第213話:情報漏えい疑惑

 水曜日。

 朝の歓談タイムの後そのままコーヒーに誘われて、もう天国に飛んでいきそう。

 課長もいなくて羽が伸ばせるし、仕事もそこそこ順調だし、ちょっと、浮かれてしまう。チャンスなんじゃないの、なんて、大胆になってしまう・・・。

「ね、ねえ、あのさ」

「うん?」

「あの・・・き、今日、お前のうちに押しかけようかな、なんて」

「え?」

「いや、だから、風呂を洗いにだよ!」

「ああ、そっか。うん、来てよ」

「・・・そうそう、湿気取りの水取り剤も設置しといた方がいいし、あと、ビーグル号の上巻も持ってきたし」

「ん、そっか、楽しみ」

「う、うん」

「じゃあ一緒に帰ろ。俺、早く終わらすから」

「・・・うん」

 顔を、見れないよ。

 夕飯を作って、風呂掃除をして、湿気取りを置くだけじゃなくて・・・あわよくば、キスしたいなんて、思っちゃってるよ。ほんの、触れるだけのそれでいいから、キスって行為がしたいんだ、お前と。



・・・・・・・・・・・・・・・・



 しかし、帰社して、怪しい紙が机の上に置いてあって、ほんの少しだけ嫌な予感がした。

 本当にちらっとだけ、まさかこれが面倒事になったりしないよな、なんて、頭を掠める程度。

 でも結局その予感は的中して、ほんの一本の電話が、あれよあれよと大事になっていった。


 佐山さんが帰りがけに、「新人さんが取った架電メモ、四課宛てみたいなので、とりあえず山根さんの机に置いといてもらいました」とのこと。課長がいない間ひとまず僕が御用聞きをしているからそうなったわけだが、しかし、メモを見てもどうにもぴんと来ない。あらかじめ言われていた本社がどうこうでもないみたいだし、課長が今行っている客先でもない。

 聞いたことのある社名だけど、しばらく見てないな。

 っていうか、三課の顧客になったんじゃなかったか?あれ、どうだったかな。

 とりあえずG長に「ここ何かありましたっけ?」と聞くも、「いや、知らない」と。

 システムで履歴を見るけど、やはり一度は三課の担当になっていて、しかし今は四課の顧客だった。

 ランクは、Z?

 何だ、休眠客じゃないか。今更何の用だ?

 もしかして復活?ああ、新人が電話して、案件に繋げたってことか?すごいじゃないか、大口だぞ。

 新人の名前を見ると、山田とあった。

 うん?もしかして四課に仮配属になったやつか?

 あまりに印象が薄くて、しかも平凡すぎる名前で、それで逆に覚えていた。

 僕は新人の島に赴き、女子たちがそわそわと帰り支度を始めている中、急いで山田氏をつかまえるべく、聞き込みを開始した。

「あの、ちょっとごめん、山田くんって?」

「え?あ、あそこの席なんだけど、どこ行ったかな・・・」

「山田さん?さっきまでいたと思ったけど・・・」

 同期の間でも存在感が薄いらしい山田氏は、ほどなくしてプリンター用紙のダンボールの前で発見された。自ら雑用を買って出て、用紙の補給に励んでくれているらしい。馬鹿がつくほど真面目、というやつなんだろう。

「あ、あの、山田くん?」

「はい、何でしょう」

 山田氏は、いまひとつ<山田クン>とは呼びづらい風貌の、小柄なおっさんみたいな新人だった。おっさんといっても、特保の烏龍茶片手に汗を拭いているようなそれじゃなくて、もっと、雰囲気が枯れている。ああ、距離感が分からない。でも話してみると事務的な話はそこそこ的確に通じるようだった。

「あの、このメモなんですが」

「はい、ぼくが受けました」

「申し訳ないんだけど、もう少し詳しく説明してもらっても・・・」

「はい、はい」

 少し神経質そうに銀縁の眼鏡をずり上げ、「あのですね、向こう様が仰るには・・・」と、ちょっと回りくどい説明が始まった。


 まず、相手先担当者は、何とか管理部のチーフマネジャーなる女性。特に怒った様子もなく、上を出せとも言わず、山田氏相手に淡々と事情を説明したらしい。まあ、山田氏の落ち着きぶりから、課長か部長あたりと勘違いしたのかもしれない。

