第156話:図書館で同じ本に手を伸ばすふたり

 分かってることに挑戦しても、意味がないって?

 ハズレがないなら当たっても嬉しくない?

 だから、<お前が俺のこと>、って、・・・どういう意味?

 僕が黒井のことを・・・好き、って分かってたら、嬉しくもないし、意味がないって・・・?

 だ、だめだ、思考が追いつかない。言葉尻をとらえても、正確な意味はつかめない。

 ・・・そんな、ことより。

 あいつが、黒井が、・・・照れてたんだ。

 あれは、照れていた。自分で言ってしまったことに何か思い当たって、急に恥ずかしくなって、下を向いていたんだ。今までちやほやされ慣れてきて、褒めても持ち上げても大して動じないやつなのに、動揺して、顔を真っ赤にしそうな勢いで・・・。そう、それは僕が恋のライバルを生成してしまったあの時、菅野が黒井に対する好意を認識したあの瞬間に似ていて・・・。

 ・・・理屈は分からないのに、たぶん、僕の方が照れた。

 な、何だったわけ?あの態度、どういうこと?あ、っていうか、風呂か。昨日の残り湯を、抜いて?はい?何ですって?

 栓を抜いて、吸い込まれていく渦をじっと見て、それから胸を押さえ、とんとんと叩いて「落ち着け、落ち着け」と言い聞かせる。な、何も起きてないし、何も起きてないし、それから、まだ何も起きてない・・・。

 井の頭線で誰にも分からないように手を繋いだ時より、二度としないといって甘いキスをした時より、もっと、照れた。あいつだって、僕が一昨日あれを舐めようとした時よりずっと動揺している。手も触れてないし、恥ずかしい話もしてないのに、こんなにも。

 ちょ、ちょっと、待ってよ。何で?どうしてこんなことになってんの?

 いつも自信ありげで俺様なくせに、どうしちゃったんだよ。マヤのことでいろいろあったときだって、恥ずかしいとか言ってたけど、これほどじゃなかった。


<・・・分かってることに挑戦しても、意味がない。>

<だから、お前が俺のこと・・・好きだって分かったら、挑戦する意味がない・・・>

 あるいは、

<お前が俺のこと・・・大っ嫌いだったお前が、俺のこと好きになるか、挑戦してた・・・>


 ・・・。

 ちょ、挑戦て、なに。

 ・・・だから、止められたの?言わないでって、だめなんだって・・・。

 でも、言われたじゃん。受け止められないから、だめなんでしょ?言われても落っこちるだけだから、そんなの怖いって・・・。

 わかんない。わかんないよ。

 ・・・。

 手、を、動かさなきゃ。

 とっくに風呂の水は抜けていた。ブラシでこすりはじめるけど、しばらくして洗剤をかけてないことに気がつき、それからも、ぶつぶつとつぶやきながら意味もなく念入りにこすりつづけた。



・・・・・・・・・・・・・・・・



 いい加減風呂場の洗うところもなくなって、部屋に戻った。何だか気まずいけど、このまま顔を合わせないわけにもいかない。

「ごめん、遅くなって」

「ご、ごちそうさま」

 ほとんど言葉が重なって、お互い何て言ったのかよく聞こえなかった。な、なに、慌ててるんだ。特にクロ、お前がだよ!

 ・・・。

「時間かかっちゃって」

「お腹減ってたから・・・」

 また、同時に喋ってしまう。

 ・・・。

 な、なにを、やってんだよ!図書館で同じ本を取ろうとして手が重なっちゃう男女みたいな、そんな初々しくて瑞々しいこと、今更、俺たちに・・・。

 ・・・。

 わ、笑えって。なに一緒に喋ってんだ、聞こえねえよって、笑うところだろ!

