第212話:思い出ノートを更新

 第三章を読み進め、印象に残ったのは、パウリとあのユングの親交のことだった。

 またもや時代的なイメージが曖昧になる。ダーウィンとその孫と、ハイゼンベルクと、カール・グスタフ・ユング?ユングといえばあのフロイトの弟子の心理学者だが、1920年代というのは第一次大戦直後で、原子の研究をしていて、日本でいえば大正時代?

 とにもかくにも、ハイゼンベルクの親友ヴォルフガング・パウリは、父の浮気の末に母が自殺するというトラウマを抱えていた。それをユングに相談し、心理療法により癒されていたようだ。何だかそこには、アインシュタインっていう家庭教師から相対性理論を教わってたんだ、みたいな響きがある。別におかしなことじゃないのに、ビッグネームだけが先行して、大げさで安っぽいフィクションみたいに感じてしまう。

 ヴォルフガングが踏み込んだ、物理学と心理学の関係性。

 僕の嫌いな<精神世界>とやらを、物理学と結び付けてしまうわけ?よりにもよって、ヴォルフガング・パウリが?

 何となく、むずむずした。別に僕だって精神世界をすべて否定してるわけじゃないし、ただその布教の仕方が気持ち悪いだけであって、内容的には興味があるものだってあるわけで・・・。

 ・・・というか、たぶん。

 どうやら僕は、このパウリという人物に興味があるみたいだった。

 それはきっと、黒井が僕にくれた<部分と全体>、つまりハイゼンベルクの、<親友>だからだ。

 自分に、重ねてるだけ。

 僕はこんな風に辛辣に人をこき下ろしたり出来ないし(いや、してたのか?)、自信家でも道化でもないけど、完璧主義ゆえに立ち止まってしまったり、自己憎悪に走りやすいところには共感した。

 逆に、取ってつけたような正義感とか、自己陶酔っぽいところが鼻につくハイゼンベルクはちょっと苦手だったりする。素直で大胆で怖いもの知らずなところは黒井に似てるけどね。

 まあ、そりゃ、誰だって当てはめようと思えばどこかしら当てはまるものか。

 勝手に自分と黒井をハイゼンベルクとパウリになぞらえようとして、こじつけてるだけだ。

 でも、物理学と心理学・・・しかも今の氾濫したそれじゃなく、当時のまさに純正品たるユング心理学をヴォルフガング・パウリが追求した、その研究が知りたいとは思った。


 眼鏡を外して車窓を眺めながら、黒井の頭が、ゆっくりと僕の肩に着地した。

 その体温と重さを感じながら、僕は、黒井の誕生日プレゼントをどうしようかと迷って、休みの日に新宿のブックファーストに行った時の、あの感じをまた味わった。

 僕が、物理を学ぶ<あて>。

 いつか黒井とアトミクの会社?を立ち上げ、二人でこんなことをして暮らしていきたいなんて夢想、とは、別に。

 ・・・<向こう側>へ行くための、準備。

 それに向けて、知っておくべき知識と概念。

 それは純粋な物理学であり、人間の感性の入り込む余地のない完全な理論なんだ、と思っていたけど。

 こうして、何度も告げられる。原子は実在を疑わせ、現実は不確定で、その世界はたとえアインシュタインが否定しても、<主観>、つまり<人間の精神>にまでぼんやりと広がっている・・・。

 嫌悪してるのは、思い当たる節があるからだ。

 共依存だなんて口からでまかせのインチキだって、でも、僕が半ば病的に黒井を求め、浸りこんでるのは事実で、その延長にめまいや耳鳴りや、マヤが出たりなんて異常があるのは自分でも分かってる・・・。

