第158話:黒犬と山猫
何だか、寒い。
布団をずり上げようとしても届かないし、何か止められて、寒いまま。
何だったかな、確か四月にやる、健康診断のお知らせとか、来てたっけ。
ああ、あれか。病院をたらいまわしにされる間、かっぽう着みたいのを着せられて、肌寒いまま、ずっと待たされたり。
今年は不整脈とか貧血とか、いろいろまずいかもしれないな。特に心臓とか、まずそうだよね。一生分の鼓動の数をどんどん消費して、きっと寿命が縮んでる。ほら、やっぱり、重点的に調べられてるよ。レントゲン?違うか、あの、お医者さんが胸とか腹に当てて、聴くやつ何だっけ、補聴器じゃなくて、えーと、ぺたぺた冷たいやつ。ん、冷たくないか。触診か。背中とかトントン叩かれたり?え、背中はいいの?やっぱり心臓?
「・・・っ」
くすぐったい。それ、くすぐったいです。
「・・・や、やめ」
ん?犬か?犬がいる?犬に舐められてる?ぴちゃぴちゃ、音がする。あたたかい、息がかかる。心臓、っていうか、胸、っていうか・・・。
「・・・んあっ!?え、・・・ちょっ!なに!!」
誰!なに!押しのける腕に髪がさらさらとかかる。頭・・・人間、っていうか、・・・クロだ。
黒井は僕の腕をどけてまた左胸に顔をうずめ、そして、僕の胸のそれに、吸い付いた。
「ひ、や、やああっっ!!や、や、やめ、ちょ、くろっ!」
無理に頭をどかしたら何だか痛いことになりそうで、いや、それくらい強く、吸われてて、もう、意味がわかんない。「あっ、あの・・・っ!」という僕の悲鳴と、ちゅるちゅるという音だけが、しんとしてまだ薄暗い部屋に響く。いやらしいというより、あ、朝の、授乳!?
「く、クロ!お、おねがい、説明して!俺をどうしたいのっ!」
ちゅいっ、と高い音をさせて、ちり、とした刺激とともに唇が離れた。僕は慌ててシャツを下ろし、腕でそれを強く押さえる。
黒井は僕の上で四つん這いになった格好で、「なんか、乳首が、吸いたくて」と、身も蓋もあられもないことを、まるで当たり前の欲求みたいに言い切った。
「あっ、あの、あのね、お、俺にだってその、す、吸われない権利ってものがあってだね、その」
「・・・そうなの?」
「そ、そうだよ」
「じゃあ俺に吸う権利もあるの?」
「・・・あ、あ、あるかも、しれない」
「権利がぶつかったら、どっちが勝つの?」
「え、えっと、それは、公序良俗に、反しない・・・」
「程度に、吸えばいいんだ?じゃあ俺の勝ちだね」
「・・・」
しばらく瞬きを繰り返しながら法の下の平等を考えるけど、無理だった。
「・・・く、クロ」
「なあにねこ?」
「今何時?」
「えっとね、五時」
「・・・朝の?」
「そう」
「朝の、五時。・・・遅刻、じゃ、ないか。どうしてこんな早く起きてるの?」
「起きたから」
「・・・そう。調子良さそうだね」
「・・・調子がいいとか、そういう呼び方、面白くない。もっとちゃんと言って?」
「え?」
「俺の今の感じ、もっとちゃんと言い表してよ」
知らないよ!と言いたかったけど、しばらく考えて、つぶやいた。
「・・・浮かれてる、とか、ふっきれた?」
「何か違う。答えは・・・」
黒井は目を伏せたり、斜め上を見たりしながら少し考え、「うーん、さみしい、かな」と、言った。僕が体を起こすと、黒井は素直にどいた。
「・・・お前、さみしい、の?」
「何かねえ、すかすかする」
「・・・ふ、ふうん。それで、早く起きたの?」
「さあ」
「でも、それで、あんな・・・、え、えっと、まあいいや」
「あ、・・・ほんとだ」
「え?」
「言ったとおりだ。お前、すごいね」
「え、何が?」