「・・・な、なんか」

「ごめん」

 沈黙。

 いや、ちょっと、空気、おかしいよ。黒井はうつむいてまた膝を撫でているし、僕は突っ立ったまま壁を見つめてるし、な、何か、喋らないと。

「あ、あの、ごめんね。暇だよね。う、うち、面白いもんとか何にもないし、・・・ふ、普通さ、何だろう、ゲームでもすんのかな。対戦とか?・・・お、俺トモダチとか、あんま遊ばないし、部屋に来てもらっても何していいか、わかんない・・・」

 そ、そうじゃないって!方向違う!

「あ、いや、お前は風呂に入りに来たんだったね。言っといてくれれば昼間洗ったのに・・・って、ああ、あらかじめ言っとくのが嫌だって、話、してたんだったね。だめだな、さっき言ったばっかのこと、もう・・・」

 ・・・。

 か、空回りだよ。声とか震えそうだよ。もう、どうしたらいいの?忘年会の夜でさえ、初めてお前のうち行って、でももっと自然に喋ってたのに。あ、ああ、あれはお酒が入ってたからか。

「・・・ごめん、あの」

「え、えっと、何か飲む?お酒とか・・・ええと」

 うわ、言葉を遮って話し始めちゃったけど、と、止まれないし。

「き、昨日のウイスキーしかないんだけど・・・いや、元々あれはお前に買って行ったものではあるんだけど・・・」

「・・・」

「う、うん、ビールかなんか買っとくんだったな。前日に、そんな、飲んでらんないよね。二日酔いとか、まずいし・・・」

「・・・」

「そ、それで、ごめん、さっき・・・」

 何か言おうとした?って、その時、ピピピピ、と風呂の沸いた音が響いた。

「あ、わ、沸いたみたい。ど、どうぞ、入ったら」

「う、うん。ありがと・・・」

 黒井がうつむいたまま立ち上がり、軽いため息をついて、ゆっくり僕とすれ違う。そしてこらえきれなくなったように、風呂場の前で止まって「や、や、やっぱり・・・!」と肩で息をした。

「やっぱ、か、帰ろうかな。どうしよう、俺、帰ろうかな。でも、あの家帰ったって、しょうがないし・・・」

「ふ、風呂だけ、入れば」

 上ずった声で引き止める。まだいてほしいとか、その先の下心とかじゃなく、風呂に入りに来たという人間が風呂に入らずに帰ったら意味ないじゃないかという、ねじで巻かれたような理屈。

「タオルとか、出しとくから・・・」

「そう・・・風呂に?・・・うん、風呂にでも、入るか。入ったら、いいかな・・・」

 そして、僕がバスタオルを出そうと引き出しを開けていると、「あの・・・」と。

「う、うん?」

「あ、あの、俺、風呂を、借りたくて」

「う、うん。だから、入ってって」

「いい?」

「いいよ。早く、入ってよ」

「その、ね・・・」

「・・・」

「・・・」

「な、なに」

「こ、・・・こ」

「こ?」

「な、何でもないよこーじくん!」

「・・・っ?」

 黒井は後ろ手にドアをバタンと閉じて、やがてシャワーを出す音がして、「ひやあっ」と悲鳴がした。最初は、水だってば・・・。

 僕はタオルを持ったまましばらく放心して、やがてそれが手から落ち、我に返った。



・・・・・・・・・・・・・・・



 タオルと寝間着を脱衣所に置いて、部屋に戻り、深呼吸した。

 ひとまず、黒井が風呂から上がるまでもう少し時間がある。その間に、落ち着こう。何だかわかんないこのおかしな空気を、何とか、しないと。

 僕は皿やコップを流しに下げて、テーブルを拭き、ティッシュやなんかをゴミ箱に入れた。そして、床に落ちていたそれを、見つけた。

 ・・・何かの記事の、切り抜き?

 手のひらにおさまるほどの、小さな紙切れ。でも切り抜きにしては上下の文字が切れていて、中途半端・・・。

「・・・っ!」

 ふと裏返して、思わず息を飲んだ。しゃ、写真・・・社内報の、切り抜いた、写真!

 ど、どっから出てきた?あれ、置きっぱなしてた?コンポの上、あの、ノートも・・・!

