6章:クロといる僕、会社員としての僕

(連休明けの通常営業。思わぬ出会いに、流されていく)

第52話:会社で会うクロは雪のよう

 連休が明けて火曜日。黒井は直行だと言っていたのを思い出し、もう何もない無難な一日を過ごそうと決めた。いないと分かってしまえば、それはそれで、過ごせた。

 ぼくがあんな連休を、つまり、マヤが出たり、病院に行ったり、温泉に行ったりマヤが恋されたり、浮いたり沈んだり<あんなこと>をしたり屋上から飛ぶところだったりした、そんな三泊四日を越えてきたというのに、社内は時間が止まったように、通常営業なのだった。

 みんな、何一つ、変わっていない。何だかそれってまるで、黒井がいたこと自体がすべて夢だったかのようだった。もうそんな日々を思い出せないけど、ほんの半年前、僕もそういう生活を送っていたはず、なのに。

 黒井がいない人生なんて、もう、考えられない。

 デスクで一人、ため息をついて、目をこする。

 そんなところまで、来てしまっていたんだ。

 

 水曜日。黒井とはすれ違い続きで、会えていない。だんだんと連休の感覚は薄れ、思考は単なる会社員に戻っていた。黒井のことを考えつつも、少し、自分でも、本当に全部夢だったんじゃないかと感じることがあった。会社で仕事をする以上の人生、という枠組みが、こうしてきちんと地に足が着いた現実世界から見ると、まるで欠陥だらけの設計書に見えた。そしていつでも、自分が立っているこちら側から見れば、あちら側が間違っていて、こちら側が正しいのだった。

「では、さっきの設定はまた来週詰めるということで」

「そう、です、ね。そうしましょう。それまでには稟議も通しときますんで」

「はい、ではそうしましたら、また伺いますので、今日はこれで」

「ええ。ではまた、宜しくお願いします」

「こちらこそ、宜しくお願い致します。失礼致します」

 客先の狭いホールで見送られて、エレベーターの中で頭を下げ、扉が閉じた。顔を上げるときにはもう弛緩して、一階につくまで目も半開き。何で一度に五つも担当しなきゃいけないんだ。まあ、島の中でも一番少ない方だけど。

 電車で座れたので、鞄の上に紙を広げ、やるべきことを順不同でリストアップしていく。そのあとそれをふせんに書き直し、自分でやることと、誰かに伝えたり頼むことに振り分け、更に今日やるのか明日でいいのかに分ける。今日の分を剥がして、ノートの今日のページに貼っていく。他の案件の分も既に貼ってあるから、それと合わせて優先順位を考え、並べなおす。

 今日の外回りは終わりだから、帰ったらひたすらこのふせんをやっつけるだけだ。


 帰社。

 エレベーターを降りると、今から出かける一課の同期とすれ違い、「おう、お疲れ」「うっす。外、寒いよ」「うっそ、やべー」の応酬。ちょっとした人とのやりとりで、少し浮かれて、少し消耗する。まあ、喧嘩騒動でぎこちなかった時を思えば、ごく普通の日常に戻って、本当に良かった。

 廊下に、人影。また同じ応酬を想定し、疲れの混じった愛想笑いを顔に貼り付け・・・。

「おお、お帰り」

 ・・・それは、コートを着て、僕のマフラーを巻いた、黒井だった。

 一秒、見つめた。

「あ、ああ」

 何かの、スイッチが、入った。急に耳鳴りがする気がして、何かの感覚が、何か知っている、昔読んだ本のような<気持ちの匂い>がした。嗅いだことのある匂いというのは感覚的に分かるものだけど、そんな感じで、僕は確かに何かを感じた。そしてそれは、懐かしくて、もうどこにもないけど、とてもなじんだ、自分の居場所だった。

「・・・これから、そと?」

 声が、震える。まるで幽霊か天使に話しかけてるみたいだ。僕の時間が今、浮き世離れしている。

 今感じている、この感覚。

 それは敢えて言葉で、一言で表すなら、寂寞(せきばく)という色と奥行きだった。

「誰かが雪とか、言ってたけど」

「・・・降って、ないよ」

「そう」

 ゆき。

 ああ、それもきっと近い。雪も、似ている。

「じゃあ、行ってきます」

「・・・いってらっしゃい」

 黒井は僕の腕を軽く叩き、少しばかり肩を寄せ、頭を僕の方に傾けたが、そのまま何も言わず歩み去った。僕も振り返らなかった。めまいにも似た無重力感。

 ああ、俺のだ。

 そう思った。

 何がかはよく分からない。黒井のことかもしれないし、この、寂寥感かもしれない。なぜだろう、しかし、<やっぱりここに帰ってきた>と思った。それは昨日、何だか夢みたいだ、と思ったその感覚の続きで、僕は夢を見て、それを忘れて、その後いつかの過去の僕と繋がったみたいだった。