「お前さ、後から、考えてる。ちゃんと、終わってから振り返って、何だったのかって理屈、つけようとしてる」
「・・・う、うん?」
「ははは、本当だよ。お前は後から考えるんだ。すごい、俺と違うんだ!」
「そ、そう・・・だから、言ったじゃん」
「お前は今更、どうしてあんなことされたのかって、考えてんの?」
「そ、そりゃ、そうだ・・・っていうか、まだ本格的に考えてないよ」
「ええ?まだなの?もっと後から思い返すつもり?」
「・・・悪かったね」
「それじゃ写真も取っとくわけだ。何てやつだ。じゃあいいよ、捨てなくて。大事に取っといて?そんで見返してさ、あの時何があったかって、・・・ん?ほら、俺なんかもう覚えてないもん。ねえ、何であれ、お前むすっとしてるの?」
「・・・お、覚えて、ないのか」
「あ、頭ん中、全然違うんだ!」
黒井は嬉しそうに笑って、僕の頭をぐしゃぐしゃと撫で回した。
「ちょ、ちょっと、静電気立つ!」
「はは、そっか、そうなんだ!同じ人間なのに、違うんだね」
僕が、「犬と、ねこだから?」と言うと、黒井はまた喜んで、「ああ、そっか!」と笑った。
・・・・・・・・・・・・・・・・・
一緒にゆっくり着替えをして、ネクタイなんかお互い直してやったりして、有り得ないほど優雅な朝。っていうか、これ、新婚さんだと思う。モーニングコーヒーと、ライ麦パンにバターなんか塗ったりして、そのかっこいいシャツで微笑まれたら、手が震える。そして、まだ見ないようにしてるけど、腹の底で猛烈な嫉妬が膨らんでいく。二十人だか三十人だか、そんな若い男女が一ヶ月もこいつと一緒に暮らせるなんて!思わずごくりと唾を飲み込む。お、俺もここに今から就職しようかな!
「ねえ、クリームチーズは?」
「へっ?」
「俺の、好きなやつ」
「・・・な、ないよ。言ってくれれば・・・あ、ああ、何でもない。とにかくないよ」
黒井はおかしそうに笑って、「お前はお前でいいよ」と。何だよ、服が違うだけで、すっかり大人っぽくなっちゃって。さっきまで俺の・・・お、おれの、乳を、吸ってたくせに・・・。ひい!
簡単な朝食を済ませ、二人でひげを剃って、上着を来て家を出る。僕のうちから出勤するのは初めてか。いつも一人で出るのに、変な感じだ。
「・・・で、六時前に出て、どこで何するつもり?このままじゃ七時過ぎには・・・」
「だーかーら!そういうの決めてないの!」
「・・・そ、そうだった。はは、だめだな、理解はしてても、ついこれだ」
エレベーターに二人で乗って、早朝の街を歩く。まだ朝は少し寒いねとか、ホタルイカの夢を見たとか、何気ない会話で駅まで・・・って、そっちじゃないよ。
「おい、こっち」
「ん・・・何か見たことある感じ。あれ?」
「そっちは、ほら、<本番>の建物の方だよ」
「ああ、そうか。それでか。・・・ね、行ってみよ」
「・・・ええ、今から?」
・・・まあ時間もあるし、少しくらい寄り道しても平気か。
ん、っていうか、ああ、これなのか。
また全然気がついてなかった。「ええ、今?」も何もない。まさに、<今>なんだ。まだ、そう簡単にモードが合わせられないというか、新しいデバイスを認識しないというか。何とか頑張って、いちいち手動で切り替えるしかない。
「何か、ずっと前のことみたい」
「うん、本当、そんな感じ」
二ヶ月前の印象については同意見だったけど、でもこれだって、どのくらいの感覚かっていえば本当は全然違うのかもしれないな。
「ああ、いつも眠くて、ふらふらしながら歩いた。すごく、遠くて・・・」
「そうだよな、お前んちからじゃ、大変だったろ」
