第51話:衝動的にMな僕
「お前がさあ、信じるって言ってくんなかったらさあ、もう、一緒に飛ぶとこだったよ」
「・・・はあ?」
屋上から五階行きのエレベーター。さっきも乗ったのに、もう、遠い昔みたい。
「でもまあ、大丈夫って、思ったけど」
「物騒な冗談はやめてくれる?」
「俺、冗談言うのって苦手」
「ああ、そう・・・」
何だ、無理心中で、地面に人型のチョーク引かれちゃうところだったのか。え、二人分囲まれるの?うん、それも、いいかも。・・・いやいや、そういうことじゃない。
もう、何回、喉まで、出かかってる。
抱いてくれって。
俺を、抱いて、くれない?って。
もう、ここまできたら、いいんじゃないかって思うけど。でも。
物事の順番として、その前に、告白するべきだと思うんだ。何も言わないまま体の関係なんて、そんなの、ふしだらだ。だから、ちゃんと、言うべきだ。
でも、いったい、何て?
俺、お前のことが好きなんだ。
だから、俺を、抱いてくれ、・・・って?
・・・なんか、違うんだよな。
一足飛びすぎる?がっついてる感じがする?
言わなきゃいけないと思うけど、言うと、全然違う風になってしまう。
・・・なら、言わないことにするか。
それで、まあ、なるように、なるだろう。それに、物理的には今さっき、抱かれたじゃないか。もう、何で、離れちゃうんだろう。何時間でも、何日でも、永遠に、そうしていたいのに。
「ねえ、夕飯、何?」
「え、ああ、どうしようかな」
鍵のかかってないドアを開けて、二人で中に入る。もう、何回目だろう。そういえば、お腹が空いていた。
「そ、外で、食べない?」
考える前に言葉が出た。
「え、そう?」
「な、何か」
「うん?」
ここに、いられない。
お前の、後ろ姿とか。その、服の下、とか。温泉で、風呂場で、見たもの、とか。基本的にはさっきと同じ衝動的な劣情。でも、今は、ちょっと、違う。もっと、繋がりたいって、素直な欲求。
手が、震えてきてしまった。どうしよう、何これ、我慢できない。何とか出来ない?ううん無理。
今すぐ別のことをしないと、暴走してしまいそうだ。さっきの抱かれた背中の感触が、手形でもついたかって思うほど、じんじんと痺れて、蘇る。あ、だめ。もう、立って、らんない!
「ひぁあっ」
僕は頭を抱えてキッチンの前にほとんど倒れ込んで、棚を手当たり次第叩いた。だめ、だめ、どうにかなってしまいそう!叩いた拳の痛みだけが何とか僕を繋ぎ止めている。他の感覚は彼方へ消え失せていく。もう、ちょっと、お願い、どっかへ、去って!
「おねがい、おねがい・・・!!」
クロがたぶん僕を抱きかかえようとするけど、だめなんだって。お前に触られたら、もう、お願い、やめて!
「うわああっ!」
僕の中の血は上へ下への大移動で、もうどこにどんな力を入れたら立って歩けるのかよく分からなかった。それでも這うように、とにかく、風呂場に駆け込んで、扉を閉じる。むさぼるように、目をきつく閉じたまま、手探りでシャワーを出した。
座り込んで、頭から、冷水をかぶる。
何かが、すう、と引いた。あ、大丈夫だ。大丈夫。外からドンドンと扉が叩かれるけど、背中で押さえて、耳を塞いだ。
だんだんと、水が、湯になって。
服のまま、湯気に包まれた。あはは、あったかい。気持ちいい。ひとしきり笑った。何だよ、我慢できなくて発狂した!僕の体って、なんて正直なんだ!
