21章:クロのいない四月
(いない分だけ、見えてくるものがある)
第160話:桜上水へ帰る
「はーい、締め切りー。締切時間ー。今期もお疲れ様でしたーー!!」
18時になって、契約書を向こうのフロアへ渡す締め切りが過ぎた。もう、今期の計上には何も乗せられない。あっちの藤井たちはこれからまだ大変だろうが、僕たちは一足先に終わりだ。これが週末ならもっと気も楽になって、達成感みたいなものもあっただろうけど、まだ月曜だもんな。
何となくフロア中が雑談ムードになり、話題はもちろん、四月からの編成。
「何か、いろいろ変わるらしいっすね」
「ふーん」
「聞いたでしょ、大阪の人と、あと何か一部と二部って」
「へえ」
「何、他人事?」
「だって結局やること変わんないでしょ。っていうか、なに大阪の人って」
横田に訊くけれども、ここで菅野がお別れになって、一応みんなの前でひとこと挨拶をした。ああ、菅野の人形みたいな可愛い顔も見納めか。華がなくなるなあ。あ、佐山さんに失礼か。
その時菅野の席の内線が鳴って、誰だろうと思って僕が出た。
「はい代理応答」
「あ、山根さんですか」
「は、はい」
「お疲れ様です藤井です」
「あ・・・お、おつかれさまです」
「菅野さん、まだいらっしゃいますか」
「え、ああ、いるはいるけど、今日までだから、なんかあるなら・・・」
「いえ、ちょっと一言、ご挨拶をと」
「あ、そういうことね。ちょっと、待って」
僕はいったん保留にして、佐山さんと島津さん、それから送別会で話していた同期の女子たちに囲まれている菅野を呼びに行った。
「あ、あの、ご歓談中悪いんだけどさ、菅野さん、電話」
「え?あ、あたし?」
みんなの輪から菅野を連れ出して、席へ歩く。こうやって美人を連れ歩くのも、最後か。はは。
「あのね、発注の、藤井さん、から」
「え、あたしに?な、何かありましたっけ」
「いや、ご挨拶、だってさ」
「ご挨拶?ま、まさか山根さんのこと取ったとか思われて・・・」
「い、いいから早く出なって!そんなんじゃないから」
「は、はい。・・・もしもしお電話替わりました菅野です。・・・あ、はい。・・・そうなんです。今日で、はい。どうもいろいろ・・・え?ああ!ホントですか?・・・」
お世話になりました、で終わるかと思いきや、何やら話が盛り上がっているようだった。意外な繋がりがあったもんだ。この二人にどんな接点があるんだか。
「今度顔合わせって話になったんですよ。うん、一回やってみようって。・・・そうそう、合わせで。・・・そうなの、だからたくさん練習しなきゃって。藤井さんも来てくださいよー」
別に聞く気はないけど、隣の席なんだから仕方ない。でもどうやら、音楽の話?ああ、藤井はイヤホンしっぱなしだし、菅野は歌手を目指してるんだし、どうも方向が全然違う感じだからぴんとこなかったけど、共通の話題ではあるわけだ。
「・・・はい、機会があったらぜひ。あ、ブログ見てくださいね!・・・うん、うん。分かりました。・・・それじゃ、ほんといろいろ、お世話になりましたー。おかげで助かりました。・・・はい。藤井さんもお元気で!あ、それから、・・・隣にいますよ、ふふ、替わりましょうか・・・あれ、そうですか」
僕は聞いてない振りでやり過ごし、菅野はようやく受話器を置いた。
「ふう。何かみんないい人だなー。ちょっと、淋しくなっちゃう」
「そ、そう」
「あの、藤井さんってどんな人ですか?いつも電話で、でもあたし、更衣室でもどの人だかわかんなくて」
「え、えっと、たぶん全然違う感じ、だよ。菅野さんとは」
「そうなの?えー、どんな感じ?見た目、雰囲気とか・・・」
「うん?そ、そうだなあ。いつもジーパンで、ジャンバーのフードかぶって、イヤホンして」
「・・・ふうん。やっぱり私服、知ってるんだ」
「あ」
「なあんだ、やっぱそういうことだったんですね。南、がっかり。たっちゃんに惹かれてきてたのに」
「な、何言ってんだよ。そ、そんな」
「冗談ですって。からかわれどおしだったから、お返し!」
「は、はいはい。ほら、あっちで呼んでるよ」
女の子たちが固まって、写真を撮ろうと言っている。オフィス内では撮れないから、ぞろぞろと出て行くようだ。
「あ、じゃあ、本当にお世話になりました。ゴールデンウイーク、忘れないで下さいね!」
「え、あ、うん。お疲れさま」
「はい。それじゃ!」
「そ、その・・・」
「はい?」
「頑張ってね」
菅野はにっこり笑って、ちょっと照れながら、「ふふーん。ありがとうございマス!」と、右手を出した。僕が浅く握ると、ぶんぶん、と二回振って、「バイなら!!」と廊下へ走っていく。綺麗な高音のルルルー、が、遠ざかっていった。
・・・・・・・・・・・・・・
20時頃に何となくだれたムードになってきて、もう、いいかな、と思って、各課の課長たちがちょっと集まっている間に帰ることにした。
「あらら、さっきの、お電話の?それとも菅野さんとこ?」
「違うって。女っ気ゼロの、ただの用事」
「あっそう。じゃ、明日からまた、シクヨロー」
じゃお先、と横田に声をかけて席を立つ。
うん、女っ気は確かにゼロだ。でも、僕にとっては色気のある場所・・・。
僕はその先を考えるのをよして、早足になり、そして、走った。さ、桜上水!もう、待てない!
