第55話:不思議ちゃん、藤井登場

 次に起きたときにはもう西日が傾いて、洗濯するのは諦めた。アイロンがけと、靴磨きで午後を過ごす。ああ、そういえば。買い物でも、行こうか。

 そのまま着替えて、家を出た。電車に乗って、多摩センターへ。何か電気屋とか、あっただろ。

 新宿と違って、広々とした駅前。空が高くて、綺麗だった。何だかぼうっとして、しばらく空を眺めた。何か、浸っちゃってるな。

 しばらくぶらぶらして、ヤマダ電機の家電売り場へ。携帯やパソコンなどの混み合ったコーナーを抜けて、人の少ない、生活用品。奥の方にひっそりと、アイロンが並んでいた。黒井の家には、なかったもの。

 地味な家電は、どうしてこんなに僕の心を惹きつけるんだろう。トースターとかポットも見ていたいけど、今日はアイロンだ。

 コードレスで、小さくて、シンプルなもの。あいつまさか、シャツまで、焦がさないよな。自分のやってることに一瞬ビクつくけど、まだ渡すわけじゃないんだしと言い聞かせ、三十分悩んだ末にひとつを選んで、レジに向かった。


 まだ渡すわけじゃない、自分のを買い換えただけかもしれない、と自分をはぐらかしつつ、帰路についた。しかし、自分の駅のホームで降りて、ものすごい違和感を感じてもう一度電車に乗った。これ、家に持って帰って、どうするんだ?開けもしないで置いといて、毎日眺めていったい何なんだ?

 早いとこ、渡してしまおう。

 せ、責任とって病院付き添ってくれるくらいなんだから、アイロンくらい、受け取って、くれるよね。

 意味不明な理屈で納得したようなしないような、僕は<駅まで来れる?三十分後>とメールした。しばらく返信がなくて焦ったが、二十分くらいで<ついた>、と。ああ、こんなに簡単でいいんだろうか。こんなにも簡単に、人を呼びだして、会えてしまうなんて。

 ホームに着くと、先頭のところに黒井が立っていた。渡すだけだから、改札でも、よかったのに。

 黒のニット帽に、同じく黒のダウンパーカー。今日は、ちゃんと、黒犬なんだな。僕を見つけると、微笑んで寄ってきた。ああ、本当に僕は、どうしちゃったんだろう。

「へへ、寝癖、ひどくて」

「あ、なに、それで帽子?」

「うん」

「似合ってるよ」

 ・・・。

 自分で言って、驚いて、<はあ?>とつっこみを入れた。何だそれ。え、何、それでそのあとに、突然プレゼントするの?アイロンを?はあ??

「そんで、どしたの?また夕飯、作ってくれんの?」

「・・・い、いや。違うんだ。そ、その」

 電車のホームで、オレンジ色の空の下、僕は片想いの相手の友達に、いや、親友に・・・アイロンを、渡す、らしい。

「なに?」

「あの、あ、アイロンが」

「え?」

「買ったから、あげようと思って」

「・・・俺に?」

「うん」

「俺、出来ないよ?」

「いいから。男でも、シャツにアイロンくらい、かけないと」

「だからかけらんないよ」

「い、いいんだよ。持ってればさ、出来るかもだろ。それに、ハンカチくらい、出来るだろ」

「・・・そっか、そうだね。それくらいなら」

「うん」

「で、これ、くれるの?」

 ああ、肝心の紙袋を、渡していなかった。

「あ、はい」

「うん」

 手渡したり、して。一瞬黒井の冷たい手に触れる。電車で温まった僕の手で、握ってやりたいけど。

 でも、何、何なのこれ。どうなんだろう、何か、おかしくない?

「・・・いいの?」

「何が?」

「いや、・・・急に呼び出してごめん。俺、帰るよ」

「そうなの?何か、用事?」

「え、うん、まあ」

「そっか」

 おいおい、もう少し、つっこんでくれよ。お前何しに来たんだって、笑ってくれ。買ったから、あげるって、何だよ。通販のカニのおすそわけじゃないんだよ。

 ・・・何で、こんなんで、納得しちゃうんだよお前は!