・・・・・・・・・・・・・・・・・



 席に戻っていくつか面倒な入力を済ませると、どこかから戻ってきた道重課長が「ちょっと」とやって来た。

「はい?」

「いいから、ちょっと」

 課長席ではなく、給茶機の方へ歩いていく。向こう側ということは、たぶん応接スペースまで行くのだろう。僕は早足でそれを追った。いったい、何だろう?

 いくつか、やっていそうなミスとか、あの件か、この件か、と想像を巡らせる。今のところ、そこまで深刻なものはないはずだけど・・・。

 思い当たって覚悟が出来る前に、応接スペースに着いてしまった。

「ま、座って」

「失礼します」

 四人掛けのテーブルに向かい合う。軽口を叩く雰囲気でもない。

「はい、お疲れ様です、突然悪いね。ま、そんな堅くならないで。別にね、お前がどうこうって話じゃないの」

「は、はあ」

「実はね、ちょっと相談というか、頼みがあるわけ」

「な、何ですか?」

「うーん、ま、実はね、・・・横田のことなんだけど」

「あ、・・・はい」

 横田。

 ついに、辞めるという話か。

 もうほとんど暗黙の了解で辞めたような扱いになっていたけど、正式に退職になったのだろうか。何か面倒な、引き継ぎ?

「まあ、一応体調不良ってことでね、何度か話をしてはいたん、だ、が」

「はい・・・」

「突然なんだけども、明日から、来ることになった」

「えっ?来るって、・・・また来るってことですか?」

 ・・・。

 ・・・治ったんですかとか、来れるんですかとか、言えなかった自分に同情は出来なかった。一度フェードアウトした人間はさっさと見捨てるような、人間だったってことだ僕も。軽蔑してた<みんな>と、同じ。

「いや、今までも実はね、行けるって言って、でもやっぱりってことは何度かあったんだ。・・・いや実はね、今、下で会ってきたんだよ」

「え、そうなんですか」

「まあ、元気そうだったよ。それで、今度は本当に行けるからってことで少し話したのね。で、こっちとしてももちろん今までどおり頑張ってほしいわけだけど、まあ、今の、ほら、この状況だから」

「ええ、はい」

「じゃあ今日から、お前これこれこの案件担当してねってわけにも、な」

「そうです、ね」

「しばらくは様子見がてらということになるだろうし、ぶっちゃけた話ね、順調に行くとは、まあ限らないから、ね」

「・・・はい」

「それでさ、ちょっと山根先生にもね、フォローを頼みたいと、こういうわけなのよ」

「え、まあ、そりゃしますけど・・・。ど、どういう・・・」

「うん・・・、そこは俺も考え中でね、まあ、とりあえず、・・・案件のリストと、顧客情報整備のつき合わせとかね、滞留の整理とか、まあやることはいっぱいあるわけで。ま、そのあたりからやって、徐々に小さい案件を振って行くかなあ、と」

「そう、ですか」

「まあそれでね、一応佐山さんにも話をするつもりだけど、山根もさ、ちょっと気を掛けてやってほしいわけ」

「はい、分かりました」

「話はそんだけ。はい。ま、とにかく今週は、様子見で内勤してもらうってことは言ってあるからさ、中にいるときだけ、ちょっとフォローしてやって」

「はい」

「まあ何かあったら、言って。とにかくうちも、三月までは走らなきゃいけないわけだから、その辺、回るようにね、考えないとだから」

「はい」

「うん。ま、お前ら同期だし、何とか頼むよ。お前意外と面倒見いいんだからさ」

「そんな、急に持ち上げないで下さいよ」

「いやいや、ま、山根大先生にね、こうやってお願いしてるわけですよ」

「やめてくださいって・・・でも、まさか来るって、思ってなかったんで」

「うん。俺もなあ、もう、アレかなーと思ってたから。ま、後はね、本人次第やね」

 課長が立ち上がり、僕も後に続く。

 そうか。隣の席にまた、・・・人が来るのか。


 実感がわかないまま席に戻る途中、急に後ろから腕をとられて、連れ去られた。

「え、え?・・・あ?関口さん」

 タバコのにおいが、喉に苦い。

「あんたなかなかつかまらんから。ちょい来て」

 いつもと同じ、不機嫌そうな無表情で、ぼそぼそと早口。重い腰を上げてわざわざ歩いてきたのは、たぶん大声を上げて「おい山根!」と呼ぶ方が嫌だったのだろう。猫背で痩せていて黒眼鏡の関口は、必要以上の声を出すことがない。

