第48話:衝動的にSなクロ
本当に、隅から隅まで、磨いた。持参した寝間着を着て、途中からそれも脱いでしまって、Tシャツとパンツ一丁になって、どこも手を抜かず、僕が素手で触っても、顔をつけても大丈夫だというくらいまで、徹底的にやった。ずっと屈んだ体勢でいたせいで、背中と腰と足が痛い。こんな小さくて狭い風呂場なのに、逆にそれが、疲れるのだ。洗面台の裏まで全部、もう舐めたって大丈夫なくらい。いや、さすがに舐めはしないけど。
「お、終わった・・・」
ようやく背中を伸ばして、反り返る。バキバキとすごい音。カビ取り剤のにおいがツンとくるが、扉を閉めなきゃ蛇腹の部分が洗えないし、内側からシャワーで流せないんだから、仕方ない。とにかく終わったんだ、もう、全てが綺麗だ。
僕はシャワーで風呂場全体を流して、もうびしょびしょになったシャツも下着も脱いで外に放り出し、そのまま自分がシャワーを浴びた。汚れと洗剤にまみれた体を、石鹸で洗い流す。勝手に外国っぽいおしゃれなシャンプーも借りて、黒井と同じ匂いがするかななんて。はあ、しかし、こんな狭いところで密閉されて、本当に、頭が痛くなりそう。あれ、結構強い洗剤だったのかな、もっと換気とか、考えないと、だめ、か・・・。
「おーい、終わった?」
・・・開いた。
扉が、開いて。新鮮な、空気が。
「はあ、はあ・・・」
「あ、浴びてたの」
「・・・か、借りて、る」
「うん、いいよ」
風呂場のイスに座ってさ、頭でも洗ってたら、こんな恥ずかしくないんだけど。
立って、後ろ向きに、背中を流してるんだよね、今。お前とは、正面から、向き合っちゃう格好で。いや、もう、いいんだけど・・・けど!
「ん、何かくさいね」
どうしてシャワー浴びてる人と普通に会話を続けようって、思うわけ?ねえ?
「あの、カビ取り剤の臭い。明日くらいには、取れるから」
「え?よく聞こえない!」
・・・そりゃ、シャワー、出てるからね!
「だから!」
諦めて、いったんシャワーを止めた。
「・・・だからね、これカビ取り剤の臭いなの。明日くらいには取れるから、換気扇止めないでね」
「ふうん。分かった」
「じゃあ」
「ねえ」
「なに!」
「・・・すごく、いいね」
「はあ?」
・・・あ、風呂ね。
僕を見て言わないでよ、意味が分かんないから。
「あ、うん。かなりがんばったから」
「ありがとう」
「・・・う、うん。まあ、ね」
「えへへ、楽しみだな。ねえ俺も入っていい?」
「そりゃもちろん、お前の風呂だもん。あ、俺が先に借りちゃって悪かったね・・・って!ま、待って俺まだ流しきってない、ちょっとあと五分だけ待ってよ、すぐ終わるから!」
僕は強引に扉を閉めた。よく分からないまま勢い全開で体を洗い流す。
あ、あいつ、突然脱ぎ始めたりして。
そのまま入ってくる気だった!
こ、こんな狭いとこに、湯もためてないのに、入れるわけないだろ。僕を追い出すのか。まったく、我慢も忍耐もあったもんじゃないな、そりゃあ、綺麗になった風呂に一目散に入りたい気持ちはよく分かるが、さすがに、これだけやった僕にあとほんの五分、至福の時間を与えようって心遣いはないのか?ないんだろうな。別にいいよ、そんなのなくて。なくても好きだし。でも、俺が出るのを待ちきれないのもしょうがないが、だからってまだ入ってるのに一緒に入ってこようとす・・・る、なんて。
一緒に?
・・・まさかね。
顔を洗っていると、扉が開いた。振り向けないし、目も開けられない。おいおい。あと顔を洗うだけなんだから。何で待ってられないんだ?
