第157話:俺のこと、もっとわかって

 黒井の後の風呂に入って、ゆっくり百数えて頭を空っぽにし、すべてがリセットされてるかな、と風呂を上がるけど、状況は何も変わっていなかった。

 僕の寝間着を着た黒井は僕を見ると顔を背け、そわそわしている。「・・・歯を磨こうか!」なんて唐突に裏返った声。僕はといえばもうわけがわからなくて、ああ、新婚初夜なんだ、そうだった・・・なんて半分妄想の世界へ行っていた。本当は色々、もっと真面目な話をしたいと思ってたのに、これじゃあどうにもならない。ならない、けど・・・。

 買い置きの歯ブラシを渡すときに手が触れて、さっきの図書館がどうのを思い出して、意識してしまった。

 あ、あらためて見ると、本当に・・・。

 かっこいい人が、うちにいて、僕の寝間着を着て、これから、一緒に・・・。

「あ、明日、目覚ましかけなきゃ。本社なら、ちょっと早めに」

「こっから行くと、何時ごろ、出るの?」

「う、うん、余裕見て、七時二十分、くらい」

「は、早い。・・・じゃあ、早く、寝た方が、いいよね」

「・・・そう、だね」

 ぎこちない会話を交わし、並んで磨き始める。いや、まだ、十時なんだよね。


 先に背中を向けて布団に入った黒井に「でんき、けすよ・・・」と声をかけ、僕も隣にもぐりこむ。・・・腹が、透けた。背中合わせになって、相手の体温を感じる。背中側はどきどきするけど、暗いし、見られていないと思うと頭は少しリラックス出来た。

 だから、本当は、これからのこと、海のこととか、そういうことを聞いてみたかった。でも、「あの・・・」と切り出して、「なにっ?」と背中がびくっとするので、つい違うことを口走ってしまう。

「あ、あのさ。さっき、・・・見た?あの写真。よ、よく撮れてたからちょっと記念にと思って・・・」

 別に、よく撮れてたのは黒井であって僕はうつむいてただけだけど。それを言われてしまったらどうしようと言い訳をひねっていたら、返ってきたのは「あ、あんなの捨ててよ!」の一言だった。

「・・・ご、ごめん」

「な、何であんなもんとっとくわけ?」

「い、いや、だからえっと記念っていうか思い出っていうか・・・」

「そ、そういうのやめてよ。とっときたいなら、俺の部分だけ切って捨てて」

 ・・・背中から、冷たい声の棘が刺さった。恥ずかしいからさ、なんて響きはない。ひい、痛いよ。あはは。

「・・・あの、やっぱり、嫌だった?」

「やだよ」

「・・・きもち、わるい?」

「気持ち悪いっていうか、見たくない。昔の自分なんか、見たくない」

「・・・え?」

「写真は嫌いなんだ。全部、過去だから」

「・・・」

「昔の自分が輝いてるとか、許せなくて死にそうじゃん!だからもう、あんなの破って捨てちゃって!」

「・・・だ、だって、じゃあ何であんな顔でカメラに映ったんだよ。写真は嫌いだって断るとかさ、もっと無難に、適当に映るとかさ」

「・・・いいんだよ、そん時は、そん時だったの!あん時の俺はそれがしたくて、出来たってことでしょ?今更そんなの見せつけられたって、・・・ひどいよ、お前!」

 ・・・何だよ、やっぱり自分しか見てないし、その上八つ当たり?

 でも、ようやくお前らしくなってくれて、怒る気になんかならない。っていうか、もう、いとおしいんですけど・・・。

 僕は起き上がって黒井の背中に触れ、「ごめん。ごめんね」とさすった。

「あのさ、クロ。もしかしてそれって、さっきの、・・・アイスの話。先に言っといたら、そうなるのが当然だから、嫌だって。それと、同じ、話?」

「・・・どういう、こと?」

 その声はもうすっかり落ち着いていて、僕におとなしく撫でられている黒犬。

「だからさ、えーと、その場その場で、やりたいことがしたいんだってさ、つまり、うん、時間?」

 生きてる時間が、僕らと違う・・・。いつかの、みーちゃんの言葉。

「・・・時間?」

「そう。過去が嫌だとか、あらかじめ決めておくのが嫌だとか、ああ、それって未来じゃん?過ぎた過去も、予定調和の未来も嫌で、お前は、その場の今で生きていたいんだ」

「・・・そう、なの?」

「俺だってさ、自分の写真なんかわざわざ見たくもないけど、でもそれって、映りが悪いとか、別に、自分の顔が好きじゃないからでさ。過去が見たくないとか、そういうことじゃない。過去から繋がった自分がどうなったのかっていうのは、その、考える、っていうか・・・」

