第214話:来週は出向

 翌朝、歓談タイムは和やかに行われたが、ちょうどその時課長が例の電話をかけていて、僕は気もそぞろだった。黒井は昨日のことを気にしているような様子もなく、まったくいつもどおり。ほっとする反面、少しさみしいような気もする。勝手なことだ。


 電話は終わったようだが、昨日あれだけ話したのに課長は僕に顛末を話してくれるでもなく、僕はそのまま外回りに出た。まあ、そんなもんだろう。特に何事もないのならそれでいい。何か僕のせいでえらいことになってるんじゃなければ、それでいいんだ。


 帰社してみると課長はいなくて、ああ、あれからふつうに直行するはずだった客先に行ったんだな、と思っていた。課長席の内線が鳴って「代理応答山根です」と出ると、「小川ですけど、道重君は」と。

 少々お待ちください、と保留にし、課長の机の上をあさる。

 ええと、確か誰かから連絡が来たらこのファイルをどうとかって・・・。

 小川・・・だっけ?

 課長の電話の横の内線メモで、よくかかってくる本社の面々の名前を見る。

 小川って、・・・え、執行役員?

 慌てて島に取って返し、佐山さんに「あの、課長は?」と訊くと、「何か、さっきぞろぞろと、ミーティングルームですかね」と。

「え、客先じゃないの?もう帰ってきてるの?」

「いえ、一日いらっしゃいましたよ。何か、バタバタしてるみたいで」

「で、今、あっちの部屋?」

「はい、たぶん・・・」

 見渡すと、三課の中山も、そして、支社長もいない。

 まさか・・・?

「お、お待たせしております。どうやら今ミーティングルームへ行っているようでして・・・お急ぎでしょうか」

「なに、もう始めてるの。ああ、そう。いや、私もさっき上から行って来いとか言われてね、事情がよくわからないんだけど、まあいいや。とにかく行きます。何か言われたら、今向かってるって言っといて」

「は、はい、承知しました」

「はい、どうも」

「はい、失礼いたします・・・」

 切れたのを確かめて慎重に受話器を置き、一度深呼吸した。

 何がどうなってるのか知らないけど、・・・僕のせいじゃない。

 年末のあの騒動の時みたいに、やっちゃったわけじゃない。

 とりあえずそれだけ自分に確認して、次の瞬間には野次馬根性で、再び佐山さんの席に向かった。



・・・・・・・・・・・・・・・・



「ええ、何かずいぶん長く話し込んでて、それはそちらの問題だとか、こちらとしても何も出来ないとか、そんな感じで・・・」

「うん、うん?」

「でも午後にまたお話されてて、何か、そういうことは私の一存でどうこうできないし、今日明日の話でもないって・・・でもその後支社長もいらして、今度は支社長からお電話したみたいで、あとはもうあっちこっちいろんな人がバタバタで・・・」

「・・・何か、まずいみたいだった?その、何ていうか、やばいっぽい雰囲気?」

「うーん、どうでしょう。やばいというか、戸惑ってるみたいな・・・ぴりぴりはしてるんですけど、平謝りモードじゃなくて、・・・何だか迷惑そうでしたね」

「迷惑そう」

「はあ。何でうちがそんなこと、みたいな」

「ふうん。じゃあまあ、倒産の危機じゃないのかな」

「えっ?」

「あ、いや、こっちのこと」

 支社長と本社の役員まで引っ張り出して、しかし、顧客データの流出が発覚して引っ繰り返っているわけでも、なさそうだ。

「あの、山根さん」

「はい?」

「すみません、ちょっと、実は・・・」

「え?」

 佐山さんはそう言って、手首の内側の小さな腕時計を見た。僕もついつられて自分のを見る。時間は16時半。

「あの、ひとまず今日の分は大体終わらせてあるんですけど、実は・・・」

「うん?」

「ちょっと、貧血気味というか、気分が」

「あっ、ご、ごめん、すみません気づかなくて。こっちは大丈夫だから、帰った方が・・・電車とか、混まないうちに」

「すみません。あの、勤務表・・・」

「あ、そうか。えっと、どうしよう、俺のハンコでいいかな」

「社員さんであれば、たぶん大丈夫です」

 派遣会社のタイムシートに佐山さんが1630と書き込み、いつも課長がハンコを押しているところに僕がシヤチハタを押した。何だかちょっと優越感というか、こそばゆい気分・・・。