「うわ、すっごい、何か見違えるね!」
うんうん、そうだろうそうだろう。いや、褒めてくれるのは嬉しいが、そうじゃなくて。い、今、顔の泡を流して、すぐに、出るから・・・。
「寒い。シャワー貸して」
お、おい!下のフックに掛けてあったシャワーが後ろへ持っていかれる。泡まみれの顔で、どうすることも出来ない。
「ちょ、俺、流したいんだけど!」
「ちょっと待ってね」
うわ、何か、体が、当たってるって。狭いんだから!もう、手で泡を払って、目を、開け・・・。
「痛っ!」
うん。泡が、目に入るんだな。痛いけど、瞬きしたら余計ひどくなるし、流す以外にない。あとで真っ赤に充血することだろう。
「シャワー、貸してって!」
「え、大丈夫?」
手探りで、シャワーを求めて空をつかむ。その右手をふいにつかまれ、シャワーが手渡された。
ようやく顔を洗い流す。痛くてしばらく目が開けられない。
「なに、目に入っちゃったの?」
「んん」
「ちょっと、こっち向いて」
「・・・ん」
「ゆっくり、開けられる?」
ぎゅっと閉じていたまぶたの力を抜いて、ほんの少し、開けてみる。・・・目の前が、肌色で、いや、近いって。恥ずかしいから。僕はそのまま目を閉じた。見れないよ、そんな。
昨日、温泉でだって、こうやって裸だったけどさ。でもやっぱり、空間的に狭いと、その、何か違うんだよ。
「まだおでこに泡、ついてるよ」
じっとしてろとばかりに腕をつかまれ、顔に湯がかけられる。もう、力も抜けてるし、されるがまま。
「もう少し、目、つぶってて」
「んん」
耳の周りとか、指でこすられながら。何だか、気持ちがいい、なんて。
・・・だめだよ。
こんなところで身体が反応しちゃったら、どうすんの!
「あ、いって!」
反射的に思いきり目を開けてしまい、激痛。とっさに目元に手をやって、前屈みになった。
・・・そしたら。
いや、そりゃあ、こんなに狭いからね。黒井の肩っていうか胸に、そのまま突っ込んだ。こんな近くに、いたんだね。
ぶつかってよろけて、腕をつかんだ。目はまだ、開けられない。おでこを、その胸に、押し当てたまま。
「ご、ごめん」
「・・・」
「く、クロ?」
「・・・」
「あの」
「・・・も、・・・てさ・・・って、・・・んだ」
「え?よく聞こえないよ」
黒井の頭が、僕の頭に、こつんと、寄りかかってくる。こいつまた、酒でも飲んだかな。
少しずつ、目を、開けてみる。おでこを胸から離して、うわ、まず見えるのは、そりゃ当たり前だけど、お前の、うう。そんなの、目を逸らして、下を見たって、そりゃ・・・。こんなの目に焼き付いたら、夢でどう加工されて出てくるか分かったもんじゃない。
「クロ。お、俺、もう・・・先に、出るから」
頭の中では<出る>が<いく>に勝手に変態変換されていて、とっさに付け足した「ごめん」さえ変な意味で、もういやだ。
「うん、いいよ。俺も、その、入っちゃって、ごめんね。我慢、出来なくて」
「い、・・・いいって」
「でも・・・痛かった、よね」
「う、うん」
「まだ、痛い、よね」
「だ、だいじょうぶ。こ、これくらい」
「俺さ、いつもお前に、痛い思い、させちゃうね」
「う、うん。もう、慣れてる、から」
「・・・いいの?」
「・・・いい、よ」
「たぶん、俺・・・わざと、だよ」
「え・・・?」
「これでも、すごく・・・」
抑えてる、と黒井は言った。上擦ったような、押し殺したような、震えた声。その声に、響きに、内側から犯されたかの、ような。ひゅうと、あの感覚。いや、それ以上の何かが、身体を駆け巡った。