「担当者に代わりますと申し上げたんですが、どうも、今はお使いでないらしいんですね。ぼくはちょっと待っててもらいまして、顧客管理システムと、今架けている<Z電話>のリストと照合しまして、それでどういったご用件になりますか、と訊きました」

 女性は、御社の情報管理についてなのですが、と言ったらしい。

 山田氏は、そこでてっきり案件の話かと思い、我が社がそのようなシステムを扱っていただろうか、といくつか思い浮かべながら聞いていたとのこと。しかしどうやら情報セキュリティのパッケージシステムを導入したい、ではなくて、御社の情報管理は一体どうなっているのかと、そう問われているようだった。

「え、な、何かやっちゃったってこと!?」

「いえ、とにかくまず確認したいんだと、そう言っておられました。出来れば内々に話を進めていただきたいというようなニュアンスで」

「・・・け、結局何の話、ってわけ?」

「情報漏えいではないでしょうか」

「・・・」

 ・・・これは、新人のおかしな早とちりか?

 それとも、本当の本物の大事か?

「ちょっと私では分かりかねますと言うと、名前を失念してしまいましたが、何とかいう文書の形で提出して頂きたいと」

「はあ?」

「その、以前の契約書の約款のようなものを添えて、今週中に欲しいとのことでした」

 僕は思わず手近なカレンダーを見る。今週ってことはつまり、明日と明後日じゃないか。はあ?いったい何の話なんだ?

「それで、何て返したの」

「とにかく上の者に申し伝えますと。私では即答致しかねますので、折り返しお返事いたしますと言って切りました」

「・・・そ、そう」

 事情が分かっているのかいないのか、しかし山田氏の対応がしっかりしていて助かった。ここでわけもわからず「はい、すぐに出しますので、申し訳ありません」などと言ってしまっては後々面倒を呼ぶ可能性がある。

 僕は声をひそめ、「情報漏えいって、確かにそう言われたの?」と念を押した。

「いえ、情報管理の問題、とだけですね。ただ、以前使っていたシステムにしても人事系がメインのようですし、社員の個人情報、とも仰っていたと思います」

「・・・ちょ、ちょっと、詳しく聞かないとよく分からないな」

「はい、申し訳ありません」

「いや、別に山田さんは悪くないよ。しっかり受け答えしてもらったと思う。とにかく、この件は帰ってきたら課長に相談するから。またちょっと、話訊くかもしれないけど」

「はい。では、ぼく残ってますから」

「・・・あ、そっか、ノー残か。あ、それならいいよ。どうせ今からここに電話出来ないんだし、対応は明日以降になるんだし、明日でいい」

「いえ、残ります。申し訳ありません、至らないところがあって」

「いや、もしかして実は大したことじゃないかもしれないし、勝手に僕が残らせるわけにも、ほら、そんな権限もないし、どうぞ、先に帰ってください。その代わり、明日念のため少し早めに来といてもらえば」

「・・・はい。朝は八時半から来てますが」

「そ、そう。それならいいや。とにかく、どうもありがとう。お疲れ様でした」

「はい、お疲れ様でございます」

 

 山田氏は妙な確信を持って情報漏えいでは、と言い、僕は意図をつかめもしないまま徒にその顧客の履歴を洗い出してプリントアウトし、何と切り出したものか迷いながら課長を待った。G長に先にどこまで相談しておくべきか悩んだが、そうこうしているうちに皆帰っていってしまった。ノー残で課長もいないから今のうちとばかり、18時過ぎにG長自ら席を立つ。まあ、一応元の担当営業であるG長は「知らない」と言っていたのだから、突然のこの電話も思い当たる節などないだろう。

 僕はだんだん気が気じゃなくなってきて、この会社のホームページを調べたりしたがまあ当然何も出てこなかった。ただ、引っ掻き回して探したエクセルのリストの備考の中に<Yに移行>とひとことメモがあり、それは何と数年前、自分が新人のときに架けたZ電話で判明したものだった。

 ・・・このメモは、僕だ。

 署名はないけど、だって、あの<日本鳩協会>のひとつ前だし。

 つまり僕の頃には既に休眠客になっていて、僕が競合他社に移行したのを確認したということで、それ以上何も取引はないはず。うん、それならどうして今年のZ電話でリストに浮上してきてるんだ?

