第50話:屋上で、道理のない僕たちは抱き合う
少し暗くなってきた頃、またでたらめに歩いていたら、見覚えのある通りに出た。黒井のマンションが見えた。そして、辺りをうろうろする人影。
「あ、ねこ!どこ行ってたの!」
ズボンだけ履き替えて、裸足にサンダル、上は僕の上着を引っ掛けて。
のんびり手なんか振ってくる。こんな形で遠くから見ても、やっぱりかっこいいんだ。こんな人に、あんなことして、本当に僕はどうかしている。
「起きたらいないからさあ、さみしかったじゃん」
「・・・あ、ああ」
「帰っちゃったかと思ったけど、荷物あるし」
「うん」
「買い物?」
「ま、あね」
泣きながら抱きしめて許してくれって、言いたいけど。
もうそんなこと忘れて、ちゃっかり一緒にいたいけど。
うん、無理。
「心配かけてごめん」
「うん。ねえ、夕飯も作っていってくれるでしょ?」
「え?・・・い、や、もう帰るよ」
「えー、何で?疲れちゃった?」
「そう、・・・だね。少し」
「俺だけ昼寝してたから、怒った?」
「・・・ちがうよ」
エレベーターが来て、また、五階で降りて、また、あの部屋に・・・。
苦しくて逃げたくなるけど、もう少しの辛抱だ。
部屋の前に着いて、鍵を出そうとしたが、黒井が黙って開けた。鍵は掛かっていない。
「あ、俺が鍵持ってたからか。・・・スペアくらいあるだろ、不用心だな」
いや、そこは謝るところだろう。この期に及んで八つ当たりとは。
「え?別に、ちょっと買い物行くくらいで、鍵かけないよ俺」
「・・・そうなの?」
「自分が中にいるときはかけるけどさ。外にいたら、別に、盗られて困るものもないし」
「いや、それだって」
「いいんだよ。知ってるでしょ、何にもないの」
「まあ、そうだけど」
「本当は別に、その鍵だっていらないんだ。内側からかかればいいだけで」
「おいおい、さすがに」
「だって、鍵なくしたら入れないなんて、不便だし、嫌じゃん」
「いや・・・だからって」
「そんなもんに縛られたくないんだ。いっそのこと、あげるよ」
「・・・」
「・・・」
「・・・もらえない、よ」
「そう、か」
「・・・どうしたんだよ」
「お前こそ」
重い沈黙。キッチンの蛍光灯が、見える世界を白々しく照らしている。世の中に素敵なことなんて何にもないって知らしめるように。
「・・・そうだ」
黒井はふとそう口にして、僕の腕を取った。
「何だよ」
「いいから!」
必要以上に力が入った僕の体を、それ以上の強引さで引っ張っていく。玄関を通って、再び外へ。靴を履く暇もなく、かかとを踏み潰して。本気で振りほどけばほどけるけど、ぎりぎりそれをしないのは、最終的にはどんな痛みも気にしない、僕の中の強くてイカれた中心の何かのせいだった。欲望に正直で、理屈なんかひとつもない、純度100%の、嫌悪すべき僕の核。
廊下で住人とすれ違った。ジャージ姿のガタイのいい男性が、怪訝な目線と控えめな「こんばんは」で通り過ぎる。黒井はそれに「どうも!」と一言、快活なんだか牽制なんだか分からない硬さで、僕を引きずったまま、まっすぐ前を見据えて歩く。今の男性が乗ってきたらしいカゴは一足違いで行ってしまったが、すぐに下から隣のカゴが現れた。
開いてしまったから、乗っている住人に会釈して、乗り込むしかない。
そして、エレベーターは、上へ。
息をするだけの沈黙の時間が過ぎ、十二階で人が降りていった。
黒井はそこで、「R」のボタンを押す。
「・・・屋上?」
それには答えず、まだ、前を向いたまま。
そしてすぐに、また扉は開いた。
エレベーターホールの前にガラスのドアがあり、キーロックが掛かっていた。住人だけが番号を知っているのだろう、黒井は四桁の数字を合わせて、ドアを開けた。
さっきより更に藍が増して、ほとんど夜空になりかけている。
無言で歩き、何となく、一番奥まで。
ポンプやら、何かの装置が並んでいる。その先には、小さな物干しスペースにいくつかタオル干しやハンガーが掛かっていた。
意外と低い、二重に囲んだ鉄柵。
手前のをさっさと乗り越えて、ぎりぎりまで。仕方なく僕も続く。
「・・・お前、いつも来てるのか?」
乗り越え方が、慣れてるんだよ。
「まあね」
「こんなとこで・・・何、してんの」
「・・・座ってる」
言ったとおり、柵にはさまれて座り込んだ。まるで、囚人みたい。
「ずいぶんいい眺めだね」
皮肉を込めて。こんな檻、お前には似合わないよ。
風が少し強く吹いた。
「・・・で?」
屋上に連れてきて、どうしようっていうんだ。突き落とす?むしろそれもいいか。
「ねえ、隣。一緒に座ってよ」
「・・・んん」
隣になんか、座れない。同じ目線で、話せないよ。僕はうやむやにしたまま突っ立っていた。遠くの景色を眺める振りなんかして。何にも見えていないけど。