「・・・うん?」

「あ、あの、ノートも、見た?」

「え?」

「写真と一緒に、置いてあった・・・」

「いや、中は、見てない」

「そ、そっか」

「なに、もしかして日記?」

「いや、日記じゃないけど・・・」

「けど?」

「い、いいんだよ。とにかく、俺は、過去からの変遷をたどってここまで来て、自分の核みたいなものの形も変わってきて、それをちょっと客観的に見るのも興味深いっていうか、あれ、俺もナルシストかな」

 <も>って何だよ、と言いながら黒井が仰向けになったので、僕は「自分で言ってた」と反論して、膝を抱えて前を向いた。

「とにかくさ、だからきっと、お前は俺とは違う時間を生きてるんだよ。それはたぶん普通のみんなとも違ってて、だから、勘違いされたり、抑えなきゃいけなかったり・・・」

「・・・うん?」

「でもそれは、ああ分かった。それはさ、お前の忍耐が足りないとか、わがままとか、自分勝手過ぎるとか、そういう問題じゃないんだ」

「・・・な、何それ。どーせ自己中だよ」

「だから、周りからはそう見えるかもしんないけど、それは利己的だからっていうより、うん、違う機構なんだ。時間感覚のメカニズムが違うから、感じ方とか反応も変わってくるんだよ。うん、物理と同じだ」

「え?」

「<弱い力>が弱いのは意気地なしだからじゃなくて、ボソンに質量があるからだ。それで相互作用の範囲が狭すぎるから弱いってことになってて、だから本当に弱いって意味じゃない。ちゃんとそうなってるからそうなってんだよ。そんで、お前の中身は全然、弱くなんかない・・・」

 一気にまくし立てて、ああ、自分の理屈で完結して、意味不明だったかとゆっくり振り返ると、少し開いたカーテンから入る薄明かりがその瞳に反射していた。

「・・・お、俺、何て言っていいか」

「ごめん、勝手なこと、べらべら喋った・・・」

 僕が前に向き直ると、黒井も体を起こして、僕の肩にその手と頭をもたれかけた。自動的に下半身は疼くし、身体はこわばって、目は据わる。二人の息遣いだけが、部屋を満たしている。

「よく、わかんないけどさ。とにかく会社は窮屈だよ。この三月で、いっぱい怒られたりもして、全然、俺のやりたいように出来ないんだ。思ってる、百分の一くらい。千葉に行くのも、そっから逃げたかったってのもある。やっぱり支社の方が、厳しい・・・」

 声が、直接身体にも響く。少し低いつぶやき。ほとんど聞いたことのない、黒井の、会社の愚痴。

「・・・本社の方が、合ってる、の?」

 言いたくはないけど、訊かなきゃいけない。もしそうなら引き止めたりは出来ないし、僕も、覚悟しないと。

「その、厳しい時期って越えたのかもしんないけどさ。やっぱり、ピリピリした雰囲気が、ふいに出てくるのがキレそうになるよ。本社の方が、マシ、かな・・・」

「そ、っか。じゃあ・・・」

 研修が終わって、そのまま本社に戻るって選択肢も・・・。

 その思考に答えるように黒井が言った。

「ううん、そうは、しない。こっちにいる、つもり」

「でもさ、やっぱり・・・?」

 自分に合った環境の方が、いいんじゃないか?黒井は僕の言えない言葉に答え続ける。

「・・・違うよ、そういうことじゃない。だって、もう、そんなの関係なくなってるよ。今、だって・・・」

 黒井は両手でぎゅうと僕の腕にすがって、強くつかんだ。

「・・・っ」

「お、俺のこと、もっと、分かってほしい・・・!」

 戸惑いを含んだ、少しうわずった声。顔を上げ、今そんなこと言ったの、俺なの?って顔をする。ちょっとだけ、スーツの裾をつかまれた後、僕がタクシーで思い至った、あの時と似た戸惑いなんじゃないかって、都合よく受け取りすぎかな。分かってほしい相手は僕だけだって、思ったりしちゃ、だめかな・・・!