 心拍数が無駄に上がったまま、新人の世話の伊藤さんに内線をかける。幸いまだ残っていたので、特に何でもないふりで訊いてみた。

「あの、つかぬこと訊くんですが、今年のZの電話架けって、前に<他社移行>ってなったやつも含めてます?」

「いえ、それはないと思いますけど?」

「あ、いや、何か自分が新人のとき架けて、そう言われたよおーな記憶があったとこ、今また架けてるみたいでしてね。あれ、勘違いかな」

「え、何てとこですか?」

 社名を告げいったん切ると、五分後に内線が鳴った。

「さっきのところですね、社名変更して、子会社の系列と分かれてるんですね。その子会社のうちの一つがYに移行してるようで、ええ、親の方がちょっと不明だったんですね。他の系列でそのままうちを使ってるところもあるんですけど」

 何とかエンジニアリングとか何とかホームシステムズとか、いくつか社名を言われるけど、メモしたそばからよく分からなくなった。しかし、いったいどこまで何を下調べしておくべきか、うう、これは警視庁の捜査二課ってのも相当面倒そうだな。企業系の犯罪を洗うといっても、大企業になればなるほど実態がぼやけて煩雑になり、決算報告書なんか読んでも分かりそうにない。


 そうこうしてるうちに課長が帰ってきて、真っ先に相談しようとして、思い出した。

 今、何時だ?

 腕時計と会社の時計とPCの時計を見て、19時過ぎ。

 三課を見る。黒井の席は空。

 僕は立ち上がったその足で携帯をつかみ、廊下に出た。


 メールが一件。


<本屋で適当に待ってる。今日も雷鳴ったね!>


 ・・・おい!

 何でこんなときにこんな面倒が降ってわくんだ?

 もう、何も聞かなかったことにして帰っちゃう?

 意図不明の電話は、結局僕がどう説明したって今の今で解決できるわけもないだろう。

 自分を優先しようか。

 明日の朝イチでいいか。

 だってクロが待ってるんだぞ?

 これからイイコト出来るかもしれないんだぞ?

 ・・・ちらっと説明だけして、あとはまた明日、ってダッシュで帰ろうか。

 でももし何かで長引いたら、メールを返してる暇もないだろう。

 今、どっちか決めて返事をするしかない。

 <待ってて、すぐ行く>、か、<ごめん、今日は帰れない>・・・。

 ・・・どっちでもいいように、<先に帰ってて。行けたらお前んち行くよ>?

 それも優柔不断な気もしたし、来るのか来ないのか分からないまま待たされるのも嫌なものだろう。

 くそ、せっかく自分で作ったチャンスなのに、こんなことでだめになるのか。

 「早く終わらすから」なんて言ってくれたのに、クロ、本当にごめん。


<ごめん、ちょっと面倒が持ち上がって、帰れなくなった。

 待っててもらったのに、本当にごめん>


 奥歯を噛みしめ、吐くため息すらなく、送信ボタンを押した。

 そして、「おい、どういうこと?」を連発されながら、課長に相談した。


 結局、山田氏の<情報漏えい>の直感を信じ、最悪の事態に備えるのかどうか、ということだった。

「おれ明日直行の予定なんだよ。でもさ、もしこれがそういう問題なら、それどこじゃないじゃない?もしものもしもを想定するなら、もうこれは・・・」

「・・・四課とかそういう話じゃ、ないですね」

「何だよ、何なんだよいったい。ええ?履歴、もうこんだけ?他に何か怪しいもの出てこない?」

「一応、フォルダは大体検索かけましたけど、今のところ・・・」

 しかし、社名が微妙に変わっているし、うちの管理もZとなると余計ザルになるし、確信はなかった。課長が焦ると僕が「でも・・・」となだめ、僕が焦りだすと課長が「いや、まあ・・・」と落ち着きを取り戻した。

 努めて冷静に、事実だけを正確に、と心がけていたけど、もしかして、下っ端らしくぎゃあぎゃあ騒いでた方がむしろいいってこともあるのか?

