第49話:劣情の発露

 パスタの茹で加減さえ間違えなければまずくなりようのない昼食を終えて、皿を洗ってしまうと、僕はキッチンの棚の掃除に着手した。

 どうしてこんなに、スカスカで汚いんだ。

 全部にみっちりと生活必需品を詰めてやりたい。あそこにこれを敷いて、ここにはこれを置いて、この空間にはあれを立てて・・・僕はしばし身震いを起こしながら、スカスカを雑巾で拭き続けた。

 ある空間に物を配置するという行為は、人間の何かの情動と情緒に働きかけるものがある。だだっ広い何もない倉庫にダンボールを整然と並べてもそれほど面白くないが、こういう立て込んだところに積み木細工のようにうまいことはめていく方が、何かが刺激される。そういえば僕は、積み木を立ててお城を作るより、箱に綺麗にしまう方が好きだった。物事があるべきところに納まって、それ以上乱しようがないのを眺めるのは幸せだ。

 ある意味で僕は今、精神的にも生活的にも乱れに乱れているけれども、逆に考えれば、それはこれ以上散らかりようのない散らかり方かもしれなかった。全てがランダムで、そして僕に選択権はない。箱に入りきらないとかじゃなくて、もう、箱もなく、しかも無重力、というような。バラバラに浮かび上がって宇宙に飛んでいってしまえば、元もくそもないのだ。

 まあ、そんな生活だから逆に、こういう当たり前の整理欲なんかが際立つのかもしれなかった。つまり、とっ散らかって半分自分を見失いつつある僕に残った最後の基本的情動であり、どのアプリケーションが暴走してインストール・アンインストールされようとも一応頑張り続ける基幹システムというわけだ。

 おい、蜘蛛の巣もどきまで張ってるじゃないか。

 ため息一つでやり過ごし、次は、玄関。

 っていうか、僕がこれだけ頑張ってるときに、黒井は部屋で何をしてるんだろうね。まあ、プライベートには干渉しない主義だけど。

 ・・・何となく、声も掛けづらい。僕は玄関を終わらせて、何となく手持ち無沙汰になり、靴でも磨いてやろうかと思ったが、さすがに押し付けがましいかと思い、やめた。僕はあいつの何だっていうんだ。得意そうだから風呂を掃除してもらった友人、じゃなくて、お嫁さんに来てくれって言われたら、気持ちよく全部、出来るのに。

 ・・・。

 ・・・え?

 うん、どうなんだろうね。そういう結婚願望を自分が持つ日が来るとは、夢にも思わなかったよ。・・・おいおい、黒井と会ってから、まだ三ヶ月も経ってないんだぞ。出会って、告白もしてないし、デートのようなことはしても付き合ってるわけでもないのに、結婚まで意識するやつなんているのか?

 ・・・うん、まあ、もう大学生じゃないんだし。好きになったら恋愛だけ、では済まない年齢になったわけか。ちらほら、周りで結婚の知らせも聞くし。会社では自分たちの同期が多くて、後輩がそれほどいないこともあって、いつまでも新卒みたいな気分でいたけど、考えてみればそろそろいい年なんだ。しかも黒井なんか二つも上で、それってつまり、もう、すぐ、・・・三十歳?

 え。

 あの人、三十路なの?

 いや、別に、まだなってないだろうし、関係ないんだけど。二人ともまとめてアラサーで、いいんだけど。うわあ、妙に臨場感のある数字だね。三十って。もちろん、僕もいずれ近いうちになるんだけどさ。

 ・・・いつまでも、若くないんだな。

 たとえば、大学のときに会っていたら、どうなっていただろう。僕たちはもっと若くて青くて、情緒不安定で、殴るだけじゃ、戯れに首を絞めるだけじゃ、済まなかったかもしれない。いや、その前に、たぶん僕が黒井の目に止まっていないだろう。何だか演劇部とやらで、それからその女の子のことで?いろいろあったみたいだし、それから彼は変わったのだろう。そうでなきゃ、僕などとつるむような人種ではないのだから。

 じゃあ、その女の子にも、嫉妬してないで、感謝しなきゃいけないな。ふむ、何かの境地に達したのかもしれない。僕はどれだけ献身的で、貪欲で、気持ち悪いんだろうね。

「クロー!掃除、終わったんだけど」

 返事はなかった。

「あの、入るよ?」

 よそよそしく、ドアをノックなどしてみる。漂白剤を使うし、キッチンと部屋の間のドアはしっかりと閉めてしまったのだ。料理や洗い物のときは開けたまま、会話するんだけど。