しばらくすると、黒井が立ち上がって、隣に並んだ。知らず、顔を逸らす。もっと風が吹いて、この表情もそのせいにしてしまえたらいい。雨でも雪でも降ればいい。雷にでも、打たれてしまったらいい。
「・・・ねえ」
「・・・」
「俺、知ってるんだよ」
「・・・」
声も出ないし、目を伏せるだけだった。何だ、知ってたのか。妙な諦め。ならいいや。もう、いいや。
「まさか、悪いとか、思ってるでしょ」
「・・・わるいとか、そういう」
「気持ちよくなかった?」
「・・・っ」
「べっつにさあ、聖人君子じゃないんだから、俺だってそんくらい」
「・・・何が、言いたいの?」
「あのさ、わざとなの?俺のために?」
「・・・は?」
「じゃなきゃ、お前が、あんなこと」
「・・・なに、が?」
「だからさ、ゆうべのこと」
「え?」
「お前の、唇のこと。別に、俺がそういう人間なんだからさ、それで、構わなかったのに」
「・・・何を、言ってる?お前何か、勘違いして」
僕は黒井の顔を見た。何で、そんな柔らかい、表情。黒井はゆっくり、なびいた髪を手で払いのけた。
「勘違いとか、ないのかもよ。だって俺もお前も、何であんなことしたか、自分にも、相手にも、説明できないでしょ」
「・・・うん」
「だから、そのまんま、それだけだ」
「・・・う、ん」
「じゃあそれで、いいでしょ。いいよね?」
「・・・よくは、ない、だろ」
「何で?」
「だってあんな、こと」
「俺、嬉しかったけど?」
「は?」
「だってお前いつも、自分は正しいことしかしませんって顔で歩いてるじゃん」
「・・・え?」
「でも、ちゃんと中身あってさ、出してくれて、しかも俺の部屋で。そんなの、嬉しいじゃん」
「はあ?」
分からん。何を、考えてるんだ?何がどうなったら、そんな言葉が、そんな結論が出てくるんだ?
「じゃあ聞くけどさ、俺がお前の唇を切って、お前はその時、何を考えてたの?」
「え・・・それは、いや、歯が、当たったのか、って。いや、それすら分かってなくて、何が起こったのか、よく」
「そんだけなの?」
「いや、だから、暗かったし、何が起きたのか」
「くそっ!」
「へ?」
「ほら見ろ!俺の行為だって、お前にこれっぽっちの、馬鹿みたいな影響しか与えてないんだ。暗くて?何が起きたか?ああ、そう!そんだけ?そんな顔で、よく言うよ。よくは、ない、だって?俺が嬉しいって言ってんのに、何が良くないんだ。お前は何様なんだ!」
「・・・う、嬉しいなんて、わけ、ないだろ!嘘つくな!」
がいいいん、と、鈍い音がした。それが聞こえてから、衝撃に気づいた。
外側の、柵。
肩の、ちょっと下くらいまでの、高さしか、ない。
胸倉をつかまれて、背中が柵に押し当てられていた。
「・・・嘘つくわけないだろ。俺が、お前に、嘘をつくわけ、ないだろ」
顔は、見えない。下を向いて、絞り出したような声。
「・・・そんなはず、ない」
「まだ言うか!」
「あるはずないんだ!そんな道理、ひっくり返したって出てくるはずがない!」
思いっきり、揺さぶられて、また背中に衝撃。首がのけぞって、空中へ放り出されそう。
「俺の感情を否定するな!道理なんかないんだ、ただそんだけなのに、そのまま信じてくれよ!どうなんだ!」
「・・・信じ、られ・・・」
・・・なくは、ない、はずだ。
こいつは、俺の、魔法の石、なんだから。
何がなくても、信じられるはずだ。何かを信じるってそういうことだ。絶対何もないことは分かっていてなお、それを感じられるってことだ。
僕は力なくぶら下がっていた腕を上げて、自分の胸倉をつかんでいたその手首を握った。ふ、と力が抜けて、首元に当たっていた拳の感触が消える。
その背中に腕を回して、肩に、顔をうずめた。ぎゅうと抱きしめたくなって、そうした。ちゃんとあったかくて、ちゃんとそこにいる。
「大丈夫だ、信じられるよ」
「・・・何で?」
「お前には分かんない理屈で」
「そ、っか」
「もういいよな。もう、これで、こんなんで、いいんだな?」
こういう、関係で。
屋上で、抱き合っちゃって。
たぶん、その欲求は全然違う方向なんだろうけど。
今こうなっちゃってるって事実は、ただそのまま、どんな意味もくっつけないで。
お前の手も俺の背中に回されて、一方的じゃない抱擁なんて、初めてで。
俺のほうは、キスしたくてたまんないけど、お前のほうは、どうなんだろうね。
分かんないけど、それでいい。
もう、とろけそう。いいよ、一緒に、住んじゃおうよ。
いつか、そんな日がきたら、その時は。
この続き、もう、止めないからね。遠慮なしで、思う存分、押し倒してもらうから。
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