 乾いていて清潔で、完璧な物理学の奥に、気持ちの悪い<精神>が絡んでいる・・・。

 でもたぶん僕はそれを認めなくちゃいけなくて、でも、もし踏み込むなら、せめてパウリからだった。



・・・・・・・・・・・・・・



 電車が揺れて、黒井が起きた。

「俺・・・寝てた」

「うん」

 目をこすり、僕が持つ本をのぞきこんで言う。

「あれ、まだそんなとこだった?」

 開いているページを見ると、例のユングが出てきたページ。つい読み返していたのだ。

「あ、いや・・・ちょっと、ユングなんて名前が出てきたからさ、読み返してた」

「ふうん。興味あんの?」

「え、別に、ユング心理学に傾倒してるとかじゃないんだけど、どちらか言えば行動心理学とか犯罪心理分析とか、いや、まあ、その、全部の基礎というか源流はユングとフロイトに遡るわけで・・・」

「んー、難しいことはよくわかんないけどさ、なら、俺本持ってるよ」

「え?」

「ユングとパウリの話。数秘術だとか、夢分析とか」

「そう、なの?」

 黒井は手の甲を口にやってあくびをし、今度貸すねと言った。


 終点、中央林間で折り返し、また違うルートで帰りたいと言う黒井は、検索を僕に任せ、自分は寝てしまったところから三章を読み始めた。

 ええと、縦のラインで北上するには・・・。

 車内の路線図を見上げ、それらしいものにあたりをつけて検索をかける。

 武蔵溝の口から出てる、南武線というやつか?

 これで分倍河原まで行ける。桜上水にはずいぶん遠いけど、まあ行けないことはない。

 ・・・僕のうちに、泊まったりする?

 あのお洒落なスーツ、クリーニングが終わってずっと預かったままだし。

 

 しかし、溝の口で乗り換えるとき黒井の口から出たのは「ちょっと疲れたね」、そして「帰ってUFOでも食おうっと」。そう。そうですか。俺よりカップ焼きそばの方がいいですか。日曜の朝から会ったのに、昼飯すら食わずにバイバイしますか。

 僕が恋人じゃなくてよかったね。

 こんなデートで、文句も言わず「また明日」って、気楽でいいね!

 ちょっとヤケになって手でも繋いでやろうかと思ったけど、不自然に握ったり開いたりして終わった。・・・いや、まあ、楽しかったんだ。一緒にいれて嬉しかった。

 最後の最後までもしかして、と期待したけど、あっけなく「じゃあね!」と別れた。こないだは「別れたくないね」って言ってくれたのに。

 ・・・まあ、言っても「そうだね、もっと話したいね」すら返さない僕に、言い甲斐もないか。

 UFOもうまいけど、俺が作ってやるって、当たって砕けたってよかったんじゃないかって話か。

 

 途中のコンビニで馬鹿みたいに自分もUFOを買って、いじけながら食べた。

 鞄の中の袋を出して、ビーグル号(下)を取り出し、せめて黒井の部屋のにおいが移ってないかって・・・あれ、何か他に入ってる?

 ・・・しろねこ、だった。

 千葉についていった、僕の分身。

 白猫というより灰色猫くらいになってるけど、その不細工な猫は、およそ三ヶ月ぶりに僕の部屋に帰ってきた。

 そして、僕は、思い出してあのノートを引っ張り出す。

 <およそ三ヶ月>、それは、僕たちが四ツ谷の駅のホームでキスをしてからの時間であり、そして、それが最後のキスの記憶だった。



・・・・・・・・・・・・・



 僕は2月の、<・素粒子勉強中←今ココ>の<←今ココ>を二重線で消して、焼きそばそっちのけで続きを書き始めた。


<10月>

・黒井が支社に来る(9月中だったかも?)

<11月>

・「山猫」と呼ばれる

・残業中にクッキーをあげる

・翌朝カロリーメイトをもらい、山猫写真集を買いに行く

・電話が来て、忘年会の下見に誘われる

・夜、みつのしずくへ行き、爆笑

・二、三回、内勤中の昼飯で一緒になる

<12月>

・忘年会、大月さんを連れていく補佐になる

・酔った黒井をタクシーで送る(直前に、初めてあの感覚)

・そのまま泊まり、マフラーをとアドレスを交換

・タイムズスクエアデート、浅田と鷹野を見てしまい、ちょっと抱き合う

・クリスマスイブ、飲み会で会い、そのまま泊まる(キスする話~急性アル中?)