 結局改札まで見送って、黒井はアイロンの入った重い紙袋片手に、「じゃあねー」と手を振って帰っていった。僕も乾いた表情でメトロノームみたいに手を振った。あはは。

 いや、でも、本当によく似合ってたんだ。耳でもついてればいいのにね、そのニット帽。



・・・・・・・・・・・・・・・・



 日曜は洗濯と昼寝をして過ごし、夜、黒井から<ハンカチ四角くなった>とメールが来て笑った。寒空にコンビニまで行って久しぶりにポテチなど食べてみる。ついでに晩酌。一本だけ。

 明日からの五日間に備え、ご飯と豚肉を冷凍し、キャベツをざく切りにしてジップロックに小分けした。結局何もかも、切るというのが面倒なのだ。

 あとは洗濯物をたたんで、寝た。それだけなのに、とんでもない充実度だった。


 月曜。

 また来ないかと思った横田がやっぱり来て、でもまだ、喋り方が、思い出せない。

「月曜とか、かったるい」

「あ、まあ、そうだね」

 ああ、もう、かったるくないのか、僕は。

 気づいた。背中に黒井を感じていて、別に席にいなくたってその存在があって、僕は今、会社を嫌がっていない。はは、会社を、嫌いじゃない、僕なんて。

「ったく、うざいよね。気持ち悪いし」

「え、何が?」

「俺が」

 横田が何すか?と聞き返す。うん、そうなんだ。もう完全に、違うんだ。

「何言ってんすか」

「ちょっとね、頭がおかしい」

「そのようですねー」

「まったく」

 客先に送る封筒をまとめて「ちょっと送ってくる」と立ち上がった。

「あ、発送部屋ですか。懐かしー」

「ますます倉庫になってるよ」

「俺やっときますか?」

「いや、すぐだから」

「あ、アレ目当てか、山根くんも?」

「え?」

「いや、ほら、あそこいくと、たまに会うでしょ」

「誰に?」

「向こうの、女の子ですよ。あっち側の。当番とかで」

「そうなの?女の子に?会ったことなんかないけど」

「山根くんもねー、若い子がいいんだねー」

「は、はあ?」

「佐山さんが泣いてますよ」

「な、何だよそれ」

 佐山さんが「何ですかあ?」とこちらを向く。こっちが聞きたい。

「あの、山根くんがね、やっぱり若い子がいいって」

「ええー、ひどーい。っていうか年のことバラしたんですかあ?」

「な、何、年のことって?」

「私が今年三十路だってことですよ」

「ええっ?そ、そう、な・・・んですか?」

「やだ、知らなかったなら言わなきゃよかった。横田さんひどい!」

「やや、すんません。何か、知ってるのかと思って」

 僕は「え、とにかく、何だかごめんなさい!」と謝って、そそくさと部屋を出た。まさか、佐山さんが年上だったとは。


 横田のやつ、前は佐山さんとあんなに親しく喋ってなかったと思うけど、あいつも変わったんだろうか。そんな余計なことを考えつつ、大月さんのデバッグの隣の、発送部屋に向かった。背の高いスチールの棚に囲まれた、狭い倉庫のような部屋。社内便は専用の封筒に入れ、社外便は荷物に伝票を貼ってここに置くことになっている。

 一応、ノックをして重い扉を開ける。

 ・・・別に、やっぱり、女の子なんているわけない。

 窓もなく薄暗い部屋は、扉が閉じると、じーーーという謎の唸りだけが聞こえる空間だった。たまに、裏の業務用エレベーターのガタガタいう音が響く。

 棚に雑多に置かれた伝票を取り、古びたテーブルの上で住所を書く。折りたたみ椅子があるけど、埃っぽくて座る気にならなかった。

 立ったままかがんで、目を凝らしながら住所を確認する。薄暗くて、見えないのだ。

「ええと、渋谷区・・・神宮前・・・?はいはい、三丁目?ったく、やってらんねーよ」

 誰もいないから声に出して、意味もなくくだを巻く。別に、何とも思ってないけど。

「あーもう、何でこう、長いんだよ。入りきらんよ!やべ、そんなに、入らないってば!もう勘弁して、お願い、小さくなっちゃうから。ぎゃー、こんなのかっこ悪い!」

「・・・あっ」

 小さな悲鳴と、バサバサと音がした。

「えっ?」

 驚いて振り向くと、制服姿の女の子が床に落ちた封筒を慌てて拾っていた。え、うそ。

「す、すいません。すぐに立ち去ります!」

「え、いや、こ、こっちこそ」

 拾うのを手伝ったものか迷っていたが、女の子が拾った封筒を「あわわ」ともう一度ばら撒いたので、結局拾いに行った。

「な、何てこと。ごめんなさい、邪魔するつもりじゃなくて」

「べ、別に、そんな」

「どうぞどうぞ、出直しますから、続きを」

「え、え?」

「見てません!私何も、見てませんから!」

「な、なにが!?」

「・・・え?」

 女の子はしゃがんだまま左右を見渡し、「あれ、お一人でしたか?」とつぶやき、バランスを崩して倒れ、尻もちをついた。どんな勘違いをしてたんだ?