シャワーを止めて、重くなった服で立ち上がり、扉を開けた。
「はは、ごめんね」
「ど、どうしたの・・・」
「我慢できなくなった」
「・・・え?」
「あ、あの。・・・寒くて」
そんな言い訳があるか。でも、何て説明するわけ?さっき抜いたくせにまたやりたくなって発狂しましたって?もう、恥ずかしいよ、どこの誰なのそれ。
その時。
ふと、黒井が、何かを察して、<そんなら、そう、言えばいいのに>って顔をした。こういうときの僕の勘は当たるんだ。だめ、こいつがその気になったら、本当にどうなっちゃうか分からない。
「ご、ごめん。今のはうそ。寒くはなかったけど、とにかく、いろいろ、あったから。ちょっと、混乱しただけ。もう大丈夫だから気にしないで。頭冷やしたら、ちゃんと治ったから!」
「ねこ、お前・・・」
「違う違う!頼むよ、俺だって頑張ってるんだ」
黒井は黙って上の棚からバスタオルを取って、ぐちゃぐちゃのそれを僕に渡した。それを受け取ったとき、何だかおかしくなって、笑った。そうしたら、黒井も吹き出した。
「あはは!・・・何だよ、面白いなあ!お前、変なことばっかりするんだから」
「わ、悪かったな!これでも、正しさのために努力してるんだ」
「・・・そんなの、いいのに。少なくとも、俺には。って、自意識過剰?」
「な・・・。べ、別に、そうじゃ、ないけど。慣れてないから、うまく、出来ないんだよ!」
「俺みたいに?」
「そう」
「簡単なのにね」
そう言って黒井はわざとか無意識か、舌をぺろりと出して唇を舐めた。僕を、いじめてるんだな。受けて、立ってやる。
「悪いけど、俺の服一式洗濯しといてくれる?あと帰るときの服貸して。それから、洗濯したものはきちんとたたんで、アイロンかけたり、しといてよね」
「え、アイロンとかないよ」
「・・・お前、Yシャツ、全部クリーニングなの?」
「普通そうじゃないの?自分で出来るものなの?」
「もういい、とにかく俺が着れそうな適当な服!持ってきて!!」
結局着ていた服と、さっきタオル代わりにした寝間着を洗濯して干すところまでは自分でやり、まあ大した服でもないから本当はアイロンをかけるほどでもないし、せめて適当にたたんで置いといてくれってところで落ち着いた。洗濯機を回すあいだに、残っていたじゃがいもと鶏肉と長ネギをソテーして、とろけるチーズをかけた。長ネギを細かく刻んでコンソメスープもつけた。ああ、パセリとか、ルッコラが欲しいなあ・・・。
「うまいよ」
「そう?」
「どうしてこういうことが出来るの?」
「大したことじゃない」
「俺の中、どこを引っ掻き回しても、出てこないんだけど」
「イメージの問題なんじゃない?」
俺の中、とか、引っ掻き回す、とか、そういう単語も、イメージの問題なんだけどね。
食事に関しては、今朝の目玉焼きはともかく、それ以外は何とか合格点。いや、本当に、偉そうに語れるほど料理なんかしたことないんだ。でももう、僕は黒井のためにクッキングスクールに通ってもいいってくらいの勢いで、ああ、恐ろしいなあと思った。この調子で、もしかして仕事でも何でも、出来てしまうんだろうか。いや、それはないか。結局僕は、相手が人間じゃなくてモノだから出来るんだ。
夕飯を食べて洗濯を終えて一通り帰る準備をしてしまうと、あとは、僕が出ていくだけになった。
あんなに、いろいろしたのに。
ずっと、一緒にいたのに。
全然、何にも、足りてない。
どうしたのってくらい僕の頭はピンク色で、たぶん、今までのいろんなものが急に結実して、一気に「きて」しまったのだろう。
あと五分、あと一分、ぐずぐずと時間を延ばしたって、何も変わらない。ああ、無理矢理どっかを切って、その痛みで跳ね起きたい。カッターがあったら太股あたりをすっぱり切って、もう、そんくらいの刺激がないと、ぬるま湯に浸かった体が動かない。反射的にあの指の傷を見るけど、もうほとんどふさがって、痕は微かになっていた。
うん、黒井の服を着てるのが更に、まずいんだな。こんなん履けるか!っていう細身のスキニーパンツ?とかいうやつに、裾の長めのゆったりしたパーカー。パンツや靴下は今日取り替えた自分のをまた履いたから、ぎりぎり助かったけど。
っていうか、この細身のズボン、たぶんワンサイズ上だけど、今の僕には<きつい>んですけど。その、要するに、股のあたりの疼きの関係で・・・。その辺は長めのパーカーで隠して、黒井が着ていたおかげで濡れなかった上着を着て、さて、軽くなったバッグを持ったら、出ていかなくちゃ。
「・・・じゃ、また」
「・・・うん」
そんな顔されたら、もう、ずきずきして、痛い。ああ、僕を痛くするの、わざとだとか言ってたね。そんなら、それで、甘い。ここで帰ることも甘いんだって信じて、行くっきゃないけど。
「駅まで・・・」
「いいよ。一人で帰りたい。でないと」
僕は目を逸らして、もう一度「じゃあ」と言った。無理だ。もう、あと一秒でも一緒にいたら、離れられなくなる。
エレベーターに乗ることだけを考えて、廊下を、一歩、踏み出す。一歩、遠ざかってしまった!でも、一歩踏み出したら、もう、絶対振り返らない。後ろから声が聞こえた。
「・・・また、明日ね!」
ほとんど、泣きそうだ。うん、同じ、会社の、隣の課だもんね。明日だって、明後日だって、真面目に出勤すれば、また会えるんだよね。
見えるか分からないけど後ろ手に手を振って、僕はエレベーターに乗り込んだ。
電車の中で、ぼんやりとまた指を眺めた。
あのとき、本当に、噛み切ってくれたらよかったのに。
ううん、それじゃ浅い。もっと、深く。もっともっと、壊れちゃうくらい傷つけてくれたら、一生残る傷痕が手に入る。そういうのがあったら、きっと24時間幸せだ。いつか、そういうものを、手に入れよう・・・。
うとうとしていたら駅に着いた。さて、明日も元気に出勤しなきゃ。
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