「いや、そうじゃなくてさ。何ていうか、遠い、別の世界・・・」
「別の?」
「いっぱい、いろいろ、感じた。うん、何となくだけどね、あそこは王宮で、俺は兵士だったんだ」
「・・・うん?」
「俺は、必ず怪我をして運び込まれるんだ。毎日、そこから、始まる。そんで、毎日、何かの日が迫ってくる」
「何か?」
「まあ、あの、勝負の日のことだけどさ」
・・・続きがないので、促すべきなのか、ここで終わりなのか、迷ったけど訊いてみることにした。うん、自然に興味が、出てきたみたい。もちろんただ「ふうん」って聞いてるのも好きだけど、ちょっと分かり始めたら、もっと知ってみたくなる。僕がお前って森に分け入っても、いいんじゃないかって、自然に思えたんだ。
「お前は、兵士で、それで、そこは自分の国の王宮?怪我でっていうのは、どっかの国と戦争でもしてる?」
「・・・さあ、どうかな。ただ、どこかで倒れてるのを、運び込まれて、部屋に寝かされて。たぶん自分の国、だ」
「そ、それって、どこまで具体的な話なの?」
「うーん、ただの、イメージっていうか、ふと感じる、何だろう、白昼夢みたいなもの?」
「・・・ふうん。どうしてお前のはいつも、ちょっと幻想的で、何か外国っぽいんだろう。俺なんか、ゾンビだとか、宇宙人でもいたらやだなって・・・ああ」
「え?」
「別世界だから怖くないって、それで?」
「な、何が?」
「ほら、お前の部屋で宇宙人が怖いって騒いだ時さ、あの建物は、別世界だったって、言ってた」
「よ、よく覚えてるねそんなこと。でも、まあそうだよ。だから怖いとか思わなかった。いつも行くの、楽しみだったよ」
「その、ドイツやセルンとはいかないけど、お前にとって、・・・冒険、だった?」
「うん。本もたくさん読んだし、いろんな役になりきって、あれは、うん、ちゃんと俺の世界を、俺の時間を生きれた」
「そっか」
そうして、歩き慣れた道をたどって、あの場所へ。いつも夜だったから印象が違うけど、でも・・・。
「あっ」
・・・建物全体が、白い幕で覆われている。解体工事というより、建て替え?
「ああ、工事が入ってるんだ」
「・・・もう、なくなるのか。俺たちの、あの場所は」
「ふうん」
黒井は建物に近寄ってちらりと覗くと、すぐ帰ってきた。「へえ」と僅か肩をすくめてみせる。そして、「うん、もういいや」と歩き出した。
「その・・・せっかく来たのに、残念だったね」
「え?別に・・・せっかくもないし、残念もないよ」
「そう、なの?」
僕はもう一回ここへ来て、また月を見上げたり、あの一週間をゆっくり思い返したり、したかったけど・・・。
「別に、俺にとってのあの感じが消えるわけじゃないんだし。それに、ここへ来たのは、今俺がふとそういう感じがして歩いたんだから、その結果は関係ないよ。お前と話しながら、歩いたじゃん」
「・・・まあ、そうだけど」
ああ、もしかして黒井にとっての時間というのは、移りゆく季節みたいなもの?写真に記録したりせず、ただその時々のにおいを感じて、過ぎていくだけ。今年その木が折れたって、今まで花や実を楽しんだことまで消えるわけじゃない。それはそれで、今を受け入れる・・・。僕ならきっと倒れた木の前にしゃがみこんで、何が悪かったのか、自分に落ち度はなかったのか、しばらく考え続けるだろう。後悔して、倒れているのを見てしまったことすら恨むかもしれない。
「・・・あ、ちょっと、待ってよ」
「ねこ、早く。次、行こ!」
・・・え、まさか、これからひと月経って、僕のことも「もういいや」って、なったりしないよね?過ぎ去る季節の一場面の、背景の人物になってたり、しないよね?