・クリスマス

 ・満員電車で遅刻寸前

 ・トイレでキスされた(唇を噛まれた?)

 ・総務課長に見つかり、喧嘩の演技

 ・マンガ喫茶に泊まる

・喧嘩沙汰が大事になり、気まずくなる

・正月休み、アリジゴク

<1月>

・みーちゃんに会い、生還

・電話が来て、仲直り?する

 ・帰省してたらしい

 ・友達(みーちゃん)の事、嫉妬される?

 ・好きかと聞かれ、キレた(泣かせた?)

・正月明け、留守電の件で土下座させる

・寝過ごしてうちに泊まる

 ・マヤが出た

 ・病院送りになる

・大江戸温泉物語~黒井のうち

 ・<ご休憩>で記憶が飛ぶ

 ・人生に本気になった話

 ・風呂を洗った

 ・過ちを犯す

 ・屋上で喧嘩

・アイロンを贈る

・藤井に<告白>される

・藤井からのCDを持って黒井が訪ねてくる

 ・病院付き添い

 ・コンポをもらう

 ・発熱、看病される(口移し、座薬・・・)

 ・<二度としない>キスをされる

・本番

 ・タバコを吸った

 ・人質ごっこをやりたい話

 ・<本番>スタート

 ・死んだかと思い動揺、裸で抱き合う

<2月>

・本番で負け、<部分と全体>をもらう

・ビルの外で雪を見る

・二度目の雪、電話で<黒井彰彦>の話

・三度目の雪、バレンタイン合宿

 ・オランジェットをあげる

 ・物理を<一緒にやる>

 ・ドイツと、<興味がある>話

 ・物理をたどる旅、会社が嫌になる

 ・幻覚の<中身>に入ってきた黒井

・<また>物理の話、聞かせてください

 ・素粒子勉強中

 ・口を利かないと決め、電話で喧嘩

 ・失った何かの話

 ・電話を切って、一緒に・・・する

・ダンボールで指を切り、なぜか、<友達>に戻った

<3月>

・何とも思わないまま残業漬け

・不能?

・ホワイトデー、藤井とホテルへ

・転勤かと勘違い、研修時に会っていたことを聞く

 ・ホテルで、「中身、出して」と言われ、キスした

 ・一ヶ月千葉へ行くと聞かされる

・停電、失くしたものを取り戻す話

 ・初めて自分からキスした

・花見と送別会

 ・鍵を預かる

 ・花びらを舌で奪われる

 ・<自分の力>の話

・時間感覚の話

・四ツ谷の駅でキスしたいと口を閉じられる

・しろねこを渡して一ヶ月の別れ

<4月>

・黒井の部屋をひたすら片付ける

 ・オーディションの葛藤のメモを見つける

 ・南京錠の謎解きで、ネクタイをもらった

<5月>

・帰ってきた黒井と<アバター>鑑賞

・千葉で海を見た話

 ・また、本番をやりたい

 ・<俺のために生きてくれたらいい>

・GW

 ・親戚の不幸で、慰めてくれた

 ・蜜の雫~マンガ喫茶

 ・<アトミク>命名

 ・カラオケ、<愛してる>を聴かれ、<泣いて泣いて泣きやんだら>を聴いた

・誕生日

 ・前日、呼び出して公園へ、ホーム・プラネタリウムを渡す

 ・中身を出す約束・・・

・二人とも、営業事務的なことをやるポジションになる

・<ATOM>を一緒に読む

・耳鳴りと佐山さんの話、<ごめん>のメール

<6月>

・ミネラルフェア

 ・石をもらう

 ・黒井がおねえさんと食事、共依存の話



・・・・・・・・・・・・・・・



 六月二十三日、月曜日。

 久しぶりに写経の朝。

 ちょっとだけ忘れかけている。物理にしろ般若心経にしろ、やり続けないと忘れるな。

 スクワットだけ何とか続けているのは自分でも褒めてもいいと思った。まあ、隣の西沢なんかに比べたら、腕も、胸板も、どことはいえない何もかもが薄っぺらくてひょろいけど。