 ど、どうしよう、見られた?見られたのかな。べ、別に、もう見られたっていいやって、っていうか見せたいよなんて思ったはずだけど、今は全然そんな風には思えなかった。や、やばいって。こんな、お前のこと好きで、俺たちの出会いから今までを書き記してみましたって紙、気持ち悪いって!!

 今すぐ破いてしまいたくなるけど何とかこらえて、また押入れに突っ込んだ。み、見られたのかな。どうなのかな。指紋でも採取したいけど、どうだろう、今僕も触っちゃったから、鮮明には取れないかな・・・って、別にそんな道具持ってないけどさ。

 っていうか、ノートはわかんないけど、写真は、見られたんだよね、落ちてるってことは。

 べ、別に、前だってメールで「載ってたね」って送ってるんだし、僕が持ってたっておかしくはないわけで、まあ切り抜いてあるのは気持ち悪いけど、僕と黒井のところだけ切ってあるわけでもないし、記念だって言い切って押し通せば、いいじゃないか・・・って、何も言われてないうちから、何の言い訳?

 ・・・でも、もしかして、やっぱりこれを見て急に俺が気持ち悪くなっちゃったのかな。

 暗闇であれやこれや二人とも感情的になってた時とは違って、・・・具体的で、生々しくて。

 それで、半分気持ち悪くなって、でも半分は親友というか、その、親しい存在だと思ってくれてるから邪険にするのもアレで、それであんな態度・・・。

 それで、<こーじくん>・・・?

 ねこ、とかやまねこ、でなく、ふつーのトモダチ、こーじくん?

 で、でも待てよ。今、僕が風呂を洗いに行ってる間にこれを見つけたんだとして、それで<こーじくん>は理解できる。でも、あいつ、僕が風呂場に行く前から、おかしかったじゃないか。あのおかしくなった直前に、これがふと目に入った?いや、ずっとテーブルでヨーグルト食っててこっち向いてたし、そんなはずはない。あれは、自分で言った言葉にはっとしたんだ。写真を見たからじゃない。

 そして、ガラガラと、風呂場を開ける音がした。

 ど、どうしよう、もう上がってきちゃうの?え、まだまだ会議中だよ、方針は決まってないし、この写真の処遇だって、ああ、どうしよう。何もなかったかのように押入れにしまってしまいたいけど、そんな、いかがわしいもの見られたみたいなのも、むしろ微妙か・・・。たぶん、「あ、これ見た?よく撮れてるよね」なんて明るく切り出しちゃうのがベストの対応だって、うん、分かってはいるけど、で、出来ないよ。

 ちょっと、もう!何でこんなやきもきしなきゃいけないの?

 っていうか・・・風呂入ったら、帰るわけ?こ、こんなわけわかんない空気のまま、「じゃ、じゃあね」なんて、行っちゃうわけ?それを「お、お達者で」なんて、見送っちゃうわけ?はあ?そんなのやだよ!でも、どうすりゃいいの!!

 僕は吊るされたかっこいいスーツを眺めて、何も出来ずやっぱりぼうっとしていた。

 風呂から上がった黒井が「い、いいお湯だったよ」と髪を拭きながら部屋に戻る。

「そ、そう、よかった」

「あ、あのさ、それで」

「うん、帰る?」

「・・・っ、そ、その、今日・・・、俺」

「・・・うん?」

「こ、ここに、泊めてもらっても、いいかな・・・」

 ・・・。

 え、えっと。

 こ、ここの方が本社に行きやすかったっけ。本社、四ツ谷だけど・・・。

 あ、スーツがまた、あれしちゃうからね。そうそう。

 それに、黒井のうちは、部屋も洗面台もあれしてるんだし、ま、ここに泊まった方が・・・。

「う、うん、そうだね。そうすれば・・・?」

 僕はちょっとねじが緩んだ頭を落っことさないようにゆっくり座り込んで、うん、泊まるなら、布団だね。肌掛けが、よれてるから、綺麗に、直さないと・・・あはは。

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