・・・・・・・・・・・・・・・・
まだまだ空いてる電車に座って、朝日を浴びて新宿へ向かう。明日から一人だなんて、会社に行ってもあの席に黒井がいないなんて思ったら、もう何もかも嫌になりそうなほど、信じられないし、身体全体が拒否していた。でもこうしてこの日は来てしまって、もうあと何時間も一緒にいられない。思わず隣のその手を握りそうになって、でも目の前の席に人がいたのでやめた。もう、貸切ならいいのに。始発に乗ればよかったかな。今からでも下りに乗り換えて、終点まで行って引き返そうか。
「こんな景色、初めて見る。お前毎日これ見ながら来てんの?」
「えっ?・・・ああ、そうだね。あんまり外、見てないけど。あ、でも川を渡るときだけ、死体が浮いてないか見てる」
「・・・あっそ」
そんな、心底呆れた声を出すなよ。日課、っていうか、つい無意識に見ちゃうんだから。
っていうか、こんな時でも、お前は今の目の前の景色とかを見てるわけだ。僕が明日からの絶望を感じてるときに、そうやって、今を生きてる。うん、どうせ行っちゃうなら、そのぎりぎりまで僕も同じ時間を生きようか。明日からのことを脇に置くなんて、見つけた死体を無視して通り過ぎるくらい難しいけど、お前が「早く来いって!」と言ってくれれば、行けるかもしれない。
「ねえ、あのさ」
「ん?」
「その、先生、教えてよ。今、この場の気分で、どうやって生きるのか」
「ええ?教えることなんかないよ。ただ、こうしてるだけで」
「景色とか、見えたものを、感じてればいいの?」
「まあ、そうだけどさ。うーん、別に俺だって、今しか見ないわけじゃないよ。でもたぶん、過去とか未来とか考えたら嫌になって、そんなの考え続けるのやだからすぐやめちゃうんだ」
「はあ、なるほどね。取捨選択か」
「はは、何だよそれ。でもだってさ、嫌なこと考え続けるわけ、ないじゃん?そんなの誰も考えないでしょ?」
「・・・悪かったね、うじうじいつまでもつつきまわしてて」
「え、そうなの?そんな、脱いだ靴下嗅ぎつづけるような・・・まあ、あるか」
「ないよ!」
「ないの?」
「そんなもん、すぐ洗濯機だよ。・・・あ、そういうこと?」
「あは、分かってきた!」
「そ、そうか、なるほど・・・」
自分で言って自分で納得するというのは、目からうろことでもいうのか、えらく腑に落ちた。なるほどね。
「あ、あのさあ。じゃあ、さっきのこと、そろそろ考え終わった?」
「へっ?」
「俺が朝、したこと」
「・・・、ま、まだだよ!」
黒井は「へへ」とにやけた。靴で蹴ってくるので、蹴り返そうとするけど、そんな新品蹴れないし。っていうか、何とも思ってないわけ?とんでもなく恥ずかしいことしたって認識は、ないわけなの?ってことはさ、やっぱり僕みたいに、下半身の性的な欲求に駆られて、じゃ、ないってことだよね。単なるスキンシップ?いや、単なるって呼ぶにはアレ過ぎだろ!でも確か、さっき、「さみしい」って、言ってた・・・。
ああ、もしかして、何か、そういう母性を求めてた?
何にも出なくて悪いけど・・・。
赤ん坊、っていうか、子犬みたいな気持ち、だったのかな・・・。
そんなことに思い至って、ふと顔を上げたりしたのかもしれない。ちょうど黒井が「俺のこと、分かったの?」と訊いてきた。
「い、いや、分かりはしないけどさ。こうかなって・・・」
「どう?」
「べ、別に、俺が考えただけだから」
「教えてよ。聞きたい。お前から見た俺のこと、聞くの好きだ」
「・・・い、いや、その・・・お前、子犬みたいだって」
「え?」
「さみしいって、言ってたから。・・・あ、俺、お母さんじゃないからね。違うから!」
「え、あ・・・そういう?俺、そういうことで、してたの?」
「いや、何も出ないし、男だから!お母さんじゃなくて、その」
な、何だ、お嫁さん、とは言えないし、親友?俺とお前って、今、どういう関係なの?
「・・・やまねこ?」
「え?」
「だから、黒犬と、山猫じゃん?」
・・・また、途切れた言葉を、僕の思考を、読んだかのような黒井の言葉。
そっか。この関係を表す言葉なんて、ないのかも。俺たちはただいつも、黒犬と、山猫で。喧嘩しても、ヘンなことしちゃってても、男同士で年も違うし頭の構造も全然違って、しかもこれから離れ離れだけど、でも、黒井彰彦と山根弘史が黒犬と山猫だってことは、変わらないのかも。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます