第159話:旅立ちと、くちづけ

 その時が近づくのを、でも、考えないようにしないと、倒れそうだった。

 本当に、耐えられるのかな。

 分からない。でも、その時は、その時だ。今は隣に、クロがいる。

 乗り換えで、並んで歩いたり、階段をのぼったり、黒井がベンチに座って僕が横に立ったり、でも二人とも何となく、無言だった。目が合うと、黒井はちょっとさみしそうに微笑む。お前も、そのさみしいって、僕と会えなくなるから・・・って、うん、自分で思い込んでる分にはいいよね。勘違いだって、今が幸せならそれでいいんだ。ああ、でも僕の場合は今を楽しんでも、ツケがたまるシステムだからまずいんだけどね。

 そうして四ツ谷に着いて、自販機で熱いコーヒーを買って、ホームの端のベンチで朝の陽射しを浴びながら飲んだ。本社なんて滅多に来ないから、ここの、緑が多い景色も新鮮だ。

「お前もずっと、この景色見て、通ってたの?」

「・・・ああ、そうだね。そっか、お前とこっち来んの、初めてか」

「うん。・・・どう?懐かしい?」

「何か、変な感じだよ。もう、よく思い出せない。確かに目は覚えてるんだけど、もう、何考えてたのか、あんまわかんないよね」

「お、お前も、変わった・・・とか、ある?」

「え?お前に会って?」

「う、うん、その、・・・支社に来て」

「だから、たぶんお前みたいにちゃんとわかんないよ。同じような気もするし、ちょっとずつ、進んでるような気もする。その時々で、何ともいえないよ」

「ああ、そっか」

「お前から見て、どう見える?支社に行ったとき、声かけたのとか、覚えてるわけ?」

「お、覚えてるよ」

「どう思った?」

「・・・俺のこと、よく同期だって、覚えてたなって」

 黒井は「ぷはっ!」と吹き出して、それから「あははは!」と笑った。ホームに電車がいないので、声が響いた。

「何だよ」

「だっておかしいじゃん。何か、笑える」

「と、とにかく!・・・た、確かにお前はそれほど、変わって、ないのかな。知り合ってから、俺の印象が変わっただけでさ、だから、客観的には、わかんないけど」

「あの、俺はね、そのお前の印象を訊いてんの」

「えっ、ま、まあそうだけど・・・。あ、あまりに、個人的な、印象で」

「お前個人に訊いてんの」

「うっ・・・、そ、そうですか。いや、だから、最初は、明るくて爽やかで、意外と人懐こくてって感じで・・・でも、だんだん、知った、からさ。キレたり、気まぐれだったり、奔放すぎたりとか。あとは、その、物理のこととか聞いたり、いろいろさ。その、正直に、言えば・・・」

「・・・言ってよ」

「・・・うん。難しいやつだって、思ったよ。いろいろ抱えてるし、俺の理屈じゃ計りきれないし、振り回されるし」

 本心を言いながら、心臓が、速くなっていった。

 僕が黒井のことをどう思ってきたか、それを、今、本人に伝えてる。

 黒井はそれを、聞きたいって顔で聞いている・・・。

「面倒、だった?」

「そんなことない。大変だったけど、面倒とか」

「本当?」

「うん。人と向き合うのって、こういうことかって、思い知った。・・・ほ、ほら、俺、人付き合いとか全然なかったし、その、慣れてなくて」

「うん」

「ああ、だからさ、お前のこと話してると、俺のことになっちゃうんだよ。そうじゃなくて、お前は・・・ああ、過去からどう変わったかっていうより、むしろ遡ってるからごちゃごちゃするんだ」

「さかのぼってる?」

「星の光みたいに、今届いた光は本当は何万年も前に放たれた光で、過去からの、タイムカプセルみたいなもんだ。何かそんな感じでさ、最近になればなるほど、昔のお前を知っていって・・・」

「・・・」

「それでどんどん、いろんな過去が繋がっていって、だからやっぱり俺は過去を理解するので手一杯で、今の、今現在のお前がどうなのかって、ついていけてないよきっと」

「そっか」

「・・・で、えっと、どうなの?・・・今、何、考えてる?」

 さっきからずっと、何だかじっと見られてる気がして、僕はずっと目の前の白線だとか、向かいの電車だとかを見ていた。何か、変なこと言ったかな。

「俺が考えてること、知りたいの?」

「う、うん」

「お前にキスしたいって、思ってるよ」

「・・・」

 ・・・。

 な、なに、何それ?・・・え?

 そっちを、向けない、んですけど。え、ど、どういうこと?

「何かね、お前が俺のことそうやって一生懸命喋ってて、その口を、見てたら・・・、もううるさいって」

「は、はあ?う、うるさいって、なに・・・」

「だって、もう分かってる」

「な、何が?誰が?」

「何でもいい。そんなのもういいんだ。していい?」

「だ、だめ。だめだめ。こ、こんなとこで、ほ、本社の人とか、いたら、どうする・・・」

「・・・どうもしないし、どうでもいいよ」

 黒井は立ち上がって、しばらく前を見ていたけど、振り返って僕を見た。

「な、何でそんな、お前・・・ま、まずいって、変な気を・・・」

「だから、黙れって・・・」

「・・・っ」

 ちょうど、電車が、入ってきて。

 風と、音で、かき消される。スローモーションのように、ゆっくり、黒井が僕の方にかがみこむ。思わず少し顔を背けるけど、頬を手で覆われて、上向かされる。伏せていた目を上げると、黒井は少し眉根を寄せて、今にも噛み付きそうな、今朝の子犬じゃなくて、狼だった。

「んっ・・・」

「・・・」

 目を閉じて、少し開いたその唇が、僕の口をはさむように閉じた。そのあと強く押し当てられ、息が漏れたら、もう、天国。こんな、場所も、時間も、関係ない。もう何も、なにも、かんがえられない・・・。



・・・・・・・・・・・・・



「・・・じゃあ俺、行くから」

「・・・」

 目を開けると、電車から人がたくさん降りてくるところだった。・・・え、何分、いや、何秒かしか、経ってないのか。徐々に音が戻り、身体の熱を感じ、一時停止されていた感覚が時を刻み始める。え、何て、言った?もう、行くって?

「ま、待って!お、おれ・・・」

「うん?」

 もう二、三歩歩き出していた黒井を呼び止める。いや、何を言っていいか、何も、わかんないけど・・・。

「あ、あの、えっと、向こうへ行っても、その」

「大丈夫だよ。お前の代わりはいるから」

「・・・え」

 ・・・え?今、なんて?

「だからちゃんと、さみしくても寝れる」

「・・・」

「何だよ、代わり、勝手に探したの、怒ってんの?」

「・・・」

「ねこだよ。うん、でもやまねこじゃないね。白いから、しろねこ。はは」

「・・・」

「お、おい、泣くなって。悪かったよ。お前がないと困るの?でもさ、いいじゃん。餞別ってことで」

「・・・っ?」

 黒井は鞄を開けて、中から、白い塊が出てきた。

 ・・・不細工な、白い、猫。

 <本番>の時の、僕の駒。

「代わりって・・・」

「ねこを抱いたら、寝れるんでしょ?」

「・・・うん」

「・・・狼じゃ、むしろ寝れないか、はは。うちにもちゃんとあるよ。こないだどっかへ投げちゃったけど」

「おおかみ・・・持ってても、いい?」

「うん。でもなくさないでよ?俺、こういう、記念に持っとくとか、滅多にないんだから」

「そう、なの?」

「・・・何かね、これは、いいんだ。見るとやっぱりちょっとこそばゆいけどさ、悪くない」

 僕はそのしろねこを手に取って、しばし眺めた。<本番>を一緒に戦い抜いた、僕の身代わり。そういえばどこにしまっといたんだろう。埃がついてるし、白い毛もばさばさだ。それでもちょっといとおしくなって、思わず頬ずり。

「見てるとさ、だんだんかわいく見えてくるよ。ああ、でも、こうして並ぶと・・・」

 お前の方が可愛い、なんて、いわれ、ても。

「な、何それ。っていうか、レベルの低い争いだよ。べ、別に・・・」

「あのさ、キスしてやって」

「・・・へっ?」

「しろねこに。そしたら・・・」

「・・・そしたら?」

「はは、まあいいじゃん」

 ・・・さみしい夜は、一緒に寝て、それで?

 お、俺と、間接キス、してくれんの?

 っていうか、俺だと思って、キスしてくれんの?

 ・・・僕は下を向いて、不細工なしろねこにちゅっと口づけた。お前が代わりにキスするんじゃなくて、あくまでお前は俺なんだからな。うん。クロがお前にキスしたって、それは、俺にしてるって意味なんだからな!

「・・・はい」

「うん」

 僕はしろねこを手渡し、改札まで見送った。

「・・・待ってるから。帰って、来いよ」

 黒井は微笑むけど、「絶対帰ってくる」とは言ってくれなかった。・・・ああ、未来のことは、わかんないのか。

「・・・ちょっと、海行って来る!」

 そう言って、また片目をつぶると、振り返らず、行ってしまった。

 ・・・やっぱり、無理だよ。

 僕は<今>を感じないよう全神経を集中させて、泣くのを我慢しながら会社へと向かった。内ポケットの鍵に手を当てて、ただ、狼がいるから大丈夫だと、今夜絶対会えるから、と、それだけ言い聞かせた。 



・・・・・・・・・・・・・・・・・



 ベンチの下にほったらかした缶を二つ拾って、反対側のホームへ。何となく捨てられなくて、ほんの少し残った中身がこぼれないように鞄の隅に立てて入れた。

 会社に着いて、隣の席の菅野が「おはようございます」と挨拶する。何を言えばいいのか一瞬分からなくて、「・・・う、うん。どうも」と。ほら、だめだ、挨拶すら出来ないよ。僕も新人研修を受けさせてくれ。