「一人で大丈夫?・・・っていっても、家まで送るわけにもいかないけど」

「ふふ、たぶん、何とか大丈夫・・・。もし本当にまずくなったら、裏番かけます、なんて」

「はは、分かった。鳴ったらすぐ取るよ」

「すみません、それじゃ、お先に・・・」

「うん、気をつけて。明日も、無理しないでね」

「はい、ありがとうございます」

 それはただの体調不良じゃなくたぶんつわりというやつで、だから何となく僕たちは小声で、佐山さんはそっと逃げるようにドアをすり抜けて行った。17時を過ぎると会社の電話は通じなくなるが、社員だけが知っている裏の番号、通称裏番は、結局鳴らなかった。自分だけが事情を知ってようが、相談されてようが、佐山さんのことも、昨日の電話のことも、別に僕がでしゃばる問題じゃない。手を広げたって解決できるわけでもないのに、問題が散らばってると見れば対処したくなってしまう。もっとミニマムに生きるべきだ。小さく、小さく、確実に出来ることだけを拾っていけばいい・・・。

 ・・・だから黒井に抱かれたいんだな、と、思った。

 別にオカマっぽいとかそんなんじゃなくて、ただ、自分の責任であいつをどうこうなんて出来ないからだ。される分には、構わない。してって言われたら何でもする。その方が僕には心地いい。女の子に上から乗られたいとは全然思わないんだけど、黒井には、めちゃくちゃにされたかった。

 あいつのために生きるって、決めてるけど。

 でも、だからって自分の欲望をぶつけていいだなんて思えないし、そして、その結果を引き受ける覚悟もない。

 ・・・覚悟がない?

 何だ、結局男らしくないって話?

 まな板の鯉は、ベッドの上では冷凍まぐろだった?

 こんなことでは、黒井に好かれないな、と思った。

 もっと強く、もっと鋭くならないと、かっこいいなんて思ってもらえない。

 自分の中での二人のジェンダーが錯綜してるな、と思いつつ、横田の「何か大変そうっすね」に「そうっすね」と返し、気乗りのしない残業をして帰った。課長は結局戻らなかった。



・・・・・・・・・・・・・・



 金曜日。

 佐山さんは無事来ていて、しかし朝は島津さんと体調の話をしていたようで、歓談タイムは何となく遠慮した。

 少し皺のついた白いシャツの後ろ姿を見つめ、黒井のことを、かっこいいなあと眺めている自分がいた。その髪とか首とか肩幅とか、網膜に映っただけで至福の時間だ。思い出して慌てて眼鏡をかけ、クリアな視界でもう一度見たときには、歩き去ってしまっていた。ああ、精度を上げても、量子の位置と運動量は同時に定められない・・・。


 帰社して、来週の親睦会のお知らせメールを書きながら、何となく例の電話の騒動が漏れ聞こえてきた。

 何だかよく分からないが、今はZになっているその会社の人事データが流出した、という<疑い>があるらしい。そもそもそこからしてはっきりしないのだが、とにかくそれを検証すべく同社は動き出し、以前うちの人事系のシステムを使っていたということで、うちに電話がかかってきた・・・。

 って、そんなデリケートな問題、「おたくじゃないですか?」「いえ、違うと思いますけど」で済むような話じゃないだろう。

 どのレベルの話なのか見えないまま、課長とそのチーフマネージャーとやらで協議していたが、どうも、ちぐはぐだったらしい。証拠もないままあらぬ疑いを吹っかけてきているにも関わらず、<うちはデータを不正に入手していません>という旨の文書を出せと何食わぬ顔で言ってきたそうだ。どうやら向こうは、自分たちが直接困っているというより、憶測だが、今度の株主総会であれこれ言われないための防衛線を張っておこう的な魂胆ではないかとの話だった。