 朝礼後、予定通り課長が出かけていった。まあ、留守にするとはいえ出張するわけでなし、夕方か夜には戻るのだから、そこまで身構えることもあるまい。


 ジュラルミンは一人で取りに行ったけれども、その後キャビネ前に集う三人に合流し、温かく迎え入れられ、ものすごい満足感。スポロンとかいう懐かしいジュースの話で、佐山さんと黒井が「あ・・・し、知ってる!」と反応し、僕と島津さんが首をかしげる。三十代と二十代という新しいクロスが発覚し、三十路組が苦い視線を僕たちに向けた。

「ね、黒井さん、今度買ってきますから、一緒に飲みましょうよ。この二人はほっといて」

「ほんとだね、そうしよっか。まったくスポロンも知らないひよっ子のくせに仕事だけこなしちゃって、やな奴らだよ」

「おい、何だそれ?」

「意味が分かりませんよ。むしろ知らないのだから、私たちが頂いて飲んでみるべきでは?」

「はは、あげないよ。ねえ?」

 佐山さんは笑ってそれに答え、島津さんは僕に肩をすくめてみせた。

 ただそれだけで解散したが、僕にとっては、得られるはずもなかった遅咲きの青春だ。

 もちろん黒井と二人の青春も最高だけど、やっぱり女子がいるのは嬉しくなる。佐山さんは妊娠中で、島津さんは何となく彼氏と同棲中っぽい雰囲気だけど、それが逆にいいのかもしれない。妙な期待を持たなくて済むし、向こうも余裕があるだろうし。っていうかまあ、女性二人が黒井にアタックをかけないから安心なんだ。僕のことはまったく関係ないとしてもね。


 火曜日。

 午後、また雷が鳴った。 

 幸い、駅直結のビルの客先にいて、雨に降られることもなかった。

 しかし、帰社して普通に残業していたらグループ長に声をかけられ、「山根の方は大丈夫か?」と。

「え、何ですか?」

「雹だよ、雹」

「はあ?」

「何か、調布の方とか、ひどいらしい。さっき佐藤さんがひどい目に遭ったって騒いでた」

「調布?雹?」

 早速ネットで検索すると、局地的に雪景色みたいになっているらしかった。西沢と横田も隣から覗き込んで「ええ?」と声を漏らす。え、六月だぞ?何だこれ?

「なんだったら、早めに上がっていいぞ?」

「あ、でも課長に一件伝言が」

「ん、本社からのやつ?ああ、それ聞いてるからいいよ」

「そ、そうですか。じゃあ、お言葉に甘えて、ちょっとキリがついたら」

 

 しかし、写真で見たような奇異な景色を期待して帰ってみれば、何のことはない、うちの駅は大したことになっていなかった。ややみぞれっぽい水溜りがあるくらいで、ゴルフボールみたいな白い雹がごろごろ道路中に転がっていたりしない。ま、結局台風は反れるし運動会は潰れないんだ。

 予期せず早めに帰れたから、買い物をして生姜焼きを作り、テレビで安っぽいサスペンスを見ながらそれを食べ、スクワットをした。どれだけ安っぽかろうが茶番劇だろうが、死体があって、ホワイトボードに写真が貼られ、聞き込みを開始するのは、まるで渇いた喉を潤すように心地がいい。話の筋などどうでもよくて、ただそういうことが行われているということが、僕にとってはゆりかごのように安心することなのだ。

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