「な、何これ、さっきからもう、わけわかんないよ。何でだろう、意味とかよくつかめないのに、聞いてたら、何かすごい、胸が、ぎゅうって・・・」

「・・・」

「わかって、ほしかったんだ、おれ」

「・・・クロ、さ。抑えて、たんだろ。お前、こんな、こんなやつなのに、花びらがほしくて舌を突っ込んでくるようなやつなのに、よく会社でやってきたよ。いっぱい我慢して、怒られてもこらえてたんだろ?<黒井さん>で頑張ってたんだろ?」

「・・・っ」

 手に力が入って、それが肯定を示す。僕はその勢いで、思っていたことを、吐き出してしまう。

「お前にはさ、狭いんだよ、この世界が。お前が悪いわけじゃない。みんなと違うからって、悪いことなんか一つもないし、我慢する必要だって本当は何もないんだ。偉そうなこと言ってるかもしれないけど、うん、お前はそんな、どうでもいいことに煩わされる必要なんかなくて、もっと、その・・・」

 本題に、失くしたものを取り戻す旅に、出たって・・・。

 黒井はじっとして、更にきつく僕の腕と肩をつかんだ。内出血しそうなほど。涙を、こらえてるの?泣いたって、いいのに。

 ああ、取り戻す旅って、もしかしてそれがドイツと、セルンと、コペンハーゲンなの?そうなら、もう、会社なんか辞めて行ったらいいんだ。再就職なんかいくらだって出来る。お前はこんなとこで、千葉ごときでくすぶってちゃだめだ。あの時は旅の話をされて、無理だとか、日程とか金額とか会社を休めるかとか、そんな話ばかりしてしまった。そうか、お前はきっとそうじゃなかったんだな。そうやって計画して遂行して達成して、そんなの意味ないじゃんって思ってたんだ。でも、計画すれば、そんな<気分>でしかなかった絵空事を実現することも可能だって、きっと僕に言われて思い当たったんだ。

「あの、さ。旅の話。しただろ?」

 少しの間をおいて、腕にすがりついているおでこがうんとうなずく。

「あのときは俺、分かってなかった。きっとお前は、旅だって、行きたい時に、行きたいように、行きたかったんだろ?」

 一瞬硬直し、それからまた間をおいて、今度は背中を拳でどんどん叩かれる。そうだよ、気づけバカ!って、言ってるの?

「無計画だっていいよ。ああ、お前のは、そうか、そもそも旅行なんかじゃなかったのか。日程組んだ旅行じゃなくて、・・・冒険、だったんだろ?地図なんか、なくて」

 背中に置かれた手はぽとりと落ちて、ただ、おでこだけが強く押しつけられた。「うう・・・」と声が漏れる。

「お前がやりたいことやってりゃ、取り戻せるよ。大丈夫だ。行きたくなったら、俺も、・・・その時、お前が連れてってもいいって思ったら・・・連れてってよ。会社なんか辞めちゃえばいい。有給を何日使って、外せない業務は引き継ぎして、なんて、クソくらえだ。なあ?」

 黒井はもう、声をあげて泣いた。僕に抱きついて、「うああああ!!」と、苦しそうにしゃくり上げながら、何かを言おうとしても声にはならずに、拳で力なく僕の胸を叩く。一昨日の夜だって泣いたけど、もうそんなんじゃなかった。涙も嗚咽も止まらない。

「もっと早く、・・・もっと、はやく、お前のことちゃんと分かってやればよかった」

「ううっ・・・」

「三月だって、何でお前のこと忘れてたんだろう。何で・・・!ああ、でも、だから分かったことだってあるんだ。そうじゃなきゃわかんなかったこともある。お前は今を生きてて、どんどん一秒ごとに進んでくかもしんないけど、俺は、遅いんだよ。後になってから振り返って、ちゃんと理屈を組み立てないと理解できないんだ。だから、ごめん・・・」