「い、痛!」

「え?だ、大丈夫?」

「痛い・・・何?ホッチキスの芯?わわ、刺さった!こ、これは痛い!」

 倒れた勢いで床についた手のひらに、銀の細い線が。そしてまた封筒は盛大にばら撒かれている。

「さ、刺さった?」

「刺さりました。うおお、これ、ぬ、抜きたくないんですけど!」

「ち、ちょっと、見せて」

 女の子は右の手のひらを僕に差し出した。コの字の芯が、斜めに刺さって、血がにじんでいる。

「痛いですよ、血が出てきましたよ」

「いや、そんなこと言ってないで、取らないと」

「私、出来ません!どうかひと思いにやっちゃってください!」

「ええ?」

 いったい、何なんだ。

 しかし、女の子はもう目を堅く閉じてこっちに手を伸ばしてくるし、その細い腕も微かに震えてきているし、もうどうしようもない。いや、こっちだって、痛そうだし、嫌だけど。

「ちょっと我慢して!」

「はい!」

 勢いよく、ピッと。

「ひやあああーー・・・、っ!」

「ご、ごめん!!」

 何だか勘違いされるような、潤んだ悲鳴。や、やめてってば!

「も、もういいですか!衛生兵!自分は生きてますか!」

「・・・だ、大丈夫だから。お、落ち着いて」

 恐る恐る目を開いて、女の子は自分の手を見た。二箇所から血が出ているけど、まあ、一ミリもないくらい。

「あれ、それほどじゃありませんね。なーんだ」

「ま、まあ、ね」

「でも痛かったんですよ」

「そう、だね」

「バンドエイドとか・・・あ、この部屋のどっかで見たな。どっかで・・・」

 女の子は左手で右手の手首を握って、右手は肩まで上げたまま、棚を探し始めた。仕方なく僕は落ちた封筒を拾い集め、バンドエイドを一緒に探してやる。女の子に会うとか言ってたけど、何だか、とんでもなくおかしな子に当たったらしい。

「あ、これだ?」

「おお、発見してくれましたか!す、すいません。貼ってください。右手が動きません」

「え、動かない?」

「もとい、動かしたくありません」

 どこまで世話が焼けるんだろう。

 箱からバンドエイドを取り出して、紙を剥がす。女の子は僕が貼りやすいように、横から手を差し出してきた。

「・・・これ、貼る前に洗ったりした方がいいんじゃない?」

「いえ、私貼らないと、これ以上動けません」

「へ?」

「開いた穴から自分が出て行きそうなんです。貼ってくれれば助かります」

 ・・・もう、いいか。

 僕は女の子の手を取って、血が出た部分を確かめてバンドエイドを貼ってやった。二つの赤い点がみるみる染みていく。

「ああ、これで平気です。お手数をおかけしました」

「よ、良かったね・・・」

「あの、もし良かったらお名前を・・・」

「え?僕?・・・山根ですけど」

「・・・それって、四課の?」

「は、はい」

「四課のやまね、ひろふみさん?」

「・・・こうじです」

「あ、ごめんなさい。フリガナ、あったと思うんだけど・・・すみません」

「べ、別に」

「私、発注チームで、三課と四課を担当してて・・・。つい今しがた、山根さんの契約やってたので、ご本人がいて、びっくりです」

「そうでしたか」

「あ、申し遅れました、藤井です」

「ああ・・・お名前だけは」

「左手で、失礼します」

 藤井は握手を求めてきた。長い前髪で顔はよく見えない。とりあえず、握り返した。

「このお礼は、きっとします。私に出来ることなら、何でも言ってください」

「い、いや、別に・・・」

「それじゃ、ご迷惑をおかけしました。どうぞごゆっくり続きをなさってください」

 藤井は「あーあーなんてこった・・・」とつぶやきながら、パタパタと廊下を遠ざかっていった。僕は藤井の持ってきた封筒とともに残され、結局それもやる羽目になった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る