な、何とか今日を耐え切ったんだ。もういいんだ。明日からのことはひとまず置いといて、もう、喉がカラカラでしょうがないような、この渇き!ねえ、一日<も>一人で頑張ったんだよ。半日じゃないよ、一日だよ。いや、正確にはまだ別れてから十二時間だけど、・・・ああ、じゃあ半日か。と、とにかく!お前の部屋で、その枕に顔をうずめて、狼を抱きしめるまであと何分?もう走るよ、電車だってギリギリで飛び乗っちゃうよ!
ひっきりなしに足をタンタンと踏み鳴らし、ああ、たったこれだけの電車が長い、長い。もう自分ちなんて帰る気ない。無理だって。二日くらい同じシャツでも誰も気づかないでしょ?え、シャツとか借りちゃうの?ネクタイも?・・・似合わないって!
待ってましたとばかりに桜上水に着いて、階段を駆け上がってパスモを叩きつける。えっと、スーパーで夕飯でも買っていこうか、いや、途中のコンビニでいいや。うわ、お前んちで食べちゃうんだ。何がいいかな!
息を切らせてファミマにたどりつき、急に腹が減ってきて、ちょっとボリュームのあるお弁当にした。あと、夜食にカップスープでも食べちゃおうかな。何だか遠足気分でポテチなども買ってみる。あとは烏龍茶と、ああ、テレビとかないんだし、雑誌でも買ってくつろいじゃう?ああ、狼が本当の黒い犬なら、餌やって散歩して、楽しいだろうな。「おい、クロ、待てよ!」なんて走って、同じく散歩中の美人から「わあ、素敵なワンちゃんですね」「ええ、そうでしょう」なんて・・・。
ついペットの缶詰のコーナーを見たりして、ああ、いくらなんでも勝手に飼い始めるわけにいかないし、とりあえず自分の飯だ。
レジでカゴを出して、「スプーンおつけしますか?」と言われ、「は、はい」とうなずき、ん?と、思い至った。
あいつのうち、スプーンくらい、あった、よな。
ん?待てよ。
・・・あ、確か、僕がスープを作ってやって、あれ、鍋も皿も、そのまま?
って、いうか。
惨状。
そうだ、部屋の中は混沌を極めてたんだった。
座る場所さえ、ないくらいの。
「あ、あの、すいません。これやっぱ、変えてもいいですか」
「え、あ、はい・・・」
僕はいそいでおにぎりとサンドイッチをいくつか手に取って、元のカゴの烏龍茶だけ残した。弁当だのスープだの、あれ以上ゴミやカップやトレイを出すわけに行かない。
「あっ、すいませんこれも!」
ゴミ。・・・ゴミ袋!
とりあえずそれだけ買って、「あははー、きみんちを、かたづけに、いくよー」とおかしな歌を口ずさみながら、黒井のうちへ向かった。
・・・・・・・・・・・・・・
ドアの前で、満を持して内ポケットの封筒を破る。ペーパーナイフが欲しい!