 黒井はうんうんうなずきつつ、ううん、と首を左右に振った。えぐ、えぐっとしゃくり上げ、また「わああああ!」と声をあげる。

「大丈夫だ。ちゃんとクロは、自分の力で出来るよ。俺はそれを信じられるし、きっとそうなる。もっとかっこよくなったお前を見るのが、楽しみだよ」

「・・・う、うう・・・ばか!」

 また「うわああん」と泣くけれども、今度は何か言いたがっていた。

「何だよ、照れたの?」

「・・・ちが、う・・・えぐっ、・・・この、ばか、ねこ!」

「へっ?」

「いまの・・・、いまの、おれが、・・・おれだよ!」

「あ・・・」

 そっか、未来のお前じゃなくて、今を、見なきゃね。

 黒井は僕の手を取って背中に回し、抱くように促した。・・・うん、大丈夫、変なとこ疼いたりしないで、ちゃんとお前を抱くから。

 僕は嗚咽で肩を揺らす黒井を強く抱きしめた。あたたかい。今ここにいる、お前だ。その背中や肩を強く抱いて、「クロ」と呼びかける。うう、とか、んん、とか反応があって、僕はもう一度「クロ・・・」と口に出す。だめだ、だめだ。このまま「好きだ好きだ」と連呼してしまいそう。歯を食いしばってそれに耐え、その分手に力がこもった。頭の中で絶叫に近い「好きだ!!」が響く。好きなんだよ、好きすぎる!お願いだ、言いたいよ。たったの三文字、叫びたいよ。言えないことがつらすぎて、僕まで嗚咽。お前には、分かってる?もらい泣きなんかじゃないよ。分かってる!?


 しばらくしてだいぶ泣き止んだ黒井が、ぽつりと言った。僕も爆発しそうなものを何とか腹におさめ、頬に流れた涙をぐいと拭う。

「・・・おれ、なみだもろく、なった。としだね」

「クロ、お前今、何歳なの?」

「・・・にじゅうく。・・・五月には、さん、じゅう、だけど」

「ふうん。あ、あのさ、五月って・・・その、五月の、何日?」

「え?十日、だけど」

「そ、そっか」

 祝ってくれるの?と言うので、「その時、祝いたい気分だったらね」と返してやった。久しぶりに、「・・・上等!」とのこと。黒井は泣き笑いしながら僕のトレーナーで鼻をかみ、僕ももう、笑っちゃいながら服を脱いだ。



・・・・・・・・・・・・・



 トレーナーを洗濯機に放り込み、新しいものを着た。それから、烏龍茶をマグカップに入れて少しチンする。

「ほら、水分補給」

「・・・うん」

 布団に座って放心する黒井に渡してやった。目も鼻も真っ赤にして泣き疲れ、タオルを握ったまま、くたっとしている。コップに口をつけっぱなしでぬるい液体をすすり、そのまま目だけ僕の方を見て、目が合うと、少しはにかんで目を逸らした。・・・この調子でこいつの心をつかんでいって、ゴールインまでこぎつけられないだろうか。いや、冗談だけど、案外真剣だよ。ねえクロ、お前には、俺しかいないと思うんだ。どうかな、お嫁さんの第一候補に上がってる?


 あらためて布団に入って、電気を消し、訊いてみることにした。

「・・・あの、さ」

「うん?」

 天井に向かってつぶやくと、まだ少し鼻声の相槌。

「さっきの、ことだけど」

「うん」

「その、何か、あったの?何か、そわそわして・・・」

「・・・ん、うん?そ、それは、もういいじゃん」

「え?」

「そんな昔のことはもういいよ。でも、そ、その」

「うん?」

「俺もちょっと、分かった。あ、あれじゃ、大変だ」

「はあ?」

「何でもない。お、お前も、がんばったね」

「え?」

「そ、その、あれだよ。下半期のまとめ!ねぎらってやってんの!」

「・・・そ、そりゃ、どうも」

「おやすみ!!」

「・・・うん。おやすみ」

 黒井は僕に背中を向け、丸まって眠った。僕はその後頭部をじっと見つめながら、おやすみのキスしてくんないかな、と、まるで呪いみたいに念を送っていたけど、とうとう振り向いてはくれなかった。

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