 朝礼で菅野が今日で最後だという旨を課長が説明する。「三課のみなさんもね、そういうことでひとつよろしく」と、僕もつられて後ろを振り返るけど、・・・空席、なんだ。うん。いない。

 心が空っぽになって、自分がどうしてこんなとこに座ってるのか、よく分からない。

 朝礼が終わっても何をすればいいか分からなくてぼうっとしていると、菅野がこそっと話しかけてきた。

「あの・・・、こないだ帰っちゃったじゃないですか。せっかく二次会、カラオケ行ったのに」

「・・・そ、そうなんだ」

 二次会?カラオケ?何の話?

「ほ、ほら、一緒に行こうって約束、してくれたのに、結局連絡先も訊けずじまいなんですよ?」

「そ、そう」

「本当に行く気なんてなかったのかな。お世辞、っていうか、社会、儀礼?」

「・・・社交辞令ね。でも、きっとその時は行く気だったんだと思うよ。その場の気持ちは嘘じゃない。ただ、それと、未来の予定とは別の話ってだけで・・・」

「・・・え?」

「とにかく、行く気もないのに行くなんて言わないやつだよ」

「そうですかあ?・・・でも、連絡先、山根さんから聞いちゃうわけにもいかないしね。・・・あ、そっか、山根さんも一緒に行けばいいんだ。それがいい、そうしません?えーと、五月になったら、ほら、ゴールデンウイークにでも遊びましょうよ」

「え?な、何でそうなるの?」

「あー、何かちょっとよくありません?男の子二人に女の子一人って、何かこう、幼なじみっぽくて憧れるかも。タッチみたいな?きゃあ、あたし、南ちゃん?」

「・・・か、一也が死ぬだろ」

「ま、まあそれはそうですけど。とにかくその頃連絡しますから、予定空けといてくださいね!」

 菅野は総務に出す書類に判をついて、課長とともに向こうのフロアへ行ってしまった。ああ、僕の隣の席も空くのか。

 それから課長が戻ってきて「えー、山根くん?」と呼ばれ、応接スペースへ、下半期の総括面談とやらをしに連れて行かれた。


 面談中はただ、課長の顔と、ネクタイと、テーブルと、窓の方を順番に見ながら、「はい」「そうですね」「そう思います」「頑張ります」を繰り返した。もう、下世話でいいからさ、「お前さん、その、三課のアイツとは結局どうなの?」とか訊いてくんないかな。「はい、実は・・・」なんて、今なら洗いざらい吐いちゃいそう。ゆうべから僕のうちで一緒に過ごして、今朝もキスして別れたりして、もう、ほんと、そういう関係なんです。どうにか、今からでも俺を千葉に飛ばしてくれませんかね。俺、もうあいつがいないとだめな身体なんです。仕事なんて出来ないと思います。四月中使い物になりませんから、そのつもりでどうぞよろしく・・・。

「何かね、ちょっと、まあアクが強いっていうか、コテコテっていうかね、そんな風に聞いてるけど、まあ一つよろしく頼むわ。はは、なんてね」

「・・・はい?」

「じゃ、そういうことで!悪いけど、次横田くん、呼んできて」

「は、はい。失礼します」

 何の話だったのかさっぱり聞いてなかったけど、とにかく解放されて席に戻った。途中で三課を見るけどやっぱり黒井はいない。・・・いない。ただそれだけで目に涙が溜まってきて、「横田、次お前って」と声をかけると「絞られたの?やばいの?」と訊かれた。

「違う。きっと花粉症。四月だし」

「まだ一応、三月だよ」

「・・・ああ、そう」

 ため息しか出ない。四月をやり抜けばって、まだ四月にもなってないのか。

 パソコンの画面を開いたり閉じたり、書類を出したりしまったり、スケジュール帳を開いても四月の長さで胃がきりきりするばかり。もう、何もしたくない。ただ寝てるだけで一ヶ月が過ぎればいい。黒井の部屋で、黒井のベッドで、ひたすら寝ていたい。あいつのにおいをかぎながら、あいつの枕で・・・。

 ・・・ちょっと、疼いた。

 う、うん。鍵を預かってるんだし、ちょっとくらい仮眠したって、っていうか泊まったって、いいんだよね?ああ、それなら頑張れるかもしれない。定時に帰る勢いで仕事を終わらせて、桜上水なんて、近い近い。

 思いついたら猛然とやる気が出てきて、ノートをひったくって、ふせんに震える手でやることを書いていく。もう、ほんの先週のことがよく思い出せなくて、でも、頭のどこかが何となく覚えていた。そして、これくらいなら、うん、僕でも出来るんじゃない?今日これをやり終わればあいつのうちに駆け込めるんだとして、それなら、やってやろうじゃん。

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