「で、結局流出はあったわけなの?」と、内勤中に情報を仕入れた横田に訊いてみる。

「いや、それを言わないらしい、っていうかまあ言えないんでしょ。っていうか、そんな文書を寄越せって言ってきてること自体・・・、だから危機管理がなってないのよきっと」

「ええ、でも何だかおかしな話だなあ。もっと裏があったりするんじゃないの?」

「さあ。今は執行役員と常務と、向こうの役員レベルで話し合ってるみたいだけど。うちとしてはそういう事実がない限り突っぱねるだけだし、そもそもそんな話が上がってること自体醜聞なわけだからさ、その文書とやらを出すの出さないので揉めてるらしい」

「へえ、まあうちじゃなきゃ何でもいいけど」

「どうやらさ、うち以外にも、ほら、乗り換えた先にも同じこと吹っかけてるらしいって話でさ、何かやばいよね」

「ってか頭おかしいんじゃない?向こうの担当者。どう考えてもまともな話じゃないでしょ」

「何たらいう、個人情報保護だかの法律を盾にしてるとか何とか。ま、こういうトラブルの時のための役員様でしょ?いいじゃない本社に出張ってもらえば・・・」

 ・・・。

 ふうん。

 ついつい法律と社会規範と良識でもって「~であればこれこれこうすべき」ってジャッジしたくなるけど、横田が「ま、俺たちには関係ないっすね」とたしなめてくれて、「まったくだね」と我に返った。


 そして、ようやく課長一同が戻ってきて、「いや、まったくわけわかんないよ!」と苦笑していた。G長が「そらあお疲れ様です」と他人事のようにねぎらい、みんなも笑って空気が和んだところでなぜか僕が呼ばれた。

「ちょ、ちょい。こっち来て」

「はい?」

 てっきり僕にだけは詳しい顛末を教えてくれるのかな、なんて思う僕は、いつまでたっても学ばない甘ちゃんなんだ。

「あのね、山根君にはね、来週からいなくなってもらおうと思って」

「はあっ?」

 どっかり椅子に座って息も整わないまま課長は笑った。

「はははっ、うそうそ、いや嘘じゃないけど。いやね、言おうと思ってたのにこれでしょ、突然で申し訳ないんだけど、ちょっと来週、駆り出されてくんないかね。向こうの島に」

 課長が首で示したのはどん詰まりの向こう側。本社のビジネス某が居座っている方だ。

 ・・・新人の世話なら、黒井と一緒かもしれないのに、違うのか。

「・・・はあ、何ですか?」

「まあ、ほら、例の、あちらさんが謳ってるやつ、あったでしょ。進捗管理だ何だって、新人にはイチから教えようってやつ。あれね」

「はあ」

「何かね、下期あたりから、こう、お前さんに教えてもらおうって思ってたわけだけど、その前にさ、マニュアル作りたいんだって」

「・・・はあ」

「いや、こっちから言ったことではあるんだけどさ。マニュアル整備も時間がないし、難しいですよって。そしたらこっちで作るって意気込んでるんだよ。それで、一人手伝い寄越せって、まったくどいつもこいつも」

「・・・僕が作りましょうか」

「・・・あ、ああ、いやいや、本当はそれが一番いいんだろうけどなあ。向こうのメンツっていうかさ、あくまで主導権握りたいわけでしょ?」

「はあ、そうか、そうですね」

「作るなら作るで勝手に作ってくれればいいのにさ。そしたらこっちで使いやすいよう手加えて使うのに、何だ、現場でやってる方の声が欲しいからとか、熱意は認めるけど正直ありがた迷惑なんだよなあ・・・」