・・・僕は黒井の腕を振りきって、飛び出すように風呂を出て、扉を閉めた。寒かったけど、どうでもよかった。見られなかった、と、信じたい。そんな、劣情、見られたくない。同時に、もう、見せちゃいたいから、身体の中で暴れてる。
マットの上でしばらく息を整えて、扉一枚隔てて黒井がいるってことも思い出して、ああ、何てことだ、バスタオルを用意しておかなかったことを、すごく後悔した。
・・・・・・・・・・・・
最も手近にある、最も清潔な布地。
それはさっき脱いだ自分の寝巻きだった。つまりトレーナー上下をタオル代わりに体を拭く。別に、大丈夫だけど、違和感。まあ、いいけどさ。っていうかもう、ここで洗濯もしちゃいたいけど、乾かしてる時間はないし。
・・・置いていって、さりげなく常備しちゃうっていうのも、何だか意地汚いというか、いやらしいよね。それは卑猥な意味でなくて、人の感性というか、モラルの問題として、さ。
というわけで、さっきの買い物でもらった大きめのビニール袋に入れて、自分のバッグに納めた。
髪を拭くのに、タオル一枚くらい失敬してもいいだろうと、辺りをうろうろする。はっとして、自分が全裸で他人の部屋を漁っていることに気づき、慌ててさっき脱いだ服を着た。そのあと替えの下着を持参したことに気づき、また脱いで、着た。結局温泉で使わなかったのだ。だって浴衣に着替えた後、パンツ持ってうろうろするわけにいかないし。あれ、ロッカーから転送してくれないかな、風呂上がりにさっき脱いだ下着をつけるのは不愉快なんだよな。
タオルを探して、クロゼットを開けてしまうか、迷った。何かとんでもないものが入っていたら、どうしよう。しばらく逡巡して、結局黒井が風呂から上がるのを待つことにした。どうせあいつだって必要なんだし、どこそこから取ってきてくれって言うだろう。
僕はベランダに出て洗濯物がまだ乾いていないのを確認し、鍋に水を張ってパスタをゆで始めた。ずいぶん遅めの昼食になってしまった。もうすぐ、14時になってしまう。
具材は、鶏肉とほうれん草で、バター醤油仕立て。まるで焼きうどんだけど、ここの調味料では、それくらいしか、できん。というわけで黒井の好みも聞かず勝手に作り始めた。
「え、ここにあったの?」
「そう。言えばよかったね」
脱衣所につけられた天棚?的なところに、タオル類と、下着が無造作に乗っかっていた。おいおい、クロゼットとか、引き出しとかボックスとかそういう概念はないのか。洗った下着はたたみもせずこの棚の上に玉入れ宜しく投げときゃいいってか。どうせここで着るんだからって?
「でも、こんなにぐちゃぐちゃに置いてあったら、取るとき一緒に落ちてきちゃうじゃん!」
「え、別に、届くし」
「・・・あっ、そう!」
どうせ僕より背が高いよ。ああ、全部引きずりおろして全部たたみなおして全部きれいに並べなおしたい。どうせ三日後くらいには元に戻るから、意味ないけど。
何だろう、僕の生活や価値観が狭義に過ぎるのだろうか?他人と生活するって、男女に関わらず、ものすごく大変なことなんだな。そしてたぶん、こうして細部に目がいってしまう方が、損をするんだろうな。もしかして黒井の、その彼女じゃない女の子が出て行ったのも、恋愛のもつれというよりその辺なんじゃないか?などと邪推してみるが、しかし尽くすタイプの女の子ならむしろこれは、ハードルが高くてやり甲斐があるかもしれない。
まあ、今は僕がほとんど独占してるけど!
・・・などと強がりを吐いて、僕はパスタ作りに戻った。
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