中からは、本当に鍵だけ。メモも何もなし。ああ、これが突然届く予定だったのか。もちろんそれもよかったかもしれないけど、今は、一日でも早くここに来れてありがたかった。
ちょっとどきどきしながら、鍵を差し込む。
ずる、と、奥まで、入った。
な、何だかいやらしいな。そしてちょっと、人の部屋に勝手に上がりこむ、淫靡な快感。そして鍵を回して、うん?こっち?反対に回してノブを引き、しかしガチャ、と、開かなかった。もう一度差し込んで回すと、今度は開いた。・・・鍵、かかってなかったのか!なんて無用心な。
一応ちょっと警戒して中に入り、泥棒の気配がないことを確かめる。それからゆっくりドアを閉じて、慎重に鍵をかけた。念のためチェーンもかけて、・・・ふう、これでいい。
手探りで玄関の明かりをつけ、視覚がそれを認識して、そこから理解するまで一、二秒かかった。
・・・ああ、やっぱりそのまま、なのね。
玄関に足を踏み入れられたのは、真ん中が獣道になっていたからで、他は元のまま、というかもっとひどくなっているくらいだった。たぶんあの新調したスーツの袋やらタグやらが新たに積み重なっている。こんなところでよく着替えられたな。本当に、どうしてこんな部屋に住んでいてあんな綺麗な顔でいられるのか、意味が分からない。・・・まあそれでいえば、僕はもっと綺麗な顔でもいいはずか。あはは、比例しないのね、なるほど。
僕はとりあえず玄関の獣道に腰を下ろして、辺りに漂う靴の匂いをかぎながらおにぎりとサンドイッチを食べた。ドアの内側のポストを開けてみると、水道料金とかチラシとかが溜まっている。いちいち分類して整理したくなるけど、ぐっとこらえて元に戻した。・・・これは、全体的な計画をじっくり練らないと、狼はおろか、ベッドまでもたどりつけないかもしれない。必要なのはゴミ袋と・・・いや、必要物資をリストアップするのはまだ後だ。まずは現状確認と、うん、腹ごしらえを済ませてしまおう。
・・・・・・・・・・・・・・
食べてしまうと少し落ち着いて、ドアを見つめたまま少し状況を整理する。
・・・ノートが、必要だ。
<本番>の時と同じように、作戦を立てて、プロジェクト開始。計画して、準備して、遂行して、達成する。そしてその暁には、狼とベッドイン。うん、僕にはやっぱりこれが必要だ。今日の今の気分より、先のご褒美を目指す方が性に合っている。
たぶん、自信が、ないからだろうな。
ふと、思った。あいつは、自分は出来るという揺るぎない自信がまずあって、それがなくなったことが信じられず、焦っていると言った。そんなの最初からなかったのかも、なんて疑いもしなかったと。でも僕にはそんな自信なんてあるはずもないから、何かをやり遂げることで積み上げるしかない。客観的な<出来た>という判断がない限りそれは出来たうちには入らなくて、だから、設定した目標が達成できたかどうかを確認しない限り成功には入らない。それで、ノートを買ってふせんを貼って、目に見える形でそれをこなすことになる。
黒井のことが好きだという気持ちについては、確かに今は自信があるけど、それだってすぐ、昨日あれをした、これを一緒にやった、と過去を思い返して安心する自分がいる。ああ、だからこうして、今隣にいなくても、過去に浸り、未来を決めていくことで幸せになれる。僕は今を生きていないのか。
黒井といる時は録画モードで、いない時は、それを再生してるのか。だから、再生モードから録画モードに移るとき、二次元の画面が突然生身の人間に変わって、まるでイケメン俳優が突然テレビの中から出てきて、うわあ、本物だ!みたいな気持ちになってしまうんだろう。ふうむ、どの時間を生きているのかという切り口ひとつで、感じ方も、焦点も、何が良くて何が悪いのかとかも、変わってくるんだ。それは性格とか趣味とかクセとか、そんな風に並列に並べるものじゃなくて、根幹にまず時間感覚があり、そこから派生した枝葉が、せっかちだとか、几帳面とか、マイペース、みたいな形で表面化するんだろう。ひいては、<生き方>というものは、つまりその人がどういう時間を生きているか、ということの総称なのかも。
それは一人一人全く違うものなのか、或いは血液型みたいに過去型、現在型、未来型くらいの大分類はあるのか、まあそんなことは分からないけど、とにかく僕と黒井は同じB型だけど全然違うってことだ。ああ、奔放マイペースと理屈屋ってくくりは、当たってはいるけど、根幹ではなかったんだな。ふん、僕が理屈屋なのは、過去を言葉でもって延々説明したいからだ。僕の世界はその説明で成り立っていて、常にちょっとだけ現在に追いつかないスピードで、それは下手くそな同時通訳みたいな感じ。・・・ああ、それが近い。そうだったんだ。何か腑に落ちた。
じゃあ、黒井は全然違うってことだよね。過去を言葉で、自分に対していちいち説明なんか、しない、んだ。あいつは・・・じゃあ、感じるだけ?春の風を頬に受けるように、感じて、受け流してる?言葉に起こすことなく、適切な単語を探すこともない?・・・ああ、名前をつけたってしょうがない、とか、理由なんかない、したかっただけ、とか・・・。もしかして、本当にそうなの?僕みたいに、自分自身にこうやって、思考でもって解説して、納得したりしないの?