「・・・まあ、何でもいいですけど。で、どうすればいいんですか」

「さあ、知らない」

「ええ?」

「いや、折を見て、とか何とか言ってるけど。別に一週間つきっきりってことじゃなくてさ、朝と夕方だけ向こうに顔出してくれたらいいから。営業活動に支障は出せませんよっては言ってあるからさ」

「はあ、朝と夕方・・・」

「だからその、朝のルーチンとかはなるべく佐山さんに任せて、こっち優先で。ジュラルミンとか進捗管理とかは黒井に回しちゃって」

「・・・え、そんな」

「別に、基本的に同じなんだからいいでしょ。・・・ほら、中山サン向こうと仲悪いから、絶対人出すなんて言わないもん。だから山根には悪いけど、でもどっちか言えばお前さんのほうが向いてるでしょ、マニュアル作りなんてさ?」

「・・・ま、まあ、そうでしょうけど」

「じゃ、そういうわけで、ちょっと頼むわ。こっちも例のバタバタで手が回んないから」

 そして課長の内線が鳴り、本社の誰かから。「はい、ファックスですか、今さっきですか?」で目配せされ、フロア中走り回ってそれを探し、席に届けた。

 ・・・。

 来週、朝の歓談タイムも、一緒にジュラルミン運ぶのも、ジュラルミンをしまいに発送部屋へ行って二人きり・・・、なんて妄想も、打ち砕かれたようだった。



・・・・・・・・・・・・・・・



 週末。

 水曜の埋め合わせを、なんて思うけど、別に奢る約束をしてたわけでなし、埋め合わせなんてのもおこがましいか、と一人拗ねた。

 ・・・だって、電話もメールもないんだもん。

 したけりゃこっちからしろよって話だけど、でも、呼び出したり押しかけたりするほどの特別な用事もなく、結局踏ん切りがつかなかった。

 ぶらぶらと買い物をして、書店に寄って、何となく雑誌を見る。

 久しぶりに海外ドラマでも、とぱらぱらめくっていたら、<ハンニバル>の文字。

 ・・・え、ドラマになってたの?

 俳優はアンソニー・ホプキンスじゃなくて、どうやらもっと若い時代の話らしい。<羊たちの沈黙>の前の<レッド・ドラゴン>よりさらに前の設定で、オリジナルストーリー?おい、何だ、気になるじゃないか。どうしてツタヤで目に付かなかったんだろう?

 そのまま雑誌を閉じてすぐツタヤに向かうけど、棚にもなくて、検索機でもヒットしなかった。すぐ帰宅してネットで調べたが、どうやら日本版はまだ出ていないらしい。つい先日どこかの有料チャンネルでやってたらしいけど、そんなの映らないし、どっちにしろ知らなかったわけだけど、チャンスがあったとなると悔しくなってくる。

 英語の勉強がてら、輸入版で頑張るか。

 ・・・無理っぽいか。

 ネット上のアドバイスによれば、医療用語が多くちょっとレベルが高いとのこと。一時停止して英単語を調べながら見るより、しばらく待ってでも日本語で見たほうがいい。

 だって、予告編が、えらく惹かれるんだ。

 レクター博士がまだサイコキラーではなく優秀な精神科医としてFBIに協力している。<レッド・ドラゴン>の主人公ウィルは人並みならぬ共感能力ゆえに有能な捜査官だが、精神不安定を抱えている。博士の本性に気づかないまま、ウィルは博士の興味をひいてしまい、徐々に彼の術中にはまっていく・・・。

 アンビバレント!

 ・・・って意味はわかんないけど叫びたい。あ、やっぱり英語を勉強するべきか。

 

 黒井とのあの<本番>で、黒井が僕の深層心理を突いてまず読み出したのが<ハンニバル>だった。

 それに、先日の共依存の件もあるし、あいつと僕の精神分析的関係を思うと、何だか胸のちょっと下がざわついて仕方がなかった。僕たちは表向き、物理という趣味で繋がる友人だけれど、本当はもうちょっと、精神的なあれやこれやが横たわってるんじゃないだろうか、などと思うのは僕の頭の錆び付いたネジのせいだろうか?

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