 ノブを回して、もう一度「入るからね」と言って、開けた。

 ・・・部屋の真ん中で、丸くなって、寝ていた。毛足の短いラグの上で、傾きかけた日差しを浴びて、この部屋の主が、昼寝をしていた。

「・・・ったく」

 無防備に、寝ちゃってさ。髪も乾かさないで。

 僕は何となく、明るい日差しを遮って、カーテンを閉めた。日の光に当たって、消えていってしまいそうな気がしたから。暗闇の中に閉じ込めて、僕の箱の中に詰めておきたかった。恋でも何でもない、独占欲とエゴ。急に温度の下がった部屋で、僕は黒井を見下ろしていた。足で頭を踏んづけてやりたかった。その後は、黒井の足の指でも舐めたかった。



・・・・・・・・・・・・・



 人のうちで、やることをやってしまった。

 本人の、目の前で。

 ものすごく手早く済ませたし、ティッシュの代わりにトイレットペーパーを使って、そのままトイレに流した。乾いた自己嫌悪が当たり前のように後からやってきて、ここにいたくもなかったし、でも帰りたくもなかった。自己嫌悪って、自分を嫌うというよりも、それによって居場所を奪われて精神的に路頭に迷うことをいうんだな。今、たぶんどこにいても安心できないし、この目つきは変わらないだろう。

 仕方なく、再び鍵を借りて外に出る。鍵をかけるとき、少しだけ支配欲が満たされる自分と、それを白い目で睨みつける自分がいた。一階について、エレベーターのドアが開くと、朝すれ違ったあの女性。向こうも気づいて、今度は会釈に少しだけ笑み。僕は笑えないから、すいませんね。下劣なんです。そんな一言じゃ済まないくらい。

 腹の底に、熱されてオレンジになった五寸釘があるみたいだった。消化は出来ないし、排泄するのもどうにもならない。何であんなことしたのか、なんて問いすら自分かわいさの慰めに思えて、考えを却下した。

 別に、いいじゃないか。それくらい、させてもらったって。

 うん、反論も、むなしいね。そんなわけないんだ。

 ろくに知らない人から、そっちの気があるなんて疑われるのも、キレるだろうけど。

 友達からこんなことされたら、キレるじゃ済まないと思う。

 え、もし自分がされたらどうかって?そうだな、そいつとは縁を切って、引っ越すだろうね。そんな部屋、住んでいられない。

 ・・・。はは、自分はそこまで言うか。同じこと言われたら、敷金、礼金、積むしかないな。いや、もし積まれても、自分ならドブに捨てるな。近頃ドブも見かけないけど。

 でも、もしその相手が黒井なら、そんな・・・。

 うん、そんな想像だけで、五寸釘を差し置いて、あの感覚がくるなんて。腹がひゅうひゅうして、釘なんか、何ほどもないという顔で。ああ、僕が神経質で綺麗好きなのは、たぶん根が正反対だからだ!隠したいだけだってことが、今よく分かった。

 黒井にだったら、何をされても甘美だ。踏まれようが、唾をかけられようが、嬉しいだけだ。でも、これから部屋に戻って、もし全てが露見して、キレられることすらなく「帰って」って言われたら、それは甘美じゃない。そして、そういうことをしたのは、自分だ。どうして?

 自分から不幸になる選択なんて、する道理がないじゃないか。

 でも、あの衝動を説明して、解説しなおして、自己批判と自己肯定のレポートを書く気にはなれなかった。蓋をして、黙っているほかない。

 ・・・携帯も持たず、書き置きも残さず、上着も着ないで出てきてしまった。今頃起きて、心配しているかもしれない。それを思うと、全てを、会ってからの全てを告白して、懺悔してしまいたくなる。でもそんなの自分勝手だ。楽になりたい、救われたいだけのエゴだ。黒井なら黙って聞いて赦してくれるかもしれないけど、あるいはきちんと一発殴ってくれるかもしれないけど、それじゃだめなんだ。

 でも、だからって、じゃあどうすればいいか、ってことは、ないんだけど。

 路地を、でたらめに歩いて。

 迷子になった。

 もう帰るところなんかないんだって思った。空だけが、やっぱり綺麗だった。

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