 いや、まあ、僕がそんな演技をするかどうかなんてレベルの話じゃないかもしれないし、今はこれ以上どうこうする余裕もない。何となく、無意識に僕が課長の不安を煽って焚きつけたような気さえするけど、でも、どっちにしろ今更、何をどうすることも出来ない。

 ・・・大事に、したかったのか、僕が。

 情報漏えい、謝罪記者会見、お詫び行脚、損害賠償責任、倒産・・・なんて最悪のシナリオを想像して、さすがにそれだけの問題に対処してるとなれば、黒井との約束を反故にしたからといって仕方ないんじゃないかという、僕のどうしようもない天秤。

「でも、どっちにしても明日電話してみるしかないしな」

 五回目か十回目かそうつぶやいて、課長は中山に相談に行った。

 僕はどこぞのファイルに何か紛れていないか検索を続け、もういいかな、これで終わるか、と思いつつ、最後の一つで重要な何かを見逃していたら、と思うと手を抜けなかった。途中から旧社名でも検索していたが、どこからそうし始めたのだったか思い出せなくて、全部洗い直すことになる。しかも、焦って検索の社名の間に<j>とか細い棒が挟まっていたりして、またやり直し。ああ、やるなら思いつきのさみだれじゃなく、方向性と手順と範囲をしっかり定めてからやらなくては。

 ・・・ああ、どうせ、急いでるわけじゃないんだったか。

 焦ったって意味なかったのか。もう断っちゃったんだから、今更だ。

 課長たちにも放っておかれた僕は、アルファベット三文字の超巨大企業の名前を冠したその子会社を、半角英数にしたりカタカナにしたりして検索を続け、とりあえず自分が納得できるところまで過去の共有ファイルやシステムの履歴を洗った。22時になり、課長たちに声をかけようとすると、「おい、もう帰れ」と中山に怒鳴られて終わった。道重課長は「明日、明日な」と苦い顔で細かくうなずいてみせ、僕は無言でオフィスを後にした。



・・・・・・・・・・・・・



<そっか、わかった>


 地下通路でそのメールを見て、今すぐ電話してすべてをぶちまけてしまいたいけど、別に黒井はそんなことを聞きたくはないだろうなと思ってやめた。今<ようやく終わった>とメールしたって、まるで<こんな時間まで?大変だったね>って言ってほしいみたいで、嫌だった。

 ・・・<わかった>、って言ってるんだから、それまでだろ。

 <何で?約束したじゃん>とか、<ええ?何があったの?>とかだったらすぐ電話して説明もするけど、そうじゃないんだし。

 っていうか黒井だって大人だし、それくらい察するだろ。これくらいのことで、何だどうしたと騒ぎ立てる理由もない。

 そして、真っ暗な車窓を眺めながら、ふと思った。

 黒井が恋しくて、会えなかったのがつらくて、嘆いてる、だけじゃない。

 俺が悪いわけじゃないんだ、仕方がなかったんだって言いたい方が大きい。自己保身と自己弁護。

 いや、面倒な電話の件は本当に僕が悪いわけじゃない。それは分かってる。たとえ新人のときの僕の処理が間違っていたにしたって、それが今日の情報漏えい?問題を引き起こしたとも思えない。僕は最善を尽くしただけだ。

 それなのにどうして罪悪感を感じて自己弁護に余念がないのかといえば、それは、たぶん、・・・僕が自分から黒井に「押しかける」なんて言ったから、だ。

 僕は自分から声をかけるのが悪いことだと思っていて、そのことで何が起ころうと、自分のせいだ、こんなでしゃばったことするんじゃなかった、と嘆くことになる。世界に間違った渦を起こして、たとえ一瞬でも誰かが「あーあ、せっかく・・・」とか思うだなんて許せない。僕のせいで誰かのつつがない生活が乱れるだなんて、そんなの許せない・・・。

 ああ、もう本当にどうしようもないミミズみたいな存在だ。土の中に潜って静かに息だけしていたい。嫌だ、嫌だ、誰にも見られたくない。世界からいったん消えてしまいたい。眼鏡を出そうと思ったけど、こちらから向こうがよく見えてしまうのが嫌で、逡巡した。度なしのダテ眼鏡も作ろうか?もう怪しさ全開でサングラスでもしちゃう?

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