんかしてんの?ってか、え、本当に何曜なの?」

「土曜」

「土曜・・・土曜?え、やっぱ、休みだろ?」

「病院」

「病院?」

「お前、また、行くんだろ?病院」

「あ・・・そう、だっけ」

 さっぱり、すっかり、忘れていた。病院に、行ったのは、先週の土曜?もう遠い昔のことに感じた。

「び、びっくりさせんなよ。会社かと思って、焦っただろ」

「いや、会社より、大事じゃん」

「え?別に・・・もういいよ、行かなくても」

 めまいもあれから起きていないし、薬だって結局、飲まなかった。あれは単にあの場限りの、突発的なもので。

「だめだよ、ちゃんと、しないと」

「いや・・・大丈夫だって、あれから別に、何もないし。っていうか、何で、俺忘れてたのに、お前」

「一緒に行くつもりだったから・・・寝坊しちゃったけど」

「え、別に、いいって。・・・あ、」

 ありがと、と尻すぼみで。照れる。

「だってさ、その、それさ、俺のせいってのも、あったんでしょ」

「ま、まあ、そうだけど」

「何ていうか・・・その。責任、取るからさ」

「へっ?・・・」

 お、思わず、布団に、正座した。せ、せきにんて・・・。何、その、はらませちゃったみたいな、言い方。・・・病院、一緒に、行くとか。腹がひゅうとして、いや、違うよ、そんなところに、何も宿ってないってば。

「あ、あのっ、とにかく、大丈夫だから。し、心配してくれて、ありがとう」

「・・・本当に大丈夫?病院、明日やってないでしょ?」

「いや、その、行くにしても、一人で行くから」

「付き添い、いらない?」

 なっ・・・。そ、そんな声で、そんなこと言うな。いるとも、いらんとも、言えないじゃないか。

「あ、あのさ、じゃあ、もう少し様子見て、来週行くよ。そんときは、頼むから」

「そっか、分かった」

「・・・うん」

「じゃあ・・・また、ね」

「うん。じゃあ、また・・・」

 ゆっくりと、電話を切った。まだ、緊張している。変な汗まで、かいたりして。しばらく思考がまとまらないまま、布団の上でぼうっとしていた。そのうち寒くなって、また布団にくるまった。

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