「あ、あの、何かありました?」

「こないだの。神泉のあれ」

「ああ、はい」

 関口はデスクに広げたフロー表みたいなものをざっと探し、「これ」と指さした。正直、システムのことは今でも少し苦手だ。

「ここ、ネットワーク結局何台?」

 神経質に切った深爪気味の指が、トントンと、僕が書いた<10~15、予定>というメモを叩いた。まるで僕が叩かれているような気分になる。

「あ、ええと・・・支店、確か15台になりました」

「確定?」

「はい。それで見積もりも通って、今度・・・」

「あっそ。工期は」

 言い終わらないうちに言葉が被さる。

「あ、ええと、来月頭で・・・」

「頭?」

「・・・は、はい」

「・・・」

「あ、あの、大丈夫ですかね」

「大丈夫にしろ、って話かな」

「・・・え、ええと?」

「ん。もういいや」

 僅かに左手をその場で振って、サヨナラの合図。やたらに力んだ、癖のある持ち方でペンを握り、僕のメモを乱暴に消して<15>と書き直した。僕は、もう絶対聞いていないだろう関口に「よろしく、お願いします・・・」とつぶやいて、席に戻るのだった。

 ・・・これだから、テンポが狂うんだ、SS部は。


 関口に連れ去られたおかげで、今日の分のふせんが一つ減った。僕は<SS関口に確認>の紙を剥がして小さく折ると、ゴミ箱に捨てた。

 システムサポート部、通称SS部は僕たちが取ってきた案件を実際に客先に設置に行く部署で、変人揃いなことで有名だった。僕たちが叩き込まれ、日々ちくちくとお小言をもらうような<仕事のいろは>とは無縁の領域にいて、本当に同じ土俵にいる社会人なのか、よく分からなくなる。挨拶だのマナーだの、要点を分かりやすく伝えるだの、<報・連・相>だの、いやいや、それ以前の人としてのコミュニケーションが成り立つかという、そういうレベルだった。

 ただそれでも、彼らは営業とシステム開発と客先とにはさまれながらひたすら納期に向けて結果だけを求められているわけで、それは自然、無口になるのかもしれなかった。提案もせず、契約書という達成チケットも取らず、日々更新されるソフトとハードをなだめながら、自分では決められないスケジュールをこなしていく。

 初めの頃は、営業スマイルが出来ないという理由でSS部を希望したこともあったが、結局無理だったかなと思う。何かのルールの上に乗って、最低限それをさえこなせばいいという基盤があるから、今の営業だって出来るのだ。ルート営業という、パンフレットを配っていればそのうち声が掛かるような、掛かったら課長とグループ長が適当に割り振って道筋が決まるような、そんな他人任せの仕事。そりゃ、お世話になります恐縮ですと修飾語をつけて頭を下げて、恭しく演出しなければ仕事をしている気にもならない。契約は最終的に客先が勝手にまとめてくれるけど、システムは勝手にまとまってはくれないわけで、それを一人でやっつけるような能力も気合いも覚悟も僕にはないのだった。

 まあ、それを身につける努力をして、営業も出来るなら、確実に出世できるんだけど。

 実際SS部の課長(なぜか部長ではない)は変わり者だがどちらもこなせる優秀な人材で、自ら契約も取ってきて、担当の営業課長に数字を付けてしまう豪儀な男だった。支社長からも一目置かれていて、だから、SS部のメンバーがかなり好き勝手に振舞ってもお咎めなしなのだ。そのおかげで若手の営業は困惑するはめになるわけだけど、結局、うちの会社としては取り替えが利かないSSの方が大切なわけで。

 ・・・うん、仕事を、するか。

 何となく勝手に身につまされて、殊勝な気持ちになった。僕など、このくらいのゆるい会社でなければ、生きていけない。何とか、ここにもう少し置いてもらうべく、まずはふせんを、減らさなくては。

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