・・・感じるだけ?
そんなの、その、アレしてるとき感じちゃって、ちょっと妄想ヤバイってとき、くらいじゃない?思考をはさまない脳みそでいる時間なんか、滅多にない。あとはそう、覚えてないけど、マヤが出てるときとか?・・・あ、それで<近い>とか言ってたのか。理屈も立場も常識も関係ない、そういう世界・・・。常に一歩遅れた同時通訳モードじゃなくて、マヤはリアルタイム生中継でオンエアしてるから、近い、のか。ああ、それなら近いだろうよ。それは感情的とか性的に奔放とかそういう雰囲気のことじゃなくて、思考と感情のバランスのことだったのか。
しばし思考の海に浸って、いや、まあ浸りっぱなしなわけだけど、結局今日のところは帰ることにした。きちんと鍵を閉め、またファミマに寄って小さめのリングノートを買う。さあ、電車の中で思考を形にしていくという、至福の作業に移ろうじゃないか。
・・・しかし電車に乗ってふと携帯を確かめると、メールの点滅。
特に気にも留めず、さっさと連打して開いたら、それは、黒井からの長いメールだった。僕は息を飲んで手を震わせ、読む前にまずPCアドレスの方に転送し、携帯を折ったりドブに落としても大丈夫なようにした。それで安心してから、誰にも見られないようドア横に移動して壁を背にし、深呼吸してから、読んだ。
<やまねこへ
千葉に向かう電車に乗ってます。
旅行気分というほどではないけど、いつもと違う景色は、ちょっとだけ何かを期待させる。
向こうでは、ネットも電話も使えるけど、俺は何もしないことにしています。
だから、もし家のこととかで何かあったら、留守電に入れといて。
ここ数日、お前にいろいろ聞いてもらったり、話をしたことは、すごく、何ていうか・・・
とにかく、一人になりたいし、海に行きたい。
思ったより全然、俺は弱い。
もっと自分の力で立つべきだ。そうじゃなきゃかっこわるいって、そう感じた。
もっとちゃんと、強くなりたい。
お前と話した「時間」のことは、今も、何かするたびに、俺は本当にそういう感じ方だって、さすがお前のプロファイリングは正確だね。言い当てられるのが、見抜かれてるんじゃないかっていうあの時の不安と違うのは、俺も変わったのか、それとも・・・根本的には同じことなんだろうけど、どうしてこうも、何ていうか・・・
だめだ、メールでは、さっぱり言葉が選べない。どれも、どうしても違う。
考えてるうちにわかんなくなっていって、だってもう、すでに、書き始めと違う気持ちになってきてるから、さっぱりだ。
そういうわけだから、お前なら分かってくれると思ってる。
どうにかしたいんだって、今度こそって、もうそれだけで。
読んでくれてありがとう。
黒>
・・・。
電車にいる間中、何度も、何度も、何度も読み返した。
メールが来た時間は、18:52。もう、今返信しても、読まないだろうか?スマホはメールが来ても鳴らないとか、言ってた。
向こうへ行っても、電話とメールくらい、出来るかもって、思ってたんだ。
確か土曜も演習みたいなことをやったと思うけど、日曜は休みだから、少し話せるかって、勝手に思ってた・・・。
でも、海に行くのがお前にとっての冒険なら、スマホ片手の冒険なんかつまんないか。昔見た、ドラえもんの映画を思い出した。便利な道具を使ったら冒険ムードが出ないって、わざわざポケットを置いてきちゃったんだ。確かに、それはちょっと分かる。何でも解決できるって分かってるなら、そんなことしてもスリルがないか。そんなんじゃ、窮地に立たされたクライマックスも訪れなくて、その先のカタストロフィーもないか。
僕は乗り越す寸前で電車を降り、歩きながら、ひと月読まないであろう返信を打った。
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